みさき道人 ”長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”

■写真ブログ/長崎・佐賀ほか ●風景・史跡・古写真・巨樹・石橋・滝・山野歩き・標石・戦跡 ●江戸期の「みさき道」

長崎県の石橋

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    「四釜橋」と「旧国道の橋」上流でアーチ式石橋が見つかる  西彼杵郡長与町岡郷

 長与町岡郷前田河内は、長与総合公園奥の集落。国道207号の旧道も長崎バスが通る。「前田河内」バス停から少し道を下ると「四釜橋」があり、新橋の脇にアーチ式石橋が残る。
 上流は以前に調べたつもりだったが、きょう、縄文時代遺跡「前田河内洞穴」探索のため、この南谷間へ入った。洞穴はかなり上で、帰りは琴の尾岳遊歩道(車道)へ上がり、舟津へ下って、前田河内溜池へ戻った。

 前田河内バス停から入った集落の奥の道で、この橋を見つけた。(写真 1〜 5)
 だだっ広いコンクリートの道が斜めに川をまたぐ。「四釜橋」の上流150mほどの場所。内部を覗くと中央に小さなアーチ式石橋が残っていた。橋幅1.5m、径間1.44m、拱矢0.8m位。

 次に「岡」バス停近くまで進む。「旧国道の現役の橋」がある。アーチ式石橋でまだ旧国道現役として活躍中。付近の地図を見ると、この川上流にも石橋がありそうなので、探してみた。わずか
100mも行かない上流に、アーチ式石橋が残っているのを見つけた。(写真 6〜10)
 こちらも里道の小さな橋で、橋幅1.9m、径間1.1m、拱矢0.85m位。

 場所は地図のとおり。歩いて良く調べないと気付かない。この一帯に残るアーチ式石橋は、これで5橋となった。「おこ川」は、上流の橋以外に見当たらない。
 以前から見つかっていた3橋は、次を参照。http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/33255438.html

 長与町には、このほか中尾城公園に移設されている「百合野橋」、川平道路長与インター入口の「洗濯工房」裏の川に壊れたアーチ式石橋が残る。

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    「ガーデニング ワールドカップ 2010ナガサキ」 石原氏のアーチ式石橋?作品

 ハウステンボスで「ガーデニング ワールドカップ 2010ナガサキ」が、10月9日から17日まで開催中(展示は31日まで)である。“花と緑で世界平和を!”の呼びかけに、世界のトップガーデナーたちが、国内で初めて長崎・ハウステンボスに集まった。
 世界中で最も権威ある英国チェルシーフワラーショーを始め、世界各国のフラワーショーイベントのメダリスト達が、母国の名誉と威信を賭け、最高峰のガーデニング技術を競い合う緑の祭典。

 10月10日(日)妻らが見学に行き、写してきたのは、大会を招致した長崎在住ガーデナー石原和幸氏の作品「緑の詩 Song of Peace」。入賞は逸したが、アーチ式石橋?を造られていたので、写真を紹介する。
 ベストインショーに輝いたイギリスのアンディ・スタージョン氏の作品「手を差し伸べて Reaching Out」は、最後の写真である。

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           東彼杵町に残るアーチ式石橋「通山橋」  三根郷で見つかる

 東彼杵郡東彼杵町に残るアーチ式石橋は、すでに玉簾橋・花房橋・大音琴橋の3橋を次に載せている。  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/34723385.html
 川内郷にも「通山(とうりやま)橋」が残っているのが新しくわかった。場所は所在地図のとおり。
 国道34号線が東彼杵IC前を過ぎ、嬉野方面へ俵坂峠を越えるため向かう。坂の登りにかかるまだ手前で長崎自動車道のガード下をくぐる。この左方の谷間である。

 きのう虚空蔵山の巨木調査に行くため、この道を通った。広域林道の岩屋登山口に出るには近道となる。長崎自動車道のガード下からでなく、国道の手前から彼杵川の上流川内川沿いに左の旧道へ入った。ガード下からの道とすぐ合流する地点に支流が流れ、新橋「通山第二橋」が架かり、アーチ式石橋がその脇に残っていた。

 石橋は幅員5.0m、長さ5.5m、橋高2mほど。第一橋の名の橋は近くの川になく、この石橋を第一橋として考えて、新橋の第二橋は命名されたのではないだろうか。従って石橋の名は「通山橋」としておく。なお、川内川の近辺は他に石橋は見当たらない。先の支流の上流部、家前の溝に小さな桁石橋2つを見ただけである。

 その後、HP「長崎県の石橋を訪ねて」の安元様が調べてくれた。同HPによる説明は次のとおり。明治以降の橋と思われるが、昔の虚空蔵山愛宕神社の参道道となるので、長崎自動車道のガード下、彼杵川向いにある一の鳥居と、国道入口にある登山口の案内柱の写真を追加する。

         第 208 番   通 山 橋      長崎県東彼杵郡東彼杵町川内郷

 虚空蔵神社の一の鳥居からの参道にあたる道に架かる橋だが、見た限りでは明治以降の橋としか見えない。長さ5.5m 幅員5.0m 径間4.7m
 現在は直ぐ上流に通山第二橋が架かっていているが、いまでもしっかりとした現役の橋だ。まだ、こんな石橋が眠っていたとは、まだまだ未確認の石橋が有るようで楽しみが増えた。(10/19/2009)

 この石橋から国道34号線を越えて彼杵川の向こうには長崎街道に沿って虚空蔵山愛宕神社の一の鳥居が建っている。この鳥居は案内に寄れば、公共工事の為に多少場所が変わっているとはいえ、延宝5(1,677)年に大村藩主の武運長久を祈願して建立されたものだという。ここから改めて通山橋に向かってみよう。

 高速長崎道の高架と国道34号線を越える。登山道の案内にしたがって少し上れば、現在の道路に架かる通山第二橋の左手に通山橋が見える。手前のアスパラハウスの御主人に聞いても「子供の時から架かっとる」と言われるばかり。おいおい役場にでも行って調べてみよう。
 環厚0.35m・拱失1.6m・拱失比2.7(やや扁平の石橋)

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          五島氏庭園心字が池と明星院の桁石橋  五島市池田町・吉田町

 石田城跡五島氏庭園心字が池と明星院の桁石橋。五島高校第2校門内のアーチ式石橋「石田城本丸眼鏡橋」や国道沿い堀端前「蹴出門」の桁石橋は、すでに以前紹介している。
 HP「長崎県の石橋を訪ねて」による説明は次のとおり。風景・史跡の項も参照。
 「石田城跡五島氏庭園」は、 http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/56830793.html
 「明星院」は、 http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/56678257.html

 写真  1〜  8  第 k-052 番 心字が池の石橋  五島市池田町石田城内五島氏邸

  安政5(1858)年に庭園が造られたとあるので、その時の架橋であろう。蹴出門の石橋を渡って石垣に沿って場内に入り左手に門構えが見える。三十代盛成公の隠殿として城内に築かれた石田邸。この邸内に心字が池と呼ばれる林泉式の庭園が有名。この庭園は安政5年、京都の僧善章が金閣寺の丸池を模して造られたと言う。(08/07/2008)

  忍び通路を見てから庭園に向う。大きな楠木には諫早の者は驚かないが、大谷渡やビロウ等が茂る庭園は趣が違う。正面左手に見えるのが一番上の写真の石橋。なんでも盛成公が亀が好きとかで亀の形を模したという築島。左手の石橋が尾に成って右手の上を向いた石が頭のようだ。
  反時計回りに庭園を廻る。さっそく小さな橋を渡って左手には一番上の築島の対を成す築島がある。ここのも同様の石橋が架かっている。
  母屋の対岸に見えていた石塔は、朝鮮の役の際に第二十代当主純玄公が加藤清正と共に戦った際に持ち帰ったと記されているが、純玄公は文禄の役に小西勢の一番隊に兵700名で参戦し陣中で疱瘡に罹り亡くなって酒樽に浸されて帰国したはずである。この時に持ち帰ったとしても持ち帰ったのは陣中で第二十一代当主となった玄雅公であったはず。
  もしくは慶長の役の出陣の時であったかもしれない。どちらにしても私の見る限り韓国で見かける五重の塔に酷似していることは確かだ。
  もう少し進むと池の排水を行う水路にも橋と言うか暗渠がある。まぁこれも石橋と言えるかもしれない。その先では最初に紹介した築島に到着する。

 写真  9〜 14  第 k-051 番 明星院の石橋  五島市吉田町

  文化7年(1810)3月架橋とある。
  弘法大師空海が唐での修業の後、福江島に立ち寄り大宝寺や此処、明星院の開基に関わった事は有名だが、この明星院に石橋が架かっていることは案外紹介されていない。
  境内の案内板には「泮池(ばんち)、池の中央に橋をかけ池を半分にした形式で中国の造園思想から生まれ日本では平安鎌倉時代の庭園形式で橋を渡れば、そこは仏の世界を現している」と書かれ、橋の架橋に関しては「奉寄進、御倉奉行、杉 東蔵、大浜清蔵、築瀬友八、二十一世大恩代、文化七年庚午三月」と記されていた。(07/31/2008)

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           旧街道宿場「波佐見宿」の水路と石造橋  東彼杵郡波佐見町

 波佐見町折敷瀬郷の”飛瀬の水路橋”については、前項において昨年の河川改修工事によって煉瓦造アーチの1橋が壊され、新たに下流に石造アーチの1橋が見つかったことを載せた。
 ところで、この水路である。川棚川(以下「波佐見川」とする)の川岸平野を縦横に這い、2つの橋の水路が続いているのか、取り入れ口がどこなのか、すぐには確認できなかった。
 2つの水路橋の下の小川は、延宝6年(1678)築造とされる飛瀬上・中・下の各堤からの流れであろう。水路はこの上を橋により渡っている。
 高度を考えると、近くに今ある本流の井堰から引いたものでないようだ。上流の「横枕橋」よりまだ上のようであり、横の谷間の支流からとも考えられる。

 新しく見つかった水路橋の下流側は簡単である。水路は波佐見川沿いに護岸の上を約600m流れ、県道1号線の鹿山橋へ出た。清酒「六十餘洲」の今里酒造前である。酒造用水かと思ったが、そうでもない。
 県道及び同工場下をくぐり、波佐見中生徒会の手づくり説明板のとおり、往昔から街道宿場「波佐見宿」の町並みを網羅した大事な水路となっていた。

 波佐見地方は、県下でも溜池の多い地域として知られている。治水工事や新田開発は、藩政時代になって頂点に達した。大村郷村記によると「内海の宿の辺、古戦場にて往昔は萱池ヶ原とて曠々たる野原」であった。
 領主の積極的な奨励と、農民の経営規模を拡げようとする努力によって、井出の普請、波佐見川の本流、支流からの用水路、溜池の築堤、補修ができていった。それにつれて新田が開発され、村の石高は増加したのである。
 いま見られる波佐見平野の美田は、溜池、井出の築造年から文化−文政期(1804−1829)に完成したことが知られるそうである。

 水路や水路橋の手がかりに調べた波佐見町「波佐見町史(上巻)」昭和55年第二版360〜374頁の記述は、上記のとおり。「大村史談」にも掲載は見当たらないようである。
 旧街道宿場の重要な水となった水路と水路橋について、地元の関係者が解明を進めてもらえないだろうか。
 波佐見の中心街や鹿山神社周辺で見た主な石造橋なども写した。旧「わたや」久保田邸の庭園池の橋は見事であった。


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