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原爆の基礎知識(重要)

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原爆投下の真実

原爆はなぜ投下されたか?
4月27日の目標検討委員会から6月1日の暫定委員会、その後、投下までに決定された原爆の投下目標の基準(8月2日付の野戦命令で「攻撃日を8月6日とし、その第一目標は広島」とした。)
①出来るだけ早く日本に対して使用すること。(ドイツの降伏は5月9日。)
②投下は事前の警告(爆弾の性質についての)なしに使用すべきである。
(これに対して、開発に携わった多くの科学者たちは反対した。)
連合軍の捕虜収容施設がない場所を目標にすべき。
(実際は広島で12名の米兵捕虜が死亡。)
直径3マイル(約4㌔㍍)以上の大きな都市にある、最も破壊されやすい家屋その他の建築物に囲まれるか、あるいはこれに隣接した軍事施設あるいは軍需工場を目標とする。
 (原爆の破壊範囲より小さい面積の都市では、原爆がどこまで破壊できるかわからない。)
爆風によって効果的に被害を与えられること。 
  (広島では高度約600㍍、長崎では高度約500㍍で爆発させる。) 
通常の爆撃をしない都市を目標にする。
  (焼け野原では原爆の破壊効果は不明。)
 投下目標の都市は何度か変更されたが、5月28日、通常爆撃を禁止。原爆政策担当のスチムソン陸軍長官は、「京都は日本の古都であり、日本人にとって宗教的な重要性を持つ心の故郷である京都を原爆で破壊すれば、アメリカに対する深い憎悪を日本人に植え付け、戦後、日本人の協力が得にくくなる。」と、京都を目標から外し、代わりに長崎を加えた。
 
(1)原爆は軍事目的でなく、アメリカの日本単独支配という政治目的で使用された
原爆を使用しなくても日本は降伏していた。(軍事的、経済的、政治的に)
 統合参謀本部の予測は、「11月1日に九州上陸、翌年3月1日に関東に上陸、被害者は約4万人。」
 戦後「百万人の神話」(原爆投下は戦争終結を早め、連合軍将兵、日本の将兵など百万人の命を救った)を作り上げ、原爆投下の正当性と有効性をアピール。マンハッタン計画は約7兆円の予算、全米40大学の研究者と科学者を動員。全米に数百の工場をつくり、のべ55万人を動員。投下しないと政治的問題になるので、投下して、それが有効であったことを国民に示さなくてはならなかった。
②日本の終戦の決意の主因は、原爆投下でなく、8月9日0時のソ連の参戦
③アメリカは、主にソ連に対して、軍事力の優位性を示し、戦後の政治的に有利な立場を確保したかった。原爆の使用により日本を降伏させることができれば、戦後ソ連の影響力が東アジアに及ぶのを避けられるとも考えた。
 
(2)原爆投下は人体実験であった
原爆投下命令書(参謀長代理 トマス・I・ハンディ:7月25日付)
  ❶「目視爆撃可能な天候になりしだい...投下すること。」(3番機が写真撮影)
  ❷「爆発の効果の測定と記録のために国防省から軍関係者および民間の科学者を派遣..」
   (温度と気圧の変化を調査する観測器3個を1番機が投下) 
  ❸「いかなるコミュニケ発表・情報公開も行ってはならない。」(情報検閲
マルセル・ジュノー赤十字国際委員会在日代表の医薬品・募金等の国際救援打電阻止
医療関連資料の隠蔽、アメリカ本国への持ち帰り、日本人医師の治療の妨害。
ABCC(19471975)調査すれども、治療せず
 
要人の発言
マッカーサー(アメリカ極東最高司令官)「私達は一貫して日本は崩壊と降伏寸前の状態にあると判断していた。」「原爆投下は軍事的にみれば全く不必要である。日本は降伏を準備している。」
・トルーマン(アメリカ大統領)「ソ連が参戦すれば日本はお手上げだ。」
バーンズ(アメリカ国務長官)「原爆は日本を打ち破るために必要なのではなく、ソ連をもっとコントロールしやすくするためだった。」
米戦略爆撃調査団の報告(1946年)「原爆を落とさなかったとしても、ソ連が参戦しなかったとしても、1945年11月1日の九州上陸作戦予定日までに、さらに上陸作戦をしなかったとしても、12月31日以前に必ず日本は降伏していただろう。」
近衛文磨(元首相)(1945年2月14日天皇に上奏)
 「勝利の見込みなき戦争...一日も速やかに戦争の終結の方途を...」

 
 

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ABCCがしたこと

ABCCが何をしたか

週間朝日編集部編「1945―1971 アメリカの26年」より引用
 
 AtomicBomb Casualty Commission―原爆傷害調査委員会いうまでもなく沖縄本土の米軍基地とならぶ占領軍の遺産のひとつだ広島市民の批判非難の風当たりをさけて最近では「日米対等のパートナーシップ」をいいだすなど微笑をふりまいているが加害者による被害者の調査というその性格は変わりない
 ABCCさし回しの車がすっと玄関につくと、看護婦が「いらっしゃいませ」と最敬礼する。白衣に着替えさせて血液検査、検便、レントゲン、聴診...。精密検査の合間には弁当がでるし、帰りには救急箱のおみやげまでつく。
 こういう特別な接待をうけるのは、2年に一回、ABCCで「成人健康調査」を受ける人たち。市民たちは、ある種の感情をこめて、お山(つまり、市内の比治山にあるABCC)の“クイーン”と呼んでいる。
 
 このABCCの調査については、「最初のころは被爆者の心理や感情をよく考えずにトラブルを起こしたことがありました。しかし、だれかがやらなければならなかったことを、戦後の混乱期にあれだけの規模でやったということはやはり意味があるでしょう」= 原爆病院・重藤文夫院長(六七)。
 「ABCCがあったからこそ終戦直後の医学の暗黒時代にも貴重な資料が保たれた。もし、その資料が日本に渡されていたとしても、その当時の日本の状態では、すぐに散逸してしまったことでしょう。また、ABCCは過去の統計調査資料なども要望に応じて快く提供してくれる」= 一九七〇年春ABCCに移った元広島大学原医研の清水清博士(六三) 
 
吉川清「『原爆一号』といわれて」より引用
 
 ABCCの活動については、被爆者の不満や不安、疑惑と非難の声が絶えなかった。健康の不安におびえながらも、日雇いに出なければ、その日を暮らせない被爆者にとって、ABCCの検査に一日つぶすことは深刻な生活問題であった。しかも、治療は一切しないばかりでなく、検査の結果も何一つ知らせはしなかった。それではモルモットではないか、というのであった。おまけに検査の結果、身体に異常をきたす者まであったのである。そして、被爆者が死んだと聞きつけると、ABCCは必ずといってよいほどにやって来ては、遺体を解剖させてくれというのだ。それは死骸にむらがるハゲタカを思わせた。実は、その上にABCCの調査の手は、被爆していない人たちの上までのびていた。ある婦人は子宮組織を切り取られたといい、またある娘さんは強引な検査のために、気が狂ったという話まで伝えられた。そのABCCは、一九五一になると、規模を拡大し、設備を充実して、比治山の上に幾棟かのかまぼこ型の施設を作って移転したのであった。
 
ABCCのダーリング所長に面談し内部を視察し、写真を撮った福島菊次郎は次のように書いている。
 
 ABCCは、1948年から二年間だけでも五五九二体の人体解剖を実施した。休日なしに稼働しても二台の解剖台で一日七遺体解剖したことになる。驚くべき数字ではないか。
 
 被爆者が亡くなると黒い喪服を着て花束を持って現れ。「日米友好のために」と慇懃無礼に遺体の提供を強要するABCCの日本人職員の姿がその解剖台の背後に見え隠れして、やり場のない怒りが込み上げてきた。解剖台に運ばれて毎日流れ作業的に行われている人体実験を想像し、独立国家とは名ばかりで、アメリカの属国であり続ける国民の悲哀と屈辱を噛みしめながらシャッターを切り続けた。

(参考)1948年〜54年に約77,000人の新生児がABCCで調査された。広島市では新生児はほぼ100%調査され、亡くなった場合はすべて解剖された。1200人の流産、死産、生後すぐに死亡した新生児の臓器標本やカルテは米国に送られて、放射線研究に利用された。調査終了後ABCCは「現段階では放射線による遺伝的影響はみられない」と結論づけた。

吉川清(198674歳で死亡)
当時32歳で爆心地から約1,500mの自宅で被爆し、両腕と背中にやけどをおった。寒くなるにつれてだんだんと肉が盛り上がり、ケロイドになった。1946年3月から5年間の間に、合計16回皮膚手術を受けたが、手術はすべて失敗し、移植された皮膚は黒く変色して死んだ。
戦後まもないころに、アメリカ人記者団に背中のケロイドを見せ、「原爆一号」と呼ばれるようになった。吉川さんは、原爆ドームのすぐそばでみやげ物屋を営みながら、客に請われれば背中を見せ、原爆について訴えた。その行動力は、被爆者の組織作りや原爆ドームの保存運動に発揮されていった。
 
イメージ 1
1949年 佐々木雄一郎氏撮影
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原爆投下と爆心地

エノラ・ゲイ号テニアン島離陸→原爆投下原爆炸裂

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3機の離陸から原爆投下までの時間経過
テニアン島 6日(日本時間)
37 気象観測機 Straight Flush 号広島へ向け離陸乗組員9人 機長 Claude Eatherly     45 Enola Gay号離陸 (乗組員12名)
47 科学観測機 Great Artiste 号離陸乗組員13人 Charles Sweeney 機長Harold Agnew
1968年ノーベル物理学賞を受賞した Luis Alvarez も同乗)
1:49 写真撮影機 Dimples 91 (Necessary Evil)号離陸 (乗組員10人)

(広島)  7:09 警戒警報発令 7:31警報解除
(松永)8:06 北上する2機と3分後もう1機を目撃
(西条)8:13 3機を確認
(広島15
 Great Artiste 号が3個の観測器を投下し南に向け左に急旋回
          Enola Gay号 が Little Boy を投下し北に向け急旋回
                            
 原爆投下から、爆発までの3つの段階
第1段階:(爆発まで44秒)ねじ式8個の時計作動
第2段階:(爆発まで後29秒)気圧で作動するスイッチは、高度2100mで電気回路をつなぐ
第3段階:(爆発まで後9秒)レーダー装置「アーチーズ」へ点火信号が送られて、放出されて地上で跳ね返ったマイクロ波を、八木アンテナがキャッチし始める。
(あと6秒)秒速347m、時速1200kmを超える速度で落下。点火システムの最後の回路がつながり、コルダイト爆薬が燃焼、ウラン235の砲弾が発射され、ウランにぶち当たり核分裂が起きた。

テニアン島
米軍は1944年(昭和19年)7月24日、日本の重要な基地であったテニアン島に上陸、8月2日に同島を占領。その後、南洋諸島で一番大きい飛行場であるハゴイ飛行場は拡張整備され、島の東部にはウエストフィールド飛行場(現テニアン国際空港)が建設されて、本格的な日本本土空襲を行う基地となった。
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リトルボーイ
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搭載されたウラニウムについて
信管について
核分裂したウラニウムの重量は

B-29
全長:30.2 m、全幅:43.1 m、最大速度:576 km/h、巡航速度:350 km/h、
航続距離:6,600 km(爆弾7,250 kg搭載時)、実用上昇限度:9,720 m、乗員:10名
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原爆を投下したエノラ・ゲイとティベッツ機長
広島に向かって飛び立とうとするエノラ・ゲイの窓から出発の手を振る機長のティベッツ。
エノラ・ゲイは機長の母親の名前で、機長が日頃の母の励ましに感謝の気持ちを表すために、テニアン島を出発する前日自分で書いた。
 
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                                              夜の闇に包まれた出発前のエノラ・ゲイ
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B-29の爆撃航程
目標に正確に投弾するためには、爆撃航程と呼ばれる飛行区間が必要だった。爆撃航程に入るとパイロット(右)は目標に向かって飛行高度、飛行方向、飛行速度を一定に保つとともに、機体を自動操縦にした。この爆撃航程の間はB-29の機首部分にいる爆撃手が飛行の主導権を握り、ノルデン爆撃照準器越しに目標を捉えると、投弾用のスイッチをセットした。B-29は機体がロックされた状態で目標に向かい、投弾のタイミングはノルデン爆撃照準器が自動的に判定した。ノルデン爆撃照準器は精密に設計されたアナログコンピュータだった。

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                                                                   ノルデン爆撃照準器
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      投下目標は広島市中心部のT字型の相生橋。爆心地は相生橋から300m
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     高速で飛行する爆撃機から投下された原爆は放物線を描いて前方に落下した。
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爆心地の特定
熱線によってできたこのような複数の影を延長することにょって、爆心地(空中の爆発地点)を特定することができた。
                     (広島貯金支局 / 爆心地から1.600m / 1945.10.4撮影)
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爆心地 島病院

爆心地には今でも島外科内科(当時は島病院)がある。当時の院長は海外留学で腕を磨き、広島では有名な外科医だった。当日院長は出張手術で不在、他の5人の家族も疎開していて生き残った。しかし、そのとき病院にいた看護婦や入院患者約80人は即死。

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倒壊した島病院と倒壊を免れた護国神社の鳥居
                                                           (1945年11月 米軍撮影)
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              現在の島外科内科
  当時、学童疎開中で無事だった長男の一秀さんは名誉院長、息子の秀行さんは院長。

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八木アンテナ
リトルボーイの頭部に付けられたアンテナは、今でもテレビアンテナとしても使われている八木アンテナが使用された。このアンテナが地上から反射する電波を受信し、地上からの距離を測り、原子爆弾はもくろんだ通り600m上空で自動的に炸裂した。八木アンテナは電気工学者の八木秀次と宇田新太郎が戦前に発明し、1926年〜30年に日本、英国、米国で特許を取得。
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ラジオゾンデ
爆発後の気圧と温度の変化を測定するために科学観測機から3個のラジオゾンデが投下された。このパラシュートが見えたとたん原爆が炸裂したので、原爆にパラシュートが付いていたと誤解されることになった。
この装置は一端でパラシュートに結び付けられた軽金属円筒からできていた。円筒の外部には気圧感知板が取り付けられ、内部には強力な電池と超短波発信装置、時計機構が入っていた。この装置は気圧の変化に応じて違った周波数の信号を発信するようになっていた。
気圧の変化をとらえて爆発が成功したことを確認するためのようです。投下された三つの機器のうち、一つは東京の陸軍本部へ。一つは呉海軍工廠で分解し研究。もう一つは、終戦の混乱のなか、呉工廠で廃棄される寸前に技術者が保管し、1965年8月、資料館に寄贈された。
                      (写真は原爆資料館に展示されているラジオゾンデ)
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パンプキン爆弾が投下された都市
死者420人、負傷者1200人(7月20日〜8月14日)

パンプキン爆弾の総重量は約 4,800kg、内部の爆薬またはコンクリートが約 2,900kg 、原爆投下の訓練のために、44の目標に49発投下。長崎型と同じ形で通常の爆弾を搭載。目視で投下後、速やかに155°の急旋回と急加速をして回避行動をとった。
爆発地点が目標から 300m しかずれなかったのは、この投下訓練の成果である。

原爆を実戦で使用する前に、新造された原爆搭載機の初期欠陥を見つけ出し、戦闘上で発生するさまざまな問題を事前に解決するために、専任の部隊による原爆投下訓練が必要でした。ファットマン型原爆は、構造上、内殻の部分を通常高性能爆薬に詰め替えるだけで簡単に高性能爆弾に変更できるので、ファットマン型の爆弾を使用することになりました。
訓練の目的には、地理を周知させることと、訓練用の目標を破壊することにより、搭乗員たちに心理的高揚を与える目的もありました。さらに、原爆投下の前に、日本人に少数機で高高度を飛ぶB29の姿を見慣れさせ、怪しまれないようにする目的もありました。
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パンプキン爆弾
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ただし、パンプキン爆弾(ファットマン型模擬原爆)の投下は全てが原爆投下訓練のためだったのではありません。
日本に投下された49発の内、42発は投下訓練のためでした。しかし、8月14日に投下された7発は最後の大空襲に加わったもので、部隊の報告書でも訓練ではなく、攻撃として記録されています。

投下の目標とされたのは原爆投下候補地だった京都市、広島市、新潟市、小倉市の各都市を4つのエリアに分けた周辺都市(広島市ならば宇部市、新居浜市など、新潟市ならば富山市、長岡市など)にあった軍需・民間の大規模工場・鉄道操車場等であった。原爆投下候補都市は、原爆による威力を正確に観測するために、事前の空襲は禁止されていたために周辺都市が目標となった。1945年7月20日、新潟エリアである富山市・長岡市・福島市・東京都(実例の一部として、現在の練馬区大泉学園地区、西東京市の西武柳沢駅近辺)へ計10発投下されたのを皮切りに30都市に50発(うち1発は任務放棄し爆弾は海上投棄された)ほどが投下され、全体で死者400名・負傷者1200名を超す被害が出た記録が残っている。
しかし投下は爆撃手の目視によると厳命されており、天候などの制約があるため、必ずしもその場所に投下された訳ではない。アメリカ軍の資料によれば、前述の目標に投下できない場合には臨機目標としてどの都市でもいいので町の真ん中に落とすようにという指示があったとされる。その為、7月26日の訓練では天候悪化により富山の軍需工場への爆撃に失敗しその帰りに島田市(島田空襲)、焼津市、静岡市、名古屋市、大阪市など軍需工場とまったく関係ないところにまで投下されたというような例もある。

原爆投下より前の模擬投下は「フェーズI」として行われ、その後「フェーズII」として8月14日に春日井市に4発、挙母町(現豊田市)に3発投下されている。これは戦後にこの爆弾を使用して効果が得られるかどうかのテストとして行われたもので、有効な兵器とされたが生産コストに見合わないとして不採用とされた。そのため、テニアン島に残っていた66発のパンプキン爆弾はその場で海に沈められ破棄された。爆弾の破棄には機密保持の意味もあったとされる。


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1 (放射線)原子核分裂とともに放射線が放出された。(中性子の約90%は核爆発から100万分の1秒以内で放出された。このとき原爆はまだ形をとどめていた) 爆発後1分以内に放出された初期放射線によって、爆心地から約1km以内にいた人は、致命的な影響を受け、その多くは数日のうちに死亡した。
それ以後のある期間は残留放射線が内部被曝などの影響を与えた。

(リトルボーイのウラン235が全て核分裂していれば、800キロトンの爆発だったはずだが、実際は1キロ弱のウラン235が核分裂して16キロトンの爆発になった。もし搭載されていた約50キロのウラン235が全て核分裂していれば800キロトンの爆発という計算になる。しかし、核分裂の連鎖反応が始まると体積が膨張し、臨界状態が崩れて連鎖反応が止まる。原爆では全ての核物質を使い切ることはでない。)
 
2 (熱線)空中に発生した火球は、1秒後には1秒後に半径200メートルを超え大きさになった。約10秒後に火球の光輝は消えた。
この火球から放出された熱線(赤外線)は、爆発後0.2秒から3 秒間地上に強い影響を与え、爆心地周辺の地表面の温度は3,000〜4,000℃に達した。
爆心地から600mでは、2,000℃。
爆心地から3.5kmのところでも、衣服を着ていなかった人は熱線が直接あ浴びたために火傷を負った。

· 

 爆発後
 火球半径
 表面温度

 0.2
 200
 7,700
以降、温度は低下
 0.3
 210
 6,000
表面温度:太陽並み
 1.0
 220m
 3,000

 
注意)熱線のせいで川の水が熱くなったり、人の体が蒸発したり白骨になることはない。

爆心地から600m以内の屋根瓦はこのようにブツブツの泡状になった。
イメージ 1

赤みを帯びた瓦は珍しい
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3 (爆風)爆発点は数十万気圧となり、周りの空気が急激に膨張して衝撃波が発生し、その後を追って強烈な爆風が吹き抜けた。
衝撃波は爆発の10秒後には3.7km先まで達した。その圧力は爆心地から500mのところで、1平方メートルあたり19トンに達した。
爆風がおさまると、中心部の空気が稀薄になり、周辺部から爆発点に向かって吹き戻しがあった。
爆心地から2km以内の木造家屋はほとんど倒壊した。

(気圧の低下によって)眼球が飛び出していた人や遺体を見たという証言がいくらかある。
爆心地から1.5km以内にいた人の鼓膜は破裂した。

爆心地から1.5kmの日赤病院の壁。窓ガラスの破片が突き刺さった痕が残った。
イメージ 2


ガラス片が突き刺さったままの爆心地から2,200mの人家の壁。爆心地側に山があって、爆風が直接届かなかったにもかかわらず、巻込んで吹いてきた強烈な爆風によって、割れた窓ガラス片が飛び散り、壁に突き刺さった。(「ヒロシマを世界に」広島平和記念資料館刊)
イメージ 3


4 (高熱火災)強烈な熱線により、市内中心部の家屋が自然発火し、倒壊家屋の台所で使われていた火気などなどにより、午前10時頃から午後2〜3時頃を頂点に、終日全市をおおう勢いで燃え続けた。
イメージ 4

被爆時人口 / 約42万人

熱線と爆風による建物被害(被害前76,000戸)
全焼 / 47,804戸
全壊 / 3,800戸
半焼・半壊・大破 / 18,240戸
合計 / 69,844戸

民間日本人死亡者数
1944年12月末まで(日本初の国勢調査)
13万 〜15万人

高熱火災で焼かれた人骨
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広島では超高温の火球が中心部に強い上昇気流を生み出した。地表では空気が周辺から猛烈な勢いで吹き込み、中心部まで酸素がいき渡った。つまり、広島はきのこ雲という巨大な煙突を持ったストーブ状態になったので、通常では考えられない高熱の火災となり、中心部で人々は真っ黒に焼かれた。
(一方、広い地域が燃え上がった東京では、周辺から吹き込む空気中の酸素が中心部に行き着くまでに消費されてしまった。このため、中心部では酸欠状態になり、火勢は衰えたが多くの人が窒息で亡くなった。)
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5(黒い雨
爆発の直後、きのこ雲が立ち上がり、泥やチリなどが上空に巻き上げられた。さらに、爆発後に発生した大火災によるススが、暖められた空気とともに上空に吹き上げられた。これらのチリやススなどは放射能を浴びており、空中の水滴と混じり雨粒となって、爆発後20〜30分後頃から、市の北西部地域に大雨が降った。大雨の間は盛夏にもかかわらず急激に気温が低下し、裸か薄着のままで逃げていた人々は、寒くて震えるほどだった。この雨は「黒い雨」と呼ばれ、放射性降下物の一種である。

白壁に残った黒い雨の痕(爆心地から3,700m)
イメージ 7

発生したエネルギーの内訳
イメージ 9

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● 広島に投下された原子爆弾により死没した方やその後に死没した方(被爆者健康手帳の有無、国籍は問いません。)の霊を慰め、人類の恒久平和を祈念するため、死没した方の氏名・死没年月日・死没時年齢を、昭和27年(1952年)から原爆死没者名簿に登載し、広島平和都市記念碑(原爆死没者慰霊碑)に奉納しています。

● 登載申請希望者は登録の前に、亡くなられた方が死没者名簿に既に登載されているかどうかをご確認ください。お問い合わせ先までご連絡いただければ、ご遺族の方であることを確認の上、登載しているかを回答いたします。

● 被爆者健康手帳をお持ちの被爆者が亡くなられた場合は、手帳の返還や葬祭料の申請 といった所定の手続きを済ませていただくことでご遺族から特にお申し出がなくても、原爆死没者名簿に記帳・登載されます。

● 広島市原爆死没者名簿は、平成29年(2017年)8月6日奉納時で、30万3195人のお名前が113冊に記帳されており、平和記念公園内にあります広島平和都市記念碑(原爆死没者慰霊碑)の石室に奉納されています。

● 原爆死没者名簿への登載確認につきましては、亡くなられた方のご遺族からのお問い合わせに限り、お答えさせていただいております。

● 原爆死没者名簿は、平和記念公園内にあります広島平和都市記念碑(原爆死没者慰霊碑)の石室に奉納されていますので、閲覧することはできません。

● 原爆投下後に様々な機関が調査を行っていますが、原爆によって死亡した人の数については、現在でも、正確には分かっていません。

これにはいくつか理由があり、
・被爆直前の人口状況が分かる資料が原爆で焼失してしまったこと
・多くの人が疎開のため広島市を離れたり、逆に広島市に疎開してきたりして、人口が流動的であったこと
・軍関係者の情報が不明であること
などのためです。

なお、死没者数について、本市では、放射線による急性障害が一応おさまった昭和20年(1945年)12月末までに、約14万人が亡くなられたと推計しています。
 被爆当時、広島には約35万人の市民や軍人がいたと考えられています。これは、住民、軍関係者、建物疎開作業に動員された周辺町村からの人々などを合わせた数字で、当時植民地だった朝鮮、台湾や、中国大陸からの人々が含まれ、その中には強制的に徴用された人々もいました。また、少数ですが、中国や東南アジアからの留学生やアメリカ軍捕虜などの外国人も含まれていました。
 爆心地から1.2キロメートルでは、その日のうちにほぼ50%が死亡し、それよりも爆心地に近い地域では80〜100%と推定されています。また、即死あるいは即日死をまぬがれた人でも、近距離で被爆し、傷害の重い人ほど、その後の死亡率が高くなりました。 また、被爆直後に爆心地近くに入った人なども残留放射線の影響を受けたため被爆者となりました。
(広島市のHPより)

被爆した外国人留学生
被爆死した米兵



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