みさき道人 ”長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”

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四国(徳島・高知)

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             大引割・小引割  高知県吾川郡仁淀川町・高岡郡津野町

 高知県HP「高知の文化財」による解説は、次のとおり。
 国道439号の津野町日曽の川から林道大引割線により大引割峠の駐車場まで上がる。通行止は仁淀川町側だった。天狗高原縦走路へ行くと、大引割・小引割を見学できる。
 天狗の森と鳥形山のほぼ中間点。海抜約1110mに位置する。白木谷層群(古生代二畳紀)に属する赤色及び赤褐色のチャート(珪岩)にできた二本の亀裂である。大きく深い。

大引割・小引割

名称ふりがな おおひきわり・こひきわり
指定等 国指定 記念物(天然記念物)  指定年月日 : 昭和61年 2月25日
所在地・所有者 高知県吾川郡仁淀川町、高岡郡津野町・ 農林水産省
解 説         
 四国カルスト県立自然公園内の仁淀川町(旧:仁淀村)と津野町(旧:東津野村)との町境付近、鳥形山の西南約3kmの大引割峠で、峠の西約160mの地点の赤褐色のチャートにほぼ東西の大きな亀裂が2本ある。
 南のものが大引割、北のものが小引割で、両者は30〜40m離れている。
 大引割は、全長60m以上、幅3〜8m、深さは底が落石・枯葉などで埋まり不明であるが30m以上、小引割は全長80m以上、幅1.5〜6m、深さ20m以上である。
 成因については諸説あるが、第4洪積世(100万年〜2万年前)の隆起を伴う地殻変動によって生じたものと推論されている。
 このような巨大な裂開の存在が、現在でも保存されているのは全国的にも少なく、学術上貴重なものである。

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                  四万十源流の大モミ  高知県高岡郡津野町

 四国森林管理局HP「森の巨人たち100選」管内にある7箇所の紹介による解説は、次のとおり。四万十源流の大モミは、まぎらわしい解説だが「四万十川の源流点」の方ではない。
 県道378号をさらに登って行くと、大モミルートマップ(管理局図)のとおり、船戸林道入口に案内板がある。ゲートを越し不入山登山道でもある林道終点近くまで歩く。

 後ろの2枚は、船戸林道終点からと、県道を矢筈トンネルへ下るときの景色。日鉄鉱業鳥形山鉱業所は、セメント生産の石灰岩鉱山。切羽の現在の平均標高は1200m、もとは1459mあったそうだから、259mは掘り下げている。
 
77.四万十源流の大モミ

幹周り 380cm
樹高 38m
樹齢 200〜290年
所在地 高知県高岡郡津野町

不入山 (いらずやま)
「日本最後の清流」といわれる四万十川の源流点が、不入山にあります。
全国には、江戸時代などに数多くの御留山(おとめやま)と呼ばれた山があります。これは、一般の人々の立ち入りや樹木の伐採を禁じていたところで、不入山も名前のとおり人の立ち入りを禁止した土佐藩の御留山でした。
標高1,336mの山頂へは、船戸林道入口から徒歩午前2時間の行程です。

 四万十川の源流点は、津野町船戸から仁淀川町に向かう途中を標識にしたがって左折していくと、「源流の碑」まで車で30分、その後碑の横を25分登ったところにあります。
また、不入山周辺には、ヤナセスギの繁る馬路村魚梁瀬の千本山と相対し、「西の千本」と称されている樹齢100年のスギが残されている展示林や、展示林に隣接して「水土保全複層モデル林」などがあります。
入山では、アケボノツツジ、ヒカゲツツジ、ブナ、モミ、ツガなどが見られます。

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                  四万十川源流点  高知県高岡郡津野町

 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説は、次のとおり。駐車場の源流碑から沢の源流点までは、急な山道を約25分登る。

四万十川
水系 一級水系 渡川(四万十川)
種別 一級河川
延長 196 km
水源の標高 1,336 m
流域面積 2,270 km²
水源 不入山(高知県高岡郡津野町)
河口(合流先) 土佐湾(高知県四万十市)
流域 高知県

四万十川(しまんとがわ)は、高知県の西部を流れる渡川水系の本川で、一級河川[1] 。全長196km、流域面積2270km²[2]。四国内で最長の川で、流域面積も吉野川に次ぎ第2位となっている。本流に大規模なダムが建設されていないことから「日本最後の清流」、また柿田川・長良川とともに「日本三大清流の一つ」と呼ばれる。名水百選[3]、日本の秘境100選にも選ばれている。

四万十川には支流も含めて47の沈下橋があり、高知県では生活文化遺産として保存する方針を1993年に決定している。

地 理
高知県高岡郡津野町の不入山(いらずやま)を源流とし、高知県中西部を逆S字を描くように蛇行しながら多くの支流を集め、四万十市で太平洋に注ぎこむ。河口附近では「渡川」という名前であるため、水系名は「渡川水系」となっている。

清流2つの名前
「日本最後の清流」といえば、「四万十川」を想起するほどに有名になっているが、河川法上においては過去65年間「渡川」が正式名称であった。1896年(明治29年)の旧河川法により、1928年(昭和3年)11月1日に「渡川」を法律上の公式名称に採用。その後の昭和39年の新河川法でもそのままであったが、平成6年7月25日に「四万十川」と改名された。一級河川の名称変更はこれが初めてで、この川が「日本最後の清流」として、全国的に有名となり認知されているという実情によるところが大きい[4]。同じ高知県では、知名度では劣るものの仁淀川の方に水質では軍配が上がる。

古くから「四万十川」と書いて「わたりがわ」と呼ばれていたこともあるという。また「四万渡川」と書かれることもあった。これが省略されて「渡川」の名称が発生したものと思われる。宝永5年(1708年)の土佐物語には「四万十川 わたりがわ」と記されているという。

一方、周辺の河川名を見ると、古来関係の深かった九州に向かって「向川(現在名:中筋川)」、「渡川」を渡って中村(四万十市)の市街、その後ろに「後川」があり、位置的な名称と考えることもできる。

四万十川源流の森
不入山北麓に広がる四万十川源流のを中心とした森林であり四国カルスト県立公園の指定区域にあり、四万十川源流の森として水源の森百選に指定されている[5]。
樹齢200年に近い自然林と国有林が管理する針葉樹林の人工林が茂る。源流はv字谷を刻み岩肌と森林の緑と清流と石灰岩質の岩肌で渓谷美を形成している。
所在地:高知県高岡郡津野町大字船戸

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                    土佐藩砲台跡  高知県須崎市中町

 高知県HP「高知の文化財」、及び現地説明板による解説は、次のとおり。西浜歴史公園となり見事な台場跡だったが、日没写真となりどうしょうもない。月が出た。

土佐藩砲台跡

名称ふりがな とさはんほうだいあと
指定等 国指定記念物(史跡) 指定年月日 : 昭和19年11月13日
所在地・所有者 高知県須崎市中町・須崎市
解 説
 尊攘過激派が、京都を舞台に活躍した文久3年(1863)、土佐藩は港町須崎の海岸3ヵ所(現在の浜町2丁目、南古市町、中町)に砲台を築造した。
 東の浜町は、半円形(砲門、火薬室各3ヵ所、面積約22a)、中央の南古市は、一文字形(砲門、火薬室各4ヵ所、面積約22a)の砲台だったが、今は壊され民家となり跡を留めない。
 現在、史跡に指定されているのは、中町の西砲台で、形状は円形で外側に半円形の壕を備え、海からは単なる堤防に見えるよう偽装していた(砲門、火薬室各7ヵ所、面積約50a)。
 これらの砲台は、突貫工事で約1ヶ月で築造されたという。
 西砲台は、大正3年(1914)に西浜公園になり、昭和19年(1944)、国の史跡文化財に指定された。

土佐藩砲台跡
昭和19年11月 国の史跡指定

 幕末、異国船の来航があり、海岸防備のため藩命により文久3年(1863年)7月に着工し1ヶ月半の短時日に完成した。須崎には西・中・東の3ヶ所に台場が築かれたが、その内現存するのはこの西台場のみである。規模が最大で長さ116メートル、砲門7座、内側に弾薬室が7ヶ所あったが、明治初年埋められた。この砲台跡は明治40年、須崎市が払い下げをうけ、公園として保存してきた。当時使用した砲弾が残っている。慶応3年(1867)8月6日、イギリス水兵殺害事件で公使パークスは土佐藩と交渉するため軍艦(バジリスク号)で須崎港に入港し、幕府艦(回天丸)や坂本龍馬も来港して外国交渉の舞台となった。
    平成10年3月20日  須崎市教育委員会

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                ノルマントン号事件の碑  高知県須崎市南古市町

 HP「すさきガイド」須崎史跡めぐりによる解説は、次のとおり。

ノルマントン号事件の碑

教科書に載っている事件。
場所 須崎市南古市町13付近
 明治19年10月、横浜発神戸行きの英国汽船ノルマントン号が紀州沖を通過のおり難破した。船長以下26人の外国人船員全員はボートで脱出したが、日本人乗客23人全員が水死した。そのなかに、新土居(現津野町)の山崎正善も乗船していた。裁判では、幕末に締結した不平等条約によって船長は無罪となり、裁判の不当性に国民は憤慨した。政府は条約改正に向けて諸外国と交渉を重ねて条約改正に成功し、日本が近代国家へと発展していくきっかけとなる。この碑は、条約改正を祝って海に近いこの場所に建てられたものと思われる。

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