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84 実の成らない木のために ルカの福音書13章6-9節 2015/10/11
それから、イエスはまたたとえを話された。「ある人が自分のぶどう園に、いちじくの気を植えておきました。実を取りに行きましたが、何も成っていませんでした。そこで、ぶどう園の番人に言いました。『私は、三年間もやって来ては、このいちじくの実の成るのを待っているのですが、一度も成っていたことがありません。こんな木は場所ふさぎに過ぎないから、切り倒してしまいなさい。』番人は答えてこう言いました。『ご主人様。どうか、もう一年待ってください。』番人は答えてこう言いました。『ご主人様。どうか、もう一年待ってください。木の周りを掘って、肥しをやってみますから。それで、来年実が成ればと思います。もしも駄目でしたら、その時はもう切り倒しても結構です。』」
私たちが今生きているこの時代が、政治的にも経済的にも教育的にも文化的にも歪んでいて、いわば外側の仕組みがおかしいことに気が付いている人は多いのですが、自分自身が今どういう危険な状態にいるかということに気が付いている人はほとんどおりません。もちろん内面的な問題に敏感な人はある程度気付いています。いわゆる純文学と呼ばれる文学を志している作家の多くは、そのことに気付き、それを自分の作品の中に描いております。そこに出て来る人物のことごとくが最後は破局で終わっている所にそれを表しております。しかし、文学者たちも、いざ自分の事となると、なかなか冷静に行動することが出来ず、その厳しい現実の前に、ノイローゼになるか、さもなければ自殺してしまっています。それほど、私たち人間が持っている問題は恐ろしいほど厳しい問題なのです。ですから、「悔い改めなければ滅びる」ことを前回の箇所で教えられた文脈の中で、主イエスが語られたのが、今日学ぼうとしている箇所のたとえ話であるということを心得て、この個所を学んでいく必要があると思います。
ある人が自分のぶどう園に、いちじくの木を植えたのですが、さっぱり実が成らないのです。普通三年も経てば、実が成るものだそうですが。ここでよく考えて見なければならないことがあります。このぶどう園の番人は、三年の間、このいちじくの木の世話を一生懸命やってきたのです。しかし、実が成らないのであれば、自分が今まで三年間やってきた努力はすべて無駄骨であったので、もう切り倒しても結構ですと言っているのではありません。むしろ逆なのです。今まで、三年間もやってきたけれども実が成らないこのいちじくの木をもう一度、面倒を見させてほしいと言っているのです。これはたとえですから、ただ単にぶどう園の主人や番人の話だけのことではありません。主イエスがここで語っておられるのは、それを聞いている人々、つまり滅びに向ってまっしぐらに進んで生きている人々のことなのです。ぶどう園にいちじくの木を植えたのは、天の父である神であり、番人として、いちじくの木の面倒を見ているのは、主イエス・キリストのことです。そういうわけで「主が忍耐して待っていてくださるのは、私たちが悔い改めて救われるためである」(第二ペテロ3:15)ということをよく覚えることが必要です。このことが本当に分った時、神の大きな憐れみと忍耐が私たちの心に強く押し迫ってまいります。その時、素直に自分の罪を認め、神に背を向けて歩んでいたところから方向転換をし、神を仰ぎ、神に従っていく信仰生活に入ることが出来るわけです。
それでは実を結ぶとはどういうことでしょうか。いろいろな表現が聖書にはあります。伝道の実を結ぶという場合もあります。しかし、ここではそういう意味で言っておられるのではないでしょう。ここで語られた実として自然に受け入れられるものは聖霊の実を結ぶということではないでしょうか。「それは、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、忠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22-23)です。もし私たちがここに言われている九つの実を一つも結んでいないとしたら、私たちは実の成らないいちじくの木ということになりはしないでしょうか。
私たちが悔い改めなければならないのは、主イエス・キリストがこれほどまでに愛と憐れみを持って、私たちの事を考え、私たちの面倒を見てくださっているからなのです。
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今週もハレルヤお待たせしました♪
今週、リフォーム中で暮らしていたアパートから戻ります。
これで少し落ち着いて、御言葉の要約を挽回?できそうです。
訪問してくださっている方々の上に、神様の豊かな祝福がありますように。
2015/10/11(日) 午後 4:46 [ misagospel ]