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108 神の御前での真実な祈り ルカの福音書18章9-14節 2016/09/18
自分は神を敬う者であると自任し、ほかの人々を見下している人たちに対して、イエスは次のようなたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に行きました。そのうち、一人はパリサイ派の人で、もう一人は取税人でした。パリサイ派の人は、立って、自分自身に向ってこんな祈りをしました。『神様。どうぞ間違わないでください。私はほかの人々のように、ゆすり取ったり、不正をしたり、姦淫をしたりしませんし、ことに、あそこで祈っている取税人のような者ではございません。そのことを、感謝いたします。また、私は一週のうち二度も断食をしておりますし、全収入の十分の一を献金しております。そういう者でございます。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けることもできず、うなだれたまま、自分の胸をたたいてこう言いました。『神様。このような罪人の私をあわれんでください。』彼にはこれしか祈れなかったのです。ところで、あなたがたに言っておきますが、神様に受け入れられて家に帰って行ったのは、この取税人であって、あのパリサイ派の人ではありませんでした。だれでも自分を価値ある者と思って高ぶる者はいやしめられ、自分をつまらぬ者と思ってへりくだる者は、神様から誉を受けるようになります。」
祈りというのは、神との会話であり、神との交わりです。ところが、うっかりすると、神よりもほかの事、人などが気になり、神の御前にいるという意識が稀薄になって、独り言の祈りになりかねません。ここで主イエスが本当の祈りとはどういうものなのかということを教えておられるので、自分の祈りがどのようなものであるかとチェックしたいと思います。
このたとえでは、二人の人が祈るために神殿に行きました。一人はパリサイ派の人であり、もう一人は取税人でした。パリサイ派の人は立って祈りました。ユダヤ人はよく立って祈りましたから、立って祈ることが傲慢であるとか、間違っていたわけではありません。ところが、彼は「自分自身に向って」祈っていたのです。つまり神に向かって語っておらず、独り言であったのです。しかし、彼だけを笑うことはできません。私たちの祈りも、神に向って語っているような言い方をしてはいますが、神の臨在を意識することなしに自分の言いたいこと言っているにすぎないことが多いのではないでしょうか。彼が独り言の祈りをしていたということは彼が神の御前に出ながら、ほかの人と自分を比較していたことを表している内容から、よく分かると思います。
しかし、私達もうっかりすると、あのパリサイ派の人と同様に、「あの人はしばしば礼拝を休むけれども、自分は礼拝を休んだことがない」とか、「あの人は自分よりも多くの収入があるのにわずかな献金しかしていないが、私は誰よりも多くの献金をしている」など、心の中でほかの人を裁いていることがしばしばです。そして、あのパリサイ派の人と全く同じやり方で、感謝の祈りを捧げたりすることはないでしょうか。
パリサイ派の人の祈りに対し、取税人の方は、遠くの方にいて、目を天に向けることもできず、うなだれたまま、自分の胸をたたきながら、弱々しい祈りを捧げました。しかし、これは彼の真実な告白であり、懇願であったのです。彼は、聖い神の御前に、顔をあげることもできず、惨めな罪人である自分を自覚していました。神の憐みがなければ何一つ出来ないことを知っていたのです。祈りにおいて何よりも大切なことは、私たち側の心の姿勢です。神の御前にありのままの姿で出ること、それこそ砕かれた魂です。
主がこのたとえで教えようとしておられるのは、「自分は神を敬う人であると自任し、ほかの人々を見下している人たちに対して」でした。このことからわかることは、取税人はゆすりや不正、姦淫を平気で行う特徴がありましたが、敬虔で成熟している信仰生活をしていても、このパリサイ派のように立派に見えるだけの信仰生活だとしたならば、もちろん心の中をご覧になる神の評価は別であるということです。信仰とは何よりも神の御前にへりくだることです。神を神とも思わなくなったら、もうおしまいです。ですから、神の御前にへりくだりたいと思います。『神様。このような罪人の私をあわれんでください。』
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