〜ゴスペルに触れてみよう〜

病があってもゆっくり生きよう〜主はすべての病を癒される(詩篇)〜

聖書

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全世界ナンバーワンベストセラーの聖書。

聖書をお持ちでない方は、なかなか御言葉(神のことば)を目にする機会が少ないですね。


どんな事をいっているのか難しい部分もありますが、一言聖書の講解(羊群社 尾山令仁師)から一週間に一度、要約したものをアップしたいと思います。

詳しく聖書を知りたい方はお近くのプロテスタントの教会へ尋ねてみてください。
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108 神の御前での真実な祈り ルカの福音書18章9-14節 2016/09/18

 自分は神を敬う者であると自任し、ほかの人々を見下している人たちに対して、イエスは次のようなたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に行きました。そのうち、一人はパリサイ派の人で、もう一人は取税人でした。パリサイ派の人は、立って、自分自身に向ってこんな祈りをしました。『神様。どうぞ間違わないでください。私はほかの人々のように、ゆすり取ったり、不正をしたり、姦淫をしたりしませんし、ことに、あそこで祈っている取税人のような者ではございません。そのことを、感謝いたします。また、私は一週のうち二度も断食をしておりますし、全収入の十分の一を献金しております。そういう者でございます。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けることもできず、うなだれたまま、自分の胸をたたいてこう言いました。『神様。このような罪人の私をあわれんでください。』彼にはこれしか祈れなかったのです。ところで、あなたがたに言っておきますが、神様に受け入れられて家に帰って行ったのは、この取税人であって、あのパリサイ派の人ではありませんでした。だれでも自分を価値ある者と思って高ぶる者はいやしめられ、自分をつまらぬ者と思ってへりくだる者は、神様から誉を受けるようになります。」
 
 祈りというのは、神との会話であり、神との交わりです。ところが、うっかりすると、神よりもほかの事、人などが気になり、神の御前にいるという意識が稀薄になって、独り言の祈りになりかねません。ここで主イエスが本当の祈りとはどういうものなのかということを教えておられるので、自分の祈りがどのようなものであるかとチェックしたいと思います。
 
 このたとえでは、二人の人が祈るために神殿に行きました。一人はパリサイ派の人であり、もう一人は取税人でした。パリサイ派の人は立って祈りました。ユダヤ人はよく立って祈りましたから、立って祈ることが傲慢であるとか、間違っていたわけではありません。ところが、彼は「自分自身に向って」祈っていたのです。つまり神に向かって語っておらず、独り言であったのです。しかし、彼だけを笑うことはできません。私たちの祈りも、神に向って語っているような言い方をしてはいますが、神の臨在を意識することなしに自分の言いたいこと言っているにすぎないことが多いのではないでしょうか。彼が独り言の祈りをしていたということは彼が神の御前に出ながら、ほかの人と自分を比較していたことを表している内容から、よく分かると思います。
 
 しかし、私達もうっかりすると、あのパリサイ派の人と同様に、「あの人はしばしば礼拝を休むけれども、自分は礼拝を休んだことがない」とか、「あの人は自分よりも多くの収入があるのにわずかな献金しかしていないが、私は誰よりも多くの献金をしている」など、心の中でほかの人を裁いていることがしばしばです。そして、あのパリサイ派の人と全く同じやり方で、感謝の祈りを捧げたりすることはないでしょうか。
 
 パリサイ派の人の祈りに対し、取税人の方は、遠くの方にいて、目を天に向けることもできず、うなだれたまま、自分の胸をたたきながら、弱々しい祈りを捧げました。しかし、これは彼の真実な告白であり、懇願であったのです。彼は、聖い神の御前に、顔をあげることもできず、惨めな罪人である自分を自覚していました。神の憐みがなければ何一つ出来ないことを知っていたのです。祈りにおいて何よりも大切なことは、私たち側の心の姿勢です。神の御前にありのままの姿で出ること、それこそ砕かれた魂です。
 
 主がこのたとえで教えようとしておられるのは、「自分は神を敬う人であると自任し、ほかの人々を見下している人たちに対して」でした。このことからわかることは、取税人はゆすりや不正、姦淫を平気で行う特徴がありましたが、敬虔で成熟している信仰生活をしていても、このパリサイ派のように立派に見えるだけの信仰生活だとしたならば、もちろん心の中をご覧になる神の評価は別であるということです。信仰とは何よりも神の御前にへりくだることです。神を神とも思わなくなったら、もうおしまいです。ですから、神の御前にへりくだりたいと思います。『神様。このような罪人の私をあわれんでください。』

103 生きた本当の信仰とは ルカによる福音書17章5-10節 2016/08/14

それを聞いた使徒たちは主に言った。「先生のおっしゃることを伺っていましたら、今の信仰では到底駄目ですから、私たちの信仰をもっと強くしてください。」する(6)と、主は言われた。「信仰において大事なことは、強いか弱いか、大きいか小さいかということではなく、生きた本当の信仰です。たとい小さな信仰でも、本当の信仰であれば、不可能なことは何もありません。それ(7)を一つのたとえでお話ししましょう。あなた方の中に、しもべを持っている人がいたとして、そのしもべが畑から仕事を終えて帰って来た時、主人そのしもべに『さあ、ここに来て、食事をしてください』などと言って、もてなすでしょうか。かえって(8)、『私の食事の支度をしてくれ。そして、私が食事を終わるまで、そこにいて給仕をしなさい。その後で、自分の食事をするように』とは言わないでしょうか。そして(9)、しもべがそうしたからと言って、主人がお礼などを言うでしょうか。あなた方も同じです。自分がしなければならないことを、全部してしまった時、『私どもはつまらぬしもべです。なすべきことをしただけです。』と言うではないでしょうか。神様が私たちのすべてを支配する主権者であって、私たちはしもべに過ぎないのだということを信じるところに、生きた本当の信仰があるのです。」


私たちはとかく信仰の強さ、大きさを問題にしがちです。すぐに疑ったりする信仰は確かに弱く、小さな信仰であるかもしれません。しかし、主が六節で答えられたように、それが生きた本当の信仰であれば不可能に見えることも可能になります。というのは、信仰というのは、電気で言えば、電線のようなものです。電線には何の力もありませんが、その電線が電源につながっているならば、明るい光をともしたり、モーターを回転させたり、瞬時にこちらの画像や文字、音声が遠い海のかなたにまで届くのです。これは、電線が電源につながっている時、電源から来る驚くべき力によるものです。それと同じように、信仰それ自体に力があるのではありませんが、信仰とは力の源である神につながることですから、その力の源である神から流れてくる驚くべき力が、私達を通して働くのです。
 
主イエスの直弟子たちだけでなく、今日の私達も信仰によって驚くべきことをすることができます。パウロは信じる人々のうちに働く驚くべき力を体験的に知るようにと祈っていますが、その力とは実にイエス・キリストを死人の中から復活させた力にほかなりません。(エペソ1:19-20)
 
主イエスは十二弟子の求めに対して、信仰においては、それが本当の信仰であるかどうかが鍵なのだと言われて、一つのたとえをお話になりました。七節〜九節で話されていることは、当時一般に行われていた風景です。主人としもべの関係を描いておられます。ここで「しもべ」とは奴隷のことであって、これが普通でした。このたとえで私達と神との関係をよく説明しておられるわけです。神が造り主であり、絶対主権者であるということが私達人間にとって、最も基本的な神との関係です。
 
私たちは神によって造られた者たちであるだけでなく、神によって罪から救われた者たちです。つまり、神は造り主であると同時に救い主でもあられます。クリスチャンとはキリストに属する者、つまりキリストの奴隷という意味です。クリスチャンはキリストを主と仰ぐその奴隷なのです。罪の鎖から解き放たれ、喜びと感謝にあふれた生活に変えていただいた者たちです。(ヨハネ8:34-36)私達は何とかして主イエス・キリストを喜ばせたいという思いを抱いております。
 
私達クリスチャンが神の奴隷だということをしっかり覚えておかないと、信仰生活において力強い働きができなくなってしまうということです。この力強い働きとは、この文脈で言うならば、自分に対してひどいことをした人を赦す赦しということです。もちろん、多くの人を救いに導く働き、病気をいやしたり、悪霊を追い出したりする働きも力強い働きでしょう。しかし、力強い働きと言う時、とかく見落としがちなことは、自分のうちにある恨み、憎しみの問題の解決です。こういう問題は、生きた本当の信仰による以外に解決することはできません。主イエスがここで言おうとしておられることはそのことです。
 
私達クリスチャンは、主から任された働きを力一杯やりますが、それをしたからと言って誇ることはできません。『私どもはつまらぬしもべです。なすべきことをしただけです。』と言うだけです。その姿もまた生きた本当の信仰を持っている人の姿です。

98 だれをも愛してくださる神 ルカの福音書15章11〜32節 2016/07/10

また言われた。「ある人に二人の息子がおりました。ある時、弟息子が父親に、『お父さんの財産で、いずれ私が頂く分を、今下さい』と言いました。父親は、弟息子にその要求通り分けてやりました。それから、間もなく弟息子は、かねての計画通り、すべてをまとめて、父親の目の届かない遠い所へ行ってしまいました。世間のことを何も知らない弟息子は、親から独立して、自由を勝ち得たとたん、身を放蕩に持ち崩し、持っていたお金を湯水のように使ってしまいました。何もかも使い果たしてしまった時、ちょうどその地方に大ききんが起こって、彼は食べる物も無くなり、全く困り果ててしまいました。それで、その地方の有力者の所に行って、身を寄せたところ、その人はユダヤ人の嫌っている豚飼の仕事を彼に当てがいました。彼はおなかがすいて仕方がなく、豚の餌であるいなご豆で、せめてもの飢えをしのごうとさえ思うほどでしたが、何も彼にくれる人はいませんでした。その時、彼はやっと自分の悪かったことに気付き、心の中でこう考えました。『お父さんの所には、雇い人でさえも食物は有余っているのに、私はここで飢え死にしてしまいそうだ。さあ、立って、お父さんの所へ行き、こう言おう。「お父さん。私は神様に対して罪を犯し、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう私は、お父さんの子供と呼ばれる資格がありません。雇い人の一人にしてください。」』そこで立って、父の家へ向かって行った。ところが、まだ家からずいぶん離れた所まで来た時、あの日以来、ずっと彼を待ちわびていた父親は、遠くから彼を見付け、哀れに思って走り寄り、彼を抱きかかえて、何度も何度も口づけした。弟息子は言った。『お父さん。私は神様に対して罪を犯し、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう私は、お父さんの子供と呼ばれる資格はありません。』そこまで言うと、父親はもうこれ以上は言わせないで、しもべたちにこう言った。『さあ、急いで一番上等な服をもってきて、この子に着せなさい。それから、手には私の子供の印(しるし)として指輪をはめてやりなさい。また足には靴を履かせなさい。また、肥えた子牛をほふってご馳走を作りなさい。そして、みんなでお祝いをしよう。この子は、死んでいたと思っていたのに、生きて帰ってきた。いなくなっていたのに、こうして見付かったのだ。』それから祝宴が始まった。その時、兄息子は畑にいて、それを知らなかった。帰ってきて、家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。彼は家へは入らず、一人のしもべを呼んで、『一体、あれは何事だ』と尋ねると、しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのでございますよ。ご無事でお帰りになったというので、ご主人様が肥えた子牛をほふらせて、祝宴が始まったところでございます。』すると、兄息子は怒ってしまって、家に入ろうともしなかったので、父親が出てきて、いろいろとなだめた。しかし、兄息子は父親にこう言った。『私は何年もの間お父さんに仕えて、一度でも言い付けに背いたことはありませんでした。その私には、友達と楽しめと言って、子山羊一匹も下さったことはなかったではありませんか。それなのに、売春婦たちと一緒になって、あなたの身代を食いつぶして帰ってきたあいつのためには、肥えた子牛をほふってごちそうをするとは、どういうことですか。』すると、父は彼に言った。『お前は、いつも私と一緒にいるではないか。私のものは、みんなお前のものなんだよ。ところが、お前の弟は、死んでいたと思っていたのに、生きて帰って来たのだ。いなくなっていたのに、こうして見付かったのだ。だから、喜び楽しむのは当たり前ではないか。』」


 今日私たちが学ぼうとしている個所は、主イエスが取税人や罪人と呼ばれている人々を迎えて、一緒に食事をしているのを見たパリサイ派の人達や律法学者達がつぶやいた時に語られた三つのたとえ話の最後のものです。パリサイ派というのは、ユダヤ教の中で正統派に属し、律法学者は皆パリサイ派でした。彼らの神観は真の律法を無視し、什一献金、断食、安息日の規定を厳格に守るなどの、外形的律法を強調している所に表され、神の厳しい面だけを見て、難行苦行をすることによって救われ、少しでも律法に反することをすれば罰を加えるお方。神への信頼ではなく、恐れだけの神観でした。しかし主イエスがお示しになった神観は律法学者から軽蔑されていた神から遠い存在、落ちこぼれでも失望落胆しないでもよい、心の休まる恵みの神という神観で、彼らが見落としている重要な面があったわけです。

弟息子の姿は、一人の人間が神から離れ、その罪の結果、みじめな生活をし、そこから悔い改めて、神に立ち返る姿を現し、聴衆の中では、取税人や罪人であった人々の救いを表していると言ってよいでしょう。

ここで使われる『立って、父の家に向かって行く。』の『立って』という言葉は、極めて強い言葉です。固い決意を表す言葉です。それだけではありません。ここで使われている『立って』という言葉は、主イエスがご自分の十字架の死と復活の予告をされた時に使われた『復活する』という言葉なのです。『わたしは必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺されて、三日目に復活します。』(ルカ9:22)この弟息子の取った行動に、主イエスは死んでいたところから生き返った姿を描いておられるわけです。彼が心から悔い改め、父のもとに帰ることを決意すると、彼はすぐさま行動に移っております。自分が悪かったことに気付いたのです。
 

ところで彼が家を出て以来、父親は来る日も来る日も弟息子を思って心を痛めておりました。毎日日が暮れるまで帰ってくるのを待ちわびていたのです。弟息子が父の家に帰ってくる際に、まだ家からはかなり遠くの方にいたのに、走って行って、そのぼろ着をまとい、もう何日もお風呂に入っていない臭い彼を抱きかかえて、何度も何度も口づけをしました。弟息子は心に決めていた口上を一気に言うのですが、父親は最後までは言わせずに、無条件で赦しています。これが天の父である神の赦しの愛なのです。一人の罪人が悔い改めて帰ってくる時、どれほどの喜びを天の父である神がまたれるのかということを示しております。

 ところで、このたとえ話はこれで終わらず、これに続く物語があるところに重要な意味があるのです。これが前の二つのたとえ話と違うところです。

弟が帰ってきたことを喜ぶ祝宴が始まったのですが、兄の方はそのことをまだ知らないで畑にいました。そして家に帰宅するとき、家の中から音楽や踊りの音が聞こえてきました。一体何が起こっているのか、一人のしもべを呼んで尋ねると、家を出た弟が帰ってきたので、ご主人が喜び、祝宴をあげているということでした。兄は弟の帰宅を喜ぶどころか、怒って家の中に入ろうとしなかったので、父親が出てきていろいろとなだめるのですが、それでも、自分はどれだけお父さんに仕えてきたのかと責めるのです。ここで兄が使っている「お父さんに仕えて」きたという言葉は、奴隷として仕えるという意味です。父と共に生活をし、父を一緒に仕事をするのが喜びであったのではなく、しなければいけないからそれをやってきた、いわば、律法の奴隷であったのです。
 
このたとえ話を聞いていたパリサイ派の人達や律法学者たちはどうしたでしょうか。心を刺されて悔い改めたかというと、そうではなく、かえって心をかたくなにし、ついには主イエスを十字架に付けて、殺してしまうのです。もちろん、中には悔い改めた人もいたと思います。しかし、彼らの大部分は、主イエスが語られた神の愛よりも、自分たちの考えが正しいとしたのです。
 私たちはどうでしょか。自分の考えを最後まで押し通しますか。それとも、神の御心を素直に受け入れますか。神は御子イエスを十字架に付けてまで、私たちを愛してくださっています。十字架抜きの神の愛など、聖書のどこにも教えておりません。神は御子の十字架上の死によってのみ、私たちにその愛をはっきり表してくださったのです。
 
弟のように放蕩三昧に身を持ち崩した人達にも、また優等生であった兄のように律法主義的な生き方をしている人たちも共に愛し、悔い改めて神に立ち返ることを天の父である神様はどれほど願っておられることでしょうか。主は今あなたに呼び掛けておられます。

97 探し求められる神 ルカの福音書15章8節-10節 2016/06/05
 
「また、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしそのうちの一枚を無くしてしまったら、明かりを付け、家中を掃いて、見付けるまでは注意深く探し求めないでしょうか。そして見付けたら、友達や近所の人達を呼び集め、『無くした銀貨を見付けましたから、私と一緒に喜んでください』と言わないでしょうか。よく聞いておきなさい。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、天のお父様はどんなに喜ばれることでしょう。」

 私たちは自分のことを一番に思っていませんか。その証拠に集合写真など、自分が目をつぶっていたり、よく写っていなかったりすれば、悪い写真で、自分がよく写っている良い写真を保存するのではないでしょうか。つまり誰でも自分についてはとても関心を持っています。無関心のように装っていても、心の奥深いところでは、自分が一番なのです。
 主イエスも私たちに対して絶大な関心をもっておられます。私たちが、立派だからとか、どれだけの功績を挙げたからではなく、私たちを一人の人間として関心を寄せてくださいます。今日主が教えようとしておられることは極めて重要で、取税人や罪人たちを迎えて、一緒に食事をされたときの二番目のものです。
 当時の銀貨一枚は労働者の一日の給料に当たるそうですから、銀貨十枚というのは、半月分の生活費にも達しないわずかなものです。もしもこの銀貨十枚が彼女の全財産だとしたら、彼女は明かりを付け、家中を掃いて、見つけるまで熱心に探し求めなければなりません。
 ここで教えられるのは、私たちの罪を犯した人間というのは、ちょうどこのなくなった銀貨のようなものだということです。銀貨一枚は、それほど価値のあるものではありません。しかし持主の女の人の手にあれば、それなりの価値があります。しかし、女の人の手から離れてしまったら、全く無価値であると言ってよいでしょう。私達人間も、造り主である神から離れた罪人失われた存在。この世的にはいくらキャリアを持ち、業績を挙げていても、神から離れていたのでは、無価値な者なのです。この女の人は熱心に銀貨一枚を探し求めました。神が私達失われた存在である罪人を探し求められるのも同じです。
この女の人は、その無くしてしまった銀貨一枚を見付けた時、友達や近所の人たちを呼び集めて、私と一緒に喜んでくださいと言います。つまり神はご自分お一人で、私たちを探し求め、見つけ、救ってくださった時、多くの人々にその喜びを分かち合われるのです。救いの御業は神だけのもの、しかし喜びはすべての人のものなのです。
ところで、主が語られたこのたとえの契機は、取税人か罪人を迎えて、一緒に食事をされた時、それを見ていたパリサイ派や律法学者の人達がつぶやいたことでした。つまり彼らの考えでは喜ぶことのできるのは、自分たちだけであって、取税人や罪人には資格がないと考えていました。(すべての人に喜んでもらいたいという点については三番目のたとえで具体的に語られています。)
 自分がある種の人々を毛嫌いし、パリサイ派の人達と同じであったということに気付かされ、悔い改める人もいるのではないかと思います。又、見つけ出された銀貨とは自分のことなのだと感謝すると思います。造り主である父なる神様の身元に行き、その父の喜びをわが喜びとさせていただき、神の愛に満たされて、今までの自分の価値観から解放され、神の国の価値観で判断し、主にあって互いに愛し合おうではありませんか。

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人生にはつらいことがあるかもしれませんが

試練とともに逃れの道をのなえてくださるお方が

支えてくださいます。

そうです。

生きた言葉

聖書の言葉です。

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