みさき道人 ”長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”

■写真ブログ/長崎・佐賀ほか ●風景・史跡・古写真・巨樹・石橋・滝・山野歩き・標石・戦跡 ●江戸期の「みさき道」

長崎の風景・史跡 (市東南)

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                    深堀陣屋跡の現況 (7)  長崎市深堀町5丁目

 深堀氏の居城だった深堀陣屋跡の現況は、本ブログ前の記事を参照。
  現況(1)は、http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/68763161.html
  現況(2)は、http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/68778372.html
  現況(3)は、http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/68830694.html
  現況(4)は、http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/68894923.html
  現況(5)は、http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/69116405.html
  現況(6)は、http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/69242654.html

 深堀陣屋跡に建設されるカトリック深堀教会は、昨年11月24日定礎式があった。現在、教会建設工事が本年7月末完成(秋と聞いていたが、教会広報では変更されている)を目指し、急ピッチで進められている。長崎市文化財課の発掘調査は11月末で終了したが、その結果がいまだ公表されない。
 南西側箇所で主に発掘された深堀陣屋御屋敷の礎石の石組みは無残に壊された。ここに建てている建物は、どこにでも建てることができる信徒のための納骨堂なのである。

 史跡保存については、長崎市と教会側で十分に配慮するとの協議があっているのに、不可解な進展具合である。市民や地元にまったく説明がない。長崎市政への要望や提案を早くから提出しているのに回答をしない。長崎市長が前面に出て強力な指導をするべきでなかったか。

 破壊された遺構は、今更どうしようもない。法の不備と行政の限界、怠慢もあったが、納骨堂前の駐車場とする部分に、礎石石組みはまだ半分位は残っていると思われる。その部分は舗装しなく、柵囲いと配水設備を設置し、礎石を屋外展示してもらう方法がある。
 関係者が今から協議し、これくらいは配慮して良いのではないだろうか。それがカトリック教会の品格と言うものだろう。報道機関も問題意識を持って、大いに動いてもらいたい。

 以上、現況(6)のとおり要望していたが、長崎市政提案の5月2日付文化財課回答は、次のとおり。

 深堀陣屋跡の調査結果は、平成26年度に発掘調査報告書にまとめ、県内外の公立図書館や大学等の研究機関に配布して公開する予定です。また、地元深堀の皆さまをはじめ、多くの市民の皆さまにも調査結果を知っていただくために、深堀貝塚遺跡資料館の展示コーナーで調査結果と出土品を紹介する予定です。
 調査の公表にあたっては、写真・図面・出土品の整理作業が必要であり、整理作業は事業者に調査費用を支出していただき、本年度に実施する予定です。遺跡の発掘調査の整理は、時間と費用を要しますので、ご理解いただきますようお願いします。
 今回の発掘調査で発見された遺構等は教会の新築工事に伴い失われましたが、発掘調査を行うことで、遺構等の記録は保存されています。また、工事内容の変更により、教会の敷地には、深堀陣屋跡の遺構が現在も多く地中に保存されています。これは開発行為に伴う埋蔵文化財(遺跡)の取り扱いとして問題ないと判断しております。
 残った遺構の取り扱いについては、未来に継承するため、地中に保存することを管理者であるカトリック深堀教会と協議済みです。屋外展示は遺構の保存管理に費用が掛かり、屋外にさらすことで遺構の劣化が懸念されるため、現在のところ、地中に保存することが、後世に継承するうえで最も適切な方法であると考えております。所有者・事業者であるカトリック長崎大司教区に工事内容を変更していただいたことで遺跡への影響は当初の計画よりも小さくなっています。発掘調査費用の支出や、工事前の発掘調査期間についても配慮をいただいており、今後は整理作業の費用も支出していただく予定となっています。文化財の保護について、これ以上の負担を求めることは、行政の指導として適切ではないと考えております。
 深堀陣屋跡の保護につきましては、今後とも所有者のご理解ご協力を得ながら取り組んでまいりたいと考えておりますので、ご理解いただきますようお願いいたします。

 この回答の問題点は、次のとおり。
(1)これまでまったく回答や住民説明をしなく、私が情報公開条例により開示請求すると言うと、やっと今回、市は回答に応じた。市政の提案制度が適切に運用されていない。
(2)私たちが知りたいのは、発掘調査の結果、どこにどのような遺構や出土品があり、どのような歴史的価値があるかである。それにはまったく答えていない。
(3)御屋敷跡と思われる礎石石組みが主に見られたのは、南西側箇所である。遺構を壊してまでなぜここに納骨堂を建てたのか。教会、市とも史跡保存に対する見識がない。
(4)かろうじて残ったと思われる納骨堂前の遺構を保存するため屋外展示を要望しているが、まったく両者その気はないようである。
(5)遺構を壊したのをやっと認めた。石造物史跡の屋外展示は多い。屋外にさらすことで遺構がそんなに劣化するのか。地中に保存することは、単なるくさいものに蓋であろう。
(6)柵囲いは石積みで良い。排水工事もそんな費用はかからない。大進建設の奉仕でできるのではないか。教会がしないなら、長崎市の工事でできないか。
(7)長崎市長は、この実情をほんとうに知っているのだろうか。市長の市政報告会が5月27日、市民会館文化ホールで開催される。残された遺構保存にぜひ市長自ら尽力するよう、要望事項に書き出した。
(8)ある方から「将来キリスト教関係の遺跡が破壊された時、同じ気持ちになるであろうことを考えてみてください」とキリスト教関係者、長崎市にお伝えくださいと聞いている。

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                     伊王島灯台からの展望  長崎市伊王島町

 2014年4月14日(月)、長崎港口にある伊王島灯台の放置されていた次の標石を建て直しに行った。
 区―7 伊王島 (確認 長崎要塞区域標? 第十五号)
  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/20342938.html
 伊王島灯台から前面に広がる雄大な展望を、参考にパノラマ写真で写してきた。長崎市の課題・要望は、次のとおり。

 1 伊王島灯台の近くまで車を入れさせないように、路上駐車を禁じる看板があるが、駐車場の案内がない。島内バスの終点に広い炭鉱住宅跡の空土地があり、駐車場を整備してもらいたい。島内道路狭隘というなら中心アクセスのみ拡幅工事で対応して、積極的に受け入れるべきではないか。
 2 遊歩道の舗装が、灯台手前で切れている。国有地かも知れないが、灯台周囲を回る肝心な遊歩道を板石舗装などしてもらわないと、悪天候のとき歩きにくく観光客は困る。
 3 伊王島灯台の説明板が、灯台の根元にない。こここそ新旧灯台の歴史や旧灯台の古写真など示す「さるく説明板」が必要ではないか。現在は簡単な「伊王島旧灯台基礎石組」説明板があるだけである。
 4 灯台の石垣に立っても、展望案内の写真と説明板がない。せっかくの展望が説明不足となっている。さるくは何も街中だけではない。特に観光シーズンにはさるくガイドの配置も検討してもらいたい。
 5 四郎ケ島台場が、長崎台場跡として国指定史跡に3月18日追加指定された。伊王島灯台下に最近建設された展望台は、四郎ケ島と同時に幕末、整備された出鼻台場の遺構を壊したのではないか。史跡保存に対する見識が疑われる。円通庵下台場・出鼻台場・真鼻台場跡は、史跡説明板が必要である。
 6 新展望台には、展望説明板があるが、地名や山名の間違いが多い。福田遊園地や平戸島などと堂々と表示している。間違いは早急に是正してもらいたい。
 7 灯台下の先端岩場へ下る遊歩道をせっかく下っても、危険ということで先は行き止まりとなっている。これくらいは危険防止の柵をしてどこの観光地でも開発する。ここは海と岩場が見えるようせめて伐採してほしい。 
 8 映画やテレビのロケ地案内板も、詳しい説明をつけて積極的に設置してほしい。例えば、最近の吉田修一小説の映画「横道世之介」沖ノ島裏側ロケ地など。
 9 伊王島の入り口となる香焼の安保花壇付近が殺風景である。季節の花の種類と面積を広げ、ソフトバンクメガソーラーともにフラワーパークとして整備してほしい。炭鉱跡の説明板も必要である。
10 伊王島は、最近、全国から訪れる人が多い人気スポットである。それにもかかわらずお粗末な観光対応となっている。史跡めぐりやウォーキングにも配慮した島内さるくなどマップを作成し、ターミナルややすらぎ伊王島に数を切らさないにしてもらいたい。

 HOME「長崎県の灯台たち」による伊王島灯台は、次を参照。概要は次のとおり。
  http://www.nogamidensetu.co.jp/toudai/nagasaki/ioushima.html

  6330 伊王島灯台   初点:明治4年7月  国際番号M5194
  読み:いおうじま   場所:長崎市伊王島
 慶応二年、幕府がアメリカ、イギリス、フランス、オランダ4カ国との間で締結した改税条約(江戸条約)で設置を約束した8カ所の灯台の一つです。「灯台の父」と呼ばれるリチャード・ヘンリー・ブラントンの設計により、明治3年6月に仮点灯、翌明治4年7月に日本最初の鉄造灯台として完成点灯しています。
 その後長崎原爆により損傷を受け、昭和29年に四角形の鉄筋コンクリート造(ドームは建設当時のもの)で修復、平成15年に現在の六角形の姿で再建されています。
 隣接する「伊王島灯台旧吏員退息所」は同じブラントンの設計で明治10年に完成しています。日本最古の無筋コンクリート構造で、近代化産業遺産に登録されています。
 白亜の大きな灯台と洋館の姿は、西洋文明の入口であった長崎の景観に美しく溶け込んでいます。

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                深堀陣屋跡の現況 (6)  長崎市深堀町5丁目

 深堀氏の居城だった深堀陣屋跡の現況は、本ブログ前の記事を参照。
  現況(1)は、http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/68763161.html
  現況(2)は、http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/68778372.html
  現況(3)は、http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/68830694.html
  現況(4)は、http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/68894923.html
  現況(5)は、http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/69116405.html

 深堀陣屋跡に建設されるカトリック深堀教会は、昨年11月24日定礎式があった。現在、教会建設工事が本年秋完成を目指し、急ピッチで進められている。長崎市文化財課の発掘調査は11月末で終了したが、その結果がいまだ公表されない。
 南西側箇所で主に発掘された深堀陣屋御屋敷の礎石の石組みは無残に壊された。ここに建てている建物は、どこにでも建てることができる信徒のための納骨堂なのである。

 史跡保存については、長崎市と教会側で十分に配慮するとの協議があっているのに、不可解な進展具合である。市民や地元にまったく説明がない。長崎市政への要望や提案を早くから提出しているのに回答をしない。長崎市長が前面に出て強力な指導をするべきでなかったか。
 カトリック深堀教会、鉄川建築士事務所、施工業者大進建設は見識を疑う。遺構は埋め戻し、65cmかさ上げ施工したというが、基礎工事を見るかぎりあまり信じられない話である。

 破壊された遺構は、今更どうしようもない。法の不備と行政の限界、怠慢もあったが、納骨堂前の駐車場とする部分に、礎石石組みはまだ半分位は残っていると思われる。その部分は舗装しなく、柵囲いと配水設備を設置し、礎石を屋外展示してもらう方法がある。
 関係者が今から協議し、これくらいは配慮して良いのではないだろうか。それがカトリック教会の品格と言うものだろう。報道機関も問題意識を持って、大いに動いてもらいたい。

 深堀の殿様気分では、納骨堂の霊も居心地が悪いだろう。佐賀藩でも諫早や神代と同じような深堀領だった。佐賀の人にも顔向けができない史跡破壊の実情である。
 深堀地区では、長崎市は現在、武家屋敷通りの石塀保存など「景観まちづくり」を強く推進しながら、その核となる深堀陣屋跡史跡の破壊を自分たちの仕業で行っている。

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                 香焼のチューリップ見ごろ  長崎市香焼町

 2014年3月30日夕方に妻が撮影。香焼・安保地区の花壇は、「伊王島大橋」へ向かい、香焼トンネルの手前となるので、出かけてください。
 約2千平方メートルの花壇に、住民が育てた約5万本のチューリップを植えている。赤、黄、ピンクなど色鮮やかな花が咲き誇り、4月中旬まで楽しめる。

 海岸側の炭鉱埋立地には、「ソフトバンク長崎香焼ソーラーパーク」ができたこともあり、辺りを一体化して花壇の名称は、「長崎香焼ソーラー・フラワーパーク」とか長崎市でネーミングできないだろうか。

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              史談・史論「深堀小学校の文化財」  平 幸治氏稿

 平 幸治氏は芦屋市在住、長崎新聞社刊「肥前国 深堀の歴史」著者。2014年(平成26年)2月9日(日)付長崎新聞文化欄カルチャーサロンの寄稿記事。深堀地区の景観まちづくりに貴重な資料となるので、筆者の了解を得て再掲する。
 詳述は、「肥前国 深堀の歴史」(新装版)教育の項352〜357頁にある。扁額の写真も、同
353頁から。

 後の写真は、現深堀小学校の校庭に展示されている旧校門石橋の遺構と、武家屋敷通り樋口家の石塀改修工事の様子(見学会は開催済み。タッちゃんブログが載せていた。)
 この項は、本ブログ「深堀陣屋跡の現況(5)」も参照。長崎市の対応は、重大な禍根を残した。  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/69116405.html

  史談・史論「深堀小学校の文化財」  平 幸治
  豊かな教育史示す額

 筆者の母校、長崎市立深堀小(同市深堀町)は長崎市内で最も古い歴史を有する小学校である。同市内ではふつう勝山小(現桜町小)が最古といわれる。たしかに近代的な学制により明治6(1873)年3月に設置された向明学校つまり勝山小が翌7年7月設置の深堀学校より古い。しかし深堀学校はそれ以前の佐賀藩深堀領の郷学校を継承したもので、こういう前史を有する小学校は長崎市内では深堀小のみである。
 江戸時代、佐賀藩領であった深堀や諫早、神代にはいずれも藩校に準ずる郷学があった。深堀では既に寛永年間(1624〜1643)には学舎を創設し家臣子弟の教育を行っていたが、幕末ごろには領主邸内に学館を構え校名を羽白館(うはくかん)と称した。羽白は論語の「学而時習之」から習の字を分解したものである。安政7年(1860)に校名を謹申堂(きんしんどう)と改めた。領主鍋島茂精(しげきよ)の要請で佐賀藩儒学者草場佩川(くさばはいせん)が「孟子」の章句から名付けたものである。深堀小には佩川筆「羽白館」と「謹申堂」の扁額(へんがく)が現存する。
 謹申堂では漢学・洋学・算法・筆道・習礼および槍剣(そうけん)を教授し文武両道を学ばせた。また維新後には英学教員一名がいて、いち早く英学も教授したことは特筆すべきである。生徒数は通学生約80人、寄宿生20人、生徒からの束脩(そくしゅう)謝礼は不要で生徒のうち15人は官費生であった。春秋2回試験を行い優秀者には賞を与えた。領主茂精も佐賀から帰領するたびに生徒にテストを試み督励したという。また上進者は佐賀の藩校弘道館に遊学させた。
 明治維新後は佐賀藩深堀郷学校、長崎県官設移管、深堀義塾に改称と変遷した。さらに政府の学制発布をうけ明治7(1874)年、第五大学区第一中学区深堀学校として継承し現在に至っている。また同19(1886)年、高等小学校の制度発足により野母半島18カ村の共立として第三高等小学校が置かれたのも深堀で、当時の深堀は教育の要地でもあった。
 深堀小には前述の扁額の外にも副島種臣筆「深堀学校」、時の文部少輔九鬼成海筆「天任徳」の扁額が遺る。これらは教育史上貴重な文化財と言ってよい。
 しかし同校が160年以上の歴史を持つことや、同校に伝来するこの貴重な資料の存在はあまり周知されていないようである。
 豊かな歴史を有する深堀は地区内に多数の史跡も残る。こういう生の教材を活用して子どもたちが郷土の歴史に学び、郷土に対する愛着と誇りを育むことは、地域の活性化のためにも極めて大切ではなかろうか。  (六史会会員)


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