個人誌 『未踏』全ページ

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大岡昇平「野火」の問題

飢えの極限状態にあって、人を喰べるか否か、人を喰べて生き残ることの、武田泰淳の「ひかりごけ」野上弥生子の「海神丸」、etc、人肉喰いの小説は多々ある、人肉喰いの罪を、人を殺すこと、人の肉を食うこと、同類に対しての、人間の尊厳、人間という私へ罪と罰への、生理的に嫌悪されるものとは何か、同類を食うという、飢えに対して抗えないという、生理と理性、死と生、生のためには死を拒む、そのためには生理が優先されると、人肉を喰って生をつなぎ、生還した私の手記として、神を問う形で終えている、多くの兵隊が人肉を喰ったであろうことを、罪の感情でもって、戦後を生きた者と、人の生理としてやり過ごし生きた者と、戦争への反省のないまま、今に至っている日本にあっては問われ続ける問題であろう、それらを大岡は、問おうとしたのだが、描けてはいない、「もし彼がキリストの変わり身であるならば」と神に負わせてしまっている、こうした人倫問題が、核世界の時代にあって、世界を手玉にとれる兵器、毒物によってどう変化していくのか、文学、哲学は何を問うのか、
唯一者は、人肉喰いも、核、テロも、肯定も、否定も随意であろう、世界と一体の個の地点であり、世界の最大悪を愚劣を知り抜いている存在だから、神が劫罰をくだすように、世界を俯瞰している存在で有るのだから、罪と罰、ヒューマニズム、デモクラシー、国家、民族、善悪、etcを、個で、私で超えていく、絶望しても死なない、核時代の新しき人の、唯一者とその世界を描かねば、ムルソーの世界の無関心から、世界の一体へ、

道元と私

只管打坐、自らの中に仏性を見いだす、身心脱落、その後世界との一体へ、生と死、肉体と心の対立ではない、一体への、体験、感情と、キリストの絶対神と、ギリシャ哲学に始まった科学への道と、現代の絶望に対しての禅と、キリスト、科学の心、現代の絶望は、禅、キリストを超えて、科学の想定と感情からの、1000年、2000年前の人間の思索と、現代の人間の頂点における、科学と感情心理、自らの仏性を見るとは、2000年の人間の歴史をつないでいる存在の私であることの自覚、

●身心脱落とは、自己の仏性の下に生きた人生であったこと、
●長い短いではない、仏性を生きたという満足で、
●生死、色即是空とは、宇宙、存在の無限、無限なのだから私も無限、質量普遍と常住不変不滅、
●生きることを生きるとは、癌生還からの、おつりの人生で十分、
●その上での、私の原発震災日誌、残された時間を絶望主義の確立へ

想像の絶望と現実の絶望

核、戦争、病気等の絶望状況があるから想像されるのだが、現実にそれらが起きた時には、文学、哲学、宗教の、哲学におけるイデアにアプリオリなものとなるだろう、絶望の認識にあって、時間、空間、存在と同じように、私において感じられる、核というアプリオリなもの、それは私において形作られているからこそ、想像ではない、核汚染地の、家庭の、個人の絶望から発せられているのだから、
これが世界を変えないわけはない、今や世界は想像の絶望ではない、核を通して、絶望を通して、人類は変わっていかざるを得ない、新しき人はそこから誕生していく、

人生で何をしたかったのか

結局は小説を書いていたかった、思索をしていたかった、ということになる、オーディオ、植木、カメラ、パソコン、etcの趣味はあるが、無くても構わないものではある、が、文筆、思索は、生きることの目的になっている、途中政治や、家庭、生活、労働がウエィトを占めることもあったが、全ては書く、考えるためにあり、政治や、人のためにではなかった、私の、私による、私のための文学、発表も、評価も必要とするものではなかった、それは今でも変わらず、譬え原発、絶望の思索であっても、私においての事、私対私の人生という、

ユダヤ、タルムード

タルムードの格言を読んだ、そこに書かれている選民思想と、自民族以外の蔑視、非人思想、差別と虐待の歴史の中からの思想だろうが、抵抗の極みが語られている、全20巻、12000ページ、教育、労働、食事、死生観、性、婚姻、商法、聖書の倫理的なものではなく、実利的、戒律、若き日、モンテニューのエセーを読んだ、曖昧で良く呑み込めなかった、が、タルムードは具体的で考えさせるものとなっている、こうした格言で人生を生きたなら、エリートにもなるだろうと、世界のユダヤ教徒の著名人たち、非ユダヤ人にとっては、息苦しいものに、が、立身出世の、人生達人の書のような、金にまつわる、人間関係の、知識への、成功への説得力、マニュアルがある、かくてユダヤ教徒が財を成せば、支配者、リーダーとなることに、ホロコースト産業、最も富裕なアメリカ人40人のうち16人はユダヤ人、アメリカのノーベル賞受賞者の40%はユダヤ人、主要な大学教授の20%はユダヤ人、一流法律事務所の共同経営者の40%はユダヤ人と、ロスチャイルドに象徴される、世界の陰謀、謀略の仕掛け人との、タルムードは、聖書、コーラン、仏典とは違う、ユダヤ人による、ユダヤ人のための実用書となっている、

五木の青春の門

映画しか見ていないが、本日自立編を見て、途中で止めた、その話作りが、人情賛歌で作られていることへの嫌気であった、五木の中にある、通俗、演歌性からなのだろうが、ここから始まって、大河の一滴、親鸞、蓮如へと、その知足礼賛が、人への卑屈、無思想へと誘い、6、70年代のノンポリ、愚民へと、昨日の道元も同じだが、悟りを真善とし、人の百人百様の生への否定となっている、仏性を生きずとも、生きる百様が、人であることの視座が無い、仏教が輪廻転生、因果、空、無常、苦、無我、これ等の肯定が悟りとするなら、何とつまらないものかと、

電車、バス、家で

人が、スマホ、パソコン、TVと、全員がである、昔一億総白痴化と、今や完全にコントロールされている、過去を持たない、過去を振り返らない、自らで考えない、自らを持たない、一日を持たない、人はみな有機ロボットに、家、車、物、教育、レジャー、etcに縛られ、その為に働き、ロボットとしての人生、振り返る過去を持たないのだから、現在しかない、与えてもらう、指令を待つ、暇をつぶす、インターネットが情報ツール、コミニケーションツールに過ぎないのだが、コントロールするものにとっては、格好の支配の道具、フェイクニュースが垂れ流され、が、ニュースなど見ていない、ゲーム、音楽、メール、政治など無関心、サイレントマジョリティー、陰謀、不正選挙、絶望世界にあって、自然な姿、

映画、オートマタ

AIがプログラムに基づかない、自立型ロボットであり、それが2045年には、人間を超えるとする中で、オートマタというロボットの誕生、CPUチップが人間の1万倍となり、様々な予知判断が、人間より正確なものとなり、自らを再生、創造していき、「核による環境破壊」、「人工知能の特異点超え」、「太陽異変より地球環境の変化」、人間はロボットに労働を依存し、そのロボットが人間社会をコントロールし、という映画ばやり、一緒に見たAIも、子供型ロボットと母の物語、ロボットが人間の感情を持ち、母を求めてと、人間社会の崩壊がシュチエーション、人間の愛の再生がテーマ、が、この進歩と言うものは、有機体、生命にとっては、核という絶対の前には、無効なものであり、生命がバンアレン帯を超えられないように、何をもってしても限界に至っているということ、SF、デストピアの映画に欠けているものが、核に対する視点、デストピアを規定している、根本のところが考察されていない、譬え打つ手なしの、絶望未来であっても、この絶望とは何かと、今を問う視点が欠けている、

ダウン症、自閉症、不妊、アルツハイマー

数日来のTV、これらを盛んに放映、世界がこれらの問題に当面していることの、優生学的、ホロコースト的に語る事と、ヒューマニズム、宗教的に語ることと、全ての根底にあるのは、人の絶滅への、その中での個としての、唯一者の視点の欠除、絶望の共有が無いがために、価値で判断しようとしている、絶望においては、どちらでも良い事、生きる事を生きるだけ、その日まで、助け合って生きた方が、楽しいに決まっている、分け合って生きた方が良いに決まっている、人肉を喰って生きても、いずれ死ぬのだから、帰る国、希望の国はないのだから、共に飢えて死ぬのが人間という動物の姿、

絶望を通して、すべて許すへ

愛や、真実、正義、実存と、存在に様々な意味づけと、理由をつけてきた、存在とはそうしたものと、しかし今、悪も欺瞞も、不実も、全て許す、全て肯定へと、世界の権力者が、世界の哲人、偉人がであってさえ無力な、成す術もない、核汚染の星に、その絶望、この星への所有意識、支配意識が強ければ強いほど、絶望意識は強まるはず、その取り返しの付かないことへの、全てが無の、子や孫の世代ではない、100年、200年後の核汚染の蔓延、

絶望+希望=愛ということ

現代とは、人に絶望意識が欠除しているということ、親鸞の悪人なをもって往生すのような、悪への寛容、キリストの恩寵、では生ある者が、絶望を体験してきた者が、愛と希望に至っているのか、アウシュビッツの生存者が、第二次大戦を生き延びた者が、癌の生存者が、絶望に対して、愛と希望は有効なのか、
希望は人の主観を超えて存在するものでいいだろう、愛は恩寵のような、存在への喜びでいいだろう、絶望であっても希望が感じられるなら愛が、愛から希望をとるなら絶望が、希望とは愛から絶望を取り除いたもの、現代において、絶望の認識が無いがために、愛も希望も存在できない、世界の絶望を愛と希望で、






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グルニエのペシミズムと「孤島」の世界

マルセルの「形而上学日記」と、グルニエの「孤島」、恩寵と、楽園の感情、ペシミズム、虚無からの到達、プルースト、森有正にも感じた、存在への信頼、癌サバイバーを生きて、私も到達した感情、が今、核汚染の絶望世界にあって、何処へ、どのように向かえばよいのか、過去の文化、人間の総体が、役に立たない現代にあって、在ることへの至福など、癌の時、今少し存在していたいと、在ることの至上に満たされた、ガス室にあって在ることの至上など、奇形を生きる、虚無を生きる、今日を生きる、存在を生きることなだけ、

夢を見た

夢の中で、Oに無性に会いたくなって、夢の中なら、きっとOに会えるのではと、でもOはすでに死んで、この世には居ないのだから、夢の中でも会えないのではと、この、人が死んで居ないことへの、どこにも、この人のいないことの悲しみに、夢の中で泣いていた、そして、本当に過去、人は私と居たのだろうかと、ずうっと死者達と過ごしていたような、実感のない、色褪せたアルバムの写真のように、O、母、父、何も無かったような、

夢の中で何度か出て来る家に。私は居候している、そこの若い男が作曲していて、その男の歌に、トカトントンの歌詞が出てくるので、君は太宰のファンかと聞いたら、違うと否定し怒りだした、私はその男と話してみるべきだと、文学論を始めた、男は先生という人との出会いを、熱弁し始めた、それは「こころ」の先生のようだった、そして男は先生の秘密を論じ出した、私はかつても今も、先輩や先生といったものを持ったことが無かったから、先生は、先生の、と、言う男に嫌悪感が湧き、話を制し、私の考えを語ろうとしたら、学校(高校)の授業で、私が当てられた、私は少し長くなるが、久しぶりなので、時間を15分ほど欲しいと、先生にも、クラスメイトにも了承を得て、死について話し始めたのだった、

顕正会婦人部員の折伏

女性が一人で、我が家に宗教の勧誘に来た、顕正会だという、創価学会、大石寺と暴力沙汰を起こしている、過激な新興宗教、死んだTの息子が入っていると聞いていたので、少し話してみようと、家に招き入れた、が、話は噛み合わず、女性は、勧誘をしたいだけ、
16才の頃の、職場で、学校で、議論したことを思い出した、彼らの固い信仰というか、考えに、何を言っても脱洗脳は無理だった、彼らに非科学を見るばかりで、違和感だけが残った、その様子を見ていたKが私を共産党に導いた、様々な本を貸し、人に会わせ、私は急速に社会主義に目覚めていった、創価学会はそんな私の社会主義への契機となった、あれから50年、勧誘、持論を繰り返す女性に、私は、
人間は素晴らしいのだよ、
あなたは素晴らしいのだよ、
この世界で唯一の存在、
キリストも、仏陀も、あらゆる教祖も関係なく、
あなたは唯一者として、一人の自分を所有する、私が私であるとを自覚した存在なのだよ、
幸いは、山のあなたにあるのではなく、
あなたの心の中に在るのだよ、
この世界に生まれているだけで、
今ここに有るだけで喜べる存在なのだよ、
これは生命を拾ってみると分かること、
生命とは、味わい、喜ぶもの、

これらを脅かす、現在のフクシマ、チェルノブイリ、世界の核世界ではあるが、
この生命の在るという基本は変わらない、
生命とはいかなる世界にあっても、
断崖絶壁の草木、灼熱、極北の生き物たち、生命を生きてきた、

隕石の衝突で、地殻変動で、地球寒冷化で、地上の命は絶滅に瀕する事もある、
が、私を生きる生命は、思わぬ形で生き延び、今に至っている、これからも、

人間世界には、しっかり絶望すること、が、私には、これからも無数の私には、絶望しないこと、唯一者としての私は、この存在を私で生きていく者、障碍を、病苦を、戦争を、飢餓を、人間世界の自明とし、が、私が私であることの、意味と使命は見失わず、
生命の、有ることの喜びをもって、生命の尽きるその日まで、私を味わい尽くすこと、と、

この6年間

原発と政治に明け暮れ、人生喪失の感あり、人間とは、人生とはを、そして人生そのものを味わう晩年でありたい、戦争や災害、病苦があろうとも、我が人生を味わい尽くして了えたいと、あと10年、早ければ5年の人生、
陰謀論への、騙されていたことへの、安逸への、正否、真実を求めて、ネットで、本で、絶望の前にはどちらでも良いのだが、青年の日、社会主義に接し、追い求めたものとは違う、理論、思想ではない、人間の、政治の、正邪、思想の具体が課題となり、調べ続けることに、そして出来上がった世界が、絶望主義、世界を理想主義ではない、時代、環境における人間の意識の反映としての世界、その反映が絶望をもたらしている、核は人間の本質の反映、支配、保身、依存、集団としての、そして核汚染という絶滅的状況に至っても、変更できず、これからの5年、10年、絶望に至った私の、未来を生きる者への、生き方、考え方への、私の文学を、私はここにいます、貴方がそこにいて嬉しい、と、

芥川の「蜜柑」

私が読んだ芥川の作品で、「蜜柑」だけが文学とは何かを、文学の意味を感じさせてくる作品、何故に「蜜柑」がと、芥川が現実の中で見つけた、現実への実感美であった唯一の作品であるからだった、計算された構成ではあるが、写実の、芥川の目と心が、そこには描かれてある、その芥川の目と心とは、貧しき者への、優しい、生きることへの眼差しと喜びがある、自殺の8年前の作品であるが、塚本文と結婚した年である、27才、芥川の世界は、諧謔、エゴイズムへの、自責、ペシミズムとの、葛藤、今昔物語、現実捨象の、唯美性、が、「蜜柑」だけには、芥川の一個の人間としての、素直な、現実からの、人の喜びを見た、自分の喜びを表現している、現実の中に在る文学への、文学の意味への、或得体の知れない朗ほがらかな心と、取り繕ってはいるが、プロレタリア文学への、羨望、自己の文学への懐疑、絶望を通して希望に至る道への、が、芥川は疲れてしまった、家族の扶養への生活苦、文学への行き詰まり、薬物依存、ペシミズム、死ぬことの方が救いとなり、あの「蜜柑」の娘からの、あの得体の知れない朗らかさに向かうこともなく、
芥川の死が、たとえ12人の扶養の重圧、女の気変わりが要因であっても、光に向かう文学を通して、「蜜柑」にはその光が射している、

陰謀論の意味

フェイク情報が、垂れ流され、マスコミがコントロールされていることへの、覚醒と、出来事への、自らの思考が求められ、ラスベガス銃乱射、他、一連の世界でのテロのやらせ、捏造、欺瞞、陰謀論とは、初めに陰謀論者、内部告発者が暴露し、その暴露を、権力、御用学者、メディアが否定し陰謀論化するパターン、様々な出来事に、最初に疑問を持つ者が陰謀論者たち、彼らには反権力の、デモクラシーの意思があり、嗅ぎ分け、愚民化に抵抗する集団、時に愚民化された者からの攻撃に晒されるが、絶望を通して真実に至ろうと、生き続けている存在、愚民政治3点セット、「貧窮問答歌」、「阿弖河庄上村百姓申状」、「慶安のお触書」、ローマ時代の「パンとサーカス」から始まって、3S、反知性主義、一億総白痴化と、権力は常に批判を拒み、衆寓政治を行っている、陰謀論が誰にとって利益であるか、どのような陰謀論であれ、反権力、反権威、反アカデミズムの視座があり、真実が問題ではなく、衆寓、愚民政治への抵抗としての理があり、ネット社会がそれらを可能にし、私は3.11以降、陰謀論と言われるものの意味を問うてきた、核の隠蔽と反原発、陰謀論者とは反核の集団であった、3.11は文化、芸術に於いても、人間に於いて何が意味かを問いつけてきた、私たちではない、私に於いての意味へ、陰謀論は私を世界に対置させる、

スリーマイル、チェルノブイリ、3.11も

未然に映画が作られて、予備イメージを刷り込んでおいて、陰謀は企てられている、チェルノブイリは技術者スパイ集団によって、ソ連崩壊のシナリオの下に行われ、3.11は人工地震実験、及び民主党政権に対するハラスメント、と核武装勢力への警告、又、100兆円の米国債買い入れ、世界の謀略の数々を実行してきた彼らは、マスコミを握っている、世界の富を握っている彼らに出来ないことはなく、何のためにとは、グローバル資本による世界支配と、維持、この構図は太古より変わらず、戦争が歴史、戦争が文化、戦争が産業、戦争が支配であるのだった、人が生きるとは、それらの下の小休止の時なだけ、彼らにとって、戦争こそが文化、戦争こそが全ての源であるのだった、

選挙戦とユダヤ音楽

原発ゼロをめざす、原発はベース電源として必要、憲法9条を守れ、憲法は時代にあったものに、選挙戦たけなわ、保守反動がガンバっている、民主勢力は統一していない、ブログで私はジョゼフ・アクロンを追加、更新、ユダヤ民族2000年の歴史の悲しみが、ヴァイオリンにのせて流れている、世界は、選挙は、人の悲しみをよそに、放射能が飛び散る街に子供を遊ばせ、汚染物を食べさせ、大人は仕事に追われ、地震、津波で再びの原発震災が、そんな地に帰村、復興と、それら喧噪、不安を包むように、ユダヤ音楽は、ユダヤの哀しみ、人類の哀しみのように奏で、






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ヨハン・フィッシャー

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ヨハン・フィッシャー

ヨハン・フィッシャー(Johann Fischer, 1646年 - 1716年)は、ドイツの作曲家、ヴァイオリニスト、鍵盤奏者。

生涯

アウクスブルクで都市楽師の息子として生まれ、父とカントルから音楽教育を受けた。1661年からシュトゥットガルトにあるヴュルテンベルク公の宮廷で楽長のザムエル・フリードリヒ・カプリコルヌスに師事した。カプリコルヌスが1665年に死去した後はパリに出て、ルイ14世の宮廷楽長であったジャン=バティスト・リュリの写譜係を務めた。

1673年にシュトゥットガルトの宮廷楽団に戻ったが、1年後にアウクスブルクのバルフューサー教会の音楽家となり、1677年に退職するまで60近い教会音楽を作曲した。1683年にブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯ヨハン・フリードリヒの宮廷にヴァイオリニスト、教師、作曲家として仕え、1686年には宮廷礼拝堂の楽長に昇進した。しかしフランス趣味のヨハン・フリードリヒが同年に死去すると、宮廷はイタリア趣味に染まり、フィッシャーは解雇された。

1690年からイェルガヴァのクールラント公フリードリヒ・カジミール・ケトラーの宮廷礼拝堂に楽長として仕えたが、1697年に楽団が解散され、その後はリガに居住した。

1702年にメクレンブルク=シュヴェリーン公の宮廷礼拝堂の楽長となったが、1704年にはコペンハーゲンの宮廷楽団に職を見つけようとして失敗している。その後シュトラールズント、ストックホルム、シュテッティン、バイロイトに住まいを移し、晩年はブランデンブルク=シュヴェート辺境伯フィリップ・ヴィルヘルムの宮廷楽長となった。

作品

作品は器楽曲のほか、フランス語の歌曲やマドリガーレもある。スタイルはリュリの影響を受けたフランス様式で、独創的なメロディーと変化に富む和声とリズムが特徴である。またヴィオラにスコルダトゥーラが要求されることも多い。ヨハン・マッテゾンはフィッシャーの音楽を高く賞賛し、頻繁に演奏されたと記述している。

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フアン・カバニーリェス

フアン・バウティスタ・ホセ・カバニーリェス(Juan Bautista José Cabanilles, 1644年9月6日 バレンシア近郊アルヘメシ(Algemesi) - 1712年4月29日 バレンシア)は、スペインのオルガニスト、作曲家。バレンシア聖マリア大聖堂(en:Saint Mary of Valencia Cathedral)で働いた。多くの人がカバニーリェスをスペイン・バロックの偉大な作曲家と考え、時には「スペインのバッハ」と呼ばれることもある。

生涯

カバニーリェスの経歴は、おそらく地元の教会の聖歌隊の歌手からはじまったものと思われる。後にバレンシアの大聖堂で聖職者になるための勉強を始めたが、勉強の中には音楽のレッスンも含まれていた。1665年5月15日、カバニーリェス20歳の時、バレンシア聖マリア大聖堂のオルガニスト助手に名を連ねた。1年後、前任者の死でカバニーリェスは首席オルガニストになった。1668年9月22日、カバニーリェスは司祭に任命された。首席オルガニストの地位は45年間守り続けたが、1703年からしばしば健康を害し、代わりを探す必要が出てきた。1675年から1677年には、大聖堂聖歌隊の子供たちを教える仕事を引き受けていた。

作品

カバニーリェスの作品の多くは、当時としてはヴィルトゥオーソ的で先進的だった。多くのカバニーリェスの手稿がバルセロナのカタルーニャ図書館(en:Biblioteca de Catalunya)に保管されている。オルガンのための作品(ティエント(en:Tiento)、トッカータ、パッサカリアなど)、最高13部の合唱作品が多数現存している。

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犠牲精神とは何者か

犠牲精神とは何者か

キリスト教に於いての殉教、共産主義における自己犠牲、仏教の利他心、そし親の子への、神は死んでも、人は、信念、真理、共同体のために、主義のために、被抑圧者のために、貧しき者のためにと、犠牲となることを讃え、新しき犠牲精神とは、津波に対する「てんでんこ」のような核汚染地への帰村ではなく、保養または移住、愛郷ではなく、安全な土地へのように、もはや人を助けることに意味はなく、自らが生きるだけで十分な、こうしたすべての意味を剥奪された世界での、愛といわれた犠牲精神に変わる、最期の人々の、新しき犠牲精神とはいかなるものに、人のために、人の助けに、人と共に、美に、真理に、自由に、平等にと、意味を見いだし、作り上げてきた世界に、核という絶対の前に、対処療法しか持たない科学に、世界の核汚染地を生きる人々に、どのような精神が、人間の過去の文化を以っては役に立たない、結局は絶望を肯定、受容して、今在ることを、死すまでの喜びとする以外に、貧しくとも、病んでいたとしても、今在ることの、他者の価値、喜びは知らず、私対世界としての今となるのだった、個人主義でも、厭世、虚無でもない、只、私の世界所有でしか、

家族愛と特攻隊

特攻隊員の告白が、自分が死んだら家族がどうなるかが心配だったと、自分の命より家族の行く末を案じているようなTV、ヤクザが、ISISが家族の面倒は見ると言われて、殺しをするような、個人の尊厳が、組織、国家のために、愛と言うもの、自己犠牲というものの、利他主義の、個人の忘却が、敵と言われる相手を人間として見ない、自己矛盾した精神が、相手を尊重しないものに、愛とは与えるものではなく、利己の、互いの利己によって、契約でもない、私の為が了解されて成立することの、キリストの愛、国家の愛、組織の、共同体の、又は子の、親のと、愛は犠牲の産物のように継承され、人間文化が形作られ、未だ、人は十全には生きていないのだった、これほどの愛の強要の世界、愛の肯定の世界、罪の洗脳の世界、人間を子羊にしてきた世界、

マザーテレサの不信心と川端のノーベル賞

マザーテレサが死ぬその時まで、神への不信に苛んだとの、テレサの神父への手紙、無神論に陥って、テレサがそれでも神を求め、自分の行いで神を示すことで、自己欺瞞を繕っていたのだが、苦悩は増し、告白への手紙へと、ノーベル賞はその欺瞞が頂点に、神を信じていないのに、信じている姿を、そして人に神を示すという罪、愛してもいないのに、愛しているというような、川端のノーベル賞も、美しい日本の私などと、日本賛美したのだが、川端は少しも美など感じてはいなかったのだ、退廃、末期、もののあわれの中に、世捨て、逃避した世界にこそ存在を感じ、骨董、キスリング、自分の作品世界、ノーベル賞はそれらの対立世界の頂点となった、少女趣味の喪失からの自殺ではなく、生命の否定への帰結としての、作ってきた、過ごしてきた、自らの美への殉教としての自殺であった、それは三島も同じ、その点では自己に誠実であった川端、一方のマザーテレサは、自己に誠実であろうとしての懐疑からの、欺瞞、偽善からの苦悩、不実の人生であった、自己に誠実であればこそ、ソクラテスであり、多くの自己貫徹者こそ、新しき人である、

Mが死んだ

子供から先に死んでいく世界、それが当たり前となってしまった、膵臓癌で、一年足らずで、あっと言う間に、2人に1人は癌で死ぬと言って、それがどうしてなのか、どうしてこんなことにかは問わず、タバコだ、食品だ、排ガスだと、核の被曝が全てに関わっていることを無視し、癌は現代病であると、長寿社会が、子から死んでいくというのに、奇形、難病が増え、子の人生が50年になるというのに、核武装、核拡散、核汚染は止まず、癌死の者ら従容と死の床につき、こんな世界と運命に、感謝を捧げ、核への憎しみは吐露することなく、

ジャコメッティ

ジャコメッティの彫刻は、フクシマに生きる人々に、チェルノブイリに生きる人々に、世界の核汚染地に生きる人々に、良く似合う、口を引き締め、虚空を見つめ、為すすべなく立ち尽くす人の姿、嘆きを剥ぎ取られ、喜怒哀楽を剥ぎ取られ、只在る絶望の姿、絶滅までの人の姿、見えないものを見ている、予感できないものを感じている、が、見えている、感じている、絶望を生きるという姿で、未来を、世界を、その愚かしさ、苦痛を生きるという形に於いて表わしている、立ち向っている、それ以外に方法が無いという形において、蹲る、嘆く、怒る、殺しあう、自殺する、飢える、病む、あらゆる人間の断末魔の後に、生き残った新しき人、絶望に対して、パンドラの箱に対して、それでも生きるという、生命の原形質、新しき人とは、この生命の原形質を生きる人、

美しい日本の私〜川端〜

3.11震災以降の、美しい日本、素晴らしい日本のプロバガンダTV、新聞、講演、対話、あらゆる媒体に意図され、奏でられている、フトその昔、違和感を持った川端の、ノーベル賞受賞のスピーチを思い出して、彼は本当に美しい日本と捉えていたのか、何を美しいとしていたのか、その美しいとするものに、意味と、平安を感じていたのか、ジャパン、ザ、ビューティフル、アンド、マイセルフの英訳、美しい日本と私ではあるが、美しい日本の私と、私と日本を対置するのではなく、一体化させた助詞の表現、道元、明恵、良寛、一休の紹介、3日徹夜して書いたと、空、無涯無辺、無尽蔵の心の宇宙、融通無碍、もののあわれ論、私は日本古来の悲しみの中に帰っていくばかりと、日本に近代化以前の宿命があり、それがもののあわれというものであり、この滅びの世界に殉じると、何かに書いていた、覚悟をもっての敗戦から20年、70才にして、万物一如の思想、脚下照顧、近代進歩に対しての保守、川端の、三島の、戦後を生きるよすがとしての、侘び、寂び、もののあわれ、彼らの心にどれ程の哀れが、喪われた、国破れた、寄る辺のない、弧塁の、生存の意味、末期の、末裔の遺書としての、

井の頭公園とナジャ

エミコとデイトをするように、井の頭公園界隈を歩く、私はカメラのモチーフを探して、エミコはショッピング、かつてシュールリアリズムを特別な詩人の世界のように思い、憧れ求めた、意識を排除して無意識、自動筆記などと、が、今世界がシュールリアリズムとなってしまって、世界に何ら期待も、希望も持てなく、むしろ絶望だけを見る私にあっては、世界は全て無意識世界となった、禅寺に遊ぶ私とエミコ、70を過ぎ、間もなく生命を終えようとしている二人が、このシュールな世界を、ナジャと遊ぶように、若き日、ナジャは、想像、自由、理想、芸術の女神と思えた、そのナジャが今私の中にいると思える、吉祥寺の店に、人々に、公園、動物園、彫刻館に、核汚染、絶滅への刻みからだけではない、私の価値観の変更から、もちろん癌サバイバー、3.11が決定的ではあったが、この狂気を、エミコと二人で、ナジャが様々にしゃべってくるように、「どうして?」「あれは何?」「あら」「ねえ見て」と、エミコがとある中東人の店で指輪を買った、色がきれいだと3千円の赤い石、たとえ100カラットの宝石であっても、今や意味をなさなくなった、シュールな時代に、その柘榴のような赤い石は鈍い光を放っていた、「どう、この色、ルビーとも違う」「ねえ、ねえ、」エミコという私のナジャ、私は40年を愛でて来たのだなーと、ゼミで「遊びにおいでよ」と気さくに呼ばれた翻訳者の稲田さん2013年に亡くなっていた、

シュールレアリスム宣言と絶望主義

書くべき、今やシュールレアリスム宣言は完成、頂点の域、核、原発、世界の汚染地帯、DNAの毀損、人間はこの現実世界に於いて、放射能管理区域に於いて、セックスをし、芸術と言われる便器を量産し、人間のしていることが全てシュールに、誰もがシュールレアリストに、このシュールを冷徹に、哀悼をもって味わう絶望主義文学を、

ノスタルジアの嫌な気分

過去を書いていて、ふとFBで小学校の同窓生の記事を目にし、思わず懐かしさが湧き、交友を思い立ち、メールをし、TS、KT、KSには電話もし、そして訪れた虚しさ、私の現在の、3.11以降の絶望感情との違和感に遭遇し、自己嫌悪に陥る、彼ら、ノスタルジーなどなく、現在を、日常を生きてきている、私は絶望の日常から、ことさらの感情に捉われている、その落差があるのに、昔の子供時代のノスタルジーに依存して、メールをし、電話もしたことの、乖離、アンビバレンツ、アナグロニズム、SK、K子、AT、FT、etcと、人との絶交を良しとして、私を生きてきたのに、今更何かを求め、その一人生く事の気休めで、人と交わったことへの、先日のT、I達への、その日限りの、気分的な共感の交流と同じように、嫌なものが、彼らの日常を邪魔したような、私が偽善を思い起こさせてしまったような、私対世界とは、私からの共感ではないのだから、3.11以降とはそうしたもの、3.11とは「ベルリン天使の詩」のように、彼らには見えないのだから、裏切り者、変節者、気分屋、利己主義、闖入者、自分勝手、冷たい人、苦労知らず、と私の頑なさにかつて友等は言い、私はそれらを良しとし、異邦を生きて来た、ノスタルジーとは、私から過去への、今は亡き世界への、失われた時を求めてではないのだ、過去は今や断たれた世界、決して時は見出されることはないのだ、

核問題が、私の絶望主義が、政治で解決するのか

権力者が持ちたい、武器としての核、権力という人間の姿、それらが起こした核のパンドラ、不可逆の、戻せない世界の、核汚染という絶望というものが、政治で解決しないと思えていて、この取り戻せない世界への絶望が、組織と個人の、かつての政治参加の問題を超えて、私の政治への無関心になっている、この無を共有することで、全ての問題をアウヘーベンできないものかと、神という絶対から、核という絶対、神は無形、沈黙、核は有形、現実、いずれ人は核の惨禍を経て、対立、矛盾を超えていくだろうとの希望、助け合い、支えあうしか方法が無いことへの共有へと、政治、権力は、必要も、意味もなくなり、原始共産制のような社会へと、







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