みさき道人 ”長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”

■写真ブログ/長崎・佐賀ほか ●風景・史跡・古写真・巨樹・石橋・滝・山野歩き・標石・戦跡 ●江戸期の「みさき道」

江戸期のみさき道 (往路後半)

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                  峠入口の「蚊焼茶屋」と「蚊焼峠」はどこか

A 現在の国道蚊焼入口付近は、当時どのようであったか
 詳しいことはわからないが、ここも峠と言われ、元松尾の道塚から真直ぐ来ると鞍部にあたり、道塚があった。栄上からは今の国道沿いに小道はあったが、体育館の所に大きな岩があり、当時はまだ主要路でなかったようである。明治以後整備されてだんだん通れるようになったのではないか。今の蚊焼入口バス停横の武次宅のところに茶屋があり、「みさき道」から下って休んでいたと聞いた(蚊焼桑原兄夫婦談)。浦歯科の谷から水はあったと思われる。
 普通はここを蚊焼峠と考えがちだが、関寛斎の日記はそうでない。茶屋は峠の入口にあって、そこから長崎の港口と沖の諸島が見えなければならない。武次宅は尾根の反対側に下ったところにあり景色は見えない。これはこの道がメインになった大正の頃の話と思われる。
 当時の蚊焼峠は別の場所でなければならない。二子嶋の力士墓は元々はどこにあったか。道路を開くためここは切り通しになっている。力士墓は支障になるため、すぐ脇の道路上に移したのとも考えられる。今はまた地蔵寺の国道下に移され目立たない。

B ここより坂を上りつめた桜の木のある平地に蚊焼茶屋はなかったか
 ここは景色がよく道塚があったということで、従来、蚊焼茶屋があったと推定されていた地点である。すぐ横に町の防火水槽タンクがある。関寛斎の日記は、茶屋は「峠の入口」である。今の国道蚊焼入口を蚊焼峠とすると、ここは峠をすでに過ぎたところである。疑問はこれから始まった。
 字名を確認するとここは「女男岩」で「古茶屋」は別にある。字「峠」もすぐ近くにあった。茶屋には必ず清水がなければならない。井戸は簡単に掘れない。町のタンクの脇に井戸らしきコンクリート囲いがあったが、これは送水口である。
 蚊焼の土地所有者に念のため聞きにいった。茶屋とはなにも関係なかったのである。

C 峠入口の蚊焼茶屋はどこか
 では、蚊焼茶屋はどこか。字境図で調べると「古茶屋」は道の左側である。次に「峠」があり「川原道」と続く。先の地点から約100m先に三和グリーンタウン入口があり、その先はナンパンギセルの群生地で「草積祠」がある。なぜ草積祠はここにあるのか。ここらあたりが茶屋でなかったか。
 幸いなことにちょうどここを蚊焼の山村氏が畑とするため切り開きをしていた。この中段に不思議な石組みがあった。茶の木が多く小さな川跡が側にある。そこに立つと眺望はそっくりである。峠の入口にあたる。最も重要なのは、関寛斎が「清水で喉をうるおし」た(日記原文では「喫水」と判明)ことである。
 グリーンタウン入口から焼却場へ行く道路を横切って大きな側溝がある。水音がするし何の気なしに覗くと、こんこんときれいな水がこんな晴れた日にかかわらず団地側から流れてくる。側溝をたどると一番奥の山口宅からであった。そこは先の川跡の奥にあたる場所である。団地を造成したため水脈が変わっていたのである。三和公民館展示コーナーで見つかった萬延元年蚊焼村図は、近くでそこだけ水田地であった。現地は後から田の水の取入口も確認された。
 峠入口の蚊焼茶屋は草積祠右上段にあるこの石組みの地と考えられる。

D 蚊焼峠はどこか
 蚊焼地蔵寺(当時は深堀菩提寺の末寺で地蔵庵といい村中にあった。現在地移転は大正14年)から上ってきた道は、先の蚊焼茶屋の少し先から「みさき道」と同じとなって、四太郎の鞍部を越し為石・川原と抜ける。この鞍部が峠で字名に「峠」や「川原道」が残るとおり、ここが当時の「蚊焼峠」である。この峠から為石へ椿が丘団地の上に出、また川原への出る道がある。
 当時の最短路でありメイン路であった。これは明治、大正時代まで続き、両地区では長崎方面に農作物を出荷する際は、主に里道を通って蚊焼に出て、長崎に毎日1往復する船を利用していたとある(「三和町郷土誌」交通編・町制50周年記念誌「さんわの足跡」)。川原道の名残りは、まだ橋の山配水池や元焼却場下の山中に残り、地蔵も立っている。
 この蚊焼峠にも「みさき道」の道塚があったらしい。峠の先は竹薮となって今まで歩けず、外港工業工場などのある車道を通っていたが、峠から竹薮を切り開くと立派な道が出てきた。畑に出るとそのカーブした車道を横切り、三和史談会が平成12年4月設置した「みさき道」入口看板から徳道へ長い山道に入ることとなる。

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          脇岬観音寺が禁制品の交易の場か。また、その商人の経堂が残るか

 脇岬観音寺については、長崎県文化振興課 HP「長崎文化ジャンクション 文化百選」 みなと編の長崎・西彼[8]脇岬港(西彼野母崎町)が同寺にふれている。長崎新聞社から同じ内容の本が平成6年発行されている。この中に次のとおりあった。

 「御崎(みさき)観音と呼ばれ、信仰を集めている地区の古寺・観音寺の境内は江戸時代、長崎奉行所の目を盗み中国から禁制品を運び込んだ交易の場だったとされ、膨大な利益を得た中国商人が罪滅ぼしに寄進したという経堂が残っている」

 史料は何から引用し、経堂は現存するのか。長崎県文化振興課に照会したところ、長崎歴史文化博物館本馬先生が次のように調べてくれ、懇切な回答をいただいている。

 「私自身観音寺には、そのような経堂が存在するとは聞いたことがありません。あの「文化百選」は長崎国際大学の立平教授たちが委員となり、長崎新聞のOBの人が書いたように記憶しています。伝承を記した本からの孫引きの可能性が強いと思います。唐人関係の「書画」は確かに観音寺にありますが、これは長崎市の文化財に指定するとき、私も観音寺に調査に行って実見しました」

 徳山光著「西彼杵郡野母崎町の寺(下)」には、天明期ころ「経蔵(唐船方日雇頭中)」の寄進があったことを記してはいる。

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                  野母半島か長崎半島か  野母崎町郷土誌から

 野母崎町「野母崎町郷土誌」昭和61年刊331〜332頁の記述は次のとおり。「みさき道」に関係し、地元にとっては関心のあることなので、参考のため収録した。

5 野母半島か長崎半島か
 日本国語大辞典第十六巻によると、半島とは海に向って長く突き出た陸地といい、小さいものは岬・崎・鼻などと呼ばれる。1871(明治4)年の中村正直訳「西国立志篇」で「ぺニシンシュラ」を訳して「半島」というから、半島という言葉は明治になってからできた言葉である。1880(明治13)年刊の「長崎県地理小誌(長崎県師範学校編)」には「半島」という言葉はでてくるが、○○半島という固有の名称はない。野母半島は野母崎となっている。1885(明治18)年刊の同名本にも野母崎となっている。1901(明治34)年刊の「増補大日本地名辞書(吉田東伍著・富山房発行)」では彼杵半島に含めて、その南支(南に枝分かれした)の西南端を野母崎というとある。その中に「水路志云」として−半島の南西端といっている。なお、別の本では「水路志」や1911(明治44)年刊の「大日本地誌」(山崎直方・佐藤伝蔵編)では「長崎半島」を使っているという。全国的見地からは長崎半島の名称の方が早いように思われるが、大正時代から昭和20年代までは地元でも、全国版でも野母半島の名称が卓越して定着した。昭和初期の「岩波地理講座」や昭和8年刊の「長崎県之地理」には野母半島として登場し、ことに学校教育での野母半島の普及が著しい。
 ところが、この50年近くの野母半島の普及と定着を無視して、昭和29年建設省国土地理院が全国の自然地域(山地・平野・諸島・半島など)の名称を統一したことで論議が始まった。
 昭和29年刊の「NHKブックス・地名を考える(山口恵一郎著)」によると、国土地理院は多くの資料を検討して「長崎半島」に決定したのだといい、さらに県名とか都市名とかで長崎がよく知られているので「長崎半島」と呼ぶことにしたともいっている。そしてそれは一定の基準といっているから、強制されるものではないらしい。ところが、昭和33年になると文部省が「地名の呼び方と書き方」で、学校用の検定教科書に「長崎半島」と指定したので、「野母半島」は消滅期を迎えるのである。
 国土地理院が他所者だから名付けるとき、有名な長崎市の近くの半島である「長崎半島」の方が、全国的に解り易いと考えたろうが、地元では50年近く聞きなれてきた野母崎に至る突き出した半島という「野母半島」の方に愛着があるだろう。県は国土地理院が「長崎半島」との基準を示した翌年、昭和30年野母半島県立公園を指定している。これは将来、名称変更をしない限り「野母半島」という名称の化石となる。
 昭和38年9月28日付朝日新聞日曜版“旅・野母半島”では、「つい最近、小・中学校の教科書は“野母半島”という名前を“長崎半島”に変えたというが、千三百年前、紀州熊野から流れついた漁師の妻が開いたところから、“野の母の浦”といわれるようになったのが起源という“野母半島”の方がぴったりくるような気がした。」と書く。昭和39年9月2日の朝日新聞の読者欄には「建設省の長崎半島改称と県の野母半島県立公園との矛盾をつく」発言がのり、これに対して9月8日文部省主任教科書調査官が回答する。次いで9月10日再び読者からの投書、9月19日に国土地理院が回答し、朝日新聞の打ち切り宣言で終幕した。
 それから20年余り経った今、ほとんどの書籍や辞書から野母半島がなくなり、長崎半島が優位に立っている。まだ「長崎(野母)半島」としている本が目につくが、かくて将来、野母半島の名称は歴史的地名として残るばかりの運命にある。        (田中敏朗:記)

                 昔の三和町「陸上の交通」  三和町郷土誌から

 三和町「三和町郷土誌」昭和61年刊455〜459頁の記述は次のとおり。

第一章 交通・運輸  第一節 交  通
二 陸上の交通
 大正七年(1918)の『蚊焼村郷土誌』に「本村ハ各種ノ産業、盛ナラズ、殊二、山岳多キ故、陸上ノ交通便ナラズ・・。国県道ノ通ズルナク、里道モ一般ニ不完全ナリ」とあり、
 『為石村郷土誌』には「道路ノ主要ナルモノハ、(1)蚊焼道、(2)長崎街道(布巻、平山ノ旧道ヲ通ジテ県道ニ接続)、(3)深堀道、(4)川原―野母脇岬街道、(五)茂木街道トス、何レモ原始時代ニ属シ、茂木街道甚ダシ。村内亦頗ル、不完全ナリ。従ツテ貨客ノ通運不便ヲ極メ貨物ハ牛背ニアラズンバ人頭ニ依ル。」とある。また『川原村郷土誌』には、「本村ハ野母半島ノ裏辺隅ニアリ道路険悪ニシテ車馬通ゼズ、且ツ船舶ノ碇泊スルニ不便ナルヲ以テ、発達セズ。里道ハ為石、高浜、脇岬トノ三方ニ通ズレドモ人馬ノ交通ハ為石方面ノミニシテ他ハ稀ナリ。」と記されており、三村共、長崎への新道開通を念願していたようである。大正三年四月には、大川橋(工費百九拾円)を、完成させ、また大正六年五月までに蚊焼道に三つの橋(工費約百七拾円)を架橋している。何れも、大部分は寄附金を仰いで築造されている。これらはまさしくそれの現れであろう。古人は、皆、自らの手で、この不便さを解消するために努力されたのである。
 昔の街道を『橘湾の漁労習俗』(五八・三)には次のように書いている。
(一)川 原 道
 年崎のホリ首の丘を通り、川原本郷にでる。えべす坂を越え、モウタレ川(宮崎川)三間ま(?)申の石橋を渡り、宮崎に入る約三・五キロの道をいう。
(ニ)蚊 焼 道
 岩崎から三和中学校前の川渕を通り、とんどんの坂を越え、布巻と蚊焼の分かれ道(兵隊の分かれ道という)を通り、ここに祠がある。栄上のま下で大川を渡り(渡し石がある)、中央公民館の下の道を通り、相撲墓の坂を下り、蚊焼の町に入る約四キロの道。
 大正の初年、大久保さんのシビ網にかかった一〇〇斤(六〇瓩)のカジキを二人で組んで、女たちが頭上で運搬した。為石の浜から、蚊焼の船着き場まではこび、朝四時から五時ごろの船に積みこんで長崎に送った。日傭賃は一人五〇銭だった。大工が一・二円の日当の時代のことである。
 この道は、日用品を牛にウセて為石に運ぶ道で、大切な生活路線であった。
(三)布 巻 道
 兵隊の分かれ道から右手の山道に入る。ここから布巻を経て長崎まで約四里(一六キロ)の道程であった。日がえりが出来た。大正の初め野母商船がかようようになるまで、長崎へ行く主要な道であった。
 兵隊の分かれ道というのは、この辺まで入営兵を見送っていたところであろう。
(四)藤田尾(とうだお)道
 六軒から浜川を渡り、郷方の山の中の山道を越えていく。
(五)干々(ちぢ)道
 六軒を通り、干々木場の上に出て干々に下る山道と、布巻から寺岳の麓、二軒家の境を越え、づづやの滝に出て、その辺から干々に下る道とふたつあった。
(六)深 堀 道
 蚊焼から大籠に出て深堀に下る道をとおれば約一里(四キロ)。布巻、平山、竿浦をとおり、深堀に出る道は約一里半(六キロ)といっていた。
 全住民の念願叶って、長崎への県道(現在の主要地方道、長崎野母港線)が完成したのは昭和七年(1932)である。昭和九年、戸町―為石間にバスの運行が始まった。初めのころは戸町発着で、その先は電鉄の汽船を利用していたが、このバスも、まもなく長崎まで行くようになった。
 バスの便数が増え、トラック輸送が盛んに成り、三つの村は急変し、その文化、社会の発展に絶大なる影響を与えた。こうして、長崎半島の幹線道路が開通し、終戦後の復興と、相俟って、昭和二十六年ごろより貨物トラック、三輪車が、町内にも導入され、荷車、リヤカー、牛馬車などが急激に増え始めるにつれて、道路の利便性、必要性を痛感した住民は、道作りに専念するようになっていった。(略)

※なお、本郷土誌巻末1340頁「郷土誌発刊に当たって」の中に、次の記述があり書き留める。
「長崎半島の尾根沿いに蚊焼から川原へと旧街道(殿さん道)を歩くと、ビックーさんのお墓やみさき道の道標をみることができますが、かって脇岬の観音詣での人々や、検地等で行き来した代官等の様子がしのばれます。」

(注) 明治・大正・昭和前期までの三和町の海上、陸上の交通状況がよくわかる。惜しまれるのは、江戸期の「みさき道」の記述がないことである。そういった記録はないのだろうか。
『川原村郷土誌』にある「高浜」「脇岬」へ通じる道も、推定するだけである。

 なお、ここでふれている引用資料「橘湾の漁労習俗」の本は、香焼地区公民館にあった。借り出しがなくすでにお蔵入りしていて、3階の倉庫から探してもらうのに手をわずらわせた。
 これは昭和58年3月長崎県教育委員会発行の「長崎県文化財調査報告書第63集」である。文化庁の指導と補助を受け、長崎県における内湾水域の一つである橘湾沿岸の漁村に残存する漁労習俗に関して、記録・保存を図るため調査は実施された。海女(海士)・大村湾につぐ第3回目であった。
 諸条件を考慮し、県内4地点が調査対象地域となり、池下など他の3地点とともに「為石・川原・宮崎」地域が選ばれた。第1章民俗環境の「交通」の項で道路が出てくる。地元の故老を話者とし集め、聞きとり調査を中心に、観察と文書調査等をあわせて行った。「為石・川原・宮崎」地域の調査結果は、三和町郷土誌458頁「陸上の交通」にあるとおり、それ以上の道の記述はなかった。

                 昔の三和町「海上の交通」  三和町郷土誌から

 三和町「三和町郷土誌」昭和61年刊455〜459頁の記述は次のとおり。

第一章 交通・運輸  第一節 交  通
一 海上の交通
 明治、大正時代までの、三和町の交通は、海上が主であった。長崎港を中心に栄えた長崎市街地との交通を望み、三村共、急傾斜地の多い長崎半島にあって、海辺近くの僅かな平坦地に集落があり、鉄道は無く、道路も里道しかなく、険わしく、遠いとあれば当然である。
 長崎港外湾部に位置する蚊焼村は、その地理的条件からか、海上の交通が早く発達し、明治三十年ごろから、蒸気船、帆船が、行き来し、かなり、便利であったようである。三山汽船野母航路の寄港地になっており毎日四往復あり、長崎まで一時間、(帆船では二時間半)で行けた。
 野母航路の寄港地は、長崎(大波止)から小ヶ倉、土井ノ首、深堀、香焼、蚊焼、高浜(野々串)、野母であった。蚊焼の場合は、防波堤(現在の西防波堤、明治四十五年に一部築造)が出来た後も、桟橋がなかったため、艀(はしけ)が使われた。艀の発着地は村中の浜で、しけの時は防波堤から出された。また、この汽船も、しけが強くなると香焼どまりとなり、深堀・蚊焼間は、陸路を歩いた。季節風(北西)が吹くころには欠航が多かった。
 渡海船は、長崎行きと高島行きが毎日一往復した。前者を「ナガサキガヱー」、後者を「タカシマガヱー」といい、大切な物資の運搬船であった。行きは、農産物が主で、帰りは、長崎行きの場合は、商店に届ける生活用品が運ばれた。この渡海船は村の許可で行われ、営業者は入札で決めた。長崎行きの渡海船は終戦後中止されたが、高島行きの渡海船は現在に至るまで続いている。この渡海船が、動力船になったのは、昭和の初期で、それまでは、風力や人力にたよっていた。便乗の人達も櫓を槽ぐ習わしであり、農作物を販売に行く主婦達も、交代で手伝った。なお、高島・端島(軍艦島)・安保・長浜(香焼)などの炭坑や、工場に行く日雇人夫を運ぶ運搬船も出された。これは「ブカタ舟」といい、午前六時出航し、帰港するのは午後六時ごろであった。
 為石村は、現在の役場前から三和中学校を経て、とんとん道の里道を通り蚊焼に出て、前記のような船舶を利用しての、長崎との交易が主であった。他に、五島の富江、女島、天草の富岡、野母の脇岬、樺島との交易もあったが、随時漁船、薪船などが出入りする外は、寂漠としていた。農作物などの出荷に、必要に応じ臨時雇船を利用していた時期もあった。また漁獲物は直接出漁先の五島の富江、天草の富岡などに売さばいていた。川原村も里道を利用し、為石を通り蚊焼に出ての船舶の利用が主であった。外は農産物を樺島、長崎方面に出す為、臨時船を仕立てて運搬していたが、これも稀であり、長崎方面には野母崎回りすることもあった。
 昭和九年(1934)に戸町―為石間にバスが通うようになって、海上の交通は、衰えていった。


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