みさき道人 ”長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”

■写真ブログ/長崎・佐賀ほか ●風景・史跡・古写真・巨樹・石橋・滝・山野歩き・標石・戦跡 ●江戸期の「みさき道」

江戸期のみさき道 (往路後半)

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全9ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9]

[ 次のページ ]

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

イメージ 20

イメージ 21

イメージ 22

イメージ 23

イメージ 24

                  新春「みさき道」初歩き(岬木場経由)  2015年1月

 2015年1月3日(土)晴。新春「みさき道」初歩き(岬木場経由)。参加2人。みさき道歩会の新春例会。
 三和行政センター前広場9:40―蚊焼峠入口10:09―郷路八幡10:48―徳道里程道塚12:06(昼食)12:40―サイクリング道路終点13:38―モトクロス場13:57―殿隠山15:00―遠見山(標高259.0m)15:47―堂山峠16:25―脇岬観音寺17:03(徒歩距離 約15km)

 恒例の新春初歩き行事。もう11年ほど前から継続して実施している。2日が荒天のため延期して実施したので、参加者は2人だけだった。会員が高齢化、そろそろ解散か?
 いつものコースで、取り立てて説明することはない。古茶屋坂の入口先で、すぐ工事車道が横切る。奥の沢に砂防堤を築く工事は完成したが、さらに先の谷にも地滑りがあり、正月明けから車道を延長し工事にかかるらしい。展望は良くなった。

 永一尾を過ぎ以下宿三叉路手前で、サイクリング道路に出合うところは、イバラやカズラのため、いつも草刈りに難渋していた。迂回ルートがあるので、利用できる。白テープが目印。尾根を間違わないように下る。
 遠見山から久し振りに堂山峠経由で下ったが、堂山峠から脇岬観音寺までのみさき道本道の荒れ方がひどい。堂山峠はダンチクが生い茂り、標識も見当たらない。私たちで整備の必要があろう。寺手前の鶏舎は取り払われていた。

 

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

              新春「みさき道」初歩き(岬木場経由)  2014年1月

 2014年1月2日(金)晴。新春「みさき道」初歩き(岬木場経由)。参加16人。みさき道歩会の新春例会。一般参加も自由。毎年盛会である。
 三和行政センター前広場9:40―蚊焼峠入口10.07―徳道里程道塚11:49―野母崎ゴルフ場管理事務所12:07(昼食)12:40―岬木場サイクリング道路終点13:43―モトクロス場―殿隠山林道14:22―遠見山(標高259.0m)15:13―前脇岬小学校尾根―脇岬観音寺
16:05(徒歩距離 約14.6km)

 恒例の新春初歩き行事。もう11年ほど前から継続して実施している。元旦より風はなく、晴れた好天気となり暖かかった。
 コース上、取り立てて説明することはない。古茶屋坂入口先で、すぐ新設車道が横切る。奥の谷の地滑り工事がまだ完成していない。「みさき道」のこの区間が、通行禁止になっているが、迂回して工事の状況を確認した。

 今回は、野母崎ゴルフ場入口先のサイクリング道路から岬木場のグランドを下った。殿隠山は登らず、山腹の林道を歩いて近道したので、遠見山へ早く着いた。
 堂山峠には回らず、前脇岬小学校体育館へ下る急坂コースを下った。脇岬観音寺は、3月末まで本堂改築工事中。国指定重要文化財「木造千手十一面観音菩薩立像」は、手前の拝殿へ移し畳上に横倒しとなって仮安置されていた。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

イメージ 20

イメージ 21

              新春「みさき道」初歩き(岬木場経由)  2013年1月

 2013年1月2日(水)曇り。新春「みさき道」初歩き(岬木場経由)。参加21人。みさき道歩会の新春例会。一般参加も自由。毎年盛会である。
 三和行政センター前広場9:40―蚊焼峠―徳道里程道塚11:34―野母崎ゴルフ場管理事務所11:51(昼食)12:20―サイクリング道路終点―モトクロス場13:47―殿隠山14:29―遠見山(標高259.0m)15:26―堂山峠15:50―脇岬観音寺16:20(徒歩距離 約15km)

 恒例の新春初歩き行事。もう10年ほど前から継続して実施している。元旦は小雨だったが、今年も2日は、まあまあの天気曇り空。
 いつものコースで、取り立てて説明することはない。古茶屋坂の入口先で、すぐ新設車道が横切る。奥の沢に砂防堤を築く工事らしい。展望は良くなった。

 永一尾を過ぎ以下宿三叉路手前で、サイクリング道路に出合うところは、イバラやカズラのため、いつも草刈りに難渋していた。地図のとおり、迂回ルートを作っているので、利用できる。白テープが目印。尾根を間違わないように下る。
 宮さんの参加ブログ記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/30435062.html

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

           昭和初期頃の栄上の岩屋  三和町文化協会誌「水仙」から

 昭和初期頃の栄上の岩屋(通称 栄岩または岩家)のことが、三和町文化協会機関誌「水仙」第6号1991年(平成3年3月)発行の17頁に、地元武次久次氏の記憶として掲載されていた。
 本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第1集平成19年発行71頁に、次のとおり考察していたが、その事実が確認され、栄上の岩屋の場所がスケッチによってわかった。
 本ブログ記事は、次を参照。 http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/25817486.html

 A 現在の国道蚊焼入口付近は、当時どのようであったか
  詳しいことはわからないが、ここも峠と言われ、元松尾の道塚から真直ぐ来ると鞍部にあたり、道塚があった。栄上からは今の国道沿いに小道はあったが、体育館の所に大きな岩があり、当時はまだ主要路でなかったようである。明治以後整備されてだんだん通れるようになったのではないか。今の蚊焼入口バス停横の武次宅のところに茶屋があり、「みさき道」から下って休んでいたと聞いた(蚊焼桑原兄夫婦談)。浦歯科の谷から水はあったと思われる。
  普通はここを蚊焼峠と考えがちだが、関寛斎の日記はそうでない。茶屋は峠の入口にあって、そこから長崎の港口と沖の諸島が見えなければならない。武次宅は尾根の反対側に下ったところにあり景色は見えない。これはこの道がメインになった大正の頃の話と思われる。…

            武次 久次氏稿  栄上の岩屋(通称 栄岩または岩家) 

 昔(昭和5,6年以前)の蚊焼村海岸から、けいばん山の坂道を登り栄上を通り、布巻から流れる大川を渡り(その頃は川は飛び石)大川沿いに道路が為石近くのとんとん川の難所を通り為石村に至り川原村まで通ずる幹線道路、その頃は荷物運搬の駄貸牛が5,6頭連なって毎日通っていた。
 蚊焼から歩を発して今の蚊焼入口停留所付近からの右の谷間に下り曲がりくねった里道の山の裾野伝いに深い谷間を通り、道行く人の肝をえぐるような薄気味悪い大きな栄岩が道端にあった。現在、勤労者体育館の前辺りになる。その岩屋はスケッチに示すように大きな岩のかたまりに出来た、幅2間(4m)、高さ3m、奥行きが3m位の洞穴で丁度、家の屋根を思わせるように豪快な岩屋であった。

 僕が16才(昭和9年)頃の記憶であるが、我が師の使いで為石まで月に1,2回通っていた。岩屋は道端にあり見上げるような大きな岩屋。薄暗い谷間に小さな川があり、せせらぎの音が聞こえ鬱蒼とした深い杉林に覆われ昼間でも薄暗く、その岩屋の奥から狐や狸のお化けが出てきそうな、そんな衝動に駆られ肝を小さくして通る道であった。
 その気持ちの悪いところをたとえ師匠の言い付けとはいえ、朝早くまた夕方日没に通るときの恐ろしさは未だ大人になっていない僕は心の動揺計り知れなかった。恐ろしさのあまり小急ぎで岩の側を通り過ぎようとする時、岩屋の奥から白い煙が尾を引くように立ち上ぼり、その辺り一面に漂い奥の暗い所に真っ白い上着を着た髪のぼうぼうとはやした男、或は髪を前に長く垂らした女、雨のしとしとと降る日は恐ろしさこの上もない思いであった。

 実はその当時、遍路さんや乞食、物貰い等が岩屋に一夜の宿を借り雨露をしのいでいた。また狐狸も時に出没していた。女子供達がその道を通るのを嫌がっていたのも無理はない。
 その当時、県道が蚊焼まで出来たのは昭和5年の終わり頃で、野母港線が出来たのはその2,3年後である。現在の総合運動場の埋め立てが出来たのは31年頃である。それまでは谷間のたんぼの向かいの山裾の赤道を通って大川を渡り布巻為石に通ずる兵隊の分かれ道に出ていた。
 現在の県道側の勤労者体育館敷地の荒造成の時は、未だ岩屋の頂点(頭部)は県道の地面から50cm位出ていた。その岩屋の頭に道行く行商の鰯売りの女達が鰯を1,2匹置いて交通安全を祈り、また狐にいたずらをされないようにと、商いをする女達の心暖まるしぐさであった。
 実は狐狸が生の鰯がほしいため、いたずらをしていたと言う話もあり、商いの帰りはそこに置いた鰯は消えてなくなっていた。今はその岩屋の頭も見えず残念である。

 その岩屋の現物が現在まで残っていたら三和町の町興しのアイデアに成っていたかもしれない。返す返すも残念である。出来うれば埋めたてまえを調べてその位置だけでも確かめて地上に小さな印の柱を建ててもらいたい。町当局にお願いする次第です。  (平成3年1月22日)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

                脇岬公民館「私たちの郷土 脇岬」 平成16年

 「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。脇岬公民館「私たちの郷土 脇岬」平成16年から、観音寺、棚瀬、熊根の石灯籠、交通機関。野母崎町などは旧町名。
 この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第1集平成17年9月発行122〜124頁ですでに紹介済み。写真は、遠見山から見た脇岬・樺島、棚瀬(ビーチロック)、熊根の石灯籠と奥に観音寺。
             
            脇岬公民館「私たちの郷土 脇岬」平成16年  5〜10頁

〔6〕史跡、文化財
圓通山観音寺  709年行基菩薩によって建立される。
 仏教伝来は538年(552年説もあります) 飛鳥寺は596年 法隆寺は607年
法隆寺建立よりわずか100年後に建てられた非常に古いお寺であることがわかります。
由来 野母崎町郷土誌より『七観音伝説』  肥後の国、宇土郡の丸木橋の由来により 「7つに切って流された橋木が次の7つの地に流れつき観音様としてまつられた。」熊本 松尾町、佐賀 太良町、高来町 湯江、飯盛町 田結、佐世保 福石、有家町 原尾、野母崎 脇岬

1 観音寺の文化財
 ア 十一面千手観音立像〔国指定〕 象高2メートル半(8尺) 頬のはりは豊かで、穏やかに円満な面相は藤原彫刻で、象容は平安末期の特色をもち、頭体根幹部は一財(材か)で、寄せ木造りによって完成されている。
 イ 天井絵〔県指定〕 花弁絵が主で、石崎融思一族のほか川原慶賀の名も見られる。
 ウ 観音寺.宝篋印塔〔県指定〕 熊本の名僧「豪潮」長崎の福島清七の寄進により建立「豪潮塔」とも呼ばれている。県下では七基だけしかないと云う。
 エ 梵鐘〔町指定〕 1491年 8尺(約2メートル半)の大鐘 天草から来た海賊に持ち去られる。1492年 宗像郡曲村相国山東光寺より購入。1745年 長崎金屋町糸屋氏浄財を募って資金を献上した。深堀藩家臣長淵九佐衛門、長崎鍛冶屋町の安山国久にこれを改鋳させる。
 オ 観音寺にあるその他の文化財〔町指定等〕 僧形座像(なでぼとけ) 達磨大師半身画像 涅槃図 観音寺歴代住職頂相画像 慈悲円通 地獄十王図など

2 観音寺外で見る文化財、史跡
 ア 棚瀬のビーチロック〔県指定〕 脇岬トンボロ(陸けい砂洲)の西海岸に、干潮時に現れる岩礁がある。この岩礁は洗濯板の様な形から土地の人は棚瀬とよんでいる。深成岩類や変成岩類が石灰質でかためられたもので、熱帯や亜熱帯の海岸にだけ見られる。第4紀中積世(8000年→4000年前)にできたものである。
 イ 祇園山のノアサガオ〔県指定〕 (略)
 ウ 弁天山の樹叢〔県指定〕 (略)
 エ 杉家の墓碑群〔町指定〕 (略)
 オ 神ノ上遺跡〔町指定〕 (略)
 カ 熊根の石灯籠〔町指定〕 脇岬南側海岸五島灘から吹きつける荒波を受けとめるように、西南2キロメートルにわたり熊根という砂丘がある。この中央の高所に高さ約5メートルの大石灯籠がある。この付近は昔から航海の難所で遭難する船も多かったので村人たちが浄財を集めて天明2年(1782年)この大石灯籠を建立して航行する船の目印にしたと云う。「観音寺保存古文書より」

〔8〕交通機関
 明治16年(1883年) 長崎―野母航路開始される(三山汽船)
 年代は定かではないが、荷物運搬専用の船「渡海船」は脇岬―長崎間で運航されていました。
昭和10年(1935年) 野母―脇岬間にバス運行(長彼自動車KK)
 その頃はまだ矢戸の山路や干潮時に磯づたいに歩く人が多かったようです。
  この頃、長崎に行くには野母―長崎間の船便を利用していたが昭和16年頃の船賃は52銭だった。
  (当時、大人が1日働いて1円もらうことは多くはなかった。したがって貧乏学生には52銭のお金がなく歩いて往復したことがしばしばありました。)
 昭和15年(1940年) 長崎バスが長彼バスと合併する。
 昭和16年(1941年) 戦時統制により経営合理化の為、野母−脇岬間は長期の運休となる。
  その後、この間に馬車が運行されたが火災にあい中止された。
 昭和18年(1943年) 県道、野母―長崎間開通する。
 昭和23年(1948年) 長崎自動車、大波止―野母間の運行を開始して野母―脇岬線と連絡する。
 昭和37年(1962年) 茂里町―脇岬間に延長される。

(注) 寛斎日記に表れた観音寺の清人の書「海天活佛」の額は、住職の話では今はない。「蒙古船化石」は洗濯板の形をした棚瀬(ビーチロック)のこと。珊瑚礁のある南方に多く見られるが、日本本土では宮崎県青島とともに、脇岬のは規模が大きく珍しい。
 熊根の石灯籠は、伝承では「抜け荷灯籠」とも言われ、番所から役人が5日に1回来るので点灯しているかどうかで合図したらしいが、真偽は不明である。
 野母商船の長崎―野母航路は、昭和38年8月廃止された。(野母崎町郷土誌年表)

全9ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9]

[ 次のページ ]


.
みさき/michito
みさき/michito
男性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

過去の記事一覧

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

抽選で150,000名様に当たるチャンス!
マツモトキヨシで期間中何度でも使える
100円引きクーポン<Yahoo! JAPAN>
衛生対策製品クレベリンの姉妹ブランド
クレベ&アンドハンドジェルが新登場
今だけ。お試しキャンペーン実施中!
ふるさと納税サイト『さとふる』
最大10万円分旅行クーポンが当たる!
≪10月31日まで≫今すぐ応募!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事