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続・続原発震災日誌1

続・続原発震災日誌1


夢を見た

 権力者、為政者に、世界が絶望状況なのに、国体、国益、利権獲得などと、絶望の前には全てが無に帰すことは解っているのに、虚しさはないのかと、見納めの世界を、一期一会の時を、喜びのうちに送りたくはないのかと、夢で私は叫んでいた、私はイスラムの一員となって、戦に参加していた、が、ふとその戦の明け暮れに嫌気が差して止めた、するとそこへビンラデンもやって来て、俺も止めたと、核で汚染された土地を盗りあっていても詰まらないからと、
世界が絶望に目覚めることが、すべての鍵に思う、透谷の人生の秘鑰とは、現代にあっては、この絶望の認識にあるのだと、絶望のシンプルさ、無条件さ、絶対さ、

人生の意味

青年の日、学ぶこと、知ること、行動することは喜びであった、学ぶこと、知ることの、そこに無限の世界が感じられ、行動することの、やはり無限の感情の味わいが感じられ、物の、人の、社会、文化、歴史への興味、何故への、が、今それら欲求が、意味の剥奪の前に失せ、人生の意味とは何であるかの根本的な疑問に囚われ、

生きる喜び

疲れ眠る喜び、草木の生長を愛でる喜び、食事を味わう喜び、何よりまだ生きている喜び、生きていることだけで喜べたあの頃、それが人生の意味のすべてであった、おつりの人生と、すべて許し、味わった、

終章

○世界に絶望が共有され、核の封じ込め、管理が共同化され、絶望が故に、誰もが戦わない世界が到来したとしても、
○ガンの転移とは違う、何年たっても終わらない核汚染、生態濃縮による遺伝子の変異、
○カミュを紐解くなら、ムルソーの世界の無関心へ、プルーストなら見出された時へ、
○私対世界を、社会、世界がどのようであっても、アウシュビッツ、死刑囚であっても、未だ在る私、その私を無の上に置く、私をこそ至上の存在として、私対世界を生く、

私対世界

○核汚染の世界にあっても、人間は争い続けるのだろう、奪われたから、殺されたからと、私は奪われたままに、殺されたままに、彼らが生きるためならと、絶望とは戦わないこと、希望しないことが可能な世界、内も外も、生も死も、核汚染という絶望の中であるということ、
○「唯一者とその所有」をテキストに、私対世界の詩を連続して終章へ、これで私はキッパリと私対世界に帰る、ツァラトゥストラが洞窟に帰るように、余命の時に帰る、
○石への、世界への、さようならの挨拶をするように、私の言葉でもって、最後の作品として、
○シュティルナー、母子家庭だったのだ、

水銀が、砒素が、スモッグが、水俣、カネミ、喘息と、見える形で、直ちにもたらされた被害であったから、彼らの怒り、憎しみは確信され、共感され、
で、私の絶望とそれらは何が違うのか、怒り、憎しみではない、予感、虚無をもたらす、現況への嫌悪、植物、動物たちへの悲しみ、核戦争も辞さずとする者らへの、無知への、その時代、暮らしの、絶望しない人間への、
新しき人とは、世界を絶望し、死にいたる病を生きる人、

G・バタイユ「無神学大全-内的体験」

結局はプルースト的、ポエジー、感情、意識への賛意の作品、青年の日、私も求めた、情熱、生の喜びへの、バタイユの老境からのノスタルジー、
Tは仏教の概念、用語の探求、ヒンズーの源流へと、私はそうした過去の文化、哲学で、打開しようとは思わない、過去とは、この核汚染の絶望とは違うのだとの、新しき人の、新しき哲学が要るのだとの、今や人間の問題ではなく、空気、水、海、山の問題であるのだとの、

ヘレン・シャルフベック

フィンランド女性画家、3歳で交通事故に合い、肢体が不自由に、生涯その身辺と自画像を描き続けた、私とは何かを、老い崩れ逝く自らをも、死臭漂い、白骨化、気化していく存在の最期までを見つめ、今や私は、この星と、この星の破滅を、ヘレンのように最後まで見つめ続けなければならない、

安保法制

尖閣が、竹島がと議論している輩、まるで自分の島のように、そして侵略に対しては国を守らねばと、自分の家のように、彼ら何の不利益、抑圧もない、権力者でもないのに、国を幻想し、国に帰属し、プロパガンダに乗せられていく、国家というものが、民族、文化、を拠り所として、歴史的に作られた支配構造であるだけなのに、彼らはそこに内なるアイデンティティーを持ち、生息場所として、生き、死んでいく、地震も、核汚染の土地も、自らの生息地として、逃れえぬものとして、

大江「晩年様式集」

レイトスタイルと銘打ち書かれたと期待したのだが、自分の人生への最期という感情は乏しく、通俗的表現、感情が鼻につき、流し読み、3.11で変化したのなら、自己省察、新たなるものへの希求が、しかし、この間私がやってきたような、再生への方法で、自己の過去作品への点検にしか過ぎず、トルストイ的、自己否定もなく、自己肯定のオプティミズムになってしまっている、自己批判を家族にやらせることの、家族を肯定的に描くことの、自作を意味づけることの、老人的、孫、子が可愛いと微笑むような詰まらなさ、

マルカム・ラウリー「火山の下」の引用、
3.11と放射能を語るが、口調の低級、スローガン的、未消化、
ラウリーの真似だが〜人物設定、視点等、
駄目なのは自作への視点の甘さと、自己肯定の気恥ずかしさ、
中野重治の言葉を引用して、自らへの侮辱を表明した大江、
自らへの侮辱とはどのようなものであったのかがない、
否定性の確立とは、いかなる絶望にも同調せぬことだと、そして私らは生き直すことができると、安直な楽天へと結ぶ、大江の雑な作品であった、
意思的楽天主義〜アランの言葉
そんなものが原発、核に対してなんら気休めにもならない、ただの痩せ我慢、痴呆に似る、
動物の野生こそ、絶望に対する方法だろう、死など知らないと、死ぬまで抵抗する姿こそ、絶望に対する唯一の方法だろう、作家が書き続ける、問い続けるとは、絶望しても死なないとは、そういうことだろう、
希望の定義をマルセルがしていたように〜形而上学日記、私は絶望の定義をしているのだった〜原発震災日誌、マルセルの最後は恩寵の覚醒、私の最後は生き物たちとの共感、
私が欲しいのは、人間は生きられるかもしれないという、否定と絶望を含んだ、肯定的希望であるのだった、その希望は人間の行動ではない、湯川の原水禁への思いではない、哲学上の、思想、人生観上の納得をしたいのだった、小熊の新しき人、個人による、オキュパイでもない、人間の行動とは、別の新しき人、別のマルセルの恩寵のような、存在への賛歌が欲しいのだった、圧倒的な存在への賛歌、原発も、核をも吹き飛ばす、人間、宇宙賛歌、サイードは言葉でそれを求めた、私は哲学に、思想に求めたい、転倒した、死に対する賛歌、悪への賛歌、絶滅への賛歌でもいい、この絶望に対する納得が欲しいのだった、







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シークレット・シスターズ( The Secret Sisters)

秘密の姉妹は、ボーカリストローラ・ロジャースとリディアSlagleからなるアメリカーナ歌と作詞作曲コンビです。デュオの音楽のようなアーティストに比較したエヴァリー・ブラザーズ

歴史

ビギニング

ローラとリディアロジャースから姉妹ですマッスルショールズ、アラバマ州。[2]その家族の両側から来た音楽への愛で(自分の祖父と彼の兄弟はハッピーバレーボーイズと呼ばれるグループを偽造)、彼らはカントリーミュージックのために熱意をもって育ち、カントリーミュージックのアーティストによって彼らの家族と一緒に歌を歌いました以下のようなドン・ウィリアムズ。女の子は最初に歌って調和することを学んだアカペラを自分の故郷の教会で。[3]ローラとリディアはデュオとして歌うキャリアを考慮されません。ローラはに行ってきましたミドルテネシー州立大学リディアは家族の「本物」の歌手と考えられていた一方で、ビジネスでのキャリアを追求します。

2010:ディスカバリーとデビュー・アルバム
ローラはに旅ナッシュビル、テネシー州で即興オーディションのためにホテルインディゴ音楽ビジネス・レコード・エグゼクティブアンドリュー・ブライトとプロデューサーのデイヴ・コブが新しい歌のグループを作成するために探して、存在していました。リディアは、オーディションに参加できなかったので、ローラは、彼女はミランダ・ランバートによって「同じ古いあなた」でオーディションを受け自分で旅しました。オーディションからの代表者はすぐに、彼女は一緒に彼女の妹リディアをもたらすことができれば、その彼女は尋ねたし、戻ってナッシュビルに来るように彼女に尋ねました。リディアは後に現れた彼らは、一緒に歌ってもらった[4]秘密の姉妹が形成されます。女の子はすぐにデモのカップルを記録するために、スタジオでの初めてロサンゼルスに流すました。ローラのために、それは飛行機の中で彼女の最初の時間でした。デモが生成し、レコード会社はそれに応じて応答始めました。週間以内に、彼らはに割り当てられていたユニバーサル・リパブリック・レコードとデビューアルバムのための曲選択プロセスが始まりました。

彼らのセルフタイトルのデビューアルバムは、「なぜ雅は私を愛していないのですか?」などのカバー曲で構成され、「ベイビーなぜなぜ」、フランク・シナトラの歌「ばかなこと」、そしてナンシー男爵さんは、「私はガットフィーリング」。[5] [6]「テネシー・ミー」や「廃棄物の日」:アルバムはまた、ローラ・ロジャースによって書かれた2枚の原稿を含んでいます。これは、ブラックバード・スタジオで2週間で記録して作製したデイブ・コブのようなアーティストと働いていた、ウェイロン・ジェニングスとジェイミー・ジョンソン。T・ボーン・バーネットがエグゼクティブプロデューサーを務めました。

秘密の姉妹は、スチールギタープレイヤーロビー・ターナーとピアニストとしてスタジオミュージシャンに持ち込ま豚・ロビンス。アルバムは古典で記録したアナログ機器。[7]制作チームと姉妹がダウンし、彼らが50年前に使用されていたテープの同じタイプに、ヴィンテージマイクや古典的な記録技術を使用していました。アルバムは10月12日にリリースされた、2010年ローラは経験を記述してみました:「非常に多くの方法では、我々はまだ私達の両親の部屋で歌を実行するのと同じ子供たちは、我々は銀スレッドと黄金の針と冷淡について歌ったとき、ヘビ、そしてすべてのことさえ起こったすべてのものとは- 。私たち自身のアルバムを作るためにその夢のチャンスを得て、私は本当に私たちがすることになっている場所私達はちょうど見つけたと考えています「。

彼らのデビューアルバムに加えて、彼らは「記録ビッグ・リバー」と「ウォバシュキャノンボールをで、」ジャック・ホワイトのギターの上に白で、のスタジオ。これは、7インチシングルとしてリリースされました。

2011年にアラバマ州を襲った竜巻に触発された彼らの歌「明日はキンダーされます。」、[9]は、アルバムで特色にされたハンガー・ゲーム:地区12とを越えてから、曲が、曲は映画で紹介されていませんでした。[10]

2014:あなたの針を置く
デュオは、村のレコーディング・スタジオにて2012年12月と2013年1月に彼らのセカンドアルバムを記録し、ロサンゼルスのプロデューサーとして、T・ボーン・バーネットと、。

アルバムは、ダウンあなたの針を入れ、2014年には、それは上の110番でデビューし、4月15日にリリースされたビルボード 200、およびトップカントリーアルバムの第18号でデビュー週で販売3700のコピーでチャート。[11]件の混合しました。いくつかの批評家は、アルバムの制作や作曲と失望を表明しました。

2015:共和ユニバーサルレコードによってドロップされた
秘密の姉妹が、このイベントの後、2015年に共和国ユニバーサル・レコードからドロップされた、彼らは生計を立てるためにツアーに行くためにバンドを支払うことができませんでした。その後まもなく、彼らは破産に直面しました。[12]で報告されているようにローリングストーン誌、「克服するための元マネージャー、彼らのセカンドアルバムの商業的失敗、次の差し迫った破産とそのレコード契約の損失の影、2014年のと訴訟がありましたダウンあなたの針を置く。これは、すべてはローラとリディアの両方のために絶望の威圧感が生じました。」[13]これらの課題のすべてがデュオのための主要な作詞作曲のブロックを引き起こしました。[14]そのためこれらの金融と芸術の挫折、彼らはアラバマ州の自宅に戻り、完全に音楽をあきらめて検討しました。[15]

2015年の秋に、シンガーソングライターブランディ・カーライルは、注目に値する二つの故郷シアトル公演を含め、彼女のためにショーを開くためにロジャース姉妹を招待しました。サウンドチェックの時には、ローラとリディアはからのリードシングルとして最終的に終わるでしょう新曲「テネシー川はローを実行します」試してみたあなたはもう私を所有していません。Carlileは、講堂の座席から聞いて、彼らが最近書いた曲の残りの部分を共有するためにデュオを奨励し、彼女の熱意を叫んでいました。まもなく、Carlileは、彼らの次のアルバムを生産されました。[13]

2017:あなたはもう私を所有していない
姉妹のサードアルバム、あなたはもう私を所有していない、ブランディ・カーライルとティムとフィルによって生成されたHanseroth、グラミー賞受賞者によって混合トリーナ・シューメーカー、およびでジェリー・ストリーによって記録されたベアクリークメーカーウッディンビル、ワシントン州(トラックを除きますシアトル、ワシントン州HokeyTalkterメーカーでジョシュ・エヴァンスによって記録された「ダメージ」。)[16]新しいアルバムに資金を供給するために、姉妹は成功した打ち上げPledgeMusicのちょうど48時間で彼らの目標の50%を上げたキャンペーンを(とほぼ1500のファンが個人的にそれらを再建するために前方に来て)ちょうどヶ月以上のそれを上回りました。[17] [18]アルバムにリリースされた新西レコード6月9日、2017年に[19]それは上の40番でピークに達しビルボード" 7月2017年にトップのアルバムセールスチャート[20]

アルバムは「ミシシッピ」、「クライすべての女の子に」このような「彼はファインだ」などの曲で構成され、「テネシー川が不足し」、そして「あなたはもう私を所有していません」。

秘密の姉妹は、彼らの新しいレコードの支援で2017年にツアーに行ってきました。ツアーはフィレンツェ、アラバマ州の故郷で5月13日に開始し、2017年末までにツアーを続けた[21]

アルバムはまた、デュオの最初の獲得グラミー賞のカテゴリーで、指名をベスト・フォークアルバムのためのグラミー賞彼らが失ったものの、エイミー・マン彼女のアルバムのために精神疾患。

外部リンク

















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アントニオ・チェスティ

マルカントニオ・チェスティ(Marc' Antonio Cesti, 1623年8月5日 - 1669年10月14日)はイタリア・バロック音楽のオペラ作曲家。

アレッツォに生まれ、ローマでジャコモ・カリッシミに師事した後、フィレンツェで活動した。フィレンツェではサルヴァトル・ローザと知り合い、ローザの台本を基にカンタータを作曲した。1652年からインスブルックのフェルディナント・カール大公の宮廷楽長に就任し、1655年に前スウェーデン女王クリスティーナがインスブルックでカトリックに改宗した際には、オペラ『アルゲイア』を上演した。1660年に教皇庁に地位を得た。1666年にウィーン宮廷副楽長に就任し、1669年に同地で没した。

チェスティは専らオペラ作曲家として知られており、最も著名なのが《ラ・ドンLa Don》(ヴェネツィア、1663年)と《黄金のりんごIl Pomo d'oro》(ウィーン、1668年)であり、後者は1666年の神聖ローマ皇帝レオポルト1世とマルガリータ・テレーザの結婚式で披露された。チェスティは室内カンタータも作曲しており、それらのアリアの純粋で繊細な調べは、舞台よりも小さな空間にふさわしい。

外部リンク









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[ Œuvres de Cesti, Frescobaldi, Lully, Purcell & Bach (Mono Version) レオポルド・ストコフスキー]








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