みさき道人 ”長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”

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長崎名勝図絵・長崎八景の風景

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            長崎名勝図絵の風景  29  爛 鯖 巌(鯖腐らかし岩)

 「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

 本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。
 「鯖腐らかし岩」は、本ブログ次を参照。  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/20111579.html

  長崎名勝図絵 巻之三   西邊之部

 194  爛 鯖 巌  (文献叢書 182〜184頁  所在地 西彼杵郡時津町元村郷)

  浦上から時津に行く道の側にある。大岩上にまた一つの石が乗っている。見るも危く、今にも落ちそうにしているので、或る時、鯖を売るために擔っていた魚屋が、きっと落ちるに違いないから、いっそ落ちるところを見て行こうと、終日立ち尽くし、とうとう鯖が全部腐ってしまったという。それで鯖腐らかし岩という。

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              長崎名勝図絵の風景  28  神 通 寺(岩屋神社)

 「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

 本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。

  長崎名勝図絵 巻之三   西邊之部

 193  巌屋山神通寺  (文献叢書 180〜184頁  所在地 長崎市虹が丘町)

  長崎の西北二里ほどで、ここは大村領になる 長崎の領外ではあるが、春には長崎の人の行楽地となる。故にこれを載せる。… 山は嶮しく深く、登るのに難渋するが、山上は平らにひらけて、遠望が利く。周囲の山々から、海上の島々漁舟に至るまで、すべて一望のもとに見遥かし、誠に絶景である。大権現の三字を刻む碑があったが、今はなく、石仏の像があるだけである。往古妙見感応の地で、崇岳廃寺 … と表裏をなしていた。下に寺があり、旧は神通寺と称していた。… 36の支院があったが、皆壊滅した。言い伝えでは、行基菩薩が山を開き、北朝観応元年(1350 南朝貞和5年)将軍足利尊氏が修理を加え、料地を附した。…

  万治3年(1660)大村純長公が寺を再建され、僧尊覚をして中興たらしめ、今の名に改めて神通寺と号した。寺内には本地大日堂があり、少し登ると山の傍に石窟がある。数十人は入れる広さである。仙人窟という。大きな足跡が横面についている。巌屋山の名は、この石窟からきている。… 毎年正月にこの山に登ると、運が開らけるといわれ、正月の5,6日から15日頃まで、多数の参詣者が道に連らなり、互に、呼び合う声が、山にこだまし、谷に響く。山上、寺前には茶店が出て、そうめんの煮売、菓子果物等を売るという賑わいである。五里七里の遠い所からも登山者が来る。帰路は裏道をとって、西南に下だり、梁の川辺を逍遥する者が多い。裏道の傍に、神山、圓山等の地名がある。言い伝えでは、昔圓山にかきあげ城〔軽易で臨時的な築上げの砦〕があり、堀切の跡が今もあるという。

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                長崎名勝図絵の風景  27  浦上村梁白魚

 「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

 本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。
 浦上村山里「やなの川」ではあるが、図絵に描かれた場所がわからない。「この辺りの里の名にもなっている」という現在の町名「梁川町」は、渕村でたしかに対岸の少し下流側に存在する。
 HP「広助さんの丸山歴史散歩」によると次のとおり。「浦上村山里」が?。

  E-156:梁川(やながわ)
 江戸時代、浦上川の下流部にあたるこの地域は流れも緩やかで白魚漁が盛んに行われていました。付近は周囲を竹で渡し堰を作り魚の集まる場所が作られ網を沈めて仕掛けが作ってありました。そうして網を引き揚げひしゃくですくい上げるように獲るのです。この仕掛けを梁(ヤナ)といい、梁がある川を梁の川、いつしか梁川と呼ばれるようになります。この白魚漁は早春のころ最盛期を迎え、連日行楽客で賑わい、白魚の味は天下一と称されるほどでした。
 昭和41年(1966)旧 竹の久保町の一部が町界町名変更によって梁川町が誕生します。

 長崎文献社「アルバム長崎百年 ながさき浪漫 写真でしのぶ明治・大正・昭和」平成11年発行の102頁に掲載された、「白魚とりの浦上川」大正の中期・浦上川?の古写真があり、浦上川と下の川が合流する現川口町の川岸あたりの現在の風景を、この記事には載せる。
 この古写真は、本ブログ次を参照。  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/66214074.html

  長崎名勝図絵 巻之三   西邊之部

 183  梁 白 魚  (文献叢書 171〜176頁  所在地 長崎市川口?町)

  やなの川は浦上山里村にある。流れ清く、余り深くない。川中の処々に網を置いて、白魚を取る。網は蚊帳の布のようなものを用い、四手に竹を組みわたし、緒縄をつけて杭にかけ、魚の集まるような場所に卸しておいて、時々これを引揚げては杓ですくいとるのである。網を置く所の側には藁小屋を作って仕事場にする。梁は魚を取る道具の名である。この川は、古くは別の名があったに違いないが、白魚の名所となったので、やな川と呼ばれるようになったのであろう。今はこの辺りの里の名にもなっている。この白魚は、正月の初めから出て、二月彼岸の頃が最盛期となる。だから毎年その時期ともなれば、毎日のように行楽の人が来て、川の近くの家は勿論、水のない所は川の中でもどこでも、毛氈や莚を敷き、弁当をひらいて賑わう。…

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              長崎名勝図絵の風景  26  圓 福 寺(山王神社)

 「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

 本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。
 白巖山圓福寺は、現山王日吉神社である。一本足鳥居は、原爆の風圧によって片方の柱と上部の笠石などが崩壊し、その凄まじさを今に伝える。被爆クスノキも生きている。
 被爆写真は、山王神社境内の展示作品から。

  長崎名勝図絵 巻之三   西邊之部

 179  白巌山観音院圓福寺 (文献叢書 169〜170頁  所在地 長崎市坂本2丁目)

  浦上村山里郷の内にある。新義真言宗 延命寺末寺。地名は坂本。寛永15年(1638)松平伊豆守信綱が、島原の賊徒を征伐しての帰途、ここを通られた時、代官末次茂房を顧みて、景色が比叡山々麓に似ているし、地名も偶然坂本といい、これも一致するから、山王を祀るがよかろう。と言われたので、末次代官は堂を建て僧龍宣 延命寺の開基 を開創とした。然し附近は墓地が多いので、慶安5年(1652 承応元年)第二世法印尊覚が、今の地に移して社殿を建てた。一説には、山王社はもと白山の岡にあったという。岡は、浦上川橋口に臨む地である。その側を塔の尾という。圓福寺の旧跡であったので、山王社とした。永年のうちに荒廃していたので、ここに建てた。… 

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                 長崎名勝図絵の風景  25  聖 徳 寺

 「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

 本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。
 爆心地に近い長崎市銭座町の「聖徳寺」は、原爆により焼失。戦前の寺の姿を寺所蔵写真から写させてもらった。本堂両脇の石燈籠だけ残り、原爆落下中心地公園に移設されている。

  長崎名勝図絵 巻之三   西邊之部

 174  天王山聖徳寺法輪院 (文献叢書 163〜168頁  所在地 長崎市銭座町)

  浄土宗 鎮西派の寺。馬籠村 村の上の山を有馬岳という。昔有馬軍が駐屯していたという。村の名もこれによる。 尾上にある。始めは稲佐の坊山 一名鵬ヶ崎(ぼうがさき)稲佐岳の北の麓にある。 にあった。言い傳えでは、この寺はもと巌屋山三十六坊 三百坊ともいう の一であったが、永年のうちに寺も廃れて、村主の宅となっていた。寛永3年(1626)僧専誉 悟真寺二代 がここに寺を再興し、のち今の地に移建した。専誉は筑後善導寺の弟子で、その関係から善導寺の末寺となった。背後は海岸で、松樹生茂り、海の中に突き出た地形は、丁度島を見るようで、鐘の音は松風に和して、海上の漁舟に響き渡り、誠に秀れた景色である。〔長崎八景聖徳晩鐘…〕


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