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97 探し求められる神 ルカの福音書15章8節-10節 2016/06/05
「また、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしそのうちの一枚を無くしてしまったら、明かりを付け、家中を掃いて、見付けるまでは注意深く探し求めないでしょうか。そして見付けたら、友達や近所の人達を呼び集め、『無くした銀貨を見付けましたから、私と一緒に喜んでください』と言わないでしょうか。よく聞いておきなさい。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、天のお父様はどんなに喜ばれることでしょう。」
私たちは自分のことを一番に思っていませんか。その証拠に集合写真など、自分が目をつぶっていたり、よく写っていなかったりすれば、悪い写真で、自分がよく写っている良い写真を保存するのではないでしょうか。つまり誰でも自分についてはとても関心を持っています。無関心のように装っていても、心の奥深いところでは、自分が一番なのです。
主イエスも私たちに対して絶大な関心をもっておられます。私たちが、立派だからとか、どれだけの功績を挙げたからではなく、私たちを一人の人間として関心を寄せてくださいます。今日主が教えようとしておられることは極めて重要で、取税人や罪人たちを迎えて、一緒に食事をされたときの二番目のものです。
当時の銀貨一枚は労働者の一日の給料に当たるそうですから、銀貨十枚というのは、半月分の生活費にも達しないわずかなものです。もしもこの銀貨十枚が彼女の全財産だとしたら、彼女は明かりを付け、家中を掃いて、見つけるまで熱心に探し求めなければなりません。
ここで教えられるのは、私たちの罪を犯した人間というのは、ちょうどこのなくなった銀貨のようなものだということです。銀貨一枚は、それほど価値のあるものではありません。しかし持主の女の人の手にあれば、それなりの価値があります。しかし、女の人の手から離れてしまったら、全く無価値であると言ってよいでしょう。私達人間も、造り主である神から離れた罪人失われた存在。この世的にはいくらキャリアを持ち、業績を挙げていても、神から離れていたのでは、無価値な者なのです。この女の人は熱心に銀貨一枚を探し求めました。神が私達失われた存在である罪人を探し求められるのも同じです。
この女の人は、その無くしてしまった銀貨一枚を見付けた時、友達や近所の人たちを呼び集めて、私と一緒に喜んでくださいと言います。つまり神はご自分お一人で、私たちを探し求め、見つけ、救ってくださった時、多くの人々にその喜びを分かち合われるのです。救いの御業は神だけのもの、しかし喜びはすべての人のものなのです。
ところで、主が語られたこのたとえの契機は、取税人か罪人を迎えて、一緒に食事をされた時、それを見ていたパリサイ派や律法学者の人達がつぶやいたことでした。つまり彼らの考えでは喜ぶことのできるのは、自分たちだけであって、取税人や罪人には資格がないと考えていました。(すべての人に喜んでもらいたいという点については三番目のたとえで具体的に語られています。)
自分がある種の人々を毛嫌いし、パリサイ派の人達と同じであったということに気付かされ、悔い改める人もいるのではないかと思います。又、見つけ出された銀貨とは自分のことなのだと感謝すると思います。造り主である父なる神様の身元に行き、その父の喜びをわが喜びとさせていただき、神の愛に満たされて、今までの自分の価値観から解放され、神の国の価値観で判断し、主にあって互いに愛し合おうではありませんか。
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かなりご無沙汰しています。すみません。
2016/6/5(日) 午後 3:53 [ misagospel ]