みさき道人 ”長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”

■写真ブログ/長崎・佐賀ほか ●風景・史跡・古写真・巨樹・石橋・滝・山野歩き・標石・戦跡 ●江戸期の「みさき道」

ふるさと古写真考

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                 大正十一年頃のガラス写真 219  (一覧橋か古町橋?)

 「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

 「大正十一年頃のガラス写真」
  整理番号 219  (一覧橋か古町橋?)

 目録番号: 410 中島川の橋
   [画像解説]  超高精細画像
  中島川に架かる一覧橋(手前)と古町橋(奥)で、古町橋左側の手前には、東本願寺の末寺である向陽山光永寺がある。一覧橋の上には人力車と車夫,山高帽の男性,着物姿の男性、また橋の袂には街灯があり、明治を代表する風俗が見られる。一覧橋は、桶屋町と本紙屋町間に明暦3年(1681)唐通事高一覧(日本名:渤海久兵衛)が架けた長さ18.0m、幅4.2mの唐風石橋である。光永寺は、幕末、中津藩の福沢諭吉が長崎留学時代に寄宿した寺であり、また、明治時代には初めての長崎県議会の議場にもなった寺である。堂門川と銭屋川の合流地点より下流にある一覧橋は、これまでたびたび水害に見舞われ崩落と再建を繰り返している。享保6年(1721)流失、元文頃再建、寛政7年(1795)崩落、享和元年(1801)再建、昭和57年(1982)の長崎大水害で崩落した。現在は水害に強い石橋として、前の橋と形が異なる急な階段のある通行に不便な石橋に架け変わった。

 目録番号: 3860 中島川の古町橋と光永寺
   [画像解説]  超高精細画像
  東本願寺の末寺である向陽山光永寺の伽藍、古町橋上に明治を象徴する人力車と車夫が見える懐かしい写真である。古町橋は、古町と本紙屋町間に元禄10年(1697)河村嘉兵衛母妙了が架けた長さ16.9m、幅4.2mの唐風石橋である。写真右側奥に見えるのは、文化12年(1815)に再建された本堂の屋根であるが、惜しくも焼失した。山門は重要文化財に指定されていたが、近年改築された。幕末、中津藩の福沢諭吉が長崎留学時代に寄宿した寺であり、また、明治時代には初めての長崎県議会の議場にもなった。堂門川と銭屋川の合流地点より下流にある古町橋は、これまでたびたび水害に見舞われ、崩落と再建を繰り返しているが、昭和57年(1982)の長崎大水害でも崩落した。現在は水害に強い石橋として、前の橋と形が異なる急な階段のある通行に不便な石橋に架け変わっている。

 目録番号:3235 中島川と編笠橋(3)
   [画像解説]  超高精細画像
  写真左側に松の大木、川面に編笠橋の影を映し、橋の袂の山門後ろに工場の煙突、森の中に諏訪神社、背景には左側に金比羅山の稜線が見える。橋の袂にある山門は、明和3年(1766)建立の太平寺の山門である。太平寺は、寛延3年(1750)この地に建立され、宝暦7年(1757)に新橋町(旧日本赤十字社跡地)、明治10年(1877)現在地の浪の平に移転した。編笠橋は、元禄12年(1699)岸村夫妻が今博多町と本紙屋町間に架けたアーチ石橋である。この石橋は中島川に架けられた最後の石橋となった。寛永の頃、この辺りに遊女屋があり、世間体をはばかり深編笠で顔を隠して廓通いをしたので、この名が付いたと言われる。本紙屋町は、昔紙漉町(かみすきまち)といって、紙を漉く職人で出来た職人町である。写真左側の松の木の下に漉いた紙を乾燥している風景が見える。昭和57年(1982)の長崎大水害で崩落し、前の橋と形が異なる急な階段のある通行に不便な石橋に架け変わった。

  ■ 確認結果

 「ガラス写真」とは、感光する写真乳剤を塗ったガラス板を写真機にセットして撮影した後、乾板をもとに写真を焼き付ける。フィルムが普及する前の明治から昭和にかけてよく使われた(朝日新聞キーワード解説)。
 スタジオアートアイ制作CD「大正十一年頃のガラス写真」は、長崎を撮影していると思われる308枚の写真。整理番号のみで、撮影地はまったくわからない。心当たりの場所を探してみる。

 中島川の石橋で、調査保留としていた最後の整理番号219。入江氏から次のような教示があった。
 「ガラス写真を一見すると光栄寺付近では?と思いました。背景に山が無いので、川下方向を撮影しています。それに川の右川沿いには道がありません。ここから類推すると、古町橋から見た一覧橋ではないでしょうか」。
 長崎大学データベースには、明治期に撮影された上記目録番号の近くにある石橋の作品があるが、撮影向きは反対が多い。

 ガラス写真は拡大すると、石橋の背景に高い山並みがない。中島川上流の手前の橋上からすぐ下流の石橋を撮影しているのは間違いないだろう。手前の橋下にはやや高い堰があり、右側の川岸石垣に和傘が6本干している。橋の右岸には白塀とか思える建物の造りがあり、木立が高い。
 これから推測すると、たしかに位置関係から「古町橋から見た一覧橋」、または1つ上流の漉紙乾燥と和傘干しの似たような風景から「編笠橋から見た古町橋」が、中島川の石橋群では最も考えられる。

 石橋の姿は、長崎大水害後、道に対して平たかったのが、ほとんど階段のある石橋に変えて再建された。堰も掘り下げられた。昔の姿を留めない。ガラス写真に光永寺でもはっきり写っていたら、まだ確認できるのだが、肝心の背景の山並みもはっきりしない。
 両者どちらの石橋かは、現在の写真を添えて、まだ研究課題としたい。どなたか正しい検証をお願いしたい。

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          宮川雅一氏の長崎郷土史・新“岡目八目”  ピースミュージアム

 長崎の明治・大正・昭和を紹介する「宮川雅一氏の長崎郷土史・新“岡目八目”」が、ナガサキピースミュージアム(長崎市松が枝町)で開催されている。
 同ミュージアムの企画展資料は、次のとおり。

 期  間 *2014年1月28日(火)〜2月23日(日) 入館無料
 開  館 *9:30〜17:30  ※最終日は14:00まで
 休  館 *2月3、10、17日(月)

 郷土長崎をこよなく愛する宮川さんが、宮川家に残る古写真を中心に出版したエッセー<「郷土史・岡目八目」長崎新聞社2013年9月刊>を膨らませて明治・大正・昭和の長崎を紹介します。
 親族に写真の元祖上野彦馬に師事した写真家もおり、明治から大正期の中国・上海「街並み」の貴重な写真などを公開します。

 長崎学の第一人者である宮川雅一さんは、1986年に長崎市助役を退職後、長崎都市経営研究所を設立するなどして、ふるさと長崎を盛り立てて来られました。
 現在も長崎史談会相談役、長崎近代化遺産研究会会長、長崎聖福寺大雄宝殿修復協力会世話人代表など多くの役を担っておられます。

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          矢野平八郎写真展「50年前のながさき」  ピースミュージアム

 ナガサキピースミュージアム(長崎市松が枝町)で、2014年新春企画・矢野平八郎写真展
「50年前のながさき」が開催されている。
 期  間 *2014年1月2日(木)〜1月26日(日) 入館無料
 開  館 *9:30〜17:30 ※最終日は14:00まで
 休  館 *1/6(月)、14(火)、20(月)

 同ミュージアムの企画展資料及びブログ「もってこい日記」の記事は、次のとおり。

 今から50年前は1960年代(昭和35年〜40年代)で、長崎にも高度経済成長の波が押し寄せ町中に活気があふれ、人びとの生活習慣も大きく変化しました。歴史的な景観の整備とともに被爆地の残骸も姿が消えて新しい街並みが生まれました。アマチュアカメラマン矢野平八郎さんが撮影した膨大な写真から懐かしい長崎の映像を展示し、この50年間の歩みを考えます。

 2014/1/2 矢野平八郎写真展「50年前のながさき」

新年2日目からスタートした迎えた矢野平八郎さんの写真展「50年前のながさき」。初日からたくさんのお客さんで賑わいました。
この50年で長崎はずいぶん変わったと話す矢野さん。特に建物の変ぼうぶりは大きいと話しておられました。原爆で街を失った長崎の復興の軌跡もたどることができます。みんなが懸命に生きた時代です。

長崎県営バスの運転士を長年つとめた矢野さんは、長崎の変化とそのあゆみを事細かに見つめてきました。今でも愛用のカメラは片時も離さないそうです。これからも足が元気なうちは写真を撮り続けたいと話しています。
これまでに世界35か国を回り、数々の世界遺産をカメラに収めている矢野さん。「今年は世界自然遺産に登録された富士山を撮りたい!」とおっしゃっていました。
御年80歳にはとても見えない、しゃんとしたやさしいおじいちゃんです(*^_^*)

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              大正十一年頃のガラス写真 193 (旭町から長崎港)

 「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

 「大正十一年頃のガラス写真」
  整理番号 193  (旭町から長崎港)

  ■ 確認結果

 「ガラス写真」とは、感光する写真乳剤を塗ったガラス板を写真機にセットして撮影した後、乾板をもとに写真を焼き付ける。フィルムが普及する前の明治から昭和にかけてよく使われた(朝日新聞キーワード解説)。
 スタジオアートアイ制作CD「大正十一年頃のガラス写真」は、長崎を撮影していると思われる
308枚の写真。整理番号のみで、撮影地はまったくわからない。心当たりの場所を探してみる。
 
 整理番号193は、旭町岸壁あたりから長崎港を望んだ景色と思われる。対岸背景の奥の山は「八郎岳」、手前の帆船後ろは「大久保山」であろう。右端奥には「深堀城山」が見える。
 長崎港の対岸地区では、どこも同じような景色となる。帆船が停泊しているから、現在の旭町(市営交通船旭町桟橋があった所)あたりの岸壁が考えられる。岸壁向きが少し気になるが、背景の山の稜線の重なりからすると、このあたりだろう。

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               大正十一年頃のガラス写真 180 (ガスタンク)

 「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

 「大正十一年頃のガラス写真」
  整理番号180  (ガスタンク)

  ■ 確認結果

 「ガラス写真」とは、感光する写真乳剤を塗ったガラス板を写真機にセットして撮影した後、乾板をもとに写真を焼き付ける。フィルムが普及する前の明治から昭和にかけてよく使われた(朝日新聞キーワード解説)。
 スタジオアートアイ制作CD「大正十一年頃のガラス写真」は、長崎を撮影していると思われる
308枚の写真。整理番号のみで、撮影地はまったくわからない。心当たりの場所を探してみる。
 
 整理番号180は、左側川岸にガスタンクのようなものが2基写っている。背景の山の稜線は、現日昇館のある浜平高台から坂本方面の山であろう。
 これは、尾上町北に現在もある西部ガスの正門入口、馬込川の中の島橋(現在の橋は、昭和
44年8月架設)あたりから、対岸の幸町にあったガスタンク?を撮影していると思われる。

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