みさき道人 ”長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”

■写真ブログ/長崎・佐賀ほか ●風景・史跡・古写真・巨樹・石橋・滝・山野歩き・標石・戦跡 ●江戸期の「みさき道」

長崎市の石橋

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          煉瓦造アーチ式石橋の橋名と架橋年代が判明  坂下橋は現存せず

 長崎市に残る煉瓦造アーチ式石橋は、本ブログ次の記事を参照。石張りの川「地獄川」と「シシトキ川」の溝梁に3橋が現存する。
  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/37028343.html
  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/37441919.html
 銀屋町公民館角シシトキ川の「稲荷橋」のみ橋名がわかっていたが、ほかの橋とも正しい橋名と架橋年代が確認できなかった。

 長崎歴史文化博物館の郷土資料として、古賀十二郎文庫「長崎橋梁台帳」があることがわかり、同台帳の記録は次のとおり。
  写 真  2〜  4  桜 町のは、「真 中 橋  明治28年4月起工」
  写 真  5〜  7  栄 町のは、「引 地 橋  明治28年4月起工」
  写 真  8〜 10  銀屋町のは、「稲 荷 橋  明治28年4月起工」

 なお、同台帳には、今魚町・材木町間(現在の賑町)にも、煉瓦造アーチ式石橋「坂 下 橋  明治28年4月起工」の記録がある。
  写 真 11〜 16  賑 町の、 「坂 下 橋  明治28年4月起工」 現状と遺構
 現在の中央公園南側となる。坂とは長崎地方法務局横の「天満坂」のことだろう。坂下の通りであるから、居酒屋鍋幸前あたり。中央公園の開口部から暗渠を調査したが、水路が直角に2方向へ変更され、オーバーフローを中島川に別に流すようなマンホールがあった。
 煉瓦造アーチ式石橋「坂 下 橋」が、いつ撤去されたか不明。すでに現存せず、橋桁部分のような煉瓦造石積み跡だけ確認した。

 最後の図は、布袋厚氏著「長崎石物語」(2005年刊長崎文献社)24〜25頁の”石張りの川 シシトキ川”から。長崎市に残る煉瓦造アーチ式石橋について、橋の位置を表示した。
 栄町長崎女子商高角の「引地橋」は、海野酒店側から暗渠を潜った内部にあるので、通常はその姿を見ることができない。

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             自然石アーチ式石橋「乙女橋」(右側部分)の架橋工事

 2012年8月4日(土)と5日(日)の2日間、自然石アーチ式石橋「乙女橋」(右側部分)の架橋工事。参加2人。みさき道歩会の例会。
 長崎市平山町の市民農園奥、千々峠(乙女峠)登山口からすぐ入った八郎岳から流れる沢を横切る登山道脇に、自然石アーチ式石橋「乙女橋」を架橋実験中。小さい方は、昨年10月完成。まだ健在である。

 今年は、これを右側へ伸ばす工事。アーチ式石橋が2つ並び、眼鏡橋の形となるよう考えている。4日は石集めに終った。5日から土台を組み、石を乗せているが、径間が2mくらいとなり、難しい工事である。
 適当な石さえあれば、何とかなるだろうが、なかなか揃わない。肝心な要石にふさわしい石もない。きのう12日、アーチ部分の土台の一部をはずしてみた。アーチが宙に浮いたが、さて、この石橋は完成しただろうか。後日、続報の予定。

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           古写真に残る石橋風景  (9)東長崎の樫ノ木渡瀬橋・木場橋

 最近、東長崎地区にあった2つのアーチ式石橋の珍しい写真を見かけた。いずれも昭和57年の長崎大水害で流失した以前の石橋の姿を写している。貴重な古写真と思われる。地元は写真の存在は知らないようで、写真では橋名は特定されていなかった。
 私が現地を調査し、確認した結果は次のとおり。

 写真 1〜 4  (1)「樫ノ木渡瀬橋」(または「屋敷橋」)  長崎市現川町

 古写真考の再掲となるが、石橋の項でも記録しておく。本ブログ次の記事をまず参照。
   http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/66531100.html
 「現川(うつつがわ)の石橋」として、越中哲也・白石和男氏共編「写真集 明治・大正・昭和 長崎」図書刊行会昭和58年再版92頁に掲載されていた。
 「元禄時代、現川では、有名な刷毛目文様を主にした現川焼がつくられていた。この石橋は当時のものではないが、長崎の石工より伝えられたアーチ型石橋の工法を取り入れ架設した小石橋として市の文化財に指定されている」と解説にあるが、肝心な橋名がなかった。

 JR現川駅右の「現川物産館 じげもん市」に、長崎大水害により流失した現川地区の4つの石橋の写真が展示されている。石橋の格調と大きさから、「樫ノ木渡瀬橋」が一番可能性があった。現在の「屋敷橋」(以前は石橋)のところに架かっていた橋である。
 展示写真と材石の組み方を比較したが、同定できなかった。現地へ行って周囲の状況や背景の山の稜線など確認した。

 現在の写真とおり、この場所に架かっていた石橋に間違いないであろう。いつの時代に撮影された石橋「樫ノ木渡瀬橋」か、また同じ場所に架け替えられて呼ばれた石橋「屋敷橋」だったかは、不明である。

 写真 5〜10  (2)「木場橋」  長崎市船石町

 次は、東長崎商工会「ひがなが今昔写真物語|東長崎の地域情報サイト|ひがながナビ」に掲載されているアーチ式石橋の古写真。橋名の説明はない。
   http://www.shokokai-nagasaki.or.jp/h-nagasaki/konjakuph/index.html
 古写真を見ると、かなり大きな石橋で親柱と欄干がある。思い浮んだのが、長崎大水害で流失した船石町の「木場橋」。現地を訪ね、これも周囲の状況を確認した。

 現在の写真とおり、背景の山の稜線など合うことがわかるだろう。「木場橋」は、本ブログ次の記事を参照。船石地区の石橋や史跡の項で、「木場橋」にふれていた。
   http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/32403174.html
   http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/53546516.html

 現在の「木場橋」を渡り、上流側へ車道を進むと、石橋架橋者田嶋邸の「並松翠鯉苑」があり、移設されている木場橋の欄干だけ残る。田嶋邸には石橋の写真はないそうである。東長崎地区連合自治会「2000年の東長崎」平成13年刊、東長崎の石造物42〜43頁にも、記録がない。
 はからずも今回、東長崎にあった2つのアーチ式石橋の、貴重な古写真の存在がわかった。

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               わが庭の自然石によるアーチ式石橋  試作3

 前回の作は、雨で少しズレ落ちていた。試作3は写真のとおり。なかなか良い石がない。不揃いの石では失敗ばかり。橋の長さを短くしやっと完成した。いっときはこれで我慢しておこう。

 きょうの四郎ケ島台場跡草刈りは、昨夜、佐賀からツアー中止の連絡があった。大雨の天気予報だったが、今はもう晴れだした。残念だったろう。

 八郎岳沢に架けた、モニュメントのような自然石によるアーチ式石橋「乙女橋」は、今も健在、こちらの最近の写真を載せる。

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            旧道「界橋」は長崎半島一?の桁石橋  長崎市宮崎町に残る

 「みさき道」は、江戸時代盛んになった長崎市中より脇岬観音寺まで、みさき観音参りの道である。長崎半島を東回りするコースも考えられ、平成17年9月発行の研究レポート「江戸期のみさき道」第1集38頁に、推定ルート図を概略で載せていた。
 長崎半島の東回りコースで解明したいのは、川原小池上にあった明治32年建立の道塚である。「東 脇岬」「西 高浜」と刻む。道塚は現在、三和公民館中庭へ移設展示されている。

 集落を結ぶ道は、当然、昔からあった。「東 脇岬」の道が江戸期にも観音参りに利用されたと思われる。三和町郷土誌には、近隣の集落で年中行事により観音参りが行われていたと記している。東回りコースがその主な道であろう。熊ノ岳を越す場合もある。
 最近、伊能忠敬研究会の入江氏の協力により、詳細なルートを研究、踏査して確認している。

 長崎市宮崎町の石橋について、すでに以前に次の記事としているので参照。
  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/66270614.html
  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/64002586.html
 以上の2橋の外、街道に関わる橋を新たに2橋確認しているので、ここにまとめて明治道塚とともに、写真により紹介する。架橋年代はいずれも不明。流された橋もある。

 写真  1〜  2   明治32年建立「東 脇岬」「西 高浜」の道塚
  もともとあった場所は、川原小池上の字池田(池平)。「みさき道」の今魚町系道塚ではない。明治となって「西彼杵郡村誌」が記す河原村における「脇岬村路」と「高浜村路」の分岐を示す道標。現在は三和公民館中庭に移設展示されている。

 写真  3〜  5   モータレ川(宮崎川)の渡り石跡
  現在の「宮崎橋」近く。石橋と記している資料があるが、飛び石のようである。川岸の地蔵石祠横に置いている石が、当時の渡り石と地元の証言があった。「せんたく石」を削り取った跡も確認した。現在の1万分の1地形図には、宮崎橋の1つ上流の橋に「モタリ橋」の橋名が表示されている。潮が満ちている場合の上流迂回路と思われる。

 写真  6〜  7   宮崎ダム奥を上がった谷間に残る桁石橋
  徳道集落から川原へは、主にこの谷間の道を下った。ゴルフ場地蔵道塚に刻む「左 川原道」は、この道と思われる。川原小学校への通学路でもあった。宮崎ダムができて通れなくなったが、石柱を渡した貴重な桁石橋が1つは流され、1つは現存していた。

 写真  8〜  9   川原木場途中の桁石橋跡
  長崎バス川原終点から川原木場へ向かう。ちょうどその中間くらい。県道下の旧道に入る。そこから途中、川を1回渡る。石柱を渡した桁石橋があったが、水害で橋は流されている。川に石柱が散乱していた。

 写真 10〜 18   旧道に現存する立派な桁石橋「界橋」
  川原木場を過ぎた現在の県道34号線「界橋」上流の旧道に残る。橋名のとおりこの熊川が、河原村と脇津村の村境だった。旧三和町川原木場と旧野母崎町岬木場の町界。
  旧道を今回、踏査して桁石橋を確認した。長崎半島に現在残る石橋では、最も立派な桁石橋で大きく高い。現県道「界橋」下付近には、見事な滝が流れていた。川原木場公民館グランド南西には、「熊川清四郎力士の碑」があり、一帯はおもしろい。


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