「広島の視線 」原爆・ヒロシマ・平和公園・ガイド・花・英語

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元安橋とレストハウス

元安橋
現在の「元安橋」の元の名は「元康橋」でした。安土桃山時代に毛利輝元(元就の孫)が広島城下を整備したときに架橋し、名を「元康橋」としました。その由来は、輝元の伯父である毛利元康(毛利元就の八男)が架橋工事を指揮したか、元康の屋敷に続く通りに架けられたことによるとされています。架設時期は1590年代だと思われます。「芸藩通史」(頼杏坪、加藤株鷹等により編纂、1825年・文政8年に完成)に「元康の第宅八町馬場の西にありし時に、直に細工町へ通り、橋に至の道ありて、元康路といひしが、橋の名になりぬ」とあり、毛利元康の屋敷にちなんでとあります。
 
ちなみに、毛利元康は出雲国末次城を与えられたので、末次元康ともいわれます。出雲の月山富田城主や備後の神辺城主になります。関ヶ原以降は毛利一門の厚狭毛利の二代当主になります。
                           (情報提供者は高村公男さん
 
大正時代の元安橋
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昭和
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昭和初年の元安橋
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原爆投下後の元安橋と燃料会館(現在はレストハウス)

元安橋は爆心地から一番近い橋のために、上からの爆風に耐え、倒壊せずに残った。親柱の上の金属のランプは金属供出のために撤去され、御影石に代えられた。
石灯籠の左の傘は左へ、右の傘は右へずれていることからも、この橋のほぼ上空で原爆が爆発したことがわかる。
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元安橋は1992年に架け替えられた
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欄干には「元」という字があるイメージ 3

レストハウスの歴史

①戦時体制へ
この建物は、大阪に本店を持つ大正屋呉服店が、対岸の細工町から新築移転したもので、木造家屋が主流の当時としてはめずらしい鉄筋コンクリートのモダンな建物でした。1〜3階はショーウィンドウのある売場で土足が可能で、屋上からは市内が一望できました。
1943(昭和18)年12月、繊維統制令により呉服店は閉鎖され、被爆当時は、他の耐火建物と同じく国策の統制会社である広島県燃料配給統制組合が建物を取得し、使用していました。

②被災状況
爆心地から170m、原爆により屋根が押しつぶされ、内部も破損、地下室を除いて全焼しました。しかし、爆心地の近くでありながら爆心地側に開口部のほとんどない強固な建物だったためか、基本的形態はとどめました。被爆当日、この建物には37人が勤務しており、そのうち8人は傷つきながらも建物を脱出しましたが、たまたま地下に書類を取りに下りていた1人(1982(昭和57)年6月死亡)を除きその後全員死亡しました。

③戦後の修復
戦後は早い時期に補修され、引き続き燃料関係の組合や会社が燃料会館として使用しました。

④レストハウス
平和記念公園の建設に伴い、取り壊すかどうかの議論がありましたが、1957(昭和32)年に広島市が買収し、東部復興事務所として使用しました。その後大幅に改修され、1982(昭和57)年からは平和記念公園レストハウスとして使用されています。なお、地下室は現在も被爆当時の姿をとどめています。

⑤1955年広島市は「老朽化」「被爆の痕跡を残していない」と、撤去する方針を打ち出した。11万人を超える署名などの保存運動の結果、解体案は凍結され現在に至っています。

レストハウス説明板
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現在のレストハウスの玄関(説明板の右の写真)
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左の写真と同じ場所から撮影したレストハウス
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レストハウスの地下室(案内所で手続きをすれば、誰でも見学ができます)
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緑の屋根のレストハウス(当時の燃料会館)は爆心地から170mの近距離でありながら、

強固な造りのために、基本的形態はとどめました。建物の中にいた37人の内、野村さんだ

けが地下室にいたために無事でした。当時47歳の野村さんは地上に逃れた後で、残留放射線

線を浴びたために病気をされながらも、84歳まで生きられました。 

野村さんの体験記

広島市中島本町、ちょうど元安橋南詰に現在燃料会館がある。当時広島県燃料配給統制組合の本部であった。この建物は地上三階地下一階で、鉄骨鉄筋コンクリート建の丈夫なもので、爆心点から西南約百メートルに位置している。
組合は当時毎朝八時に全員を二階に集めて国民儀礼をするのが例であった。その朝も河合業務部長の音頭で済まし、全出勤者三十七名は各階各自の机にかえって仕事前の一服をやっていた。さて仕事だと自分は机上を見た処、いつもの書類がまだ置いてない。いつも課長が地下室から持ってくるのを、今朝に限って忘れていたのだった。そこで自分の隣の広瀬女事務員に取りに行ってもらうつもりで、その方を見たら何か忙しそうにしていたので、自分は二階を下りて地下室へ行った。
下りる前に、自分はめがねを外し、財布をズボンのポケットから出し、そしてズボンのバンドに巻いてある鎖を解いて懐中時計を出し、机上にこの三点をそろえて地下室へ下りて行った。この品はもちろんみな焼いてしまったが、なぜそんな事をしたのかは五年後の今日どうしても分からない。

地下室は建物の三分の一位の広さで十坪余りの狭いもので、常に電灯が灯(とも)してある。書類が見当たらないので、あちこち探して階段下の金庫の処へ来た、その時だった。ドーンというかなり大きな音が聞こえた。とたんにパッと電灯が消え真っ暗になった。同時に頭に二、三ケ所、固い小石の切片のようなものが当たった。
痛い!と手を頭にやってみたら、ねっとりしたものが流れている。血だ!何だろう、何事が起こったのだ。しばらくして分からないまま頭のほかにどこか傷をしてはいないかと上半身、両腕、両足その他を調べてみたが別に異状はないらしい。室内は真っ暗がりで何も見えぬ。
自分は階段のすぐ下に立っていた。上がろうと思って足を階段にかけた。そして二、三歩上がりかけたが、どうも変な具合だ。階段状態が無い、板切れや瓦や砂やごちゃごちゃに混じった坂になっている感じだ。
柔らかな俵のようなものが足の下にある。おかしい、両手でそっとさわってみた。半分位砂の中に埋もっている。あっ!人間だ。抱え起こして声をかけたり色々してみたが、がっくりしていて、もはや事切れているようだ。とたんに体が震えてきたようだ。
奥の方からやみをついて、助けてくれーと男の声だ。その声が続いて聞こえてくる。そしてすぐ泣き声にかわった。オオーン、オオーン、と、自分は急いで登りつめたとたんに頭をごつんと打った。手でさわってみるとコンクリートの壁らしい。両手で押してみたがビクともしない、出られない!
あっ、しまった、直撃弾だ!この建物に当たったんだ。地上の建物が崩壊してこの地下室だけがわずかに残ったんだ、と感じるとたまらない気持ちになった。出られねばここでこのまま埋もれてしまうのか、その時ゴーという水の音が聞こえてきた。この地下室には八インチ位の水道管が元安橋の裏側を通って入ってきている。あっ!水道管の破裂だ!どうしよう、死は時間の問題だ、ああ駄目かー、と思ったら四人の自分の子供達の顔がすうっと目の前を走馬灯のごとく通り過ぎた。それから後は分からない、どこをどうして出たのか気がついたときは一階に立っていた。

一階の窓の一つに人がとまっているのが影絵のように黒く目にうつった。一階の模様は薄暗くてはっきり分からないが、戸棚や机やいすなどがひっくりかえってごちゃごちゃになっているように感じられた。それらを分けるように窓下に行って「誰か」と言ったら「広瀬です」と言った。「おお広瀬か、外は」と聞くと「道路です」と言う。「よし飛べるか」「はい飛べます」と言う。「飛べ、僕も行く」と言って二人は外の路(みち)へ立った。
外は真っ黒い煙で暗い。半月位の明るさだ。よく見ると広瀬の顔から手から血が流れている。急いで元安橋の所へ来た。ふと橋上を見ると中央手前の辺りに、まる裸の男が上向けに倒れて、両手両足を空に伸ばして震えている。そして左腋(わき)下のところに何か円い物が燃えている。橋の向こう側は黒煙で覆われて炎がちらちら燃え立ちはじめて見える。橋を渡らずに現在の平和塔の方へ走って行った。ここは家屋疎開の跡で広場と一部菜園になっている。そして川に下りる石段の所に行って二人は腰を下ろした。

腰を下ろすまでは自分は半分夢中であった。四囲を見渡すと地上も空も真っ黒い煙だ。その煙の中に今やっと逃れ出た組合の建物がぼんやり建っている。正面川向こうの産業奨励館も立っている。左向こうには商工会議所も見える。煙の下の方から燃えている炎はだんだん大きくなってきた。しかしまだ前記三つの建物は火はない。しばらくすると組合の窓縁(べり)が燃えはじめた。どの窓も火がついた。そして火は内部へ這(は)い入った。それから少し間を置いて奨励館も同じようになった。間もなく商工会議所も窓から内部へと燃え出した。この辺りで最後に燃えたのが会議所で郵便局は一番最初に燃え出したように思う。この間に組合を逃れて来た者が自分と共に男四人女四人計八人となった。そしてみな石段に腰を下ろしてひとところに固まっている。片眼(め)がだんだん見えぬようになったと言う女、気分が悪くなったと言う男、頭が痛むとつげる者、皆それぞれに外部の負傷と内面の故障をもっている。
しかし苦しんで声を立てる者はいない。ほとんど皆だまっている。火勢は次第に広がり大きくなって体は熱くなって来た。川の水は満潮からだんだん引き潮になるので一段一段と我々は石段を下りる。すじ向かいの郵便局の黒煙は竜巻のようになって空中高く上る。時々その煙の竜巻は倒れかかって我々の頭上に来る。その中からトタン板の焼けたのや、板切れの焦げたものが身辺に降って来て危ない。落下物を見て身をかわさねばならぬ。かわすためには上方を見ねばならぬ。その目の中に煙が入ると痛さと涙でたまらないし、一度吸うとのどがむせてかなわぬ。自分は腰の中古タオルを外して一重にして顔に当ててみたら目も楽に又呼吸も幾らかしのぎよくなった。降って来た焼トタンを拾ってそれぞれに渡したので、一同はそれで体を覆い熱気と下降物の危険から大分たすかった。元安川の水の一部が盛り上がったと思ったらクルクルクルと円柱となって空高く舞い昇った。水の竜巻だ!その中から風下に水が落ちている。
火勢熾烈(しれつ)だ。川向かいの煙が火の粉と共に我々に襲いかかった。ウワ!と一同石段を上って広場に逃げると、とたんに火の粉が又襲いかかって来る。やむなく元の石段の石垣の隅に一同小さく固まってしまった。体を覆うトタンを川水につけては覆い、つけては覆いしてしのいだ。先程から遠くや近くで石油缶が爆発したような音を十数発聞いた。時限爆弾ではないかとひやひやした。そのうちにポツリポツリと大粒の雨が落ち始めて次第にはげしくなって遂(つい)にドシャ降りになった。一同我がちに雨宿りの場所を求めてそれぞれに身をかくした。しかしほとんど皆がズブ濡(ぬ)れになってしまった。雨がやんだ頃には寒さのためにふるえだして歯の根も合わない。で、そこで又火の方に近づいて体を温め二、三十分もしたらやっと人心地がついた。八月の盛夏、大火事の中心にいて寒さのために火に近寄るということは何ということだろう。それ程あの時の雨は身に応えたのである。そうこうするうちに中心部は大分火勢が衰えて来た。相生橋に行ってみると周囲は猛烈な煙と火だ。紙屋町以東は煙で見えない。二部隊の方も煙だし、西南方も同じく煙と煙だ。

脱出して救援隊に知らせて来てくれないかと会計の宍戸君が言った。行く手の模様が全然分からないこの火の中をくぐることは死を意味する。出るからには再びここへは帰られないことを覚悟しなければと言って、大型の焼トタン板を一枚手にして、再び相生橋上に立って、どこの方面に救援を求めに行こうかと見渡した。そうだ、己斐の方面に行ってみよう。左官町・十日市・土橋まで来る間に何度となく、地上やら倒れた電柱の間やらに身を伏した。市電の鉄橋の枕木があちこち燃えている中を選んで飛び渡りやっと福島町に出た。ここはいまだ煙も無ければ火事も無い。空は青天だ。振りかえって見ると火と煙の地獄だ。よくも出て来たものだと思った。己斐に着いた。ここは負傷者ばかりでどこにも救援隊はおらぬ。それから草津に来たら初めてり災者の手当をしている兵士五、六名に会った。何とか同僚を救ってくれと頼んだが、求める方が無理だとは幾千人とも知れぬ負傷者を見ただけで分かった。残った者の中、宍戸君、安芸支部長の二人は、ほんど大きな負傷はしてないので、心を残して自分は廿日市へ向かった。廿日市に着いたのは午後二時半頃であった。

九月一日の夜、急に悪寒を感じ、四十度前後の発熱はその後七、八日間続いた。この間廿日市町では、毎日毎日何人となく自分のような状態の者が死んで行った。のどは痛んで来るし、出血斑紋は五、六ヶ所も出る。歯茎がくさり、悪性下痢は十日以上も続くし、体はクタクタに衰弱して行った。薬は無し、医師は手当の方法が分からぬらしく、親せきも家族もあきらめていたという。
とにかく、時が経(た)つにつれて、元気が回復し、今日健康になっているが、近頃爆弾症による盲目が出はじめていると聞く。
あの朝、国民儀礼に参加した三十七名中の三十六名の霊よ安らかに眠れ。ああ!
一九五〇年七月記 野村英三(五二歳)
出典:広島市原爆体験記刊行会編『原爆体験記』 朝日選書42

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語り継がなければいけない、悲しい事実です。奇跡の生還を果たしたとはいえ、その後は大変苦しい闘病生活を余儀なくされたことと思います。野村さんのご冥福をお祈りします。

2017/9/15(金) 午後 9:01 [ soft-b_gannnbatte ] 返信する

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