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フェルナンド・E・ソラナス

フェルナンド・E・ソラナス (Fernando E. Solanas, 1936年2月16日 - ) は、アルゼンチンの映画監督・脚本家・政治家。

クレジットではフェルナンド・エゼキエル・ソラナスとも表記される他[1]、スペイン語圏など一部の地域ではピノ・ソラナスと呼ばれることもある[2]。

来歴

1936年2月16日、ブエノスアイレスで生まれる[3][4]。映画監督になるまでに演劇、音楽、法律を学んだ[3]。

1962年、処女作となる短編『Seguir andando』を製作する[3]。1968年には初の長編となるドキュメンタリー『La hora de los hornos: Notas y testimonios sobre el neocolonialismo, la violencia y la liberación (燃える時:新植民地主義の手記と証言、暴力と解放)』をオクタビオ・ヘティノとの共作として発表[5]。同年のマンハイム国際映画祭で観客賞、国際映画批評家連盟賞など4つの賞を受賞[5]。1972年には英国映画協会サザーランド杯を受賞した[6]。以後、独裁政権に抵抗する1960年代後半のアルゼンチンの映画運動「グループ・シネ・リベラシオン(英語版)」をヘティノやヘラルド・バジェホとともに牽引する[3][7]。

1971年に2本のドキュメンタリーを製作した後[4]、1975年に初の長編劇映画となった『Los hijos de Fierro (フィエロの息子たち)』を発表[8]。アルゼンチンの国民的作家マルティン・フィエロを扱った同作は[8]、出演者の一人が暗殺されるという事件に見舞われたが[9]、1978年に第25回カンヌ国際映画祭の監督週間部門に出品された[10]。その後、1976年にホルヘ・ラファエル・ビデラを中心とする軍部のクーデターにより独裁政権が樹立すると、ソラナスは翌1977年に家族とともにパリに亡命[11]。以後、8年もの間フランスを活動の拠点とする[11]。

1980年、フランス資本で製作したドキュメンタリー『Le regard des autres (他人の視線)』を発表[12]。第33回カンヌ国際映画祭のフランス映画の展望部門に出品された[13]。1985年、2年前の祖国の民主化に伴い8年ぶりにアルゼンチンに帰国。同年、アルゼンチンからパリに亡命した女優を主人公に祖国への郷愁を描いた『タンゴ -ガルデルの亡命-』を発表した[14]。同作は第42回ヴェネツィア国際映画祭で審査員特別大賞、イタリア批評家賞、ユニセフ賞を受賞[14]。翌1986年の第11回セザール賞では音楽賞をアストル・ピアソラとホセ・ルイス・カスチネイラ・デ・ディオスが受賞した[14]。ソラナスの作品は検閲により上映禁止処分を受けることもあったが、本作は1986年にアルゼンチンでも劇場公開された[15]。また、本作は日本で初めて劇場公開されたソラナスの作品でもある[16]。1988年、16年ぶりのアルゼンチンでの製作となった『スール/その先は……愛』を発表[17]。独裁政権が崩壊した1983年のアルゼンチンを舞台に、青を基調とした映像とアストル・ピアソラによるタンゴを使用し、刑務所から出所した活動家の主人公が家族の元へ帰宅するまでの一夜と主人公とその周囲の人々の回想による独裁政権下のアルゼンチンを全4部構成で描いた[18]。同作は第41回カンヌ国際映画祭で監督賞を受賞した[18]。ソラナスは同作を「愛についての映画」と語っている[11]。

1992年、父親を探しにアルゼンチンからメキシコまで旅をする少年を主人公に、ラテン・アメリカの情景を描いた『ラテン・アメリカ/光と影の詩』を発表[19]。同年の第45回カンヌ国際映画祭でフランス映画高等技術委員会賞、エキュメニカル審査員賞を受賞した[20][19]。しかし、アルゼンチンの政治的な腐敗を批判する描写が含まれていたため、ソラナスは当時のカルロス・メネム大統領から名誉毀損で訴えられ、法廷で証言した翌日には何者かに銃撃されるという事件に見舞われた[21]。また、本作は1992年に死去したアストル・ピアソラが映画音楽を担当した最後の作品となった[21]。

劇映画は1998年の『ザ・クラウド/雨降るブエノスアイレス』を最後に製作していないが[22]、2000年代以降は多数のドキュメンタリー映画を製作している[22]。2004年には映画芸術への多大な貢献を称えられ、第54回ベルリン国際映画祭で名誉金熊賞を受賞した[23]。

作品
Seguir andando (1962年) 短編

Reflexión ciudadana (1963年) 短編



Perón: Actualización política y doctrinaria para la toma del poder (1971年) ドキュメンタリー


Le regard des autres (1980年) ドキュメンタリー












外部リンク





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キリーノ・クリスティアーニ

キリーノ・クリスティアーニ(Quirino Cristiani、1896年7月2日 - 1984年8月2日)は、アルゼンチンのアニメ監督および漫画家であり、世界最初の長編アニメーション映画2本と、世界最初の音声を備えた長編アニメーション映画1本の制作者であると考えられている。クリスティアーニは世界最初の純粋な切り絵アニメーションの制作者でもある。

経歴

1896年7月2日、クリスティアーニはイタリアのサンタ・ジュレッタで生まれた。1900年にクリスティアーニ一家はアルゼンチンのブエノスアイレスに引越し、キリーノはこの南米の大都市で先進的かつ左翼的な政治思想を吸収しながら少年時代を過ごした。キリーノは自分自身はまず第一にポルテーニョ(ブエノスアイレス市民の自称。「港っ子」の意味)であり、次にアルゼンチン人であると考えるようになった。

十代の頃にクリスティアーニは絵画に情熱を傾けるようになり、その情熱は彼をして美術学校の基礎講座を受講せしめ、市の新聞で政治風刺漫画を発表させる事になった。やがて、彼は自分の風刺のまたとない対象を見出した。

1916年の国民選挙により、36年に及ぶ保守党の支配は平和裡に終りを告げ、大統領となったイポリト・イリゴージェン率いる急進党が取って代わった。イリゴージェンは下層中産階級、特にブエノスアイレスのそれを優遇し、同地に前例の無い政治的自由を与えた。ブエノスアイレス市はその返礼として、イリゴージェンの社会不適格性や、政治における保守党の腐敗が急進党の腐敗に取って代わっただけであることや、ドイツ贔屓のアルゼンチン軍内で評判の悪かった、アルゼンチンを第一次世界大戦における中立国としたイリゴージェンの決断を嘲笑した。やがてイリゴージェンには、彼の身だしなみの悪さを揶揄する「ペルード(もじゃもじゃ頭)」のあだ名が付けられた(「ペルード」には俗語で「うすのろ」の意味もある)。

ブエノスアイレス市に住んでいた別のイタリア移民フェデリコ・ヴァッレはかつてヨーロッパの撮影技師にして映画監督であり(ヴァッレは1909年のウィルバー・ライトのローマ訪問を利用して、世界初の空中撮影を行っていた)、アルゼンチンではニュース映画のプロデューサーとなっていた。ヴァッレ個人は政治に無関心だったが、彼はポルテーニョ達はそうでない事を知っていた。ヴァッレは20歳のクリスティアーニを在野から雇い入れ、エミール・コールの Les Allumettes animées (マッチ棒アニメーション映画、1908年)を教材にアニメーション映画の技術を教え、その後は彼の自由に任せた。1916年が終わる前に発表されたヴァッレのニュース映画 Actualides Valle には、キリーノ・クリスティアーニによる一分間アニメーション映画『ブエノスアイレス地方への内政干渉』 La Intervención en la provencia de Buenos Aires が収録されていた。このアニメーション映画は、不正を行ったブエノスアイレス州知事マルセリーノ・ウガルテのイリゴージェンによる追放を扱った作品であった。この作品ではアニメーション手法として、クリスティアーニの経歴を通じて彼が用い続けたボール紙の切り絵アニメーションが使用されていた。


クリスティアーニがアニメで使用した切り絵

この短編アニメーションは非常に成功し、ヴァッレは新たな企画を発表した。それは、この新人アニメーターによるイリゴージェン大統領を主題とした世界初の長編アニメーション映画の制作であった。この作品の公開を行う一連の映画館の持ち主フランチーニが資金を提供した。クリスティアーニはキャラクターデザインを新聞漫画家のエル・モノことディオヘネス・タボルダに依頼した。タボルダがほとんど関与しなかった一方で、ほとんどの原画作業をクリスティアーニが担当し、大変な努力の末にクリスティアーニは目的を達成した。5万8000枚の動画(秒間14フレームで1時間10分)からなる『使徒』 El Apóstol は、1917年11月9日に初上映された。

この映画はイリゴージェン大統領が不品行と腐敗に満ちたブエノスアイレスを清めようと、ジュピターの雷を求めて天上界に昇るという内容の風刺作品であった。最後にはブエノスアイレス市が焼き尽くされる。この作品は好評を博したが、評価のほとんどはプロデューサーのヴァッレに与えられた物で、それ以外はタボルダに向けられた物であった。

1918年に、アルゼンチンのドイツ軍指揮官フォン・ルクスブルク男爵はアルゼンチン船舶を沈没させ、これを三国協商諸国の仕業に見せかける事でアルゼンチンを第一次世界大戦でドイツ側に引き込もうと考えた。事件の生存者の証言により、ほとんどの者にはその真相は明らかに見えたが、ドイツとの同盟を恐れたのと同様に、アルゼンチンがドイツの敵側として大戦に引き込まれる事を恐れたイリゴージェンは、政治的決断を避けた。

クリスティアーニはこの事件を全くの日和見主義と見なし、新たなプロデューサーと組んで世界で二番目の長編アニメーション映画『痕跡も残さず』 Sin dejar rastros を制作した。この映画の題はルクスブルク男爵が下したと察せられるドイツ軍のUボート艦長への撃沈命令を当てこすった物であった。イリゴージェン大統領は公開翌日に外務省にこのフィルムの没収を命じざるを得なかった。この行為は、急進党の大統領がその弾圧政策に関しては、自ら取って代わった保守党の大統領とほとんど変わらない事を示す物であった。その一方でクリスティアーニは投獄される事もなく、次の数年間を新聞紙上の政治風刺漫画の執筆をして過ごした。この時期に、『使徒』において炎の効果を担当したアンドレス・デュカウによる2本のアニメーション映画がアルゼンチンで制作されている。

成人した家族の援助により、クリスティアーニは広告会社 Publi-Cinema を設立し、宣伝用の短編映画の制作に乗り出した。これらのアニメーション映画の上映のために、クリスティアーニは映画館のない貧民街を訪問し、彼のアニメーション映画を差し挟んだチャップリンの短編やその他の映画の有料公開上映を行った。この宣伝は警察から「治安妨害と交通遮断」として禁止を受ける程に成功した。

1922年に“ペルード”大統領の6年間の任期が終わり、別の急進派大統領マルセロ・トルクアト・デ・アルベアールが当選した。アルベアール大統領時代に、クリスティアーニは娯楽用アニメーション短編の制作に着手した。それらの作品としては、アメリカのヘビー級王者ジャック・デンプシーとアルゼンチン王者ルイス・フィルポのボクシングマッチを描いた『フィルポ対デンプシー』 Firpo-Dempsey (1923年)や、オリンピックのサッカー競技におけるウルグアイの金メダル獲得を主題とした『ウルグアイよ永遠に』 Uruguayos Forever (1924年)、イタリアの王子サヴォイア公ウンベルトのブエノスアイレス訪問を扱った『愉快なウンベルト殿下』 Humberto de garufa (1924年)がある。

1928年、イポリト・イリゴージェンはアルゼンチンの大統領に再選された。クリスティアーニはイリゴージェンもまた急進党の腐敗した閣僚に支配されているのを感じていた。エドゥアルド・ゴンザレス・ラヌーザの脚本により、クリスティアーニは3作目の長編アニメーション映画『ペルードポリス』 Peludópolis の制作に取りかかった。この映画は飢えた鮫(急進党)に取り囲まれた海賊イリゴージェンの浮島ペルード市(アルゼンチン)を舞台にした一種の寓話であった。サウンドトラックに収録された少数の曲を含む音声が作中で部分的に流れるように、クリスティアーニは映画を編集した(当時の大多数のアルゼンチンの映画館では光学式録音の再生が期待できなかったため、クリスティアーニは原始的な円盤型レコードを使用した)。そして製作開始二年目に入った1930年9月6日、保守派の軍事クーデターによるイリゴージェン大統領の失脚により、『ペルードポリス』の制作は暗礁に乗り上げた。この作品に多大な投資をしていたクリスティアーニは制作続行を決意し、イリゴージェンや鮫の要素を薄めるべく脚本を改変し、軍事政権による逮捕を避けるため、将軍達のキャラクターをヒーローとして用心深く付け加えた。更にクリスティアーニはファン・プェブロと名付けた典型的一般人キャラクターを作品の倫理的中心を担う人物として挿入した。アルゼンチン臨時政府の指導者ホセ・フェリクス・ウリブル将軍の仮承認を受けて、1931年9月16日、クリスティアーニは『ペルードポリス』を公開した。この作品は世界初の音声付き長編アニメーション映画であった。

ほとんどの観客は革命の勃発時にそれを笑い者にすべきだとは考えなかった。追い討ちを掛けるように世界恐慌がアルゼンチンを襲った。中でも最悪だったのは、1933年にイリゴージェンが死去した事で、生前には彼の事を気にも留めなかった人々により、突然にアルゼンチン全体をイリゴージェンへの追悼の念が押し包んだ。クリスティアーニは『ペルードポリス』の配給を自粛した。

その後キリーノ・クリスティアーニがアニメーションの表舞台に返り咲く事は二度と無かった。世界の他の地域でそうであったようにミッキー・マウスがアルゼンチンのアニメーション業界を支配し、クリスティアーニに対抗する術はなかった。クリスティアーニのスタジオは映画の吹き替え及び字幕制作に方針を切り替え、その方面でのアルゼンチンにおける有力企業となった。

クリスティアーニはその生前に更に3本のアニメーション映画を制作したが、それらはいずれも大して人々の記憶に残らなかった。ウォルト・ディズニーがラテンアメリカ親善大使としてアルゼンチンを訪れた際に、クリスティアーニは自分の作品をディズニーに披露し、作画家のモリーナ・カンポスを紹介した。カンポスのスケッチは『ラテン・アメリカの旅』(1943年)のガウチョ・グーフィーの場面の原型となった。1957年と1961年の火災で、『ペルードポリス』の唯一のプリントを含めたクリスティアーニの作品の大部分は失われた。1984年8月2日、クリスティアーニはアルゼンチンのベルナルで死亡した。

作品

『使徒』 El Apóstol (1917年)
『痕跡も残さず』 Sin dejar rastros (1918年)
『フィルポ対デンプシー』 Firpo-Dempsey (1923年)
『愉快なウンベルト殿下』 Umbertito de garufa (1924年)
『ウルグアイよ永遠に』 Urugayos forever (1924年)
『鼻の手術』 Rinoplastia (1925年)
『胃の手術』 Gastrotomia (1925年)
『ペルードポリス』 Peludópolis (1931年)
『猿の時計屋』 El mono relojero (1938年)

外部リンク


ジャンナルベルト・ベンダッツィ著キリーノ・クリスティアーニ/知られざるアルゼンチンのアニメーション映画開拓者 (英語)
Quirino Cristiani Movie.com (英語)


Director (14 credits)

1943 Carbonada (Short)
1941 Between whistles and flutes (Short)
1938 El Mono Relojero (Short)
1931 Peludópolis
1925 Gastronomy (Short)
1925 Rhinoplastia (Short)
1924 Humberto de Garufa (Short)
1924 Uruguayos Forever (Short)
1923 Firpo-Brennan (Short)
1923 Firpo-Dempsey (Short)
1919 The linking (Short)
1918 without a trace
1917 The apostle
1916 Intervention in the province of Buenos Aires (Short)


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リサンドロ・アロンソ

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リサンドロ・アロンソ

リサンドロ・アロンソ(Lisandro Alonso, 1975年6月2日 - )は、アルゼンチンの映画監督。

来歴

1995年、短編『Dos en la vereda』で映画監督としてデビュー。2001年に初の長編『La libertad』を発表。第54回カンヌ国際映画祭のある視点部門で上映され[1]、ロッテルダム国際映画祭では国際映画批評家連盟賞とKNF賞で特別表彰を受けた。2004年の2作目『死者たち』は刑務所から出所した男の姿をドキュメンタリー・タッチで描き、エレバン国際映画祭審査員特別賞など多数の賞を受賞。2008年の4作目『リヴァプール』も舞台を雪山に変え、一人の男の姿を追う作風を貫き、ヒホン国際映画祭でグランプリを受賞した。2014年、ヴィゴ・モーテンセンを主演にデンマークからアルゼンチンへと旅する親子を描いた6年ぶりの長編『Jauja』を発表。第67回カンヌ国際映画祭のある視点部門に出品され[2]、国際映画批評家連盟賞を受賞した[3]。

作品

Dos en la vereda (1995年)短編
La libertad (2001年)
死者たち Los muertos (2004年)
Fantasma (2006年)
リヴァプール Liverpool (2008年)
Sin título (Carta para Serra) (2011年)短編
Jauja (2014年)

外部リンク

リサンドロ・アロンソ - allcinema
リサンドロ・アロンソ - KINENOTE
Lisandro Alonso - インターネット・ムービー・データベース(英語)


Director (8 credits)

2014 Jauja
2011 Untitled (Letter to Serra) (Short)
2009 Lechuza (Short)
2008 Liverpool
2006 Phantom
2004 Dead
2001 Freedom
1995 Two on the sidewalk (Short)


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サンティアゴ・アミゴレーナ

サンティアゴ・アミゴレーナ(Santiago Amigorena, スペイン語発音: [sanˈtjaɣo amiɣoˈɾena]; 1962年2月15日 - )は、アルゼンチンの脚本家、映画プロデューサー、映画監督、俳優である。

2007年に監督デビュー作『カウントダウン 9.11.(英語版)』がマール・デル・プラタ国際映画祭作品賞にノミネートされた

2003年に女優のジュリー・ガイエと結婚するが、2006年に離婚した[1][2]。

外部リンク

サンティアゴ・アミゴレーナ - allcinema


Director (5 credits)

Le printemps (announced)

2014 Les enfants rouges





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ヨハン・タイレ

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ヨハン・タイレ

ヨハン・タイレ(Johann Theile, 1646年7月29日-1724年6月24日)は、ドイツの作曲家、音楽理論家。とくに宗教音楽の作曲に優れ、同時代人からは「対位法の父」と称される。

生涯

タイレはその生涯において何度も任地を替えながら、音楽教師、宮廷楽長、オペラ作家等として幅広く活躍した。既にライプツィヒ大学法学部に在学中から、同大学の学生音楽団体であるコレギウム・ムジクムにおいて、歌手およびヴィオラ・ダ・ガンバ奏者として音楽活動を開始するとともに、1667年には処女作である学生歌集『世俗的アリアとカンツォネッタ集』を出版し、人気を集める。また、1666年-1672年の間には、ハインリヒ・シュッツに作曲の基礎を学ぶためにヴァイセンフェルスに赴き、シュッツの最後の弟子となる。その後、シュテッツィン、リューベックで音楽教師として活躍し、リューベック時代にはヨハン・アダム・ラインケンやディートリヒ・ブクステフーデと親交を結ぶ。1673年に出版された『ミサ曲集第1巻』はブクステフーデに献呈したものであり、ブクステフーデもこれに応えて、同年タイレが出版した『マタイ受難曲』に賛辞の詩を寄せている。

1673年4月1日、タイレはホルシュタイン公国のゴットルフの宮廷楽長に任命される。ホルシュタイン公クリスティアン・アルブレヒトは宮廷楽団の充実につとめ、タイレが劇場音楽に手を染めたのもゴットルフにおいてであったとされている。しかしながら、クリスティアン・アルブレヒトは、デンマーク国王クリスチャン5世と対立して失脚し、1675年にタイレを供だってハンブルクに逃れる。当時ハンブルクでは、市民による公開オペラ劇場の建設がすすめられており、タイレもニコラウス・アダム・シュトルンク、ヨハン・アダム・ラインケン等とともに、オペラ劇場の創設者の一員として名を連ねる。1678年1月2日には、タイレのオペラ『アダムとイヴ、あるいは創造され、堕落し、救済された人間』がハンブルク・ゲンゼマルクト歌劇場のこけら落としで上演される。宗教的主題によるタイレの作品がこけら落としに選ばれたのは、オペラは堕落した娯楽だと主張するハンブルクの教会関係者の反対を抑えるためであったとされている。

1685年、ヨハン・ローゼンミュラーの死去に伴い、その後任としてヴォルフェンビュッテルの宮廷楽長に就任する。さらに、1691年にはメルゼブルクの宮廷楽長に転出する。いずれの土地においても、タイレは有能な教師としても活躍し、ヴォルフェンビュッテルではゲオルク・エスターライヒを、また、メルゼブルクではヨハン・ツィーグラーをそれぞれ指導している。

1694年にメルゼブルク公クリスティアン2世が死去した後のタイレの活動には不明な点が少なくない。1701年-1705年頃にプロイセン国王フリードリヒ1世に献呈した『敬虔な教会音楽』の献辞では、国王にオーボエを教えたと述べており、1709年にはハレ大学で音楽教師として活動したことが知られている。その後、1718年には生地ナウムブルクに移り、1724年6月に死去するまで、同地の聖ヴェンツェル教会オルガニストであった息子ベネディクトゥス・フリードリヒの許で余生を過ごしている。

特徴

1708年にタイレが出版した作品目録(Opus musicalis compositionis)には、23曲のミサ曲、8曲のマニフィカト、12曲の詩篇曲等が掲載されており、今日までに少なからぬ作品が消失している。現存する作品の大半は合唱用の宗教音楽である。10曲のミサ曲は1曲を除いてすべて古様式(stile antico)にもとづいており、とくに『音楽の技法』(1691年頃)に収録された2曲のミサ曲は、いずれも転回可能な対位法が用いられているため、転回によってさらに2曲のミサ曲が生成する。また、ラテン語やドイツ語の詩篇による作品の多くは、4声または5声の合唱と器楽合奏のためのものであり、伝統的な17世紀の作曲様式の範を大きく超えることはないものの、音画的手法にもとづくテキストの入念な処理と対位法楽章における充実した展開等によって、確実にクライマックスを形成している。一方、1673年に出版された『マタイ受難曲』は、17世紀ドイツで発展したオラトリオ様式による受難曲の注目すべき事例であり、福音史家およびイエスの語りは一貫してヴィオラ・ダ・ガンバによって伴奏され、イエスの受難の重要な記事を注釈するため、4つの自由詩によるアリアが挿入されている。

タイレの世俗的作品のうち、ハンブルク・オペラのために作曲した3曲の作品は、ドイツ語による公開オペラの嚆矢をなすものとして重要な意義を有するが、今日いずれも消失している。一方、1667年に出版された『世俗的アリアとカンツォネッタ集』は、器楽リトルネロを伴う独唱曲24曲、二重唱曲5曲、四重唱曲1曲からなり、いつの時代も変わらぬ若者達の実直な感情がいきいきと表現されている。

対位法技法に優れたタイレは、対位法に関する専門的な著作も遺しており、ヤコブ・アードルンクは『音楽学の手引き(Anleitung zur musikalischen Gelahrtheit)』(1758年)において、タイレを「対位法の父」と称している。タイレの主著『音楽の技法』(1691年頃)は、今日5つの筆写本が残されており、当時は広く流布していたものと考えられる。なかでも、ヨハン・ゴットフリート・ヴァルターによる筆写本には、上記のミサ曲に加えて、3曲のカノン等、対位法の多様な技法を示した種々の器楽作品が収録されており、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの晩年における特殊作品の先行事例をなしている。

タイレは17世紀におけるドイツ音楽の興隆の一翼を担い、同時代人からも高く評価されていた。ヨハン・マッテゾンは、1725年に出版した『音楽批評第2巻(Criticae musicae tomus secundus)』において、タイレを「特別に信心深く正直な人で、音楽を完全に理解していた」と評している。現代はこうした評価を復活させるに至っていない。ウィリー・マクストンは1930年代にタイレ全集の刊行を企図したものの頓挫し、マクストンが準備した草稿は今日なおハンブルク市立大学図書館に眠ったままとなっている。

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