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ピエトロ・アントニオ・フィオッコ

ピエトロ・アントニオ・フィオッコ(Pietro Antonio Fiocco, 1654年2月3日 - 1714年9月3日)は、イタリア出身の盛期バロック音楽の作曲家。より高名なジョゼフ=エクトル・フィオッコは実子である。後半生にフランス語圏に移ったため、ピエール=アントワーヌ (Pierre-Antoine) というフランス語名も残している。

ヴェネツィア出身。幼年期やイタリアで受けた音楽教育については、何も分かっていないが、音楽家として名を揚げ、オランダ総督によってアムステルダムに招かれる。エレナ・ラピタ・ダ・パリデ(Helena Rapita da Paride)の曲集には、フィオッコの作曲した数楽章が含まれている。1681年にジャン=バティスト・リュリの歌劇《アルセスト》のハノーファー公演のために、序幕の追加作曲を担当。1882年夏にオーストリア領ネーデルラントの首府ブリュッセルに引越し、トゥルン・ウント・タクシス侯爵ウジェーヌ=アレクサンドルの宮廷に仕官する。ノートルダム・デ・ヴィクトワール教会の聖歌隊長に指名され、ミサ曲やモテットを含む宗教曲を作曲した。ブリュッセルにて他界。

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ジョゼフ=エクトル・フィオッコ

ジョゼフ=エクトル・フィオッコ(Joseph-Hector Fiocco、1703年1月20日 ブリュッセル - 1741年 6月22日 同地)は、ベルギー盛期バロック音楽の作曲家。生前は指揮者やヴァイオリニストとしても活動したが、現在はフランス・クラヴサン楽派に影響された一連のチェンバロ作品によって名を残すにとどまる。

父親はヴェネツィア出身で、1682年よりオーストリア領ネーデルラントの首府ブリュッセルに定住したイタリア人作曲家ピエトロ・アントニオ・フィオッコ。父親と兄から音楽教育を受け、アントウェルペン大聖堂のヴァイオリニストや聖歌隊長を務めた。1737年にブリュッセルに里帰りし、聖ギュデュル教会の聖歌隊長に就任するが、それから4年後に夭逝した。

ジョゼフ・フィオッコは、ベルギー18世紀前半の最も重要な作曲家であり、その楽曲は、イタリア音楽とフランス音楽のそれぞれの様式を結びつけ、早くもギャラント様式の要素を取り込んでいる。いわゆる万能人でもあり、音楽家としての活躍の傍ら、語学教師として古典ギリシア語やラテン語の指導にも携わった。その上さらに、弦楽器製造にも勤しんでいる。

主要作品一覧

クラヴサンのための舞曲集 作品1(1730年ごろ出版)一部はイタリア様式、一部はフランソワ・クープランに倣ったフランス様式による
ヴァイオリンと弦楽合奏のためのアレグロ
一連の宗教曲(モテット、循環ミサ曲、ルソン・ド・テネブレ)自筆譜のまま伝承

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ルドヴィコ・ロンカッリ

ロドヴィコ・ロンカッリ(Lodovico Roncalli)もしくはルドヴィコ・アントニオ・ロンカッリ(Ludovico Antonio Roncalli, 1654年 - 1713年)は、イタリアの貴族(伯爵)・ギター奏者。

5弦ギターのための曲集《スペイン・ギターのためのカプリッチョ Capricci armonici sopra la chitarra spagnola》を1692年に出版。この曲集の6弦ギターのために近代的な譜面は、1881年にオスカル・キレソッティが編集している。原本は、パオロ・パオリーニ校訂によるファクシミリを入手することができる(フィレンツェ、1982年出版)。近代版の全曲集は、1950年代初頭に東ドイツの出版社によって刊行された。

この曲集は、9つの組曲からなり、それぞれいくつかの短い楽章を含んでいて、ギターの愛好者から非常に好まれている。個々の楽章がしばしばギター教則本に載せられることもある。そのうち《パッサカリア》は、オットリーノ・レスピーギ編曲の《リュートのための古風な舞曲とアリア 第3集》の終曲に使われて非常に有名になった。

他の盛期バロック音楽の作曲家のものと違って、ロンカッリの舞曲楽章は様式化されておらず、実際のダンスの趣きをとどめている。

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アゴスティーノ・ステッファーニ

アゴスティーノ・ステッファーニ(Agostino Steffani, 1653年7月25日–1728年2月12日)はイタリア盛期バロック音楽の作曲家・オルガン奏者で外交官およびカトリックの聖職者。バイエルンを中心にドイツで活躍した。

生涯

幼少期にヴェネツィアの聖マルコ大寺院の少年聖歌隊員に加わる。1667年にその美声に魅了されたタッテンバハ伯爵によってミュンヘンへと連れられて行き、同地でバイエルン選帝侯フェルディナント・マリアより奨学金を得て学業を修め、バイエルン宮廷楽団の一員に加わって俸給を得る。ヨハン・カスパール・ケルルのもとで音楽修業を続けた後、1673年にローマに留学、エルコレ・ベルナベイに師事して6つのモテットを完成させる(現在その手稿譜はケンブリッジのフィッツウィリアム博物館が所蔵)。

1674年にミュンヘンに戻り、最初の作品《 Psalmodia vespertina》を出版(1世紀後にマルティーニ師の『対位法教程 Saggio dl contrapunto』において部分的に転載される)。1675年に宮廷オルガニストに任命され、年代は不明ながらも司祭へ叙階されてレプシング大修道院長の称号を得る。聖職者という地位は、舞台音楽への関心に妨げとなるものではなかった。ステッファーニは生涯のさまざまな時期に劇場のための音楽を作曲しており、それらの音楽は、間違いなく当時の劇音楽に強い影響力を及ぼしたのである。最初の歌劇《マルクス・アウレリウス帝 Marco Aurelio》は、1681年にミュンヘンでカーニバルのために作曲され、上演されたが、これは分かっている限り、唯一つの筆写譜がバッキンガム宮殿王立図書館に保存されている。本作に続いて、《ソロン Solone》(1685年)、《厚かましさと敬意 Audacia e rispetto》《恋の特権 Prerogative d'amore》《ローマ王セルウィウス・トゥリウス Servio Tullio》(1686年)、《アラリック Alarico》(1687年)、《ニオベ Niobe》(1688年)が産み出されたが、これらの作品の行方は杳としてつかめない。

選帝侯マクシミリアン・エマヌエルより寵愛を示されていたにもかかわらず、ステッファーニは1688年にハノーファー宮廷楽長の任務を受け入れる。同地では、1681年に面識を得たブラウンシュヴァイク=リューネブルク公エルンスト・アウグスト(後のハノーファー選帝侯)にもっと近づこうとし、公女ゾフィー・シャルロッテ(後のブランデンブルク選帝侯妃ならびにプロイセン王妃)や哲学者のライプニッツ、大修道院長で文筆家のオルテンシオ・マウロ(ステッファーニの歌劇のいくつかで台本を執筆)ら、多くの知識人や文人と楽しい関係を築いた。また1710年には、ハノーファーで輝かしい経歴に乗り出そうとしていたヘンデルに、何くれなく目をかけている。

ハノーファーでは作曲活動によって長期間にわたって勝利をおさめ続けることとなる。1689年には歌劇場のこけら落としに歌劇《ハインリヒ獅子公 Enrico il Leone》を作曲、はなはだ豪勢な演出がなされ、大成功を収めた。同じ劇場のために、《ヘラクレスとアキレウスの力比べ La Lolta d'Ercole con Achilleo》(1689年)、《気前のよいオルランド Orlando generoso》(1691年)、《敵同士の和睦 Le Rivali concordi》(1692年)、《満たされた自由 La Liberia contenta》(1693年)、《運命の凱旋 I trionfi del fato'》(1695年)、《ブリセード Briseide》(1696年)が作曲されている。以上の譜面は、5巻の歌曲集や3巻のデュエット集とともにバッキンガム宮殿に保存されており、1714年にハノーファー宮廷からイングランドに移された資料の一部となっている。

ステッファーニは新たな拠点において、音楽家として名を揚げただけではなかった。エルンスト・アウグスト公が1692年に選帝侯に指名されると、かなりの外交力を携えた特使が、さまざまなドイツ諸侯の宮廷を歴訪することがどうしても欠かせなくなった。教養人の修道院長であるステッファーニが、特命全権公使の称号のもとに、細心を要するこの使命に駆り出されたのは1696年のことであった。ステッファーニがいとも順調にこの難題をこなしたため、ローマ教皇インノケンティウス11世は、ステッファーニがかつてハノーファーのカトリック教徒に保証したある種の特権を認め、ステッファーニを西インド諸島スピガの司教として聖別した。

ステッファーニは1698年に大使としてブリュッセルに派遣され、同年エルンスト・アウグストが没すると、デュッセルドルフの宮中伯ヨハン・ヴィルヘルムに仕官した。ヨハン・ヴィルヘルム伯爵は、枢密顧問官や使徒座書記官の事務所をデュッセルドルフに構えていた。これらの高位に就けられたために、ステッファーニは大きな無作法を冒してまで公然と劇音楽を創作し続けることはほとんど困難になった。しかしながらその才能は、いつまでも抑圧に甘んじていることなどできなかった。1709年になると、秘書兼書生のグレゴリオ・ピーヴァの名を借りて2つの新作オペラの上演(《エネア Enea》ハノーファー公演と《タッシローネ Tassilone》デュッセルドルフ公演)を実現することにより、まんまと難局を切り抜けたのだった。ちなみにこの2曲の手稿譜は、ピーヴァの署名つきでバッキンガム宮殿に所蔵されている。同じ蔵書の一つである《アルミニオ》の譜面は、デュッセルドルフ時代の1707年にさかのぼり、明らかにステッファーニ作品であるにもかかわらず、作曲者名は掲げられていない。

ステッファーニは、イギリス王になったハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒ(ジョージ1世)のイギリス行きには同行しなかったものの、ロンドン古楽アカデミーの終身名誉総裁に選ばれている。その見返りに同団体に、6声と管弦楽のための壮麗な《スターバト・マーテル》、3つの秀逸なマドリガーレが送られた。以上の自筆譜は今なお現存している。大英図書館は、同時期に作曲された3声と管弦楽のための《詩編第110番「主よ汝をほめまつる」Confitebor tibi Domine》を所蔵している。これらの作品はみな作曲当時としては進歩的である。1727年に最後のイタリア訪問を果たし、ローマのオットボーニ枢機卿の宮殿でヘンデルと再会した。ヘンデルはハノーファー時代にステッファーニから受けた親切を忘れておらず、その後も常に覚えていた。二人の出逢いはこれが最後となった。ステッファーニはその後まもなくハノーファーに戻ると、フランクフルトでいくつかの外交業務に携わっていたさなかに急逝した。

作品と評価

場面と衣装があるにせよ、オペラがしだいに格式張った演奏会の性質に近づいた時期にあって、ステッファーニは自作のオペラの中で、舞台運営に炯眼を発揮した。だがバッキンガム宮殿王立図書館所蔵の自筆譜について言うと、これらのオペラは全くもって知られていない。それでもステッファーニは、2声と通奏低音のための室内カンタータなどの二重唱作品は、美しさゆえに忘れられることはなかろう。大英図書館は、これらの魅力的な作品を100曲以上所蔵しており(書籍番号 Add. MSS. 5055 seq.)、そのいくつかは1679年にミュンヘンで出版されたものである。


二重唱の浄書された自筆譜

ステッファーニは、声楽曲においては、しばしばアレッサンドロ・スカルラッティに劣るとされ、意図の真摯さにおいてナポリ楽派の巨匠たちに比肩し得るような二重唱は一つもないものの、それでも十分魅力的である。一方、器楽曲形式の熟練において、同世代のイタリア人作曲家(たとえばスカルラッティ)とは、いくぶんかけ離れていた。その重要性は、当時のドイツ人作曲家が目指した「趣味の和合」を独自に実現させ、ヘンデルの芸術的発展の一因となった点にある。たとえばオペラ用序曲は、イタリア音楽の甘美さと、フランス音楽に影響された、論理的で明晰な構築性とが結び付けられている。

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アルカンジェロ・コレッリ

アルカンジェロ・コレッリ(Arcangelo Corelli, 1653年2月17日 - 1713年1月8日) はイタリアの作曲家、ヴァイオリニスト。姓はコレルリ、コレルリ、コレリのようにも書かれる。

生涯

ヴィヴァルディより25年、大バッハやヘンデルより32年年長にあたる。合奏協奏曲、トリオソナタ、ヴァイオリンソナタで知られる。アルカンジェロ・コレッリはフジニャーノ(現在のラヴェンナ県内)で生まれた。彼の前半生については全く知られていない。コレッリの家系についてはあまり多くのことは知られていないが、善にもつよく悪にもつよい個性的な血族であったようである。コレッリが生まれる20年前、一族のルドルフは町の暴動の首謀者になったかどで処刑されたが、同じ一族から僧侶、法律家、医学者、詩人などが輩出している。

彼は幼いうちに、当時イタリアの器楽の発展の最大の拠点であったボローニャに出て、ここでベンヴェヌーティにバイオリン奏法を学び、さらにブルノーニについて音楽家として大成した。彼のヴァイオリンの師はジョヴァンニ・バッティスタ・バッサーニという人物であったとされるが、これも伝聞情報の域を出るものではなく、いかなる教育で彼が育ったのかも不明である。有名な教皇の礼拝堂付き歌手であったマッテオ・シモネッリが彼に作曲を教えた。

コレッリの初期の作品では、みずからフジニャーノ生まれでボローニャの人と呼ばれるアルカンジェロ・コレッリと名乗っているが、彼が確実にボローニャに滞在したのは1666年(13歳)から1670年(17歳)までの4年間のようである。コレッリ最初の大きな成功は19歳のときにパリで得たもので、これによって彼はヨーロッパでの評判を得た。22歳の歳、1675年に、彼はローマに出てサン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会でバイオリン奏者の地位についた。1679年、26歳の時に、彼はローマのカプラニカ劇場(英語版)で友人のパスクィーニの歌劇<義務と愛と慈悲>のオーケストラを指揮した。フランスのラゲネは、この時「私はローマでコレッリ、パスクィーニ、ガエターニの3人が同じオペラで共演するのを聞いたが、この人たちはそれぞれバイオリン、チェンバロ、テオルボにかけては世界の第一人者である。その上、この人たちは1ヶ月か1ヵ月半の間に300から400ピストーラも稼ぐ」と、最大限の賛辞で感想を記した。

その後、コレッリはパリからドイツへ移った。1681年には彼はバイエルン選帝侯のもとで勤めていた。この前後1680年から1685年の間、彼は多くの時間を友人のクリスティアーノ・ファリネッリ宅で過ごしていた。この時期が最も脂がのり、作品番号を記した代表作を世に放つだけの実力があったようである。1685年にはコレッリはローマにおり、そこでスウェーデン女王クリスティーナのための祭典での音楽公演を指揮し、またピエトロ・オットボーニ枢機卿(後のローマ教皇アレクサンデル8世)の寵臣であった。1689年から1690年にかけてはモデナに滞在し、モデナ公はコレッリに対して寛大であった。1708年に彼はローマに戻り、オットボーニ枢機卿の邸宅で暮らした。同年には、国王の招きでナポリを訪れている。[1]

コレッリが59歳で亡くなったとき、彼は12万マルクもの大金とブリューゲルやプーサンなど貴重な絵画のコレクション(136枚)とチェンバロ1、バイオリン2、チェロ1、コントラバス1を有しており、楽しみといえば贅沢をすることのみであった。彼は自分の後援者と召使、友人に遺産を譲ったが、友人は寛大にもその財産をコレッリの親類に返還した[2]。コレッリはローマのパンテオンに埋葬された。

影響

1690年頃のコレッリ

1700年頃のコレッリ
コレッリによって生み出され、その弟子たち(フランチェスコ・ジェミニアーニ、ピエトロ・ロカテッリほか多数)によって守られてきた演奏形式はヴァイオリン演奏の発展の中心となる重要性をもっていたが、コレッリは自身の楽器演奏能力のうち、ほんの限定された一部しか用いなかった。このことは彼の著作からも見て取れる。作品6-1の第三楽章のような急楽章の中でも、ヴァイオリンのパートは第四ポジションの最高音である最高音弦のホ(E)音より上に行くことがないのである。一説によると、コレッリはヘンデルのオラトリオ「時と悟りの勝利」[3]の序曲におけるアルティッシモのイ(A)音にまで及ぶ楽節を演奏することを拒み、作曲者がその音を演奏したときに「技術を誇示するためだけにこんな音を弾かせるとは」と痛烈な批判を浴びせたという。[4]

しかしながら、コレッリの器楽の作曲は室内楽の歴史に一新紀元を画し、彼の影響は自分の国の中に留まらなかった。ヨハン・ゼバスティアン・バッハはコレッリの作品を研究し、コレッリの作品3(1689年)の主題に基づきオルガンのためのフーガBWV.579を作曲した。またコレッリは、アントニオ・ヴィヴァルディに最も影響を与えた人物でもある。ローマの音楽界は多くをコレッリに負っている。彼は貴族社会の最上位に受け入れられ、長期にわたってオットボーニ枢機卿の邸宅で行われる高名な月曜演奏会を主催していた。

大バッハやヴィヴァルディは死後パトロンからの受けも消え失せ急速に忘れられたが、コレッリだけはパトロンの庇護もありそうではなかった。作品番号の記された作品はヴァイオリンの教育の現場で使われ続け、新古典主義時代にはバッハやヴィヴァルディよりもその影響が広範だったと考えられている。彼の痕跡はセルゲイ・ラフマニノフの「コレッリの主題による変奏曲」、八村義夫の「ラ・フォリア」にも表れている。

作風

コレッリの作品は、旋律の美しい流れと伴奏パートの丁寧な扱いが特徴的であり、それゆえコレッリが古風な対位法の厳格な規則から自由であったといわれるのももっともなことである。また、死後出版の作品集の中にあるトランペット・ソナタが彼の唯一の管楽器のための作品で、そのほかの曲はすべて弦楽器と通奏低音のためのものである。コレッリの様式はすでに旋法のための厳格対位法ではなく「調性のための対位法」のいくつかの特質が表れている。

48曲のトリオ・ソナタと、ヴァイオリンと通奏低音のための12曲のソナタならびに12の合奏協奏曲が名高く、出版された作品のうち、作品1から作品6までがすべて器楽曲である。中でも最も有名なのは、《ヴァイオリンとヴィオローネ、チェンバロのためのトリオソナタ》作品5(ローマ、1700年)である。西洋では、コレッリの合奏協奏曲がしばしば人気であり、たとえば《クリスマス協奏曲》作品6-8の一部が映画「マスター・アンド・コマンダー」のサウンドトラックとして利用されている。また、小説『コレリ大尉のマンドリン』にもしばしばコレッリのことが話題にされている。

コレッリの全作品はCDでも12枚程度と極めて少なく、多くの作品を破棄したと考えられているが、事の真相は不明のままである。最有力説は「パトロンが作品の推敲を許し、納得がいくまで書き直しできる環境を与えた」とされているが、彼の書式の密度の高さを考えるとありえない話ではない。

作品一覧

生前発表作

トリオ・ソナタ(教会ソナタ)作品1(全12曲、出版:ローマ、1681年)
トリオ・ソナタ(室内ソナタ)作品2(全12曲、出版:ローマ、1685年)
トリオ・ソナタ(教会ソナタ)作品3(全12曲、出版:ローマ、1689年)
トリオ・ソナタ(室内ソナタ)作品4(全12曲、出版:ローマ、1694年)
ヴァイオリン・ソナタ 作品5(全12曲、ニ短調の『ラ・フォリア』を含む。出版:ローマ、1700年)
合奏協奏曲集 作品6(全12曲、ト短調の第8番は『クリスマス協奏曲』として有名、1712年に献呈ただし出版は没後の1714年、ローマ) 

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