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「友だちをつくろう」 ●新共同訳には「『不正な管理人』のたとえ」と小見出しが付けられていますが、わたしたちは別の小見出しを考えることもできます。「意外な行動をした管理人のたとえ」とか「賢いやり方をした管理人のたとえ」とかというように。イエスさまのたとえに登場する「管理人」は、ずるがしこいというよりも、仕事がややいいかげんだったようです。金持ちの主人の財産をきちんと管理せず、ついに「ムダ遣いしている」と告げ口をされ(1節)、主人から呼び出されてしまします(2節)。「どうなのか」と問う主人。しかし、即刻クビではなく、会計報告をまとめる猶予が与えられました。 ●管理人は、仕事がなくなる可能性に直面し、はじめて真剣に、どうしたらよいか考えます(3節)。そしてひらめいたのは、「クビになったとき自分を迎えてくれる友だちをつくろう!」ということでした(4節)。「それかい!」というツッコミが一斉に聞こえそうです。わたしたちは、まずは主人に土下座でもして謝れよと思います。心を入れ替えて働くと約束すれば主人も許してくれるからと助言したくなります。イエスさまのたとえを聞いていた弟子たちも同じでしょう。 ●しかし、管理人はそんな常識に気づきもしないように、主人に借りがある者たち(おそらく小作人)を呼び、借りている量を減らした数字に書き換えるように言うのです(5〜7節)。思いがけない計らいに小作人たちは大喜びで、主人への感謝にあふれ、管理人の評判もあがったことでしょう。主人は、管理人のやり方を「ほめた」とイエスさまは言われます。主人は皮肉でも何でもなく、「なかなかやるな」とうなったというのでしょう(8節)。 ●イエスさまの他のたとえと同じく、この主人とは神さまであり、管理人とはわたしたちでしょう。神さまはわたしたちが正論を貫くことを求めておられるのではありません。委ねられたものを用いて、人びとが神さまに感謝すること、人と人とがつながることを、喜ばれます。神さまはわたしたちが、道徳ではなく、「信仰に生きる」ことを求めておられるのです。 |
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「神さまの大きな愛」
●この「放蕩息子」の譬え話は、弟が父からの財産をもって家を出てしまうことから始まります。弟は放蕩の挙句、結局、食べることにも困り、どん底に落ちてしまいました。しかし、そのどん底で、彼は父のもとに帰ることを決意したのです。ヤケクソになり、絶望したのではなく、心砕かれ、謙虚になって父のもとへ帰ろうしたのです。ここに悔い改めの姿があります。
●しかしこの譬え話が伝えたいのは、この弟の姿以上に父の姿です。「まだ遠く離れていたのに、息子を見つけて、走り寄り、抱いた」のです。父は家で待っていて、帰って来た弟を赦したのではありません。遠くの弟を見つけて、父の方から走り寄ったのです。父は、ずっと弟を待ち、探し、愛していたのです。
この父とは、神さまです。神さまから離れ、自分勝手に迷い、どん底に落ちても、そこから神さまのもとへ帰ることができます。神さまの方へ向けば、神さまが走り寄って、抱きしめてくださるのです。
●弟が帰り、父が迎えることで、物語はクライマックスとなりますが、物語はなお続きます。兄と父との対話です。兄は、父のそばで、父の言いつけを守って生きてきました。「言いつけに背いたことは、一度もありません。」と言い切っています。
そもそも、この譬え話が語られたのは、イエスさまが徴税人や罪人と一緒におられた時、ファリサイ派の人々や律法学者たちが文句を言い始めたという状況です。この兄とは、神の戒めを誠実に守っていたファリサイ派や律法学者のことです。彼らは、自分のしてきた事に自信を持ち、そして徴税人や罪人を裁き、見下していたのです。しかし、神さまの御心は、弟が帰って来た時、そのことを喜び祝うことでした。兄は、父のそばにいて、言いつけに一度も背いたことがなくても、心は遠く離れていたのです。この兄も、父のもとへ帰るべき一人なのです。
●「帰れや、わが家に♪」この呼びかけに、弟も兄も、そして今、私たち一人一人も招かれています。
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「神の前に豊かになろう」 ●人生には思いどおりにいかないことがままあります。イエスさまのもとにきた「群衆の一人」も、遺産をめぐって問題があり、イエスさまに兄弟に言ってほしいと頼んだのでした。しかし、遺産のことが解決すればそれで人生はいいのでしょうか。何より、遺産問題の解決はイエスさまに求めることなのでしょうか。そんな人に、イエスさまはたとえ話をされます。そこに登場するのは「愚かな金持ち」と呼ばれる人です。この人は、畑が豊作だったので、堅実にこの先何年分をも蓄えられるように大きな倉に建て替えて安心しようとしましたが、その夜いのちが取り上げられる人です。 ●「群衆の一人」と「愚かな金持ち」に共通するのは、この2人ともが人生における「大事な一点」を取り違えていることにあります。愚かな金持ちは、つぶやきの中で(新共同訳では訳出されていませんが)「わたしの作物」「わたしの倉」「わたしの財産」と、「わたしの」を繰り返し、さらには「わたしの魂」とまで言います。自分のものを他の誰にも触らせないという執着をみることができます。それは「群衆の一人」も同じで、父の遺産に自分の分があると思うからこそ、そこに兄弟が触れていることが腹立たしいのです。しかしこれは誤りです。 ●遺産や作物など財産はもちろん、私たちのいのち、私たちの人生は、実に私たち自身の所有物ではないのです。私たちのものと私たちが思うものは、すべて「神さまからお預かりしたもの」であり、本当の所有者は神さまです。そして私たちは、神さまから「たから」「時間」「賜物」を正しく管理するようにと委ねられている「管理者」です。管理者に求められることは、本来の所有者である神さまの意向に沿うように、委ねられているものを正しく用いること。これがスチュワードシップ(よい管理者精神)です。 ●神さまは独り子イエスさまを十字架につけるほどに私たちを愛し、私たちによいものを委ねてくださいます。一切を握りしめるのではなく、神さまを信頼し、手離していくとき、私たちは本当の意味で豊かにされるのです。 |
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「永遠の命を受けるには」 ●この有名な「善いサマリ人」の譬え話は、イエスさまが、一人の律法の専門家との問答において話されたものです。この律法の専門家は、イエスさまの言葉を聴くためではなく、自分の知識をひけらかし、試すために来たのです。そのような「自分を正当化する」ことを、痛烈に批判するために、この譬え話は語られたのです。 ●一人のユダヤ人が、追いはぎに襲われました。祭司が通りかかりました。神を愛し、人を愛することを説く宗教の指導者です。しかし彼は見ていながら、「道の向こう側を通って行った」のです。気にはなりました。しかし、忙しい、時間がない、面倒だったのです。次のレビ人も同じでした。これは他人事ではありません。私たちも、理由を付けて、どれだけ「道の向こう側を通って行って」いるでしょうか。3人目のサマリア人が登場します。サマリア人は混血の民で、ユダや人からは蔑視され、差別されていました。しかしこのサマリア人は、倒れているユダヤ人を憐れに思い、近寄り、助けたのです。 ●イエスさまは、この譬え話で、律法の専門家の常識をひっくり返されたのです。ほんとうに神さまの言葉に生きる、信仰に生きるということは、常識が破られ、生き方がひっくり返るということです。私たちは聖書を読み聞いていますが、いつの間にか自分のものさしを作り、それで人を計り、壁を立て、境界線を引いてしまいます。そしてそれを絶対のものとするのです。しかしそうでなく、私たちのものさしが、イエスさまのものさしに変えられて行かねばならないのです。イエスさまの御心によって、壁が壊され、境界線は越えられて行くのです。 ●この譬え話のサマリア人のように生きることは、確かに難しいことです。しかしまず覚えたいことは、このサマリア人とは、イエスさまのことです。人間のあらゆる罪を越えて、愛を貫いてくださったのはイエスさまであり、それは十字架においてでした。罪のうちに、なお差別し対立する私たちに、十字架のイエスさまは、「行って、あなたも同じようにしなさい!」と、今日も呼びかけておられるのです。 |
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「聞きたい言葉は」 ●ここには2人の人が登場します。一人は「ファリサイ派の人シモン」、もう一人は「罪深い(と呼ばれていた)女」です。ファリサイ派の人とは真面目で社会生活も信仰面でもきちんとした人で、シモンもそうでした。一方、この女性が何ゆえ「罪深い」と呼ばれていたかは不明ですが、多くの人がよしとする価値観からはずれた行いがあったと推察されます(神の前に罪人という意味での罪ではなく、社会通念上の罪)。「罪深い」はいわばレッテルで、彼女は真面目な人からそう見られていた、ということです。そのような女が、自分(シモン)の家に入って来て、客であるイエスさまの後ろから近づき、涙を流し髪で足を拭い、香油を塗った。シモンは、不快極まりない気持ちだったことでしょう。 ●わたしたちは、この2人のどちらに近いでしょう。宗教改革者ルターは言いました。「この女の姿は、教会そのものである」。しかしわたしたちは、得てしてファリサイ派の人シモンのように感じ振舞います。自分の価値観に合うことは正しいと思い、合わないことを「罪」と呼ぶ。一旦不快に感じると、その人のことが我慢ならなくなる。もちろん、人間は多かれ少なかれ、価値観が同じ人同士で集まるものです。そして、得てして教会もそうなりがちです。自分の価値観や自分の好みを、信仰に置き換えて語ろうとしてしまう。「○○する人は信仰が深い」「信仰が本物なら、○○するはず」(○○にはそれぞれの好みが入ります)という言い方で人を評価し、信仰の言葉で裁きさえしてしまうのです。 ●そんなシモンに、イエスさまは言われました。「この人を見ないか」(44節)。この人が本当に低くなって表している信仰を見ないか。自分の価値観や好みで人を判断するのではなく、あなたの前にいるこの人の真実の思いに触れたいと願いなさい。この人を見ないか。教会がつながるただ一点は、イエス・キリストへの信仰です。「あなたの罪は赦された」(48節)というイエスさまの宣言を聞き、そこにともに生かされ、伝えていく。教会は、この主の言葉を、ともに聞くところに立つのです。 |


