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90 悩み、苦しんでいる人の友 ルカの福音書14章1-6節 2015/12/20
ある安息日に、イエスが食事をしようとして、パリサイ派の指導者の家に入られた時、人々がイエスの様子をじっと伺っていた。ちょうどそこに、水腫を煩っている人がイエスの真正面にいた。イエスは律法学者やパリサイ派の人たちに向い、先手を打って、こう言われた。「安息日に病気を治すことは、許されていることでしょうか。それとも、許されていないことでしょうか。」彼らは黙っていた。そこでイエスはその人を抱いて治してやり、そしてお帰しになった。それから、彼らに言われた。「もしあなたがたの中で、自分の息子や牛が井戸に落ちたとしたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるでしょうか。」彼らはこれに対して返答できなかった。
今日私たちが学ぼうとしている箇所には水種を煩っている人が登場してきます。水種というのはむくみのことで、重い病のために、顔や上下肢に水がたまり、歩くことができないほどの症状で、当時、水腫は不道徳なことをしたことへの神からの罰であると律法学者たちは考えておりました。ですから、この方は大きな悩み、苦しみの中にあったに相違ありません。
ところで、1節にあるのは、主イエスは安息日に会堂に行って礼拝をささげられ、そこで説教をされ、その後、その会堂を管理していたパリサイ派の指導者が、主イエスと自分の家に招いて食事を共にしようとしたのかもしれません。
「イエスをねらい、いろいろなことについて、しつこく問い詰めて、イエスの語られる言葉から何かを捕えて、言い掛りをつけようと」していた律法学者やパリサイ派の人たちの動機が聖書に記されているように、わざと水腫の人をイエスの正面に座らせたのかもしれません。もてなすために招いたか、どういう意図かは、主イエスは3節にあるように、彼らの心を見抜いて言われました。
旧約聖書のモーセの律法には「安息日を覚えて、これを特別な日として、聖く過ごしなさい。六日間は働く日であるから、この日に働きなさい。七日目は主である神のために過ごす安息の日であるから、ほかの日のように働いてはならない。あなたの家族を皆、これを守りなさい」(出エジプト記20:8-10)と教えられています。安息日であっても、食事はしなければなりませんし、歩かなくてはなりません。医療行為に関しても、治療してよい制限もあります。そのため細かな規則を作り、それを守っていれば、旧約聖書の律法を守ることになると教え、パリサイ派の人々はそれを堅く守りました。しかし、水腫を患い、悩んでいる人の悩みを共にするという、聖書の教えの精神に近いことに関しては、彼らは考えようとはしませんでした。ですから、主イエスは先手を打って彼らに質問をされたのです。
主イエスはパリサイ派の人たちとの論争に水種の人を巻き込むことをさけ、抱いて治し、人々から嫌がられていたその人を受け入れ、その悩みから解放しておやりになったのです。
主は5節で言われました。安息日でも自分の息子や牛を助けても良いのです。パリサイ派の人たちは、安息日に病気を癒せば、律法に違反することになること、しかしながら、治してはいけないと答えると自分たちの隣人の苦しみを見殺しにすることになり、どちらを答えても考え方の矛盾を指摘されているのがわかり、だれも返答出来なかったのです。 ほかの人には厳しいことを要求しながら、自分のことになると、その厳しいレベルをゆるめて、抜け道を作る彼らの偽善を主イエスは突いておられます。
どんなに熱心に信仰世活をしていても、悩んでいる人、苦しんでいる人の悩み、苦しみが一向に自分の悩み、苦しみになっていない人、それはパリサイ派の人たちと少しも変りはありません。主イエスの弟子は主イエスと同じ視点に立ってものを見、考える人であるはずです。主イエスは今現に悩み、苦しんでいる人々の友と成ってくださいます。主イエスがあなたの心を通してその人をあわれみ、その人の悩み、苦しみを担って下さることを祈り求めようではありませんか。主はあなたを待っています。
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だいぶご無沙汰してしまいすみません。
クリスマスのお祝いの時ではありますが・^^
続けて講解説教になっております。
毎週日曜学校が続いていたり感謝が多く、
昨日もクリスマスゴスペルコンサートも
大成功でした。
良いクリスマスシーズンをお過ごしください。
2015/12/20(日) 午後 7:25 [ misagospel ]