みさき道人 ”長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”

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佐賀の風景・史跡

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                     嬉野・武雄の紅葉  佐賀県嬉野市・武雄市

 2016年11月22日(火)〜23日(水 勤労感謝の日)、妻・長女・孫娘が、佐賀県嬉野温泉へ一泊旅行。嬉野・武雄の紅葉を写していた。メルヘン村が目的。

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                    三重津海軍所跡  佐賀市川副町大字早津江津

 HP 明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域/構成資産による説明は、次のとおり。国道444号と県道48号により大川市方面へ向かうと、柳野内交差点に佐野常民記念館と三重津海軍所跡案内標識がある。最初の資料は、佐賀市世界遺産登録推進室パンフレットから。

      三重津海軍所跡  佐賀県佐賀市

日本初の実用蒸気船を建造し、海軍教育でも名高い施設。

 佐賀藩の長崎警備に伴う海防強化は、神ノ島、伊王島などの砲台建設や築地反射炉での鉄製大砲の鋳造によってなされましたが、それと並ぶもう一方の柱は蒸気船を主力とする洋式海軍の創設と整備にありました。
 1853(嘉永6)年のペリー艦隊の浦賀来航をきっかけに、幕府は大船製造の禁令を解除しました。佐賀藩は、オランダに蒸気軍艦を発注するとともに、独自に蒸気船製造を計画。また、1855(安政2)年には、幕府が設置した「長崎海軍伝習所」へ多数の佐賀藩士を海軍伝習生として参加させ、操船技術に加え、造船や機械工学、火薬製造を学ばせました。

 1858(安政5)年、佐賀藩は三重津船屋を拡張し、独自の海軍教育施設である「御船手稽古所」を設立しました。これが三重津海軍所の前身です。翌年には三重津船屋の西一角を海軍稽古場として拡張し、訓練場などを設置しました。その後、佐賀藩が保有する洋式帆船や蒸気船の修理のために乾船渠(ドライドック)、船の部品やボイラーを組み立てるための施設等を建設し、1865(慶応元)年には、日本初の実用蒸気船である「凌風丸」を建造しました。
 なお、三重津海軍所や佐賀藩海軍所などの名称は、後の時代に付けられたもので、当時は一般に「三重津」と呼ばれていました。

 三重津海軍所跡は、船屋地区、稽古場地区、修覆場地区の三つのエリアから構成されています。現況で視覚的に確認できる遺構は、船入場と堤防の一部だけですが、海軍所全体の範囲は平成13年度から15年度に実施した埋蔵文化財確認調査でほぼ判明しています。
 また、修覆場地区については、平成21年度から調査を実施しており、金属加工関連遺構や乾船渠跡を発見し、三重津海軍所跡の「真実性の証明」を補強する資料となっています。
 この乾船渠は、複雑な木組みの技術で骨格を造り、土で覆い階段状にした特異な構造をもち、その施工には日本在来の土木技術が随所に応用されています。このような乾船渠は国内に類例がなく、現存日本最古のものであることがわかりました。

 三重津海軍所は明治初期に閉鎖されたと思われますが、その頃の状況はよくわかっていません。その後、海軍所跡地は、1902(明治35)年から1933(昭和8)年まで商船学校として利用されました。現在は、佐野歴史公園として整備されています。
 なお、2013(平成25)年に国の史跡に指定されています。
 2014(平成26)年には、隣接する佐野常民記念館3階に、三重津海軍所跡の内容や価値を知ることができるインフォメーションコーナーがオープンしました。

(追 記 2015年8月25日)
 サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストのデータに、次のものが登載された。

      船屋地区の河岸土留板の止杭・跡 ふなや
佐賀市 佐野歴史公園/早津江川河口 停泊施設? 江戸期 市・世界遺産登録推進室 木杭列(本物)が残るのみ 船屋地区は、海軍所が整備される前から佐賀藩の和船を管理する「御船屋」のあった場所→現存遺構がその時のものなのか、洋式船を動かすための訓練所「御船手稽古所」が置かれた時代のものなのかは不明(後者なら安政5)/なお、世界遺産・三重津海軍所に関しては、すべて埋設保存されており、視認できる遺構はない 3 C

      御修覆場地区の荒籠 おんしゅうふくば
佐賀市 佐野歴史公園/早津江川河口 石水制 寛政5(1794)以前 市・世界遺産登録推進室 現存する石積みの表面は近・現代の補修を受けている 荒籠自体は、「川副下郷早津江村」(寛政5)に記載されているので、佐賀藩三重津海軍所とは直接の関係はない/なお、世界遺産・三重津海軍所に関しては、すべて埋設保存されており、視認できる遺構はない 3 C

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                      西海道(西路)の道路遺構  基山町長野

 サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。出典精査の結果、「航空写真に□印のところ」と、基山町の具体的な場所が示された。
 4月23日、現地を再訪。道路痕跡が確定して残る畑地を正対して撮影してきた。航空写真とともに現地写真を載せ、記事を差し替えた。畑地先は工場となり柵囲いがあるため、撮影できない。
 基山町教育委員会は先般訪ね、「基山町史」の資料をもらい、調査の協力依頼をしている。

      西海道(西路)の道路遺構 さいかいどう
(三養基)基山町 <西海道(西路)> 道路 長約60m 古代(律令期) 木下 良 畑となっており、判別が困難/現在確認できる場所は、甘木鉄道と小郡市との境界線の交差する南側の60m程度のみ 筑後と肥前の国境沿いに西海道西路が通っていた 4 C

 資料は、平成21年発行「基山町史 上巻」特説 基肄・養父両郡の官道391頁。青線部分の文と図特説−7 筑後・筑前の直線国境に解説があった。

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                          関屋土塁跡  基山町宮浦

 基山町HPの「観光・文化」基山山頂(基肄城跡)の中による説明は、次のとおり。県道300号基山町玉虫交差点手前の佐賀銀行角から東へ入る。標柱が基山郵便局前バス停近くの会社敷地に建っていた。関屋土塁跡が正しくはどれか、少しでも残っているかは基山町に未確認だが、付近の現況を写してきた。
 同基山町の「とうれぎ土塁」跡は、本ブログ次を参照。 http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/70272922.html

      基山山頂(基肄城跡)

 …基山町役場周辺に目を向けると、現在はわずかにしか残っていませんが、「関屋土塁」と「とうれぎ土塁」の場所を確認することができます。
 関屋ととうれぎ土塁想定図
(基山町教育委員会 2012 『ふるさと基山の歴史』より転載) 
 この二つの土塁は、基肄城と関連のある防衛施設であったといわれています。
 「関屋土塁」は、城ノ上丘陵と千塔山丘陵の間に、「とうれぎ土塁」は千塔山丘陵と向平原丘陵の間に築かれたと考えられています。
 太宰府市と大野城市にある水城の小形という意味で、「小水城」とも呼ばれています。

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                    白蛇山岩陰遺跡  伊万里市東山代町大字脇野

 佐賀県HPの「佐賀県の文化財紹介」による説明は、次のとおり。伊万里市東山代町の国道204号から「明星桜」案内板により浦川内公民館へ向かう。「明星桜」前に「白蛇山岩陰遺跡 700m」の表示があり、細く荒れた車道を山手へそのまま進み、入口から100m歩く。

佐賀県史跡 白蛇山岩陰遺跡(しろへびやまいわかげいせき)

昭和59年3月21日指定
伊万里市東山代町大字脇野
岩陰遺跡

白蛇山岩陰遺跡
 本遺跡は、国見山麓に位置し、石器製作に必要な黒曜石が豊富に露出する腰岳に近い。旧石器〜縄文時代の岩陰遺跡で、砂岩が風化作用により浸食してできた上洞と下洞からなる。上洞は最大奥行6m、間口40m、下洞は奥行7m、間口8mで、いずれも南東方向に開口する。昭和46・48年に佐賀県立博物館により発掘調査が実施され、旧石器時代から縄文時代晩期の遺跡であることが判明した。岩陰の土は堆積により地表から約3.5mほどあり、13層に分けられる。各層より土器・石器が出土しており、編年研究の上で重要な遺跡である。

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