みさき道人 ”長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”

■写真ブログ/長崎・佐賀ほか ●風景・史跡・古写真・巨樹・石橋・滝・山野歩き・標石・戦跡 ●江戸期の「みさき道」

四国(愛媛・香川)

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                韮ヶ峠(坂本龍馬脱藩の地)  愛媛県西予市

 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説は、次のとおり。
   
   韮ヶ峠

 韮ヶ峠 (にらがとうげ)は、愛媛県西予市と高知県高岡郡檮原町との市町境にある日本の峠である。

 概 要  韮ヶ峠は愛媛・高知県境に位置し、愛媛県側は愛媛県道36号野村柳谷線の支線、高知県側は高知県道379号韮ヶ峠文丸線になっている。それとは別に大規模林道が大野ヶ原から檮原町方面へ伸びている[1]。四国カルストの中に位置している。
 文久2年(1862年)3月24日坂本龍馬が伊予国境を越えた脱藩の地としても知られており、石碑などが現地に建っている。

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                    河後森城跡  愛媛県北宇和郡松野町

 国の文化財等データベースによる解説は、次のとおり。愛媛県の文化財による解説は省略。

名称: 河後森城跡
ふりがな: かごもりじょうあと
種別1: 史跡
指定年月日: 1997.09.11(平成9.09.11)
指定基準: 二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
所在都道府県: 愛媛県
所在地(市区町村): 北宇和郡松野町
解説文:
 河後森城跡は、伊予と土佐の国境地帯の山間地に位置し、清流四万十川の支流の広見川に臨む、秀麗な山容の独立山塊上に占地する大規模な城郭跡である。中世に黒土郷河原淵領と呼称されたこの地域は、現在の松野町・広見町の大部分および日吉村で構成され、河後森城跡が領域の中心の地位を占めている。
 中世の四国南西地域は、南北朝期に西園寺氏の一族が伊予国宇和荘に、応仁の乱中に摂関家の一条氏が土佐国幡多荘に下向土着し、ともに戦国期に小大名化するという特殊な地域史を共有している。黒土郷河原淵領の領主の渡邊氏の出自は不明だが、暦応3年(1340)の大洲清谷寺諸旦那譲状に道後河野氏、宇和西園寺氏とともに河原淵殿一族の記載があり、このころにはすでに一定の勢力を保持していたと考えられる。
 16世紀中ごろの河後森城主の式部小輔教忠は土佐の一条氏からの入嗣であり、一条氏の勢力が西園寺氏を圧迫していたことが知られる。近世文書の「宇和旧記」によれば、渡邊教忠は西園寺15将と呼ばれた国人領主の中で、最も大身の16,500石を領したという。近世の編纂物である「清良記」の記載によれば、天文から天正期にかけてこの地域一帯では一条氏と長宗我部氏の合戦が繰り返され、天正5年(1577)には渡邊教忠も長宗我部氏に降り、家臣の芝源三郎によって河後森城主の地位を追われた。同13年、豊臣氏の四国討伐により長宗我部氏は敗れ、宇和郡は小早川領に組み入れられた。同15年ころには戸田氏、文禄3年(1594)ころには藤堂氏と頻繁に豊臣系大名が入れ替わった。宇和島城築城の際に藤堂高虎は、河後森城の天守を月見櫓として移築したと伝えている。慶長13年(1608)には富田氏、同19年には伊達秀宗が宇和島城に入った。河後森城には各大名の有力家臣が城代として配され、伊達氏以降は家中で最も大身の付家老の桑折中務が7,000石を領して河後森に居城した。
 河後森城跡は、本城の標高は171メートルで、麓との比高差は88メートルを測り、急峻な山容である。城跡は南側に開く馬蹄形の尾根線上に、東から旧小字地名でいう古城・本城・新城の各地区が展開し、その内側の風呂ヶ谷の谷部に屋敷群が存在する。古城地区は東西約180メートルの範囲で4つの郭を配し、本城との間を大堀切で切断している。本城地区は東西約180メートル、南北約200メートルの範囲に13の郭を配し、中央部に大堀切を設けている。新城地区は古城地区から南側に延びる約170メートルの屋根上に10を超える郭群を配している。いずれも南側の土佐方面の守りを意識した堅固な構えで、古城、本城、新城と城域が順次拡張されていったものと推測される。松野町教育委員会は平成3年度から発掘調査を開始し、各地区からは15世紀から16世紀にかけての貿易陶磁器・備前焼等の豊富な遺物が出土している。本城地区を中心に瓦も出土し、礎石も確認されていることから、瓦葺き建物の存在が推測される。小規模な石垣遺構も検出されており、天正13年以降に豊臣系の築城技術が一部導入された可能性が考えられる。
 河後森城跡は、予土国境の境目の城として、戦国期から江戸初期にかけて大規模城郭に発展した過程を示す遺構がきわめて良好に残っている。よって史跡に指定し、その保存を図ろうとするものである。

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                    雪輪の滝  愛媛県宇和島市野川

 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説は、次のとおり。

   雪輪の滝

 雪輪の滝(ゆきわのたき)は愛媛県宇和島市野川の滑床渓谷にある滝。日本の滝百選に選定されている。
 概 要  滑床渓谷の駐車場より遊歩道を約1200メートル上流にある。四万十川支流の目黒川に注ぐ渓流にある。
 花崗岩で出来た一枚岩の緩斜面を全長約300メートル、幅約20メートルにわたって流れるナメ滝である。遊歩道より見えている部分は約80メートルである。流れ落ちる水紋が雪の輪の様に見えることから、この名がついた。但し、水量が多いと雪輪が見えない場合がある。
 緩斜面であるので滝の中腹より滑って遊ぶことが可能である。

 アクセス
 JR予土線松丸駅より車で約25分。観光駐車場で下車。
 松山自動車道大洲北ICから国道197号、国道381号を通り約90分。無料駐車場あり。
 駐車場より滝まで約1200メートル(徒歩約40分)。

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                  八幡神社のイブキ  愛媛県宇和島市伊吹町

 伊吹八幡神社は、JR北宇和島駅の東方近くにある。国の文化財等データベース及び愛媛県の文化財による解説は、次のとおり。

名称: 八幡神社のイブキ
ふりがな: はちまんじんじゃのいぶき
種別1: 天然記念物
指定年月日: 1943.02.19(昭和18.02.19)
指定基準: (一)名木、巨樹、老樹、畸形木、栽培植物の原木、並木、社叢
所在都道府県: 愛媛県
所在地(市区町村): 宇和島市伊吹町
解説文:
 二株あり共に雌株にして一は根元周囲5.45メートル、目通幹囲4.35メートル、樹高約25メートル、一は根元周囲5.34メートル、目通幹囲3.93メートル、樹高約25メートル、いぶきの巨樹の一なり。

(愛媛県解説)
 八幡神社の社殿前に左右に並んでいる2本のイブキである。葉は針状と鱗片状とが混合している。
 向かって右側のイブキは根回り6m、目通り4.35m、樹高は25mもあり、地上4mの所から3本の大枝に分かれている。左側のイブキは根回り5m、目通り3.65m、樹高は23mもあり、下半部に朽ちた部分が見られる。いずれも長大な枝張りを誇っている。
 樹齢は約800年ともいわれ、長寿のこの2本の木にあやかって祭礼行事や結婚式も多いという。また伊吹町の町名もこの木に由来している。
 この種のイブキ(ヒノキ科)は「ビャクシン」ともいわれ、伊予路では海岸にも多く自生している。

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                   宇和島城  愛媛県宇和島市丸之内

 国の文化財等データベース及び愛媛県の文化財による解説は、次のとおり。

名称: 宇和島城
ふりがな: うわじまじょう
種別1: 史跡
指定年月日: 1937.12.21(昭和12.12.21)
指定基準: 二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
所在都道府県: 愛媛県
所在地(市区町村): 宇和島市丸之内
解説文:
 鶴島城又ハ板島九串城トモス。初メ西園寺氏ノ部將之ニ居リ、文緑四年藤堂高虎受封後慶長元年、工ヲ起シ、數年ニシテ城郭ノ完成セリ。慶長十九年伊達秀宗ノ所領トナリ、寛文二年二代宗利城郭ヲ改修シ、新ニ天守閣ヲ構築シ同五年竣工セリ。翌年十一月更ニ追手門ノ落成ヲ見、共ニ現存シテ昭和九年一月國寳ニ指定セラレタリ。城構ハ丘陵ヲ利用セル平山城ニ屬シ、宇和島灣ニ面セル景勝ノ地ニアリ。丘頂ニ本丸、二ノ丸ヲ構ヘ北麓ニ三ノ丸ヲ設ケタルモノニシテ附近ニ長門丸、藤兵衛丸、西麓ニ代右衛門丸ノ阯アリ。三層ノ天主閣ヲ始メ舊建築ノ礎石、各所ノ石壁、石段、追手門、上リ立門等ヨリ保存セラル

 (愛媛県解説)
 宇和島城は、宇和島湾にのぞむ標高80m弱の独立丘陵上に築かれた海城で平山城の形態をとる。慶長元年(1596年)、藤堂高虎が宇和郡7万石の統治拠点として、中世城郭「板嶋丸串城」の近世城郭化を図り、慶長6(1601)年に完成。慶長13(1608)年に富田信高、元和元年(1615年)に伊達政宗の長庶子秀宗が入部、明治まで宇和島伊達家9代の居城となる。2代宗利が寛文4(1664)年から7年をかけ、天守や多くの石垣・矢倉を改修。現在遺存するものは概ね寛文改修のものだが、基本的な城構は藤堂期のままとされる。「宇和島城」と改称されたのは伊達家入部以降で、5代村候の頃から「鶴島城」とも呼ばれる。
 近代以降市街化により堀は全て埋没、三之丸など総郭約28haが消失、本丸や二之丸
など約10haは昭和12(1937)年に史跡に指定された。建造物では、当時国宝指定の追手門が第2次世界大戦により焼失したが、現存12天守の一つで重要文化財の天主と南側登城口城門の市有形文化財上り立ち門が残っている。

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