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			<title>～ゴスペルに触れてみよう～</title>
			<description>ゴスペル音楽生活・とりなしの祈りの毎日。

訪問してくださった際に、ぜひコメントくださると大変うれしいです。
宜しくお願いいたします。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/misakogospel</link>
			<language>ja</language>
			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
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			<title>～ゴスペルに触れてみよう～</title>
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			<description>ゴスペル音楽生活・とりなしの祈りの毎日。

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		<item>
			<title>108　神の御前での真実な祈り　ルカの福音書18章9-14節　2016/09/18</title>
			<description>108　神の御前での真実な祈り　ルカの福音書18章9-14節　2016/09/18&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　自分は神を敬う者であると自任し、ほかの人々を見下している人たちに対して、イエスは次のようなたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に行きました。そのうち、一人はパリサイ派の人で、もう一人は取税人でした。パリサイ派の人は、立って、自分自身に向ってこんな祈りをしました。『神様。どうぞ間違わないでください。私はほかの人々のように、ゆすり取ったり、不正をしたり、姦淫をしたりしませんし、ことに、あそこで祈っている取税人のような者ではございません。そのことを、感謝いたします。また、私は一週のうち二度も断食をしておりますし、全収入の十分の一を献金しております。そういう者でございます。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けることもできず、うなだれたまま、自分の胸をたたいてこう言いました。『神様。このような罪人の私をあわれんでください。』彼にはこれしか祈れなかったのです。ところで、あなたがたに言っておきますが、神様に受け入れられて家に帰って行ったのは、この取税人であって、あのパリサイ派の人ではありませんでした。だれでも自分を価値ある者と思って高ぶる者はいやしめられ、自分をつまらぬ者と思ってへりくだる者は、神様から誉を受けるようになります。」&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　祈りというのは、神との会話であり、神との交わりです。ところが、うっかりすると、神よりもほかの事、人などが気になり、神の御前にいるという意識が稀薄になって、独り言の祈りになりかねません。ここで主イエスが本当の祈りとはどういうものなのかということを教えておられるので、自分の祈りがどのようなものであるかとチェックしたいと思います。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　このたとえでは、二人の人が祈るために神殿に行きました。一人はパリサイ派の人であり、もう一人は取税人でした。パリサイ派の人は立って祈りました。ユダヤ人はよく立って祈りましたから、立って祈ることが傲慢であるとか、間違っていたわけではありません。ところが、彼は「自分自身に向って」祈っていたのです。つまり神に向かって語っておらず、独り言であったのです。しかし、彼だけを笑うことはできません。私たちの祈りも、神に向って語っているような言い方をしてはいますが、神の臨在を意識することなしに自分の言いたいこと言っているにすぎないことが多いのではないでしょうか。彼が独り言の祈りをしていたということは彼が神の御前に出ながら、ほかの人と自分を比較していたことを表している内容から、よく分かると思います。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　しかし、私達もうっかりすると、あのパリサイ派の人と同様に、「あの人はしばしば礼拝を休むけれども、自分は礼拝を休んだことがない」とか、「あの人は自分よりも多くの収入があるのにわずかな献金しかしていないが、私は誰よりも多くの献金をしている」など、心の中でほかの人を裁いていることがしばしばです。そして、あのパリサイ派の人と全く同じやり方で、感謝の祈りを捧げたりすることはないでしょうか。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　パリサイ派の人の祈りに対し、取税人の方は、遠くの方にいて、目を天に向けることもできず、うなだれたまま、自分の胸をたたきながら、弱々しい祈りを捧げました。しかし、これは彼の真実な告白であり、懇願であったのです。彼は、聖い神の御前に、顔をあげることもできず、惨めな罪人である自分を自覚していました。神の憐みがなければ何一つ出来ないことを知っていたのです。祈りにおいて何よりも大切なことは、私たち側の心の姿勢です。神の御前にありのままの姿で出ること、それこそ砕かれた魂です。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　主がこのたとえで教えようとしておられるのは、「自分は神を敬う人であると自任し、ほかの人々を見下している人たちに対して」でした。このことからわかることは、取税人はゆすりや不正、姦淫を平気で行う特徴がありましたが、敬虔で成熟している信仰生活をしていても、このパリサイ派のように立派に見えるだけの信仰生活だとしたならば、もちろん心の中をご覧になる神の評価は別であるということです。信仰とは何よりも神の御前にへりくだることです。神を神とも思わなくなったら、もうおしまいです。ですから、神の御前にへりくだりたいと思います。『神様。このような罪人の私をあわれんでください。』</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/misakogospel/34374520.html</link>
			<pubDate>Sun, 18 Sep 2016 12:49:15 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>103　生きた本当の信仰とは　ルカによる福音書17章5-10節　2016/08/14</title>
			<description>103　生きた本当の信仰とは　ルカによる福音書17章5-10節　2016/08/14&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それを聞いた使徒たちは主に言った。「先生のおっしゃることを伺っていましたら、今の信仰では到底駄目ですから、私たちの信仰をもっと強くしてください。」する(6)と、主は言われた。「信仰において大事なことは、強いか弱いか、大きいか小さいかということではなく、生きた本当の信仰です。たとい小さな信仰でも、本当の信仰であれば、不可能なことは何もありません。それ(7)を一つのたとえでお話ししましょう。あなた方の中に、しもべを持っている人がいたとして、そのしもべが畑から仕事を終えて帰って来た時、主人そのしもべに『さあ、ここに来て、食事をしてください』などと言って、もてなすでしょうか。かえって(8)、『私の食事の支度をしてくれ。そして、私が食事を終わるまで、そこにいて給仕をしなさい。その後で、自分の食事をするように』とは言わないでしょうか。そして(9)、しもべがそうしたからと言って、主人がお礼などを言うでしょうか。あなた方も同じです。自分がしなければならないことを、全部してしまった時、『私どもはつまらぬしもべです。なすべきことをしただけです。』と言うではないでしょうか。神様が私たちのすべてを支配する主権者であって、私たちはしもべに過ぎないのだということを信じるところに、生きた本当の信仰があるのです。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
 私たちはとかく信仰の強さ、大きさを問題にしがちです。すぐに疑ったりする信仰は確かに弱く、小さな信仰であるかもしれません。しかし、主が六節で答えられたように、それが生きた本当の信仰であれば不可能に見えることも可能になります。というのは、信仰というのは、電気で言えば、電線のようなものです。電線には何の力もありませんが、その電線が電源につながっているならば、明るい光をともしたり、モーターを回転させたり、瞬時にこちらの画像や文字、音声が遠い海のかなたにまで届くのです。これは、電線が電源につながっている時、電源から来る驚くべき力によるものです。それと同じように、信仰それ自体に力があるのではありませんが、信仰とは力の源である神につながることですから、その力の源である神から流れてくる驚くべき力が、私達を通して働くのです。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
 主イエスの直弟子たちだけでなく、今日の私達も信仰によって驚くべきことをすることができます。パウロは信じる人々のうちに働く驚くべき力を体験的に知るようにと祈っていますが、その力とは実にイエス・キリストを死人の中から復活させた力にほかなりません。（エペソ1:19-20）&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
 主イエスは十二弟子の求めに対して、信仰においては、それが本当の信仰であるかどうかが鍵なのだと言われて、一つのたとえをお話になりました。七節～九節で話されていることは、当時一般に行われていた風景です。主人としもべの関係を描いておられます。ここで「しもべ」とは奴隷のことであって、これが普通でした。このたとえで私達と神との関係をよく説明しておられるわけです。神が造り主であり、絶対主権者であるということが私達人間にとって、最も基本的な神との関係です。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
 私たちは神によって造られた者たちであるだけでなく、神によって罪から救われた者たちです。つまり、神は造り主であると同時に救い主でもあられます。クリスチャンとはキリストに属する者、つまりキリストの奴隷という意味です。クリスチャンはキリストを主と仰ぐその奴隷なのです。罪の鎖から解き放たれ、喜びと感謝にあふれた生活に変えていただいた者たちです。（ヨハネ8:34-36）私達は何とかして主イエス・キリストを喜ばせたいという思いを抱いております。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
 私達クリスチャンが神の奴隷だということをしっかり覚えておかないと、信仰生活において力強い働きができなくなってしまうということです。この力強い働きとは、この文脈で言うならば、自分に対してひどいことをした人を赦す赦しということです。もちろん、多くの人を救いに導く働き、病気をいやしたり、悪霊を追い出したりする働きも力強い働きでしょう。しかし、力強い働きと言う時、とかく見落としがちなことは、自分のうちにある恨み、憎しみの問題の解決です。こういう問題は、生きた本当の信仰による以外に解決することはできません。主イエスがここで言おうとしておられることはそのことです。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
 私達クリスチャンは、主から任された働きを力一杯やりますが、それをしたからと言って誇ることはできません。『私どもはつまらぬしもべです。なすべきことをしただけです。』と言うだけです。その姿もまた生きた本当の信仰を持っている人の姿です。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/misakogospel/34323304.html</link>
			<pubDate>Sun, 14 Aug 2016 14:16:02 +0900</pubDate>
			<category>宗教</category>
		</item>
		<item>
			<title>98　だれをも愛してくださる神　ルカの福音書15章11～32節　2016/07/10</title>
			<description>98　だれをも愛してくださる神　ルカの福音書15章11～32節　2016/07/10&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また言われた。「ある人に二人の息子がおりました。ある時、弟息子が父親に、『お父さんの財産で、いずれ私が頂く分を、今下さい』と言いました。父親は、弟息子にその要求通り分けてやりました。それから、間もなく弟息子は、かねての計画通り、すべてをまとめて、父親の目の届かない遠い所へ行ってしまいました。世間のことを何も知らない弟息子は、親から独立して、自由を勝ち得たとたん、身を放蕩に持ち崩し、持っていたお金を湯水のように使ってしまいました。何もかも使い果たしてしまった時、ちょうどその地方に大ききんが起こって、彼は食べる物も無くなり、全く困り果ててしまいました。それで、その地方の有力者の所に行って、身を寄せたところ、その人はユダヤ人の嫌っている豚飼の仕事を彼に当てがいました。彼はおなかがすいて仕方がなく、豚の餌であるいなご豆で、せめてもの飢えをしのごうとさえ思うほどでしたが、何も彼にくれる人はいませんでした。その時、彼はやっと自分の悪かったことに気付き、心の中でこう考えました。『お父さんの所には、雇い人でさえも食物は有余っているのに、私はここで飢え死にしてしまいそうだ。さあ、立って、お父さんの所へ行き、こう言おう。「お父さん。私は神様に対して罪を犯し、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう私は、お父さんの子供と呼ばれる資格がありません。雇い人の一人にしてください。」』そこで立って、父の家へ向かって行った。ところが、まだ家からずいぶん離れた所まで来た時、あの日以来、ずっと彼を待ちわびていた父親は、遠くから彼を見付け、哀れに思って走り寄り、彼を抱きかかえて、何度も何度も口づけした。弟息子は言った。『お父さん。私は神様に対して罪を犯し、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう私は、お父さんの子供と呼ばれる資格はありません。』そこまで言うと、父親はもうこれ以上は言わせないで、しもべたちにこう言った。『さあ、急いで一番上等な服をもってきて、この子に着せなさい。それから、手には私の子供の印（しるし）として指輪をはめてやりなさい。また足には靴を履かせなさい。また、肥えた子牛をほふってご馳走を作りなさい。そして、みんなでお祝いをしよう。この子は、死んでいたと思っていたのに、生きて帰ってきた。いなくなっていたのに、こうして見付かったのだ。』それから祝宴が始まった。その時、兄息子は畑にいて、それを知らなかった。帰ってきて、家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。彼は家へは入らず、一人のしもべを呼んで、『一体、あれは何事だ』と尋ねると、しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのでございますよ。ご無事でお帰りになったというので、ご主人様が肥えた子牛をほふらせて、祝宴が始まったところでございます。』すると、兄息子は怒ってしまって、家に入ろうともしなかったので、父親が出てきて、いろいろとなだめた。しかし、兄息子は父親にこう言った。『私は何年もの間お父さんに仕えて、一度でも言い付けに背いたことはありませんでした。その私には、友達と楽しめと言って、子山羊一匹も下さったことはなかったではありませんか。それなのに、売春婦たちと一緒になって、あなたの身代を食いつぶして帰ってきたあいつのためには、肥えた子牛をほふってごちそうをするとは、どういうことですか。』すると、父は彼に言った。『お前は、いつも私と一緒にいるではないか。私のものは、みんなお前のものなんだよ。ところが、お前の弟は、死んでいたと思っていたのに、生きて帰って来たのだ。いなくなっていたのに、こうして見付かったのだ。だから、喜び楽しむのは当たり前ではないか。』」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　今日私たちが学ぼうとしている個所は、主イエスが取税人や罪人と呼ばれている人々を迎えて、一緒に食事をしているのを見たパリサイ派の人達や律法学者達がつぶやいた時に語られた三つのたとえ話の最後のものです。パリサイ派というのは、ユダヤ教の中で正統派に属し、律法学者は皆パリサイ派でした。彼らの神観は真の律法を無視し、什一献金、断食、安息日の規定を厳格に守るなどの、外形的律法を強調している所に表され、神の厳しい面だけを見て、難行苦行をすることによって救われ、少しでも律法に反することをすれば罰を加えるお方。神への信頼ではなく、恐れだけの神観でした。しかし主イエスがお示しになった神観は律法学者から軽蔑されていた神から遠い存在、落ちこぼれでも失望落胆しないでもよい、心の休まる恵みの神という神観で、彼らが見落としている重要な面があったわけです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 弟息子の姿は、一人の人間が神から離れ、その罪の結果、みじめな生活をし、そこから悔い改めて、神に立ち返る姿を現し、聴衆の中では、取税人や罪人であった人々の救いを表していると言ってよいでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 ここで使われる『立って、父の家に向かって行く。』の『立って』という言葉は、極めて強い言葉です。固い決意を表す言葉です。それだけではありません。ここで使われている『立って』という言葉は、主イエスがご自分の十字架の死と復活の予告をされた時に使われた『復活する』という言葉なのです。『わたしは必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺されて、三日目に復活します。』（ルカ9：22）この弟息子の取った行動に、主イエスは死んでいたところから生き返った姿を描いておられるわけです。彼が心から悔い改め、父のもとに帰ることを決意すると、彼はすぐさま行動に移っております。自分が悪かったことに気付いたのです。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 ところで彼が家を出て以来、父親は来る日も来る日も弟息子を思って心を痛めておりました。毎日日が暮れるまで帰ってくるのを待ちわびていたのです。弟息子が父の家に帰ってくる際に、まだ家からはかなり遠くの方にいたのに、走って行って、そのぼろ着をまとい、もう何日もお風呂に入っていない臭い彼を抱きかかえて、何度も何度も口づけをしました。弟息子は心に決めていた口上を一気に言うのですが、父親は最後までは言わせずに、無条件で赦しています。これが天の父である神の赦しの愛なのです。一人の罪人が悔い改めて帰ってくる時、どれほどの喜びを天の父である神がまたれるのかということを示しております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ところで、このたとえ話はこれで終わらず、これに続く物語があるところに重要な意味があるのです。これが前の二つのたとえ話と違うところです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 弟が帰ってきたことを喜ぶ祝宴が始まったのですが、兄の方はそのことをまだ知らないで畑にいました。そして家に帰宅するとき、家の中から音楽や踊りの音が聞こえてきました。一体何が起こっているのか、一人のしもべを呼んで尋ねると、家を出た弟が帰ってきたので、ご主人が喜び、祝宴をあげているということでした。兄は弟の帰宅を喜ぶどころか、怒って家の中に入ろうとしなかったので、父親が出てきていろいろとなだめるのですが、それでも、自分はどれだけお父さんに仕えてきたのかと責めるのです。ここで兄が使っている「お父さんに仕えて」きたという言葉は、奴隷として仕えるという意味です。父と共に生活をし、父を一緒に仕事をするのが喜びであったのではなく、しなければいけないからそれをやってきた、いわば、律法の奴隷であったのです。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
 このたとえ話を聞いていたパリサイ派の人達や律法学者たちはどうしたでしょうか。心を刺されて悔い改めたかというと、そうではなく、かえって心をかたくなにし、ついには主イエスを十字架に付けて、殺してしまうのです。もちろん、中には悔い改めた人もいたと思います。しかし、彼らの大部分は、主イエスが語られた神の愛よりも、自分たちの考えが正しいとしたのです。&lt;br /&gt;
　私たちはどうでしょか。自分の考えを最後まで押し通しますか。それとも、神の御心を素直に受け入れますか。神は御子イエスを十字架に付けてまで、私たちを愛してくださっています。十字架抜きの神の愛など、聖書のどこにも教えておりません。神は御子の十字架上の死によってのみ、私たちにその愛をはっきり表してくださったのです。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
 弟のように放蕩三昧に身を持ち崩した人達にも、また優等生であった兄のように律法主義的な生き方をしている人たちも共に愛し、悔い改めて神に立ち返ることを天の父である神様はどれほど願っておられることでしょうか。主は今あなたに呼び掛けておられます。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/misakogospel/34270663.html</link>
			<pubDate>Sun, 10 Jul 2016 15:39:48 +0900</pubDate>
			<category>宗教</category>
		</item>
		<item>
			<title>97　探し求められる神　ルカの福音書15章8節-10節　2016/06/05</title>
			<description>97　探し求められる神　ルカの福音書15章8節-10節　2016/06/05&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
「また、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしそのうちの一枚を無くしてしまったら、明かりを付け、家中を掃いて、見付けるまでは注意深く探し求めないでしょうか。そして見付けたら、友達や近所の人達を呼び集め、『無くした銀貨を見付けましたから、私と一緒に喜んでください』と言わないでしょうか。よく聞いておきなさい。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、天のお父様はどんなに喜ばれることでしょう。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　私たちは自分のことを一番に思っていませんか。その証拠に集合写真など、自分が目をつぶっていたり、よく写っていなかったりすれば、悪い写真で、自分がよく写っている良い写真を保存するのではないでしょうか。つまり誰でも自分についてはとても関心を持っています。無関心のように装っていても、心の奥深いところでは、自分が一番なのです。&lt;br /&gt;
　主イエスも私たちに対して絶大な関心をもっておられます。私たちが、立派だからとか、どれだけの功績を挙げたからではなく、私たちを一人の人間として関心を寄せてくださいます。今日主が教えようとしておられることは極めて重要で、取税人や罪人たちを迎えて、一緒に食事をされたときの二番目のものです。&lt;br /&gt;
　当時の銀貨一枚は労働者の一日の給料に当たるそうですから、銀貨十枚というのは、半月分の生活費にも達しないわずかなものです。もしもこの銀貨十枚が彼女の全財産だとしたら、彼女は明かりを付け、家中を掃いて、見つけるまで熱心に探し求めなければなりません。&lt;br /&gt;
　ここで教えられるのは、私たちの罪を犯した人間というのは、ちょうどこのなくなった銀貨のようなものだということです。銀貨一枚は、それほど価値のあるものではありません。しかし持主の女の人の手にあれば、それなりの価値があります。しかし、女の人の手から離れてしまったら、全く無価値であると言ってよいでしょう。私達人間も、造り主である神から離れた罪人失われた存在。この世的にはいくらキャリアを持ち、業績を挙げていても、神から離れていたのでは、無価値な者なのです。この女の人は熱心に銀貨一枚を探し求めました。神が私達失われた存在である罪人を探し求められるのも同じです。&lt;br /&gt;
この女の人は、その無くしてしまった銀貨一枚を見付けた時、友達や近所の人たちを呼び集めて、私と一緒に喜んでくださいと言います。つまり神はご自分お一人で、私たちを探し求め、見つけ、救ってくださった時、多くの人々にその喜びを分かち合われるのです。救いの御業は神だけのもの、しかし喜びはすべての人のものなのです。&lt;br /&gt;
ところで、主が語られたこのたとえの契機は、取税人か罪人を迎えて、一緒に食事をされた時、それを見ていたパリサイ派や律法学者の人達がつぶやいたことでした。つまり彼らの考えでは喜ぶことのできるのは、自分たちだけであって、取税人や罪人には資格がないと考えていました。（すべての人に喜んでもらいたいという点については三番目のたとえで具体的に語られています。）&lt;br /&gt;
　自分がある種の人々を毛嫌いし、パリサイ派の人達と同じであったということに気付かされ、悔い改める人もいるのではないかと思います。又、見つけ出された銀貨とは自分のことなのだと感謝すると思います。造り主である父なる神様の身元に行き、その父の喜びをわが喜びとさせていただき、神の愛に満たされて、今までの自分の価値観から解放され、神の国の価値観で判断し、主にあって互いに愛し合おうではありませんか。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/misakogospel/34211638.html</link>
			<pubDate>Sun, 05 Jun 2016 15:53:20 +0900</pubDate>
			<category>宗教</category>
		</item>
		<item>
			<title>試練の中に会っても絶えず喜びます。</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-1d-d9/misakogospel/folder/94381/27/34110727/img_0?1460268559&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
人生にはつらいことがあるかもしれませんが&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
試練とともに逃れの道をのなえてくださるお方が&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
支えてくださいます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そうです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
生きた言葉&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
聖書の言葉です。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/misakogospel/34110727.html</link>
			<pubDate>Sun, 10 Apr 2016 15:09:19 +0900</pubDate>
			<category>宗教</category>
		</item>
		<item>
			<title>93　神の国への招き　ルカの福音書14章15-24節　2016/01/17</title>
			<description>93　神の国への招き　ルカの福音書14章15-24節　2016/01/17&lt;br /&gt;
イエスと一緒に食事をしていた客の一人が、これを聞いて、イエスにこう言った。「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」すると、イエスはこう言われた。「ある人が盛大な晩餐会を催して、大勢の人を招きました。いよいよその時刻になったので、招いておいた人たちの所へしもべをやり、『さあ、おいでください。もうすっかり準備ができました』と言わせた。ところが、皆同じように断り始めました。最初の人はこう言いました。『畑を買いましたので、見に行って来なければなりません。申訳ありませんが、伺うことができません。』ほかの人はこう言いました。『十頭の牛を飼いましたので、それを試しに行かなければなりません。申訳ありませんが、伺うことができません』また別の人はこう言いました。『結婚しましたので、伺うことができません』この人たちの言い分は、皆断る本当の理由ではなく、行きたくないただの口実に過ぎませんでした。しもべは帰って来て、このことを主人に報告しました。すると、主人は怒って、そのしもべに言いました。『それでは急いで行き、町の大通りや路地に行って、パリサイ派の人からは決して招いてもらえない、貧しい人や、身体障害者や、盲人や、足の不自由な人を、ここに連れて来なさい。』しもべは言いました。『ご主人様。仰せの通りにいたしましたが、まだ席が余っています』主人はしもべに言いました。『どごへでも行って、だれでも構わないから、人々を無理矢理に引っ張って来なさい。よく言っておきますが、招待された人たちの中で、私の晩餐にあずかることのできる人は一人もおりません。』神の国で食事をすることは、確かに幸いなことですが、はたして、その幸いに入れる人はだれなのでしょうか。」&lt;br /&gt;
主がここで語っておられるのは、たとえ話であって、この地上のだれかが招いてくれた晩餐会のことをいっているのではありません。神が私たちを御国に招いてくださっていることを表しております。&lt;br /&gt;
私たちが毎日生活をしている時、自分の生活にかまけて、神の国のことについてどれほど真剣に、また現実的なこととして自覚しているでしょうか。神の国の素晴らしさが本当にわかると、私たちの生活はこの世のことで一喜一憂したりしなくなります。&lt;br /&gt;
　この招かれて断った人たちというのは、ユダヤ人の中のエリートたちのことです。具体的にはパリサイ派やサドカイ派の上の上流階級の人たちです。そこで、その主人は、彼らには決して招いてもらえない人たち、つまり貧しい人や、身体障害者や盲人や足の不自由な人たちを連れて来るようにと言っています。ところがこのたとえ話では、それでも席が一杯にならないため、無理やりにでも引っ張って来るようにと主人が言いました。神は神の国の素晴らしさをすべての人に味わってもらいたいと願っておられます。ですから、遠慮しないで、神の国に人々を連れて来るようにと仰せられているのです。&lt;br /&gt;
　このたとえ話を見て、主イエスは差別主義者であったと言った人がおりました。しかし、三種類の人々を前提とした差別は主イエスがなさったのではなく、当時のユダヤ人とくにユダヤ教の人々がしていた差別でした。しかし、主イエスはそういう差別を無視して、当時、エリートたちから軽蔑されていた人たち、罪人や売春婦の友として彼らの中に入って行かれました。&lt;br /&gt;
　「神の国で食事する」とは聖書によると「子羊の婚宴」のことで、そこでも「子羊の婚宴に招かれた人々は幸いだ」と言われている通り、それがいかにすばらしいものであるかということが分かります。子羊の婚宴とは、子羊によって表されているキリストと教会が晴れて結婚の宴をするということで、これはもちろん象徴的な言い方ですが、神と人が共に住み、私たちの目から、涙をぬぐい取ってくださる素晴らしい幸福な状態を指しております。&lt;br /&gt;
　「食事」とか「婚宴」というのは、すばらしい交わりのことで、そこには死も悲しみも、叫びも、苦しみもありません。今までの呪われた世界はすべて過ぎ去ってしまい、そこには神の祝福だけがあるのです。それが本当であることが分ったら、あなたの生活は変わります。勝利の人生を歩むことができるように、そして、神の国に招かれているということが、自分に対してのことなのだということが分かるために、聖霊の神に祈り求めましょう。聖霊の神によって、天の霊的現実に目が開かれると、確かに永遠の神の国から来る力によって、生きる、生き方がいかに現実で健全なものであるかということが分かるはずです。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/misakogospel/34085648.html</link>
			<pubDate>Sun, 27 Mar 2016 12:53:36 +0900</pubDate>
			<category>宗教</category>
		</item>
		<item>
			<title>ヨハネの福音書読みながら、イースターのこの時を感謝して・・・</title>
			<description>ヨハネの福音書読みながら、&lt;br /&gt;
イースターのこの時を感謝して・・・&lt;br /&gt;
19：26 イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます」と言われた。&lt;br /&gt;
27 それからその弟子に、「そこに、あなたの母がいます」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。&lt;br /&gt;
28 この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。&lt;br /&gt;
29 そこには酸いぶどう酒のいっぱい入った入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。&lt;br /&gt;
30 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。&lt;br /&gt;
31 その日は備え日であったため、ユダヤ人たちは安息日に（その安息日は大いなる日であったので）、死体を十字架の上に残しておかないように、すねを折ってそれを取りのける処置をピラトに願った。&lt;br /&gt;
32 それで、兵士たちが来て、イエスといっしょに十字架につけられた第一の者と、もうひとりの者とのすねを折った。&lt;br /&gt;
33 しかし、イエスのところに来ると、イエスがすでに死んでおられるのを認めたので、そのすねを折らなかった。&lt;br /&gt;
34 しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。&lt;br /&gt;
35 それを目撃した者があかしをしているのである。そのあかしは真実である。その人が、あなたがたにも信じさせるために、真実を話すということをよく知っているのである。&lt;br /&gt;
36 この事が起こったのは、「彼の骨は一つも砕かれない」という聖書のことばが成就するためであった。&lt;br /&gt;
37 また聖書の別のところには、「彼らは自分たちが突き刺した方を見る」と言われているからである。&lt;br /&gt;
38 そのあとで、イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取りかたづけたいとピラトに願った。それで、ピラトは許可を与えた。そこで彼は来て、イエスのからだを取り降ろした。&lt;br /&gt;
39 前に、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た。&lt;br /&gt;
40 そこえ、彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、それを香料といっしょに亜麻布で巻いた。&lt;br /&gt;
41 イエスが十字架につけられた場所に園があって、そのこには、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。&lt;br /&gt;
42 その日がユダヤ人の備え日であったため、墓が近かったので、彼らはイエスをそこに納めた。&lt;br /&gt;
20：1 さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。&lt;br /&gt;
2 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された、もうひとりの弟子とのところに来て、言った。「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」&lt;br /&gt;
3 そこでペテロともうひとりの弟子は外に出て来て、墓のほうへ行った。&lt;br /&gt;
4 ふたりはいっしょに走ったが、もうひとりの弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。&lt;br /&gt;
5 そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見たが、中に入らなかった。&lt;br /&gt;
6 シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓に入り、亜麻布が置いてあって、&lt;br /&gt;
7 イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。&lt;br /&gt;
8 そのとき、先に着いたもうひとりの弟子も入って来た。そして、見て、信じた。&lt;br /&gt;
9 彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。&lt;br /&gt;
10 それで、弟子たちはまた自分のところに帰って行った。&lt;br /&gt;
11 しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。&lt;br /&gt;
12 すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。&lt;br /&gt;
13 彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」&lt;br /&gt;
14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。&lt;br /&gt;
15 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理者だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」&lt;br /&gt;
16 イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ（すなわち、先生）」とイエスに言った。&lt;br /&gt;
17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る』と告げなさい。」&lt;br /&gt;
18 マグダラのマリヤは、行って、「私は主にお目にかかりました」と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。&lt;br /&gt;
19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」&lt;br /&gt;
20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。&lt;br /&gt;
21 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」&lt;br /&gt;
22 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。&lt;br /&gt;
23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」&lt;br /&gt;
24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。&lt;br /&gt;
25 それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手の釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し込んでみなければ、決して信じません」と言った。&lt;br /&gt;
26 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って、「平安があなたがたにあるように」と言われた。&lt;br /&gt;
27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じるものになりなさい。」&lt;br /&gt;
28 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」&lt;br /&gt;
29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」&lt;br /&gt;
30 この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行われた。&lt;br /&gt;
31 しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。&lt;br /&gt;
21：1 この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現された。その現された次第はこうであった。&lt;br /&gt;
2 シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた&lt;br /&gt;
3 シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。&lt;br /&gt;
4 夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。&lt;br /&gt;
5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」&lt;br /&gt;
6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。&lt;br /&gt;
7 そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。&lt;br /&gt;
8 しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。&lt;br /&gt;
9 こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。&lt;br /&gt;
10 イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」&lt;br /&gt;
11 シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた、それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。&lt;br /&gt;
12 イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねる者はいなかった。&lt;br /&gt;
13 イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。&lt;br /&gt;
14 イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現されたのは、すでにこれで三度目である。&lt;br /&gt;
15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」&lt;br /&gt;
16 イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」&lt;br /&gt;
17 イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。&lt;br /&gt;
18 まことに、まことに、あなたに告げます。あんたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」&lt;br /&gt;
19 これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現すかを示して、言われたことであった。こうお話になってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」&lt;br /&gt;
20 ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのを見た。この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右側にいて、「主よ。あなたを裏切る者はだれですか」と言った者である。&lt;br /&gt;
21 ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」&lt;br /&gt;
22 イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」&lt;br /&gt;
23 そこで、その弟子は死なないという話が兄弟たちの間に行き渡った。しかし、イエスはペテロに、その弟子が死なないと言われたのでなく、「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか」と言われたのである。&lt;br /&gt;
24 これらのことについてあかしした者、またこれらのことを書いた者は、その弟子である。そして、私たちは、彼のあかしが真実であることを、知っている。&lt;br /&gt;
25 イエスが行われたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/misakogospel/34085589.html</link>
			<pubDate>Sun, 27 Mar 2016 12:03:04 +0900</pubDate>
			<category>その他祝日、記念日、年中行事</category>
		</item>
		<item>
			<title>92　主が望んでおられる人、教会　</title>
			<description>92　主が望んでおられる人、教会　&lt;br /&gt;
ルカの福音書14章12-14節　2016/03/13&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
二か月前と同じ場所ですが・・・&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、イエスはご自分を招いてくれた人にこう話された。「昼食や夕食に人を招く時、お返しを期待して招いてはいけません。むしろ、お返しなどを期待しないで人を招くようにしなさい。そうすれば、最後の復活の時、神様がそれに報いてくださいます。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 　人がいつでも善行をする時、その見返りを期待するものです。つまり、報いを期待するわけです。報いを期待しないで善行を行うことなどできないのです。そのことをご存じの主イエスは報いを期待することがいけないとは言ってはおりません。問題は誰にその報いを期待しているのかということです。&lt;br /&gt;
 　&lt;br /&gt;
ところで、主イエスは食事に招いてくれたパリサイ派の指導者に対して、このように話しております。「昼食や夕食に人を招く時、お返しを期待して招いてはいけません。むしろ、お返しなどを期待しないで人を招くようにしなさい。」　おそらく、主イエスを食事に招いたパリサイ派の指導者は、主イエスと一緒に、沢山の人を招いたに相違ありません。もしかしたら、その人々のほとんどは、金持、有名人たちで、あったのではないかと思います。それをご覧になった主イエスがお返しを期待しないで、愛の業を行うように言われたわけです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　日本では何か物をもらったら、必ず、お返しをするのが礼儀だという考え方から、お返しをする習慣です。ですから、私たちが、人に愛の業をする時、大抵は、その人からの何らかのお返しを期待してそれをしています。&lt;br /&gt;
 　例えば、ある人のために、随分犠牲を払って色々なことをしてあげたのに、こちらが頼み事をした時、突然豹変し、こちらの頼みを聞いてくれないばかりか、無視し、傲慢な行動をされたら、とたんに「恩知らず」という思いがわき上がり、あれだけのことをしてあげたのにと、心には、その人に恩を売っていたことが後で分ってしまいます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　主イエス・キリストを自分の救い主と信じるなら、その人は救われ、天国へ行くことは確かです。このこととクリスチャンに与えられる報いとは別です。信仰生活において、思いと言葉と行いにおいて何をしたかが正確に評価され、それに対する報いがあります。&lt;br /&gt;
 　主がここで語っておられることは、神が救いに招いておられるのは、パリサイ派の人たち、そして彼らが好むエリート集団だけでなく、さげすまされていた取税人、売春婦たちも含めたあらゆる人なのだということです。&lt;br /&gt;
 　自分と全く違うタイプの人を受け入れることは、気の合った人たち同士のみで、絶えず固まろうとする誘惑に打ち勝ちます。エリート集団であったパリサイ派の人たちの目からは落ちこぼれとも言うべき、貧しい人や身体障害者を拒否していたのを、主が咎められて、彼らを受け入れるようにと言っておられるのを、しっかり受け止めなければならないと思います。いつまでたっても成長しないちっぽけな人間でいるのではなく、主が望んでいらっしゃるのですから、その通りにする信仰をもち、最後の復活の時、大きな報いをいただこうではありませんか。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/misakogospel/34061132.html</link>
			<pubDate>Sun, 13 Mar 2016 14:44:58 +0900</pubDate>
			<category>宗教</category>
		</item>
		<item>
			<title>Jesus Calling&amp;quot;私を愛しなさい”①</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-1d-d9/misakogospel/folder/1121805/38/34037938/img_0?1456648332&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-1d-d9/misakogospel/folder/1121805/38/34037938/img_1?1456648332&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
先日アップした&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
どうして不倫は起こるのか・・・&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なんて&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
タイトルにしてしまいましたが、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
離婚を憎むという表現についても&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本来は、キリストと教会の関係をご存じで&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
聖書的正しい夫婦関係を&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ご存じの方なら納得できると思いますが&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
妻を愛する&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
夫に従う&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
という尊い関係なのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今日は離婚に踏み込む前に&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
聖書の教える結婚について&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして、人の前に立つ者としての配偶者、家族に対しての立場&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
などなどを&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
書き留めたノートをアップしました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
拡大すれば&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
御言葉が読めるでしょう（笑）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
詳しく知りたい方は&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
お近くのキリスト教会へ！</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/misakogospel/34037938.html</link>
			<pubDate>Sun, 28 Feb 2016 17:32:12 +0900</pubDate>
			<category>宗教</category>
		</item>
		<item>
			<title>95　塩の役割を果たす者　ルカの福音書14章34-35節　2016/01/31</title>
			<description>95　塩の役割を果たす者　ルカの福音書14章34-35節　2016/01/31&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「塩は良いものです。しかし、もしその塩が塩気を失ったら、一体何によって、その塩気を取り戻せることが出来るでしょうか。土に肥しにも役立たず、外に投げ捨てられてしまいます、私の弟子も同じことです。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　主イエスはその弟子であるクリスチャンのことを、塩にたとえておられます。今日私たちが学ぼうとしている箇所では、クリスチャンの役割を「塩気」という言い方で教えておられます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　塩が果たす役割を考えてみると、塩気によって腐りやすいものを腐ることから守ってくれます。例えば魚を長く持たせるために、塩漬にしたり、はらわたを取りだして、塩を詰めたりします。そうすると、魚は長く持ちます。その時、塩はどういう風に働くのかと言うと、塩は自分の形をそのままにして存在してはいません。解けるようにして、魚の肉の中に滲み込んでいきます。そうすると塩気によって腐りやすい肉を腐らないようにするのです。又、防腐剤という用途と同時に料理用という用途もあることに気付かされます。料理に、塩気がなければ、味気のない料理になってしまいます。ですから、料理に塩は不可欠です。料理に塩を入れる場合も、決して形をそのままにして存在してはいません。しかし、塩は自分の姿を消しても、塩気として存在し、その役割を果たすのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この世の人々は、家族や自分自身や財産を大事にします。ただ大事にするというだけでなく、自分のものとして、しっかり握っているのです。手放すまいと、しっかり抱えているわけです。しかし、主はそれを自分のためにしっかり握っていたのでは、本当に自分のものとはならないのであって、主のために一度手放さなければならないと教えられました。そうする時、それが、本当に自分のものになるのだと言っておられるわけです。断ちがたい肉親との絆、自分自身との絆、持ち物についての執着心を断ち切る時、主の本当の弟子となることができるのです。そして、その時、それらのものが、本当に生かされるわけです。　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　それでは、クリスチャンが果たすべき使命とは何でしょうか。塩の場合は塩気です。塩気とは何でしょうか。塩が塩気を持っているのは、塩自身のためではありません。むしろほかのもののためです。ですから、クリスチャンが主から与えられた使命とは、自分のために生きるところから、神とほかの人のために生きることです。そこには生まれながらの利己的な自我の死ということがなければなりません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　イスラエルでは、大抵、死海辺りから取れる岩塩を使いました。中には、塩気を失っているものもありました。塩としての役割を果たさないものは道に投げ捨てられ、人々から踏まれる、砂利の代わりにされたのです。もしも主の弟子であるクリスチャンが、使命を果たさなくなったら、、、さあ大変です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　私たちクリスチャンはキリストと共にすでに死んだのです。次のように教えられている通りです。「私の古い自我はキリストがゴルゴダの丘の上に立たれた十字架上で死なれた時、キリストと共に死んでしまった。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのである。今私が肉体を持ってここに生きているのは、私を愛し、私のためにご自分のすべてを捧げてくださった神の御子を信じることによって、生かされているのである。」（ガラテヤ2：20）この事実を信仰によって受け取る時、古い自我に死んだという体験をすることができます。その時、私たちは特別に気張ることなく、古い自我に死に、地の塩としての生き方をすることができるようになるのです。これは自分が一生懸命になるのではなく、信仰によって主がさせてくださるのです。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/misakogospel/34037796.html</link>
			<pubDate>Sun, 28 Feb 2016 16:06:16 +0900</pubDate>
			<category>宗教</category>
		</item>
		</channel>
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