みさき道人 ”長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”

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長崎の古写真考 2

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             長崎の幕末・明治期古写真考 長崎手彩色古写真 長崎港

 長崎大学附属図書館幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

 NAGASAKI GENEI 長崎手彩色古写真
  長崎港

 目録番号: 977 ドンの山から見た長崎港と出島
  〔画像解説〕 
  中央に出島、手前に新地蔵、梅ケ崎の居留地が写っている。出島の海側の線が鮮明に見える。新地と居留地を結ぶ木橋(梅ケ崎橋)が写っている。

  ■ 確認結果

 「NAGASAKI GENEI」というサイトがある。ウェブ検索でなかなか表れないが、長崎の貴重な古絵葉書や古写真を多数、公開されている。
 タイトル以外、特に説明がない。撮影地など一般にわかりにくいものを、取り上げ考えてみる。

 「長崎手彩色古写真」長崎港の中にある写真は、撮影地の説明がないが、長崎大学データベースの目録番号: 977「ドンの山から見た長崎港と出島」(超高精細画像のタイトル「十人町より」は間違い)のとおり、ドンの山から(手彩色古写真の実際は、まだ下の方。中新町車道終点の墓地あたり?)撮影していると思われる。
 この項は、本ブログ次を参照。  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/67671060.html

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            長崎の幕末・明治期古写真考 長崎手彩色古写真 一の瀬橋

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

 NAGASAKI GENEI 長崎手彩色古写真
  a   (一の瀬橋)

 目録番号:5635 蛍茶屋と一の瀬橋(2)
  〔画像解説〕 
  一の瀬橋と蛍茶屋。このあたりを一の瀬といい、蛍の名所で「市瀬晴嵐」として崎陽八景に数えられている。蛍茶屋は長崎を訪問する旅人が市街地に入る入口であり、長崎を発つ人々が別れを惜しんだ場所でもある。橋は承応2年(1653)、唐通事の陳道隆が私財を投じて架設した。これまで崩落の記録はない。

  ■ 確認結果

 「NAGASAKI GENEI」というサイトがある。ウェブ検索でなかなか表れないが、長崎の貴重な古絵葉書や古写真を多数、公開されている。
 タイトル以外、特に説明がない。撮影地など一般にわかりにくいものを、取り上げ考えてみる。

 「長崎手彩色古写真」aの中にある石橋は、タイトルがないが、長崎大学データベースの目録番号:5635「蛍茶屋と一の瀬橋(2)」のとおり、蛍茶屋の「一の瀬橋」である。

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           長崎の幕末・明治期古写真考 長崎手彩色古写真 お栄の桟橋?

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

 NAGASAKI GENEI 長崎手彩色古写真
  a   783 Nagasaki Wharf

 目録番号:3816 長崎稲佐海岸(3)
  〔画像解説〕  超高精細画像
  長崎港の湾奥の西岸では、稲佐地区が半島のように突き出ている。その最頂部から長崎市街地に向けて連絡船の航路があった。この写真は稲佐の先端から長崎市街地を遠望した写真である。撮影時期は、長崎市街の建物から判断して、明治20年(1887)代である。写真手前は稲佐の桟橋で、手前の石段の品格から見て、使用頻度の高い施設であることが分かる。木製の桟橋の先に、洗練された金属製の街灯が設置されている。対岸は長崎市街地の沿岸部である。中央の林が見えているところが長崎県庁である。その右に出島がある。写真の左側、船の向こう側は大波止から浦五島町である。この付近の沿岸部には、倉庫を構えた屋敷が立ち並んでいる。左の山は立山で、山裾に筑後町の寺院群が見える。

 目録番号:5630 長崎稲佐海岸(5)    掲載略

目録番号:5519 ホテル・ヴェスナーと桟橋
  〔画像解説〕
  稲佐お栄(道永えい)の経営していた「ホテル・ヴェスナー(春)」とそこに登るための桟橋。ホテルは明治26年(1893) 11月に完成した。現在の旭町・浜崎水産アパートの場所で、崖地の下を道路が通っている。背後が稲佐山である。この写真から当時の地形とホテルの場所がよく分かる。写真下の桟橋が「お栄の桟橋」。

  ■ 確認結果

 「NAGASAKI GENEI」というサイトがある。ウェブ検索でなかなか表れないが、長崎の貴重な古絵葉書や古写真を多数、公開されている。
 タイトル以外、特に説明がない。撮影地など一般にわかりにくいものを、取り上げ考えてみる。

 「長崎手彩色古写真」aの中にある「783 Nagasaki Wharf」は、長崎大学データベースの目録番号:3816「長崎稲佐海岸(3)」ほかにあるとおり、稲佐崎の桟橋である。
 この項は、本ブログ次の記事を参照。 http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/48116742.html

 ただし、長崎大学データベースの目録番号:3816「長崎稲佐海岸(3)」の解説は、間違いであろう。長崎市街地へ通船があった志賀の波止は、まだ北側の入江ではないか。立山や山裾に筑後町の寺院群までは写っていない。左の山は彦山である。
 これは、目録番号:5519「ホテル・ヴェスナーと桟橋」の方の解説が正しく、稲佐崎のいわゆる「お栄の桟橋」ではないか。

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            長崎の幕末・明治期古写真考 長崎手彩色古写真 高鉾島?

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

 NAGASAKI GENEI 長崎手彩色古写真
  a   高鉾島?

 目録番号:2922 高鉾島(14)
  〔画像解説〕  超高精細画像
  大型アルバムの1枚を剥がしたもので、キャプションにG42.TAKABOKO,(PAPPENBERG),NAGASAKIと印字されている。これは横浜の小川一真のアルバムからである。高鉾島の古写真は多いが、対岸の神ノ島側から撮影されたものは少ない。高鉾島は鎖国時代にキリシタンが処刑された殉教の島として外国人に知られていた。写真は、長崎市街の対岸にあたる稲佐側の神ノ島から高鉾島および現マリア観音前を写したものである。岬における海岸近傍の集落の様子がよく撮影されている。右側の海に張り付いた民家は風除けのためかすべて瓦葺きである。船は伝馬船であり、波を避けて内湾に係留されている。畑が海の傍まで切り開かれている。中央の民家は風当たりの強い岬の鼻に立てられ、階段には石段が積まれ、軒先には水甕と桶がみえる。縁側と戸口に干してあるのは穀物であろうか。このあたりは隠れキリシタンが住んだ集落で、「神」の地名が多い。背景右側は香焼島、遠景は長崎半島の山々である。目録番号4084(整理番号79-2)と同じアングルである。

  ■ 確認結果

 「NAGASAKI GENEI」というサイトがある。ウェブ検索でなかなか表れないが、長崎の貴重な古絵葉書や古写真を多数、公開されている。
 タイトル以外、特に説明がない。撮影地など一般にわかりにくいものを、取り上げ考えてみる。

 「長崎手彩色古写真」aの中にある1番目の写真。右下のキャプションがわからない。 長崎のどこかの島だろう。あとで載せる女神の小島ではないようだ。考えられるのは、長崎大学データベースの目録番号:2922「高鉾島(14)」にある風景である。

 神の島から四郎ケ島へ行く途中の突端か、四郎ケ島へ渡る海道あたりからなら、撮影できそうな写真である。
 島の大きさに疑問があるが、奥が「高鉾島」、右側へ突き出た岩が現在、聖マリア像が建つ「ドンク岩」と考えられないだろうか。島の背後に対岸の山が写っていないのは気になる。
 しかし、これは違った。今から再調査を始め、記事は後日修正したい。 

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             長崎の幕末・明治期古写真考 長崎古えはがき 杉山橋

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

 NAGASAKI GENEI 長崎古えはがき 
  中島川水車   Nakajima River, Nagasaki
  古長崎101景   Nakajima River, Nagasaki
 NAGASAKI GENEI 長崎手彩色古写真
  a   No 238 Nakajima, Nagasaki
  c   G100 NAKAJIMA-GAWA. NAGASAKI

 目録番号:3802 中島川と上野彦馬邸(5)
  〔画像解説〕  超高精細画像
  長崎を代表する山、彦山(右側)・豊前坊(左側)を画面中央後ろに、左岸人家の手前のところに江戸時代の上水道として使用された倉田水樋の水源、常夜灯下側には日本三大聖堂の一つといわれた長崎聖堂(中島聖堂)、写真には見えないが、常夜灯左下側には、日本三大聖堂の一ついわれた長崎聖堂(中島聖堂)、常夜灯左上が上野彦馬邸(上野撮影局)に当たる。明治中期の銭屋川(中島川)の風景である。残念なことに、常夜灯は昭和57年(1982)の長崎大水害で流失してしまった。近くにある若宮神社の秋の大祭に奉納される「竹ン芸」は、境内に高さ10mの2本の青竹を立て、これに穴を開け横木を通し、狐の面を被った雄狐と雌狐に扮した二人の青年が竹によじ登り「つり下がり、大の字、さか立ち、逆さ降り」等の曲芸を「ローレンヒューヒューライローレン」の竹ン芸囃子にのって演じるものである。現在、長崎市の無形民俗文化財に指定されている。また、若宮神社は「古いお宮を若宮」と唄われ、長崎七不思議数え唄の一つに数えられている。

  ■ 確認結果

 「NAGASAKI GENEI」というサイトがある。ウェブ検索でなかなか表れないが、長崎の貴重な古絵葉書や古写真を多数、公開されている。
 タイトル以外、特に説明がない。撮影地など一般にわかりにくいものを、取り上げ考えてみる。

 「長崎古えはがき」及び「長崎手彩色古写真」の中にある中島川の白い木橋の4点は、長崎大学データベースの目録番号:3802「中島川と上野彦馬邸(5)」に写っている橋と同じであろう。
 長崎歴史文化博物館郷土資料の古賀文庫「長崎橋梁台帳」によると、橋名はないが、「明治
24年2月落成 杉山徳三郎私設ニシテ木造」とある。

 明治を築いた企業家杉山徳三郎氏の邸宅がこの前にあり、私費で架けたため地元では「杉山橋」と呼ばれた。杉山氏は田上2丁目の「徳三寺」も建てられた。
 現在、鉄製の人道橋「紅葉橋」が架かっている場所にあったのが、「杉山橋」である。
 「ナガジン」越中先生の話に、「紅葉橋は上野彦馬が愛人の名前をつけた」とあるが、詳しくわからない。


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