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「困難な道こそ」(ルカ13:22−30)
「狭い戸口から入りなさい」という主旨のイエス様の言葉は、今日の箇所とマタイ福音書7章に書かれています。そして戸が閉められた後に主人に向かって開けてくださいと叫ぶ話は、マタイ福音書では山上の説教のほぼ終わりに、語られた教えを総括するような形で書かれています。そちらでは明確に“教えを聞いても実行しない人”が閉め出されているのですが、今日の箇所の言葉では教えの実行に関しては書かれていません。ルカはマタイとは違うメッセージをここで語っているのです。
イエス様に質問した人は、どんな気持ちだったのでしょうか。先週の箇所では、イエス様は平和ではなく分裂をもたらすと言われました。その他にも12章、13章では終末を意識させる言葉が多く書かれています。弟子になって従っていく厳しさ、終末を生きる緊張を聞き、自分は大丈夫だろうかと不安になったのかもしれません。また、今日の箇所の少し前でも、イエス様に病気を癒してもらった女性が大喜びする様子が書かれています。勝手な推測ですが、もしかしたらこの人は大喜びするような経験がない自分は救われていないのではないか、そもそも救いの対象に入っていないのではないかと、心配になったのかもしれません。
イエス様に出会って劇的に人生が変わり、その自覚が信仰生活のスタートだとしたら、もちろんそれは素敵なことだと思います。ですが誰もが皆救われた喜びに満たされたところがスタートでなければならないとしたら、それはなかなかハードルが高いことです。救われた自覚がない人は信仰者ではないかというと、決してそうではありません。信仰生活は、歩みながら深まっていくものです。罪深さの自覚や救いの喜びも、たった一度のことではなく、繰り返し体験していくものです。イエス様は“神の国に入ることを目的に今を生きる”のではなく、“今、神の国を生きること”を説いています。
狭い戸口から入るよう努めるとは、この道に終わりがないことも意味しています。不安を抱えながらも、狭い戸口から入るよう努める。狭い戸口から入り続ける。それは止まらずに前進し続けることでもあるように思います。「これぐらいやったらいいだろう」という人間の計算ではなく、歩み続けていく中に、救いは実現していくのです。(2019.8.25聖霊降臨後第11主日、牧師 市原悠史)
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