|
今回の南九州旅行3日目です。 島津氏の別邸「仙巌園(せんがんえん、別称に磯庭園)」にやってきました。 「仙巌園」は、薩摩藩19代当主「島津光久」によって造園され、その後も改築が重ねられてきました。 「桜島」や「錦江湾」を借景にした素晴らしい景色が広がっています。 幕末には、28代当主「島津斉彬」が敷地の一部を使って、ヨーロッパ式の製鉄所やガラス工場を建設する などの近代化を進めました。 現在の園内に、その遺構などが点在していました。 [[attached(1,center)]] [[attached(2,center)]] [[attached(3,center)]] [[attached(4,center)]] [[attached(5,center)]] [[attached(6,center)]] [[attached(7,center)]] 時折、小雨がぱらつく園内での散策になりましたが、十分満喫しました。 何しろ、スケールが大きい。 そして、緑に囲まれ、実に気持ちがいい。 こんな広い園内を管理する方々の労苦が偲ばれます。 そして、ここでも、クーポン券を使ってこんな所でこんなものを食べました。 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ [[attached(8,center)]] [[attached(9,center)]] 「ぢゃんぼ餅」です。 小さな餅に2本の竹串を刺し、きつね色に焼いてタレをつけたものです。 昔、武士が大小の刀を差しているのを「両棒差し」ということがあったそうです。 「両」は中国語で「りゃん」、それが鹿児島で「ぢゃん」となまったようです。 肝心の味ですが、これが想像をはるかに超えた旨さでした。 タレは、醤油(味噌も??)に砂糖とその他の調味料が入っているとのことでした。 おススメです。 |
鹿児島の風景
[ リスト | 詳細 ]
芋焼酎、温泉、旨いものいっぱい!! 鹿児島は奥が深い!!
|
今回もいくつかの史跡巡りをしました。 鹿児島市内には、実にたくさんの史跡や銅像があります。 私の場合、どうしても「西郷隆盛」と「大久保利通」が中心になってしまいます。 これまでの南九州旅行でいくつかの史跡や銅像は訪れていますが、まだまだ訪れていない所があることに 気がつきました。 今回はそんな中からいくつかをご紹介します。 [[attached(1,center)]] 「西郷隆盛誕生の地」です。 甲突川沿いにあります。 周囲は緑が多く、とても静かでした。 [[attached(2,center)]] 「西郷南洲翁宅地跡」です。 誕生の地である加治屋町の屋敷の後、約10年間、居を構えた地です。 [[attached(3,center)]] 「西郷屋敷跡」の西郷隆盛像です。 「菅臥牛」という、元庄内藩家老と対話している様子を表しています。 「徳の交わり」というのだそうです。 庄内藩は、戊辰戦争の際、官軍に抵抗しましたが、西郷の計らいにより、寛大な処置を得ました。 そのことを感謝するために「菅臥牛」は家臣を伴ってやってきたようです。 西郷と語らい、大いに感化された菅は、その後、「南州翁遺訓」をまとめ、世間に広く西郷の精神を紹介 しました。 [[attached(4,center)]] 「大久保利通誕生の地」です。 明治新政府の中心人物として、最も活躍した人物でありながら、西郷と比べると知名度はあまりないよう です。 西郷と大久保が幼なじみだということはご存じでしょうか。 西郷の生誕の地から歩いて1、2分ほどの地にあります。 幕末、西郷は京で、大久保は鹿児島で、それぞれ倒幕のために活躍しました。 倒幕後、西郷は征韓論に敗れて下野し、やがて西南戦争を起こします。 大久保は政府に残り、新政府を切り盛りし、西南戦争において幼なじみであり、盟友でもあった西郷を討 たなければならなくなりました。 なんという運命でしょうか。 西郷と大久保を考える時、尋常な心持ちではいられなくなります。 [[attached(5,center)]] 「大久保利通像」です。 西千石町の高見橋にあります。 見上げるほど大きな銅像です。 颯爽として実に格好がいいです。 [[attached(6,center)]] 「西郷隆盛洞窟」です。 西郷が最後の5日間を過ごした洞窟です。 西南戦争激戦の地、城山町にあります。 [[attached(7,center)]] 「西郷隆盛終焉の地」です。 1877年9月24日、官軍の2発の銃弾によって腰と大腿部を撃ち抜かれた西郷は、洞窟から300mほどのこの地 で、「別府晋介」の介錯によって亡くなりました。 最後の言葉は「晋どん、もうここらでよか。」だということです。 まだまだ訪れたい地がたくさんあって困ってしまいます。 すでに、次の南九州旅行の構想を練っておりますが、いつになるか、本当に行けるのか、全くわかりませ ん。 追伸:今回の大雨・台風の被害に遭われた南九州の方々が、一日でも早く早く通常の生活に戻れますよ う、お祈り申し上げます。
|
|
「川辺(かわなべ)町界隈」と言いながら、2ヵ所だけの訪問です。 [[attached(1,center)]] まずは、道の駅「川辺やすらぎの里」です。 ここでは、ある芋焼酎を目当てにやってきたのですが、時すでに遅かったようです。 [[attached(2,center)]] 続いて、「高良酒造」さんにやってきました。 とは言いながら、事前連絡もせず、ましてや日曜日の夕刻であったため、外からボーっと見ているだけに しました。 ここで「八幡」や「田倉」、そして「はちまんろかせず」や「古八幡」が造られていると思うと、感無 量でありました。 次回は、必ずや蔵の内部に潜入し、あんなことやこんなことをしちゃおうと思います。 それにしても、のどかで素晴らしい地ですねぃ。
|
2003年の夏、「終戦の日」の前日に訪れました。 「知覧町」には太平洋戦争の末期、「陸軍特攻基地」が置かれました。 戦後、この地を平和の発信地とするために「知覧特攻平和会館」が建設されました。 特攻隊員として戦死した1036名の遺品や遺書や、戦闘機「飛燕(ひえん)」が展示されています。 到着した途端、大いなる違和感が胸にこみ上げてきました。 この違和感はいったいどこからくるのでしょう。 テーマパークを思わせる人混みか、展示品を見る観光客の好奇の眼差しか、神格化された特攻隊員の遺品 か…。 違和感は嫌悪感となり、混乱状態のまま当館を立ち去りました。 平和を、戦争を子々孫々に伝えるという大命題は、世界の共通認識であることは間違いないと思います が、どのように次世代に伝えていくかという方法論については、国家によって大きな差異があることも否 めません。 日本の場合はいかがでしょう。 個人という単位ではいかがでしょう。 深く考えねばならぬことです。 今を生きる私たちは、永遠の命をもっているわけではないのですから。 知覧特攻平和会館
所在地:鹿児島県川辺郡知覧町郡 |
|
江戸時代末期に国禁を犯してイギリスへの留学を果たした17名の銅像です。 実際に留学生は19名だったようですが、2名は他藩士だったため除かれたようです。 昭和57年3月に建てられました。 高さは12.1m(台座部分9.49m)。 見上げるほどの大きさです。 西欧への留学生派遣は、西欧の近代的を学び富国強兵を進めようとした薩摩藩藩主「島津斉彬」の遺志を 継いだ形になりました。 「斉彬」の死から7年、「生麦事件」の報復となった「薩英戦争」の翌年に実現されました。 留学先はその当事国である「イギリス」です。 当時、出国は国禁であったため、全員が変名で呼び合いました。 「琉球出張」の名目で鹿児島を発ったということです。 でも、どれが誰だか、よくわかりません…。 「若き薩摩の群像」
所在地:鹿児島中央駅東口前 |



