みさき道人 ”長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”

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長崎の古写真考 2

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     長崎の幕末・明治期古写真考 彦馬の世界 160P 旧長崎奉行所と師範学校

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

 上野彦馬の世界 160P 旧長崎奉行所と師範学校 (長崎大学附属図書館蔵)
  撮影年代未詳。鶏卵紙。写真中央左は立山の旧長崎奉行所(旧長崎奉行所は西と立山の2か所あった)、その右は明治7年(1874)に新築されたばかりの長崎官立師範学校の建物である。長崎奉行所の原型を写す写真は珍しい。長崎官立師範学校の右上背景の山の中腹の中に坂本龍馬で有名な亀山社中が写っていることが研究者により確認されたといわれる。
   
 目録番号: 6030 旧長崎奉行所と師範学校

  ■ 確認結果

 上野彦馬の古写真集「レンズが撮らえた 幕末の写真師 上野彦馬の世界」が、山川出版社から2012年8月発行されている。
 160P「旧長崎奉行所と師範学校」の解説には、別に問題はない。ただ、「長崎官立師範学校の右上背景の山の中腹の中に坂本龍馬で有名な亀山社中が写っていることが研究者により確認されたといわれる」とは、次のような経過がある。

 この項は、本ブログ次の記事を参照。疑問に思うのは、作品の撮影場所である。
 朝日選書  84P写真  30 「亀山社中」はどこから撮影されたか
  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/58562344.html
 長崎大学データベースでは、目録番号: 6030「旧長崎奉行所と師範学校」の作品。

 朝日新聞や朝日選書によると、長崎居留地研究会の研究は、「現在の長崎市玉園町の丘の中腹から撮影したとみられる。…写真の中から旧長崎奉行所の堀の位置や山の稜線を目印に撮影場所を特定した」とし、撮影場所を「玉園墓地」(永昌寺墓地か)からとしている。
 長崎歴史文化研究所もこの場所で納得しているようだが、古写真の玉園町の家並みの状況と、奉行所からの距離を考えると、まったくの誤認ではないか。遠くの寺名も見誤っている。

 私が撮影した場所は具体的には、「聖福寺」大雄宝殿の背後、開山老和尚(鉄心)塔所がある石段の入口あたりの道。全体の景色はこの場所からしか今は写せない。
 理由は、URL記事にしたとおり。民家が墓地となることはない。上野彦馬が重い撮影器材を持ち、何も玉園墓地の上まで登る必要はない。撮影しやすいところで写せる。

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       長崎の幕末・明治期古写真考 彦馬の世界 153P 飽の浦恵美須神社

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

 上野彦馬の世界 153P 飽の浦恵美須神社 (長崎大学附属図書館蔵)
  明治10年(1877)頃撮影。鶏卵紙。対岸側は出島で、これと同じアングルで明治5年(1872)に内田九一が撮影している。写真の左側に飽の浦町の集落、対岸は長崎市街中心部の海岸線である。左側の山は金比羅山・立山である。現在は海岸線は埋め立てられ、写真でのみ当時をうかがうことができる。
   
目録番号: 5312 飽の浦恵美須神社(6)
  〔画像解説〕
  明治10年(1876 「1877」が正)頃、長崎の稲佐にあった飽の浦神社(恵美須神社)を撮影したもので、同じアングルで明治5年(1872)天皇巡幸に随行した内田九一が撮影しているが、比べてみるとこの写真では神社横の民家の屋根が壊れている。社屋は消滅しているが神社は現存している。

  ■ 確認結果

 上野彦馬の古写真集「レンズが撮らえた 幕末の写真師 上野彦馬の世界」が、山川出版社から2012年8月発行されている。
 153P「飽の浦恵美須神社」は、内田九一の作品とされる解説を参考に記している。両作品ともこのカメラの方向では、出島や梅香崎までは写らないので、「対岸側は出島」とはならない。
 風頭山すらまだ写真の右外だから、対岸は大黒町・五島町・大波止あたりまでであろう。

 飽の浦恵美須神社の左右が「飽の浦町」の集落。主な集落は右側。左は当時「瀬の脇」といった。左奥に水の浦、そして大鳥崎、稲佐崎があった。
 長崎大学データベースでは、目録番号: 5312「飽の浦恵美須神社(6)」の作品。
 この項は、本ブログ次を参照。 http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/64896884.html
 丸尾海岸の埋め立て状況と年代、内田九一とされる天皇巡幸の際の作品撮影者は、まだ研究の必要があり、東京の先生など現在、調査中。

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        長崎の幕末・明治期古写真考 彦馬の世界 141P 中島川と桃渓橋

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

 上野彦馬の世界 141P 中島川と桃渓橋 (長崎大学附属図書館蔵)
  明治中期撮影。鶏卵紙。
  長崎市を流れる中島川(二股川)の左右からの川の合流点、桃渓橋付近の風景を撮影したものである。写真左奥から三つ山、健山(たてやま)、烽火山が見える。また、その山の下の茂った樹木のあたりが伊勢宮神社の楠である。写真左手前より白壁の蔵、唐船海上祈願灯、松の木、不動明王堂、桃渓橋と続き148ページの写真を引いた撮影である。

 目録番号:5305 中島川と桃渓橋(2)
  〔画像解説〕
二股川(中島川)桃渓橋付近の風景である。現在は一般に中島川と呼ばれている。写真の右側樹木手前のところが日見峠方面からの川、銭屋川(中島川)との合流地点である。桃渓橋は堂門川に延宝7年(1679)永島仁左衛門こと僧ト意が出来大工町に架けた長さ12.4m、幅3.4mのアーチ石橋である。大井手橋の上から中島川二股を撮影したものである。写真中央の奥には健山(たてやま),その左側奥に三つ山,右側に烽火山への稜線が見える。また、右側人家後ろの樹木は、伊勢宮神社の楠の大木である。堂門川(中島川)と銭屋川(中島川)の合流点角の岸には川へ下りる階段が設けられている。目録番号2130及び4804(整理番号47-33及び95-3)より古い写真である。写真左側には、手前から白壁の蔵,唐船海上安全祈願灯,松の大木,不動明王堂等が見え、江戸時代の名残を止めている。

  ■ 確認結果

 上野彦馬の古写真集「レンズが撮らえた 幕末の写真師 上野彦馬の世界」が、山川出版社から2012年8月発行されている。
 141P「中島川と桃渓橋」は、撮影場所の説明を具体的に、「…148ページの写真を引いた下流「大井手橋」上からの撮影である。」とかならないだろうか。
 背景の山は、右に「烽火山」の山頂までは写っていない。

 長崎大学データベースでは、目録番号:5305「中島川と桃渓橋(2)」の作品。
 現在の写真は本ブログ次を参照。  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/63363270.html

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         長崎の幕末・明治期古写真考 彦馬の世界 27P 長崎高島炭鉱 ほか

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

 上野彦馬の世界 27P 長崎高島炭鉱 (日本大学芸術学部蔵)
  明治初期撮影。鶏卵紙。

 上野彦馬の世界 27P 長崎高島炭鉱・二子坑 (日本大学芸術学部蔵)
  明治初期撮影。鶏卵紙。

 目録番号:2415 高島炭鉱南洋井坑

  ■ 確認結果

 上野彦馬の古写真集「レンズが撮らえた 幕末の写真師 上野彦馬の世界」が、山川出版社から2012年8月発行されている。
 27P上「長崎高島炭鉱」は、高島炭鉱でも、「尾浜坑」の明治20年頃の積み出し港の風景。
 27P下「長崎高島炭鉱・二子坑」は、「二子坑」ではなく、「南洋井坑」の立坑の風景である。
 長崎大学データベースでは、目録番号:2415に「高島炭鉱南洋井坑」としてある。

 長崎市高島町「石炭資料館」展示の説明パネルと、現地の確認写真を載せる。
 古写真所蔵の日本大学芸術学部と写真集の監修者は、正しく解説していただかないと、地元は困る。次HPも参照。
  http://wing.zero.ad.jp/~zbc54213/takasima-tankoo01.html
  http://www1.cncm.ne.jp/~m8512215/hasima/tkosyasin03.html

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      長崎の幕末・明治期古写真考 長崎市HP「まちなか再生」ながさき今昔写真館

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
 
 長崎市HP「まちなか再生」ながさき今昔写真館 掲載6作品
  古写真 1(目録番号:1293) 興福寺開山堂と麹屋町
  古写真 2(目録番号:1006) 大浦川河口
  古写真 3(目録番号: 792) 長崎大浦外国人居留地
  古写真 4(目録番号: 328) 大浦海岸通り
  古写真 5(目録番号:6066) 小島からの長崎医学校と唐人屋敷
  古写真 6(目録番号:  50) 館内から出島を望む

  ■ 確認結果

 長崎市(建設局まちなか事業推進室)HP「まちなか再生」ながさき今昔写真館に掲載されている中の6作品。現在の写真と対比させ、撮影場所の地図もある。同解説は、以下のとおり。
  http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/machidukuri/.../photo/
 いずれも長崎大学附属図書館古写真データベースに目録番号がある。疑問点を次に説明する。本ブログの各記事を参照し、古写真の正しい実地調査と研究をお願いしたい。

 長崎大学や長崎市が、いつまでもこのような内容のHPを公開するのは問題があろう。早く正しくしてほしい。長崎市HPは、画面展開に手間がかかる。次作品がすぐ開けるようにし、拡大地図はその撮影場所がすぐ出てくるように改善してほしい。
 各古写真下の現在の写真は、私が調査した撮影場所である。(写せない所は、一部変更した)

 古写真 1  興福寺開山堂と麹屋町  (データベース 目録番号:1293)
  1864年頃、ベアトが撮った興福寺開山堂と麹屋町の通りである。幕末の長崎市内の街路の写真として最古のものの一枚である。道路の中央には石畳舗装がなされ、突き当たりの寺町通りへは後年斜路に改造される石段で結ばれている。
  本ブログ次の記事を参照。  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/60250231.html
  (注)「興福寺開山堂」があった場所の地図と、撮影している通りが違う。通りは現在の「麹屋町」ではあるが、古写真は「紺屋通り」を写し、さるく説明板もここにある。現在の写真が、次の興福寺前の通りを写しているのは間違いである。
 
 古写真 2  大浦川河口 (データベース 目録番号:1006)
  大浦川中流から河口を見た風景である。大浦川に架かっている橋は松ヶ枝橋。川沿いの広い道路には街灯が見える。下がり松居留地の洋風建築が鮮明に写っている。下がり松の由来を示す松の木を見ることができる。
  本ブログ次の記事を参照。  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/64019861.html
  (注)大浦川に架かっている手前の木橋は、「弁天橋」が正しい。奥のが「下り松橋」(後に「松ヶ枝橋」となる)である。超高精細画像の画像解説の方が正しい。

 古写真 3  長崎大浦外国人居留地 (データベース 目録番号: 792)
  ベアト撮影。「ヨーロッパ人の居留地の一部と長崎の市街、65年6月」と記されている。慶応年間の長崎大浦の海岸通り、と東山手の洋館群が詳細にうかがえる。右の丘の上にはまだ建物がみられない。
  本ブログ次の記事を参照。 http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/59840218.html
  (注)同じような写真で、上記の記事はあくまで参考に見ていただく。南山手の高台から下り松と大浦海岸通りの居留地を主に写している。現在の写真は、「弁天橋」の通りではなく、大浦海岸通りが写った居留地の景色が良いだろう。

 古写真 4  大浦海岸通り (データベース 目録番号: 328)
  明治中期の大浦海岸通りを撮影した写真である。通りには街灯が設置され、街路樹が植えられている。通りに面して商館や領事館が整然と並んでいる。当時の質の高い景観を見ることができる。手前の橋は明治3年(1870)建設の下り松橋(梅ケ崎橋)。
  本ブログ次の記事を参照。  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/64881275.html
  (注)手前の橋は明治22年前後に架替えられたポーストリングトラス橋の「下り松橋」(松ヶ枝橋)である。橋脚跡が現在も残る。タイトルが大浦海岸通りだから、現在の撮影場所が、「弁天橋」とその通りを写しているのは、間違いである。

 古写真 5  小島からの長崎医学校と唐人屋敷 (データベース 目録番号:6066)
  長崎医学校は所管及び名称を変えながら、1868年(明治元年)から、1892年(明治25年)に坂本へ移転するまでこの場所に位置した。現在の長崎大学医学部の源流にあたる。唐人屋敷については長崎市の唐人屋敷HPに掲載されている。
  本ブログ次の記事を参照。  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/59178431.html
  (注)現在の撮影場所を、長崎市立仁田小学校前の公園としている。古写真にその尾根が写っているから、南東側山手となる鶴鳴学園長崎女子高校正門から入った駐車場の少し下、中小島2丁目の高台あたりから撮影していると思われる。

 古写真 6  館内から出島を望む (データベース 目録番号: 50)
  館内の唐人屋敷の横から新地蔵ごしに出島と港を望む写真。中央に架かる橋は梅ケ 崎橋。その入江は現在の湊公園である。出島の海側には慶応3(1867)年にできた馬まわしの突き出しが築かれている。現在はビルが建ち、海を眺望することはできない。
  本ブログ次の記事を参照。  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/65441857.html
  (注)館内町唐人屋敷跡の東上からである。現在、この写真のさるく説明板が設置されている場所の少し先、福建会館上の道から、当時の福建会館の建物と長崎港や出島を遠望した写真であろう。


 なお、5月26日現在においてHPを見ると、「ながさき今昔写真館」掲載記事についてのお詫びと記事の削除について、次のとおり掲載されていた。

 「ながさき今昔写真館」につきまして、掲載資料の一部に誤りや疑義が生じていることがわかりました。誤り等があった記事につきましては一旦削除させていただき、検証を実施のうえ、準備が整いしだい改めて掲載させていただきたいと思います。
 ホームページをご覧いただいた皆様にご迷惑をおかけしたことを深くお詫び申し上げます。


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