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山頭火の妻「咲野」は現周南市和田高瀬の出身で、たまに和田方面に出かけることや、「咲野」という愛らしい名前に、興味を感じていた。ルルサスの防府図書館で『種田山頭火の妻「咲野」』(著者 田村悌夫様)という本を見つけ借りて読んだ。 少し長くなるが、読後感想を書いてみた。 咲野は明治22年5月7日に和田高瀬の佐藤家に生まれる。18才で防府に出、種田家の近所 にあった周南女紅学校に在学中、山頭火の父竹治郎に見初められ親同士の協議で、息子正一 (山頭火)と結婚。竹治郎の道楽放蕩、家業の造り酒屋の切り盛り、やがて倒産、ノイローゼで 女性への思いやりにかける山頭火の相手、子育てなどで、苦しい日々を送った。倒産の機に家 族は大道から熊本に移り住む。咲野32才のときに戸籍上の離婚。38才のときに、山頭火行乞 放浪の旅に熊本を離れる。51才のとき、山頭火松山で死去。のちも種田家をまもり、80才で 病にて波乱に満ちた生涯を閉じる。(昭和43年)法名「寂照院心操貞節大姉」 読みながら思ったこと 1、現在、山頭火は、防府が生んだヒーローのように思っていたが、咲野の献身的な生涯を知り、咲野も現在の山頭火の存在をささえる隠れたヒーローであるといって間違いないと思った。 2、山頭火の句を詠むと、動物、植物、自然などに対するやさしさを感じるが、どうして咲野にも同じ思いやりをもっと発揮しなかったのだろうか、できなかったのだろうか。 3、「嫁しては主人に従え」という古くからある女の美徳を忠実に生き抜いた咲野の精神は、少女期の 和田高瀬での生活が育んだものなのだろうか。そんな生き方が薄れつつある現在であるが、家庭という社会組織の原点が存在しつづける限りその精神が基本であり続けなければならない。のではなかろうか。 4、本の中で、咲野の少女期と晩年の写真を見、名前から想像していたようにやさしそうで美しい人だっ たことを知り少しうれしかった。 5、咲野のお孫さんが祖母咲野のことを語っておられる。「私は大学の四年間、祖母の家でいっしょに生活しました。祖母は勝気な性格ではありましたが、小柄な美人で気品があり、何でも立派にやりこなせる人でした。(途中省略)多分おじいちゃんの方がうとましく感じて出て行ったのでしょう。おばあちゃんはいっしょに住みたかったに違いありません」と。この言葉が咲野の人となりを表すすべてのように思えた。 6、昨年冬、「山頭火の小路」でスケッチしてい たところを近所のおばあさんに声をかけられ、スケッチをプレゼントしたことがあり、その方もこの本の執筆に協力されていたことが書かれていた。 7、山頭火の生き方、咲野の生き方を読み、我が家にもかぶる部分はないか少し反えりみるきっかけを与えられたかもしれない。 (本の文章の一部分を借用させていただきましたことをお断わりいたします) |
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山頭火をもっと知るためにこの本をよんでみようと
思います。山頭火の人生に咲野は多大な影響を与えたかも・・・・咲野を詠んだ句はなかったのでしょうか?
2009/4/23(木) 午前 8:07
ばららさま 咲野を詠んだ句はなかったように思います。いろいろ考えさせられました。
2009/4/23(木) 午前 9:22