みさき道人 ”長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”

■写真ブログ/長崎・佐賀ほか ●風景・史跡・古写真・巨樹・石橋・滝・山野歩き・標石・戦跡 ●江戸期の「みさき道」

長崎市の石橋

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

      浪の平「了?福橋」の寄附者は「永井傳之助」  金刀比羅神社の碑で判明

 長崎市浪の平町の「長崎市南公民館」先に、右へ入る昔の狭い幅の道がある。金刀比羅(琴平)神社鳥居がある参道口へ出る。
 路地に入ってすぐ古河町となり、町境の小川に長い板石を5本渡した桁橋がある。手前左に古い親柱が残り、「寄附者 永井傳之?」と刻んでいる。
 前項「古写真に残る石橋風景」を参照。 http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/48710924.html

 橋名はこの時、川岸に横たえて残っていたもう1本の親柱の刻みから、「了?福橋」とわかった。「寄附者 永井傳之?」を調べる手がかりに、金刀比羅(琴平)神社にある石柱や石碑に記名がないか見てまわった。
 急な坂段を登り、金刀比羅神社本殿がある最上段の一つ手前の鳥居右脇に、「厳島琴平神社 合祀再建 造営竣 神威彌崇 明治四十三年九月」の記念碑がある。
 この碑の正面に寄附者名があり「金貮拾五円 永井傳之助」、裏面の世話人名に「浪ノ平町 永井傳之助」とあった。

 「了?福橋」の寄附者「永井傳之?」と同一人と見てよいだろう。橋を単独の資力で架けているから、浪ノ平町の相当な盛業者だったと思われる。
 金刀比羅神社の社務所に聞いたが、何もわからなかった。小さな石橋でも様々な歴史がありそうだ。古写真にはっきり写って残っている橋であり、地元の方で調べ、記録しておいてほしい。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

              古写真に残る石橋風景  (8)浪の平の「了?福橋」

 長崎市浪の平町の「長崎市南公民館」先に、右へ入る昔の狭い幅の道がある。金刀比羅(琴平)神社鳥居がある参道口へ出る。
 この道が明治期から、石橋より二本松を越えず、浪の平・小菅を経由した一時期の戸町・深堀道となり、「みさき道」となったと思われる道である。
 路地に入ってすぐ古河町となり、町境の小川に長い板石を5本渡した桁橋がある。手前左に古い親柱が残り、「寄附者 永井傳之?」と刻んでいる。
 橋は「古写真考」の次も参照。 http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/48081482.html

 ところが目録の古写真は、橋をはっきり確認できない。まだ良く写った写真だったはずにと、「長崎古写真集 居留地編」長崎市教育委員会平成7年刊を借りてきて、89・90頁の写真を見た。
 ここに掲げた2枚目の古写真「75 浪の平一帯B(彩色) 長崎市立博物館所蔵」には、橋がはっきり写っている。
 目録と同じ古写真なのに、橋の下部が少しカットされていたのである。拡大写真を参照。
 1枚目の「74 浪の平一帯A(彩色)」は、現在の南公民館敷地にあった「尋常鎮鼎小学校」(長崎市立浪平小学校の前身)校舎が建つ前の古写真。このときは石橋は架かってなかったのか、確認できない。
 いずれも、撮影場所は南側高台の金刀比羅(琴平)神社境内からと思われる。

 「橋名」がわかった。再び訪ねると、汲み取りホース下の川岸に石柱が2本並べて横たえていた。1本に刻字があるようなので苔をはがすと、「了?福橋」と読めた。
 大切に保存してほしい親柱である。架橋年代はない。刻まれていれば、古写真の撮影時期を推定できるのだが…
 アーチ式石橋でないが、古写真にはっきり写り、しかもそのまま現存している珍しい桁石橋。すぐ上の支流流れ口にも、小さな桁石橋を確認した。
 「長崎古写真集 居留地編」の145頁、林一馬先生稿「図版解説」は次のとおり。

  74 浪の平一帯A(彩色)  横浜開港資料館所蔵
  75 浪の平一帯B(彩色)  長崎市立博物館所蔵
 ほぼ同一地点(浪の平の南側の丘にある琴平神社の参道付近)から類似した構図で居留地の南端と浪の平及び長崎港を望んだもの。遠くに出島や旧市街地、立山や金比羅山などの山々がみえている。

 Aは、梅香崎の税関前の埋め立て地の様子や手前の南山手の建物の建ち方(17、18番の2棟はあるが、35番はまだ建っていないなど)からすれば、明治5〜10年頃のものであろう。ポールの立っているところがアメリカ領事館(明治8年4月以降ならばロシア領事館)で、ポール右上の屋根がリンガー邸であろう。南山手の周遊道路はすでにあり、石積みの手すりや石畳も24番地の前あたりまで整備されていたが、大浦地区からの遠さゆえにかこの居留地南端付近はまだ空き地が多かったことが確かめられる。一番手前にみえる洋館が図−4にも記載される24番のものだが、この当初建物ではヴェランダが下屋形式となっておらず、煙突もついていなかったことがわかる。

 Bには、明治20年7月に新築移転してきた尋常鎮鼎小学校(のちの浪の平小学校)の校舎があり、その屋根上に明治22年8月上棟の二十五番館の棟頂ものぞくが、一帯の洋館群の様子は図−9よりもかなり前の状態なので、明治20年代中頃の撮影であろう。校舎の背後にみえる洋館2棟は24番の現・荒木茂康・君恵宅と荒木豊治氏宅だが、前者はAにみえた当初建物を明治10年前後に改築または建て直したものだったことがわかる。この頃になると南山手の区画もほぼ満杯状態になり、次には2階建て住宅がこの地区にも登場してくるようになる。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

          長崎諏訪神社一の鳥居前の石造橋「小橋」  長崎市上西山町

 長崎諏訪神社・長崎公園の石造橋と石門について、昨年10月次により紹介している。
  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/45716167.html
 ところが、諏訪神社一の鳥居前にも、立派な石造橋「小橋」という橋が残っている。欄干が片側にあるのに、ほとんど気付く人はいない。
 HP長崎市観光・宿泊ガイド”あっ!と ながさき”の記事を見て、私も初めて知り、初詣客が少なくなった1月5日夕方、どんな橋か確認に行った。

 諏訪神社入口を国道側から石段を3段登ると、一の鳥居前、両脇の大きな石燈籠まで参道の敷石が少しアーチ状になっている。これが石造橋の「小橋」である。
 参道左の「諏訪神社」とある大きな碑の横に、橋の欄干が残っている。親柱に「諏訪幼稚園園児募集」の立看板がくくりつけられていたので、はずしてみたが「橋名」はなかった。転がっている石柱などにも何も刻字はない。

 橋の下を芦原歯科側から覗いた。アーチ式ではなく、桁石橋だった。小さな溝となって、水が右方から流れている。上面を測ると、参道幅は12m、長さ2.4mほどが橋部分となるようである。
 江戸時代中期からある橋らしい。記録は調べていないが、参道に珍しい橋が気付かれずに、今日まで残っている。
 諏訪神社も、境内案内で「狛犬散歩道」や「縁結びの陰陽石」と同様、珍しいものとしてHPにより「小橋」を紹介してもらえれば、後世への記録となろう。
 最後の写真は、拝殿左の奥まった「神池」にもあった石造橋。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

                  唐人屋敷跡の石橋と石門  長崎市館内町

 長崎市館内町にある鎖国時代の唐人屋敷跡。一帯で見る石橋と石門。
 「土神堂」と「観音堂」に石橋と石門がある。石橋は近年、再建?された桁石橋である。
 後の方は、地元の富豪森伊三次氏が寄贈した天后堂裏の堀にある「榮橋」(階段橋)、「森伊橋」(桁石橋)と、少し下流のアーチ式石橋「森橋」。
 次も参照。  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/32859307.html
 HP「長崎県の石橋を訪ねて」による「森橋」の説明は次のとおり。

 第 85 番    森        橋   長崎市館内町18〜十人町11
  明治25年   長 さ 約2.5m  幅 員 約2.0m  森伊三次氏が寄贈した橋
  地元出身の森伊三次氏が寄贈した橋は、同じ川の上流に、もう2橋ある。アーチ橋ではないのだが、これも石橋。榮(さかえ)橋と森伊橋。

   森伊三次氏とは、とんな人?
  明治3年、火災で焼失した唐人屋敷の払い下げを受けて道路・橋を整備した地元の富豪。
  浦上駅の市内中心地側、現在の茂里町地区は、当時「浦上村里郷」と呼ばれていた。ここは浦上川からの土砂の堆積が進み、湾の奥から浦上川河口にかけて干潟が現れていた。森伊三次氏は、浦上川の埋立てに私財を投じ土地の新田開発に尽力し、この地の大半に及ぶ広大な土地を拓き所有していた。
  開発当初は「森町」と呼ばれていたが、大正2年、長崎市域すべての郷名を町名に変える事業が始められたとき、自らの名前から里が茂(森)る(栄える)ようにという意味を込め茂里町が生まれた。
  明治30年、現在の浦上駅(旧長崎駅)〜長与駅まで九州鉄道が開通し、森伊三次氏は駅舎用地など約15,000坪を寄付している。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

                  梅園身代り天満宮 の御神橋  長崎市丸山町

 思案橋から丸山公園の料亭「花月」前まで行き、左折して有名な丸山本通りに入る。中ほどに「長崎検番」の建物があり、案内標識により右の路地に入り、石段を上ると「梅園身代り天満宮」に着く。
 2007年、境内に「御神橋」が再建されているが、次の記事と写真のとおり石桁橋である。
 fwd−net 長崎・諫早HPの中「石造アーチ橋以外の石橋・桁橋など」による説明は次のとおり。
                          梅園身代り天満宮

 長崎の花町、丸山、中の茶屋に隣接する、梅園天満宮。吉永小百合扮する愛八姉さんの「ぶらぶら節」で、すっかり有名になってしまいました。…
 丸山からの狭い石段を登って境内に入ると真っ白く塗られた鳥居に出会う。丸山の芸子衆がご贔屓なので、白粉塗りの鳥居だと地元の酔客の言。案外そんなものかもしれない。…

【再建された御神橋】
  昨年11月(2007年)の大祭を前に、御神橋が再建された。その際、無くなっていた欄干の親柱が2本見つかった。この御神橋が扁平な石造アーチ橋(石拱橋)ではないかとの情報も有って、今日、確認に来た。
  結果としては、石桁橋であった。橋の上に見える平行の石は厚さ5cm程度の石板で、両側のカーブした桁に6cm程の、ぬすみが切り込んであり、それに乗せられたものであった。
  スパン1.9m、幅員もまた1.9mの石桁橋。部材は樹脂系のコーキングが施され、しっかりと復元されている。消失してしまう石橋の中にあって、こうして復元される石橋が有るのは嬉しい。

【現地説明板】            身代り天神で有名な「梅園身代り天満宮」

 祭  神  菅原道真公(正殿)、宇賀御魂神(稲荷社)
 創  建  元禄13(1700)年
 所  在  肥前国彼杵郡長崎村小島郷
 現在地  長崎県長崎市丸山町2番20号
 お社のいわれ
  ここの天満宮は、元禄13年(1700)丸山町乙名安田次右衛門によって創建され、以降丸山町の氏神様として親しまれています。
  元禄6年(1693)安田次右衛門が二重門(現丸山交番付近)にて、梅野五郎左衛門に襲われました。そして、自邸に担ぎ込まれたが不思議なことにどこにも傷が無く、身代りに庭の天神様が血を流して倒れていたそうです。その後、この天神様を身代り天神様と呼ぶようになりました。
  そのほか明和安永年間(1770年頃)より、この場所は長崎奉行の許しにより芝居や見世物、相撲の興行が行われるようになり、また、花町に接していることから、遊女や芸者さんが多く参拝していました。さらに明治31年(1898)社殿大改修の際には文人墨客により天井絵を奉納されています。
  また、第2次大戦時、丸山町の出征を命ぜられた者は必ず参拝したそうですが、身代り天神によりすべて無事に帰還したそうです。
 祭  事  節分祭 2月3日  天満宮祭 11月第2日曜日
                       平成12年6月吉日  丸山町自治会


.
みさき/michito
みさき/michito
男性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

過去の記事一覧

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!
ふるさと納税サイト≪さとふる≫
実質2000円で好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事