「広島の視線 」原爆・ヒロシマ・平和公園・ガイド・花・英語

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ABCCは何をしたか

アメリカはABCCの敷地について、津波の被害が及ばない高い場所である元宇品と比治山を要求したが、広島市は強く反対の意向を伝えました。「どうしても反対すれば、広島市にとっても日本政府にとってもいい結果にはならない。」というGHQの殺し文句で、ABCCは比治山に建てられました。

 ABCCの設立は原爆の人体への影響調査を行なったアメリカ陸軍・海軍の各軍医総監が、マンハッタン計画と協力していた全米アカデミーに対して、当初から計画に入っていた研究の一つとして始められました。研究に際してABCCは以下を前提としました。
 ① 放射線急性死については、アメリカ軍調査委員会が1945年9月初めまでの被爆死を対象としており、194510月から12月までの被爆死は除外していた。
 ②急性障害の症状には、脱毛、紫斑、口内炎、下痢、食欲不振、悪心、嘔吐、発熱、出血があったが、これらは爆心地から4キロから5キロの人にも表れた。しかし、調査委員会はそのうち脱毛、紫斑、口内炎のみを対象とした。具体的には2キロ以内で被爆して、脱毛、紫斑、口内炎の症状が出た人を、優位の放射線被爆者と見て重点対象とした。ということは、2キロ以遠の被爆者や、黒い雨が降った地域の人、早期入市した人を影響を受けなかった「非被爆者」と分類した。
 ③晩発性障害については、調査対象時期を195010月1日以降とした。1950年以前に晩発的原因の白血病、再生不良性貧血などの症状が多数の被爆者にあったが、それらの死亡は対象となっていない。
 ④対象者は広島、長崎在住の被爆者に限定した。爆心地近くで被爆して長く市内に戻れない高線量被爆者を外しているし、他都市へ移動した若者を除外していた。
 結果として、ABCC調査では放射線被爆線量とがん・白血病の発生・死亡がきわめて過少に評価された。ということです。今さら当時の数字は拾えません。放射線の影響について疑問は残ったままです。
(参考資料:放射線被曝の歴史・中川安雄/統計では、放射線必須データ32:田中司郎その他3名)
放影研(旧ABCC)のある比治山 標高70m
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これらのABCCのジープが被爆者の送迎に使われた
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検査を受ける少女
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休館前の原爆資料館ではABCCの説明は次のようになっていました。
原爆の人体への影響を長期的に調べるため、1947年にABCC(原爆障害調査委員会)が広島・長崎両市に設けられました。1951年、市内比治山の高台に移り本格的な施設が整いましたが、市民からは『研究、調査するだけで治療行為をしない』と、その活動を批判する声もありました。1975年に日米対等で管理・運営されることになり、(財)放射線影響研究所(RERF)として改組されました。

占領軍とABCCがどのようなことをしたのかは具体的には書かれていませんので、新聞記事や証言で見てみましょう。

記事
1.ABCCに関する朝日新聞の記事(1998729日付)。
記者(添田孝史)の質問に答えたのは、87年から全米に散らばるABCC関連の文書を探し集め、ABCCの元所員らにインタビューして、被爆者研究の歴史を調べているペンシルベニア大のスーザン・リンディー教授。

Q: ABCCの研究は軍事目的だったのですか。
A: 研究は、核兵器が人類にとってどんな意味を持つかを決めるためのもので、冷戦戦略の一部だった。米国の将来の核戦争に備えるためだったことは疑いの余地がないニューヨークに原爆が落とされたら社会的にどうなるか、人問がどうなるか、というモデルでもあった。

Q: ABCCは調査だけで治療はしないといわれてきました。なぜでしょう。
A: 治療すれば、原爆投下の謝罪につながると考えていたようだ。ABCCは、多い時は千人を超える職員を抱えていた。16万の被爆者を選び、どこでどんな状況で被爆したかを数年かけて一人ひとりにインタビユーし、亡くなった7500人を解剖した。

(記者のコメント)現在も母集団の12万人について、亡くなるたびにその死因を追跡し2万人を2年に1度健康診断する。8万人の被爆二世、そして2800人の胎内被爆者の調査も継続中だ。放射線以外でも、疫学調査としてこれを超える規模のものは世界に存在しない、といわれる。

2.「葬られた原爆展・スミソニアンの抵抗と挫折」(1995年、五月書房)より。
『米国政府は、放射能が多数の人口に及ぼす影響をよりよく理解するため、1947年に米国防総省学士院の後援で原爆傷害調査委員会(ABCC)を発足させた。この委員会は結局12万人の原爆生存者を確認し、その人たちのいた正確な場所と放射線量を確認し、長期にわたって健康状態を調べることになった。この調査委員会は犠牲者に対し治療をしなかったので、日本で厳しく非難された。治療をしないという決定は二つの理由からだった。それは、日本の医者から患者を奪いたくないことと、生存者を治療すれば爆撃した罪を認めることになるからであった。日本人の側からすれば、合衆国政府はこの調査委員会を通し、日本への原爆投下を一つの実験として、生存者をモルモットと見なしているとしか思われなかった

証言
1.深川宗俊氏「広島はたたかう」より(1966年、胎内被爆者・被爆二世を守る会発行)194586日、広島市内の救護所、病院は全滅しました。多数の救護班や救援隊が県内・県外から送られて来ますが、日本の調査団の貴重な調査研究は、すべて米軍の占領軍の命令で没収されました。原爆に関する研究発表も、原爆をテーマにした芸術作品も、919日に米軍が実施したプレスコードで、私信まで検閲されました。
当時宇品にあった原爆救護病院も1014日、米軍メイソン大佐らの手で、それまで行った調査結果の提示を求められ、あらゆる研究資料や剖検材料を没収しました。メイソンらは、それは作戦行動の一部であると脅したのです。アメリカはABCCの敷地について、元宇品と比治山を要求したが、広島市は強く反対の意向を伝えました。「どうしても反対すれば、広島市にとっても日本政府にとってもいい結果にはならない。」というGHQの殺し文句でけりがついたのです。
占領中はこのような殺し文句が大手を振って通ったのです。学校の授業中でも子どもが連れ去られたり、街で遊んでいる子どもにチョコレートなどをばらまいて、ジープに乗せていったりしたのです。それに反すると、軍法会議にかけると脅すのです。ある少女の場合は、一糸まとわぬ裸にされたうえ、前・横から写真を撮られ、それを気にやみ精神異常をきたしたそうです。

2.岡村ヒサさん
私は昭和20年当時、尾長町で産院を開業していました。41歳でした。その頃はまだ家庭分娩が多うございましたが、だんだん少なくなりまして、昭和30年頃には、皆産院に吸収されました。何も記録は持っていませんが、奇形がたくさん出ました。当時はABCCへ、みな報告しなくてはいけないシステムになっていました。奇形が出ましても、報告するのを嫌う人もございましたので、しなかったこともあります。

3.知人の久保浩之さん
妻は的場の電停にいましたが満員で次の電車を待っていて原爆に遭いました。前の電車に乗っていたら助からなかった。その後ABCCが何度も呼びに来て、最後は憲兵(MP)と一緒に来て、強制的に比治山の施設に連れて行かれた。抵抗すると軍法会議にかけると脅され、泣きながら採血され、脊髄液も取られた。また、ABCCは死産した奇形児などの胎児を渡すと、内緒で報酬がもらえた。


4.知人(匿名)
ABCCで死体から脳を取られて、返された子どもの様子を今でも鮮明に覚えている。頭部は目だけが見えるが、他の部分はすべて包帯でグルグル巻きにされて、悲惨な状態だった。


5. 匿名
ある日突然、縁なし眼鏡の二世がジープと共にやってきた。そして、"血を採るだけだ"と言った。私は、"血はあげたくない"と断った。するとその二世は"アナタ、ソンナコトイッテイイノデスカ。グンポウカイギニマワッテモイイノデスカ"と言った。これ以上断れば本当に軍法会議にまわされるかもしれないという恐怖心だけが残った。そして"あした一人で行くから"とこたえていた。
私は広島の生き残りのひとりです。(…中略…)ここで、ひとつ触れたいことは『ABCC』についてです。これは日本でもほとんど知らされていないことですが、戦後広島に進駐してきたアメリカは、すぐに、死の街広島を一望のもとに見下ろす丘の上に『原爆傷害調査委員会』(通称ABCC)を設置して放射能の影響調査に乗り出しました。そして地を這って生きている私たち生存者を連行し、私たちの身体からなけなしの血液を採り、傷やケロイドの写真、成長期の子どもたちの乳房や体毛の発育状態、また、被爆者が死亡するとその臓器の摘出など、さまざまな調査、記録を行ないました。
 
その際私たちは人間としてではなく、単なる調査研究用の物体として扱われました。治療は全く受けませんでした。そればかりでなく、アメリカはそれら調査、記録を独占するために、外部からの広島、長崎への入市を禁止し、国際的支援も妨害し、一切の原爆報道を禁止しました。日本政府もそれに協力しました。こうして私たちは内外から隔離された状態の下で、何の援護も受けず放置され、放射能被害の実験対象として調査、監視、記録をされたのでした。
 
しかもそれは戦争が終わった後で行なわれた事実なのです。私たちは焼け跡の草をむしり、雨水を飲んで飢えをしのぎ、傷は自然治癒にまかせるほかありませんでした。あれから50年、『ABCC』は現在、日米共同の『放射線影響研究所』となっていますが、私たちはいまも追跡調査をされています。このように原爆は人体実験であり、戦後のアメリカの利を確立するための暴挙だったにもかかわらず、原爆投下によって大戦が終結し、米日の多くの生命が救われたという大義名分にすりかえられました。このことによって核兵器の判断に大きな過ちが生じたと私は思っています。 (橋爪 文『少女・14歳の原爆体験記』 高文研)
 
7 近藤紘子さん(生後8カ月の時に被爆)
一番つらかったことは私が研究の対象になったことです。服を全部脱いで、木綿で出来たガウンとふんどしみたいなもの付けるのが嫌でした。
中学生になった時に、検査室から検査室を回っていましたら、講堂に行ってくださいと言われました。講堂からはいろんな国の言語が耳に入ってきました。舞台に上がるようにと言われて、ガウンを脱ぐように言われました。私はふんどしのような小さな布一枚しか付けていません。右、左と指示されるままに、動かされて、涙があふれてきて、悔しくてしょうがなかった。
何故私はここまでしなくてはいけないのか、中学生になれば、子供の体から大人の体になってゆくところ、悔し涙、屈辱感だった。
ABCCには多くの日本人がつとめているのに、何故助けてくれないのか、と思った。

8 松本トミ子さん
毎月一回アメリカのジープが私の学校にやって来て、4人ほどの生徒がABCCに連れられていきました。彼らは私をモルモットのように見ました。体中のケロイドの写真を撮るので、私は怖くなりました。血液も取りましたが、治療は何もしてくれませんでした。私は彼らを憎みました。

9 知人の吉岡幸雄さん
私は爆心地から約1・7キロで被爆し、背中などに大やけどを負った。ある日、ABCCで検査を受けさせられた。唾液の検査などがあったが、一番いやだったのは、前立腺の検査だった。日本人の男性スタッフは、サックをつけた指を肛門に突っ込んできた。前立腺の状態を調べる触診だったが、指の動きが不快でたまらなかった。母が亡くなると献体を求められたが、ABCCへの反感と不信から、申し出は断った。

10 女性(匿名)
私は突然ABCCに呼び出されました。原爆の影響が心配だったので、治療をしてくれるものと思い、そこに行きました。衣服をすべて脱がされて、頭のてっぺんからつま先まで検査をされましたが、治療はしてくれませんでした。10歳のときに被爆した近所の若い女性は「生え具合を調べるために陰毛の写真も撮られた」と泣いていました。私たちはアメリカのモルモットになったのです。

11 仲間の知人(軍人)
市内の中心部で肩から腕に熱線を浴びた。呉の実家に帰ったある日、町医者に行くと、「精液を取ってきなさい」と言われた。「何のためですか」と尋ねると、「そんなことはわかっているだろう。ABCCだよ」。彼はいやだったが、言われる通り精液を提出した。

追加情報
米・ABCCの新生児データ、助産婦に謝礼払い収集  
ABCC遺伝計画」における助産婦の役割
ABCCで解剖されたサダコの遺体
http://blogs.yahoo.co.jp/mitokosei/29317986.html
「放射能安全神話」を準備したABCCとヒロシマ 哲野イサク
ICRP的発想は私たちに刷り込まれている 哲野イサク
ABCCを理解するための参考資料

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脳を取られて?!は?!信じられない…
何してくれるの
日本はもっとアメリカを憎み続けていいくらいだね
最近アメリカ人に対して良い感情を持てない…

2011/11/1(火) 午後 10:14 [ めそ ]

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日本人医者の協力なしでは出来ないこと..
情けないもんだ。

しかし今もその時と何も変わらないのは
もっと情けない...

2012/3/17(土) 午前 10:49 [ くま ]

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原爆を落とした米国に戦争責任を求められるか
真珠湾奇襲作戦成功で米国に挑戦したのは日本
敗色濃厚にもかかわらず最後まで粘った愛国主義者
原爆が落ちなければ本土決戦で壊滅的破壊
米国も日本もどちらも犯罪者

2012/3/17(土) 午後 5:38 [ - ]

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人間は過ちばかり繰り返す欲と我だけの生き物だ!

2012/11/3(土) 午後 8:55 [ ぬむぬむ ]

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酷い・・・絶句
日本はアメリカにはめられた

2013/10/17(木) 午後 2:11 [ yas*ku*im*iro*02 ]

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人道に対する罪(英: crime against humanity)は、「国家もしくは集団によって一般の国民に対してなされた謀殺、絶滅を目的とした大量殺人、奴隷化、追放その他の非人道的行為」と規定される犯罪概念。
ニュルンベルク裁判の基本法である国際軍事裁判所憲章で初めて規定され、1998年の国際刑事裁判所ローマ規程において「人道に対する犯罪」として定義された。
現在ではジェノサイド、戦争犯罪とともに「国際法上の犯罪」を構成する。戦時、平時に拘わらない。

2013/12/1(日) 午後 6:06 [ ユダヤのアジア太平洋謀略 ]

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今の日本人が米国に対してよい感情を持つ人が多いのは、戦後の米国に依る占領期の学校制度改革によるものであらふ。米国に対する反対運動が起きないのはなぜだらふか。
無知な国民に誰が知を与ふるだらふか。教育機構そのものにおける問題があると私は思ふのだ。

2015/8/9(日) 午後 9:49 [ 米国に反して ]

絶対にしてはいけないことだ。
しかしなぜabccの中に日本人が多数いたのか?アメリカ軍に加担していたのか?いつからだ?
そして原発もやばい。もう核を作るという全ての負を終わらせる。
地球も命も良くなるほうに行こう。
地球も人間も動物も苦しむ科学などあってはならない。地球も全ての命も幸せになる科学を望み実現しよう。

2017/9/29(金) 午後 9:57 [ cy_***** ]

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心が痛みました。
思春期の女の子の裸を無理矢理撮るなんて。大怪我をして、精神的にも肉体的にも傷付いている被爆者に、そこまで追い打ちを掛けるとは。悲しいし、悔しい。

2018/1/10(水) 午後 10:08 [ 角田 ]

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こんにちは! 日本はアメリカの属国です、何も言えなくて 今も同じです、安倍さんは亜米利加の奴隷です。

2019/8/9(金) 午後 2:56 [ shi***** ]


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