イメージ 1

愛媛県内の一色氏は西条一色氏家紋丸に二引き両(丹後系)と松山一色氏家紋丸に3引き両の(知多半島系)の2系統に分かれますが今回は松山一色氏について調査しました。
 
松山市で、一色と名乗れば 「斉院町(さや)の方ですか?」言われる程、斉院町地区には一色性の方が多く見受けられます。
イメージ 2
右側から一色範直公、並んで(中央)が教重公の墓標(西院市営墓地)

一色範直公 尾張国知多郡    伊予松山へ

 松山市斉院町に高家八幡神社という由緒ある神社が御鎮座されている、神社の由緒に天暦元年(947年)山城国加茂斎院に仕えた一色式部太夫氏勝は当地に来り、高家山に八幡大神、加茂大神を勧請した後、地名に斎院の文字を用したとある。

 神社の由緒に天暦元年(947年)この地に来たとあるがこの時期より斉院(さや)地区が加茂神社社領になった時期で一色一族が来たのはずっと後の1500年半ば(室町後期)頃である。

 神社の由緒に出てくる一色氏勝式部大夫とは一色家系譜にある従五位下式部大輔で尾張国荒尾庄木田城居住(現、東海市荒尾で知多半島の根元付近)一色氏勝と同一人物と思われる、彼の子従五位下左衛門太夫一色範直(天正14年1586没)は天文一七年(一五四八)二五歳の時上洛し足利将軍に拝謁従五位下左衛門大夫に任ぜられ義輝将軍に股従し江州(滋賀県)、丹波に奔り同二二年帰洛す。

 弘治三年(一五五七)正月二七日三四才の時、知多の旧領を長子詮勝に譲り上京、加茂神社の斎院大夫となる。

 永禄十年(一五六七)二月、四四歳の時将軍足利義輝の側近の実力者室町末期①梅仙軒霊超の仲介で伊予守河野左京大夫通宣の招きに応じ河野家重臣②垣生加賀守盛周、③来島出雲守通康に迎へられ伊豫に移住、湯築城の西の方桑原将監藤原正広の旧領三五〇貫の地を宛行はれ以後此処に居城を構え斎院太夫と称せられこの地を斎院邑と称すと云う。

 
 
 天正元年(一五七三)垣生加賀守盛周に従ひ地蔵嶽城主大野直行を攻め大功を立てた。天正一三年(一五七三臣秀吉の四国征伐に際しては岳父河野(来島)通康の子来島通総と共に太閤に属し小早川隆景軍の先鋒を勤む。 
 
同年九月河野氏滅亡、天下静穏翌一四年正月二〇日卒去行年六四歳也。
 
  公の内室は来島通康の女(実は養女)範直公伊豫移住の砌り妻に迎へ翌永禄十一年十二月二十日範春を儲け嫡子とす。公死去の年十月六日公の後を追うが如く卒去す。
 

 一色範直の子教重もこの地に留まり湯月城の伊予守護河野家近衆となり温泉郡衆17人内になった(温泉郡とは=現在の松山市、東温市)支配地は現在の斎院、山西町近辺)、これは村上通康の力添えにより河野家家臣として取り立てられたのだろうか?
 
 一色左ヱ門尉教重 墓誌によると河野の代が終わり豊臣、徳川の時代になってからも地頭として足立重信の湯山(石手)川付替え工事等に関わり過酷な労役がこの斎院の人々にも課せられた。

 余談であるが幕末山西村(斉院邑と隣接地)庄屋一色義十郎が藩命にて大可賀新田を見事に完成させた、DNAは脈々と伝わっているようである。

 梅仙軒霊長とは臨済宗大鑑派の僧で足利家義輝、義昭の側近として、関白近衛尚通や足利幕府を結ぶ京都外交の窓口役であり伊豫河野家に対し大きいパイプを持っていた。
 彼の姉は関白近衛尚通室であり霊長はそれらを利用し将軍家や尚通と伊豫河野家の間を取持ち通直、通宣、通直の娘婿村上通康らと多数の書状やり取りがあり京都外交の仲介役としての活動が覗える。
 霊長が足利将軍家に仕えた同僚であった一色範直を伊豫に送り込んだ?意図はいったいなんであったのか?・・・
 其の霊長は河野氏側に立った仲介者として活動していたとみられ後に拗れる伊豫の日吉郡にも河野氏から領地が充てがわれていた。
 足利幕府と河野家との仲介役としてはこの他将軍家を初め有力守護大名、一色氏が守護であった丹後に大きい勢力を持っていた一色藤長、槇島(一色)昭光等の書状が多数残ってる。
 

 垣生加賀守盛周とは、河野家重臣(御家老衆)で斉院町の西側に面した現在の生石町〜北吉田辺りを領地とし垣生山に城があった。最後まで河野家に尽くした人で河野家滅亡後は通直に従属し三原に渡った。

来島通康=河野(村上) 通康、河野氏の重臣。村上水軍の大将。来島城主。 来島通康として知られるが、実際に来島氏を名乗ったのは四男の通総が豊臣秀吉に仕えて以降であり、通康自身が来島氏を名乗った事実はない??。
 娘(養女?)を一色家に2人出している、一人は前出の範直、もう一人は、丹後守護一色義員(壬生川一色氏始祖一色右馬三郎の母)。

 
 ④足立重信の命により一色左ヱ門尉教重の手で行われた湯山川(石手川)の改修工事は逃散者や餓死者まで出る苛酷なものであった、教重自身も約束の下賜り金も下されぬ中私財を抛うって里人を救い挙句の果て教重自身も餓死してしまった。

 この件に関して伝わっているのは足立重信の功績のみである教重公の偉業も史実として記憶に残していきたいものである。
 
 足立重信の命で行った工事に私財を抛って里人を救い餓死した一色教重公は同時代に同じく大飢饉にみまわれた近村の松前筒井村、義農作兵衛が「農は国の本である。種は農の本である。わずかの日生きる自分が食べてしまって来年の種をなくすわけにはいかない」と、言い残して飢え死にしてしまっのと重なって見える!

イメージ 3
一色範直公墓誌
公は大永三年(一五二三)十二月二六日尾張国知多郡知多城主一色式部太夫氏勝の次男として生る。兄は範重と云ふ。天文一七年(一五四八)二五歳の時上洛し足利将軍に拝謁従五位下左衛門大夫に任ぜられ義輝将軍に股従江州(滋賀県)、丹波に奔り同二二年帰洛す。弘治三年(一五五七)正月二七日三四才の時知多の旧領を長子詮勝に譲り上京、加茂神社の斎院大夫となる。永禄十年(一五六七)二月、四四歳の時将軍義昭の側近の実力者梅仙軒霊超の仲介により伊予守河野左京大夫通宣の招きに応じ垣生加賀守盛周、来島出雲守通康等に迎へられ伊豫に移住湯築城の西の方桑原将監藤原正広の旧領三五〇貫の地を宛行はれ以後此処に居城を構え斎院太夫と称せられこの地を斎院邑と称すと云う。天正元年(一五七三)垣生加賀守盛周に従ひ地蔵嶽城主大野直行を攻め大功を立てた。天正一三年(一五七三)豊臣秀吉の四国征伐に際しては岳父通康の子通総と共に太閤に属し小早川隆景軍の先鋒を勤む。同年九月河野氏滅亡、天下静穏翌一四年正月二〇日卒去行年六四歳也。公の内室は来島通康の女(実は養女)範直公伊豫移住の砌り妻に迎へ翌永禄十一年十二月二十日範春を儲け嫡子とす。公死去の年十月六日公の後を追うが如く卒去す。按ずるに当松山の一色氏族は公を似って始祖とす。以来子孫繁衍し戸数四百余りに及ぶ。
イメージ 4
一色左衛門尉教重公 墓誌
一色左衛門尉教重公は、尾張知多郡阿久郷草木城主範直公の三男也弘治三年(一五五七)父に伴われ京都に移り、永禄一〇年(一五六七)伊豫の太守河野通宣の招きに応じ松山に移住し、教重公は湯築城主河野通直の近習旗本となる。即ち温泉群衆の一人也。元亀元年(一五七〇)阿波の三好氏が来襲するに当たり東予に出陣す。天正一三年(一五八五)豊臣秀吉の四国征伐の砌其の代将小早川隆景に攻められ河野通直は降参、遂に河野家は滅亡し終わる。以後教重公は郷士となり斎院邑に隠退す。慶長六年(一六〇一)松前城主加藤嘉明が松山城を築くに当たり石手川を改修し湯山川の跡地を開拓するに際し、代官足立重信の下命により公は里人と共に従事す。然れども工事は難行、そのうえ天候不順にして連年の凶作続き。且つまた約束の下賜り金の交付もなく里人の餓死する者続出、遂に逃散者まで出るに至る。ここに於いて公は、私財を抛って里人を救うこと苦節二十一年余。公自身も遂に力つき寛永元年(一六二四)餓死せり。実に痛恨の極みなり。墓は北斎院町一七八番地の旧居跡に葬る。因に工事は嫡子文左ヱ門、これを引継ぎ寛永十二年(一六三六)ほぼ完成せり。此の年久松定行公、勢州(今の伊勢)桑名より松山藩主として入封す定行公が文ヱ衛門の功を償し録三百石を與え家臣に登用す。文左ヱ門名を田宮と改め忠勤す。公に三男あり。長男は文左ヱ門、次男は伊兵衛。三男は祐山なり。今般墓所移転に当たり公の略歴を誌し以って供養すること如斯也。


 一色右馬三郎重之400年祭が彼の末葉達により愛媛県西条市で計画中である、そこで一色右馬三郎重之公についての云い伝えや史料をまとめてみた。
 
 右馬三郎の御祖は今から約650年位前に清和天皇から出た足利氏の一族(清和源氏)で鎌倉時代に足利泰氏の七男公深(きんぶか)が母方の三河国幡豆郡吉良の庄一色邑で養育され初めて一色姓「一色公深」を名のったのが始りと伝わる。
 
 表舞台にでるのは足利同族の一色党として元弘3年(1333)4月 始祖である公深の長男範氏が弟の頼行、長男直氏、二男範光らを従えて丹波国篠村(現亀岡市)八幡宮で足利高氏(尊氏)の挙兵に参陣して鏑矢を奉献し5月には京の六波羅改めに参戦し勝利してからである。

 
その後、範氏が鎮西総管領に任官し、九州南朝方の菊池氏と戦い戦功を上げる等して室町幕府が発足してからは三管四職の内四職の一つを担い将軍家側近の相伴衆・御供衆等の要職を長らく勤め努め、同時に丹後・若狭・三河・尾張・北伊勢・山城等の守護を兼ねて権勢を誇った。
 
 海の一色」ともよばれて強大な水軍を持ち伊勢湾・若狭湾の海上権確保し経済を保っていました将軍家や管領家の紛争のあおりで同族の違乱、国衆の反乱、隣国との紛争で絶えず戦乱に巻き込まれていき本領は三河であったが近隣諸侯の蚕食を被り、最終領土となる丹後においても隣国の若狭・丹波との争い等が続き緊張が絶えなかった。
 
 (丹後国の事)
 明徳の乱の恩賞として明徳3年申正月14日一色右馬頭満範には丹後国を給わって眉目を施せり。と大乗院日録に記せり。すなわち・・・これが丹後国守護一色氏の始まりです。
 丹後守護は初代満範(ミツノリ) 二代義貫(ヨシツラ) 三代教親(ノリチカ) 四代義直(ヨシタダ) 五代義春(ヨシハル) 六代義秀(ヨシヒデ) 七代義有(ヨシアリ)
八代義清(ヨシキヨ) 九代義員ヨシカズ) 十代義定(ヨシサダ)と天正八年まで180年余り続いた。
 十代五郎義定(ヨシサダ)は織田信長の大名となったが天正十年明智光秀の乱に巻き込まれ切腹した、彼は右馬三郎の兄と伝わる。
 
 天正6年から7年にかけて一色義員が足利義昭に組みしたるを織田信長に嫌疑をかけられ一旦は信長より安堵されていた丹後を長岡藤孝(細川幽斎)と明智光秀に攻められ激しい戦の末敗北し義員は中山城で自刃したと云われる。 
 
 残された一族縁者の長男義定はその後許され信名に2万石を与えられ大名となり弓木城に居て藤孝(幽斎)の娘伊也を娶たが天正十年明智光秀の乱(本能寺の変)に加担した疑いをかけられた、羽柴秀吉に付いた藤孝は類を及ぶのを恐れ娘婿である五郎義定を宮津城内に呼び出し討った。
 
 三男右馬三郎重之は天正八年、母の出里で伊予の外祖父野通泰を頼って、子の重直、重次(6歳の双子)、家臣赤澤某、伊藤嶋之助、佐和小十郎等十余名を連れ、再起をかけて伊予国へ来た。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 1
成相山展望所より天の橋立・宮津市内風景
 
 一色氏が190有余年守護として統治した丹後・丹波国の末期をタイムハンターしてみると其処にいたのは織田信長の家来達であった、戦国一の知将であり主君信長を本能寺で討った明智光秀。
 
 足利家・信長・秀吉・家康とめまぐるしく移り変わる戦国の世を類い希なる才知でくぐり抜けた近世細川家の祖、細川藤孝(幽斎)。
 
 武将、大名として活躍し、現在まで続く肥後細川家の基礎を築いた、細川忠興、妻ガラシャ。
 
 そして最後まで足利将軍家に忠誠を尽くした丹後守護一色義員と藤長。
 
 彼らは元々足利将軍家の家来であって義昭を次の将軍に擁立するべく奔走した仲間であり親戚関係でもあった。
 
  ガラシャは明智光秀の娘であり 細川忠興妻となった 仲人は織田信長であった。
 
  細川藤孝の娘、伊也は一色五郎の妻で仲人は明智光秀である。
 
 このように姻戚関係であるにもかかわらず義昭と信長の対立等により彼らの立場は微妙になり足利家への恩義と一方では織田信長に気に入られなかったら生き残れないという現実のジレンマで苦労したであろうと想像できる。
 
 「天下布武」の名のもとに天皇家から権威を奪おうとした信長を本能寺で討った明智光秀は天皇家を危機から救い国体を存続させたヒーローといっても過言ではない人物ではあるが・・・・
  
 もし「天下分け目の合戦」に細川家が明智に加担いしていれば、もし毛利家が明智に付いていたら秀吉の天下は無く丹後一色家も断絶しなくてすんだのだろうと考えると一色ファンとしては残念でならない。
 
 京の都に近い丹後国・丹波国は色々な意味でも大きな役割を果たしたのであろう。
 
 
イメージ 2
宮津カトリック協会に寄り添うようなガラシャの像
 
 
イメージ 1
                         一色五郎・一色藤長供養塔・碑
 
 全国一色同族会(現在は解散している)が丹後一色氏の聖地である盛林寺境内に建立した 一色五郎・一色藤長供養塔・碑をご紹介します。
 
碑文
 一色氏は三河国幡豆郡吉良庄一色邑の出で・・・・・明徳三年正月山名氏誅伐の勲功により満範が将軍義満より丹後国を拝領して入国した。
 
  以来義貫・教親・義直・義秀・義春・義秀・義有・義清と続き其の後藤長・義員・義辰・五郎等の名が見える。
 一色五郎左京権大夫。 諱は義俊・義有・義定・満信等と伝えられている。
 天正九年二月織田信長が催した天覧京都馬揃えに出馬、同年五月細川藤孝の長女伊也と婚姻、同年八月因幡国鳥取城攻めに参戦した。
 天正十年二月武田勝頼討伐のため、織田信忠に従い信州高遠城攻めに参陣したが同年九月八日宮津城において悲憤の最後をとげ丹後一色氏は一九〇年で滅亡した。
 開山逍室宗柏大和尚五郎に諡して当山に葬る。
 
 一色藤長。
 晴具息。七郎。従五位下。式部少輔。幕府御供衆。奉公衆。号一遊斎。歌人。
 将軍義輝(義藤)に仕えその諱を賜る。
 永禄十一年十月、織田信長、明智光秀、細川藤孝らと義昭を十五代将軍に擁立する。
 爾後、義昭の側近として仕える。
 天正三年信長よりあらためて丹後国を宛行われる。
 文禄五年四月九日歿。享年六十有五才。葬地未詳。
 ここに丹後一色氏滅亡四〇〇年遠忌にあたり、併せ主家に殉じた諸霊の鎮魂を祈念して供養の碑を建立した。
 平成二年五月吉日 大圓山 盛林寺二十世 正覚信良 謹選
 
 
イメージ 2
◎盛林寺とは
  一色氏重臣五家の一つである上宮津城主小倉播磨守の菩提寺として天正五年(1577)宮津大久保谷に創建された。
 小倉氏は天正六年十月、細川氏に敗れて滅んだ。細川氏は天正八年八月、丹後の大名として入国、宮津城をつくった。盛林寺はその庇護を受けた。
 盛林寺が大久保谷から上宮津に移ったのは、慶長八年(1603)で、場所は現在地の南に接する「寺谷」であった。
 当時、細川氏は九州中津(大分県)に移った後であった。 更に現在地に移ったのは貞享二年(1685)であった。
 寺地は山懐に包まれた景勝の地で、この地方の歴史を語る風物や文化財に恵まれている。
イメージ 3
この景色を見ながらご住職様からお話をお聞きしました。
 
イメージ 4
(この写真はパンフレットから)
 曹洞宗 大圓山 盛林寺 
 京都府宮津市喜多六九六
 心洗われる静かなお寺でした。
 
 
 
 
 
 
  
 室町幕府の要職である四職にあり、代々、丹後守護を務めてきた一色家最後の当主一色五郎義定(義俊)は一色義員(義道・重貞)(丹後国9代守護)の嫡男である。
 一色氏は丹後国領主を長岡(細川)、明智に攻め滅ぼされるが信長に反抗した責任をとって自刃した父のお陰で許され信長の2万石大名になった。
 
イメージ 4
「短地地蔵」
 弓木城のすぐ近くに一色五郎義定伝説の「短地地蔵」がある。
 伝説があるので紹介しておきます、昔、弓木の城主一色五郎義俊は田辺(今の舞鶴)の城主細川藤孝の娘と結婚した。三年の後、織田信長に促され上京することになった。途中田辺城に岳父(がくふ)藤孝(幽斎)を訪れるつもりでこの地蔵尊の前を通った。
 突然、地蔵尊は五郎義定を呼び止め、「不吉の相あり、今日の田辺行きは思い止まるように。」と、注意した。短気な五郎義定は振りかえり「何を。」と、いうや否や抜く手も見せず、地蔵尊を袈裟掛けに切った。
 五郎義定は列を正し出発した。田辺城に義父藤孝を訪ねたが、地蔵尊の予言の通りは細川のために謀殺され多数の部下も主人と共に敵刃にたおれた。
 その後、里人等が両断された石地蔵を継ぎ合せて祀ったのが、この短地蔵であるといわれている
 
イメージ 1
イメージ 2
           一色稲荷 一色五郎義定(義俊)自刃の地
 明智光秀の仲介で長岡(幽斎)の娘伊也を娶た五郎義定だったが本能寺の変で明智に付いた疑惑をもたれ長岡の城内(宮津)で自刃した。
 自刃の地には細川氏が怨霊をおそれ稲荷神社を祀った
五郎義定は一色右馬三郎の兄とされている。
 
イメージ 3

 
 宮津の盛林寺に一つの位牌に明智光秀と五郎義定の名が併記されているのを見てきました。
 賞雲源忠大禅門 天正拾壬午9月8日
一色様
※源は一色氏の出である源、忠は信長の子信忠の名をもらったのではないか)
(同一同列)
前一色賞雲源忠大禅門 天正拾壬午9月8日
前日州太守篠鉄光秀大居士 天正壬午6月13日

細川家家譜には義有(五郎)の死骸は菩提所大円山盛林寺に葬り、賞雲と諱すと記されている。

 そして同所にある光秀の首塚は一色五郎の墓ではないかと梅本先生はおっしゃています。

 一緒に写っている即安梅心大禅童子と書かれた位牌は細川藤孝の子「菊童」のものと伝えられている
イメージ 5
           盛林寺 明智光秀首塚 (一色五郎義定の墓と推定する人もいる)
 
天文〜天正時代は丹後欠史の50年と言われ諸説あり確実な事が分からないが伝説は色々と残っている。
 

 

[ すべて表示 ]


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事