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シャノン・マクナリー(Shannon McNally)

シャノンモーリーンマクナリー(1973年3月17日生まれ)は、アメリカのシンガーソングライターです。

バイオグラフィー

マクナリーはで生まれたヘンプステッド、ニューヨーク州ロングアイランドに、。[1]で人類学を勉強しながらフランクリンやマーシャル・カレッジ、彼女が歌うとクラブでギターを弾き始めました。buskerとしてパリの路上で自分のスキルを卒業し、ホーニングした後、彼女はとの契約だキャピトルレコードを彼女は彼女のデビューアルバム、記録し、1997年にジュークボックススズメと(キャピトル、2002)、ジム・ケルトナー、 グレッグ・ライスツ、とジェームス・ガッドソンを。[1]アルバムは、その記録時に解放されませんでした。

暫定では、マクナリーは、のために開かれたスティーヴィー・ニックスとライアン・アダムスとと1999少女向けツアーの一部であったタラ・マックリーン、ケンドール・ペイン、およびエイミー・コレイア。彼女はまたのためにモデル化されたアーバンディケイの化粧品。2000年に、彼女はEP発行大胆ザンパラダイス。

キャピトルが発行された場合ジュークボックススズメを 2002年1月に、それはすでにライアン・アダムスとのような根風味の材料を採用していた市場にそのようにしたOブラザー、アート汝のサウンドトラック。マクナリーは、プレスツアーに着手し、サポートする、その年の夏を過ごしたジョン・メレンキャンプを。2002年後半、彼女は解放ピュア雷に蘭を EP、ソングライターとのコラボレーションニール・カザル。

2005年には、マクナリーは、アルバムの国、ブルース、そして魂の影響で返さジェロニモ。アルバムの6月のリリースは、ライブの日付の夏の価値を伴っていました。初期の2006年に、彼女は解放北米ゴースト音楽を。ツアー日程息子ボルトはまた、その放出を一致しました。

マクナリーは彼女の最初の子の出産後に2008年と2009年のほとんどを脱ぎました。彼女は実行を再開し、記録を見学デイブ・アルバン&ギルティ女性。[1] 2009年に、彼女はアルバムリリースコールドウォーターを彼女のバンドホットソースで。

2013年に、マクナリーは解放小さな町の話、の曲へのオマージュボビー・チャールズを。インタビューでは、マクナリーは彼女がチャールズの長年の友人だったと彼女のアルバムは1973年からチャールズのデビューアルバムに触発されたということを言った[2]

外部リンク





















不愉快な映画〜シャトウブリアンからの手紙〜

パリ占領時代、共産党がドイツ将校を殺した報復に、150人の政治犯を殺すというもの、アウシュビッツのように、粛々と殺されていくというもの、何を描きたいのかが、何もないが結果として、報復と殉教と、その不条理への、途中登場してくるエルンストユンガーの位置、それが報復、殉教へのアイロニーとして、絶望の中の虚無として、批判的視点としてはあるのだが、正確に、強く、深く現代を見据えているものではなく、ユンカーの点描に過ぎず、詰まらなく、不愉快であるのだった、ユンカーという男、ファシストでありながら、ロマン主義者であるのだが、文学者の絶望の中での、立ち位置を体現しているようだが、嘗ての日本浪漫派へのような嫌悪感、現代にあって、戦争に反省、慙愧など必要であろうか、人間への、社会国家への一蹴、絶望だけで充分である、
シュレントルフ、「ブリキの太鼓」、カトリック、1939年生まれだが、戦争に対する醜悪の感情はあるのだろうが、戦争に対する今までにない視点が必要な現代、個人を、大衆を、戦争そのものを嫌悪していても始らない、核の、人類未来の、哲学的深化こそが求められているのだった、

新藤兼人〜濹東綺譚〜

厭戦、反戦の視点はあるのだが、永井の中途半端さがそのままで、もっと虚無感、厭世感を出したら良かったのにと、あの時代を傍観者として送れた荷風、ゾラのようにはなれない自らを認め、惰性、傍観へと、文学において最も昇華する震災後の国難にあって、日本文学は流されていたのだった、それが花鳥諷詠であったり、諸行無常であったり、3.11後の核汚染の日本も、もう一度日本、美しい日本、すごい日本と、欺瞞、偽善に、

個の追求ではなく

私を生きる、私を生きるとはを追求、唯一者である私とはを、世界の破滅でもなく、人間の絶望でもなく、眠るを眠る、食べるを食べる、見るを見る事を通して、私は私を生きるのであり、

記憶

○裏庭の離れには立派な風呂場があったが、風呂に入った記憶はない、私はそこで子犬を飼っていた、父に諭されてか、父の自転車に乗せられ、子犬を近くの川に捨てに行った、子犬を入れた箱が沈むことなく、流されていくのをいつまでも見ていた、悲しかった記憶はない、ただ見えなくなるまで見ていた、父も一緒に見ていた、そして「もういくぞ」と私を促し、自転車に乗せた、

○裏庭には隣との共同井戸が有った、水はそこから汲んできて、台所の甕に入れて使っていた、お勝手は土間で、タイル張りの竈があった、竈を壁で隔てた所に、板床張りの台所があった、壁側に水屋があり、台所の真ん中には掘りごたつがあった、

○勝手の一段上がったところに座敷があった、家族一緒にそこで寝ていたのだが、寝むりの記憶はない、そこに何か置かれていたのかも、ただがらんどうの部屋の記憶、

○座敷の先は父の仕事場、壁には様々な刀のような桶を削る道具が、壁一面に貼り付けられ、板場の作業場には、材料の竹材、板材が積まれ、片隅には刃物を研ぐ、四角く仕切った水場があった、天井には材料を出し入れする大きな穴が開いていた、通りに面した側は一面窓ガラスで、通りを見渡せた、

○隣の母子家庭の家からは壁を隔てて、いつもミシンを踏む音が響いていた。商店街の二軒長屋のような建物、通りからはおばさんのミシンを踏む暗い顔が見えた、

○母は暇さえあれば内職の軍手かがりをしていた、風呂敷一杯になるとそれを両手に下げて、時には私を連れて、30分位の道のりを、侘しく、先行きの思案をしながら、背中には妹が負ぶさっていたはず、

記憶と唯一性

父への
加茂野時代の記憶の最古層、新たな再現はないのだが、体験した原初的な感情がそこにはあり、例えば父への信頼の感情、裏庭の道端で、久しぶりに仕事をしていた父に近寄った時、生き生きとした瞳で、私を見上げ、声を掛けてくれた、夜、うなぎの仕掛けをしに、一緒に出かけた時の、目も、声も、童心のようにはしゃいでいた、

母への、
よく泣いていた、よくグチッテいた、よく実家へ逃げ帰った、よく働いていた、抱かれたり、慈しまれた記憶はない、

家庭というもの、
家庭というものに食卓があるのだが、食卓を囲んだ記憶が一切ない、カオルさんが米を持ってきてくれて父が喜んだ記憶だけ、

自由の感情、
親に干渉されず、いつも一人の自由があった、よく町を巡った、

この個人の体験、記憶が、その人にとっての原風景、その文学の唯一性であるのだから、文学とはこうしたその個人の唯一なるものである、この唯一なる感情が、唯一者である、

佐江衆一〜人間の約束〜

アルツハイマー夫婦とその家族、死にたいと考える夫婦、死んで欲しいと考えるその息子、10万人の自殺者日本には日常の風景、家族、社会の責任と義務があるとしても、無償の行為と個人のエゴは対立し、労働としての福祉、介護制度へと、個人の幸福追求権と、尊属介護、障害者介護の対立は、社会の責任でいいだろう、ほとんどの問題は、政治の貧困の問題であるのだから、
犬と私の10の約束の中に見る、人と犬の約束とは、約束の前に、出会いと喜びがあり、その記憶があってのこと、ブンの介護は、私のブンへのブンからの喜びの記憶があるから、人と人の約束も同じである、生まれ、育てられた喜びの記憶、愛し愛された喜びの記憶、人が人を、社会が労働として分担したとしても、そこには愛された記憶が介在してのこと、

バイキングと死

アマゾンのバイキングTVドラマ、8時間10シーズンを見てしまった、末期のTNに、一分を一時間に延ばし、と存在を講釈した手紙を出し、Tには冷たい電話応対をし、嫌悪感が為、
バイキングの死生観とは、掟といい、生死は決まっているものとする、運命と一体の考え、
王になりたい者が王を殺すのだと、覇者の群れを描いていた、世界の一パーセントの人間たちの世界が、歴史ではあるが、現代も同様、一パーセント達は、国や民族など関係なく、覇者を競って同盟しているのだった、そんな世界で私は生と死の尊厳を、絶望とはを考え続けているのだった、人間という者の存在と死、自然と何ら変わりはないのに、考える私があるから考えているのだが、明日死ぬとしてもその生と死を考えることの喜び、

9.11テロ他陰謀論

全ては理由があって、陰謀を起こせる1%によって行われている、国、民族など関係なく、彼らの共謀によって、事は進められ、それらは止めるすべのない99%には無いのだった、1%とは人間の本質そのものであるのだから、人間という集団の構図、家があり、町や村があり、企業や行政機関、軍隊があり、いずれの組織においても1%のリーダーを戴き、世界は1%の人間の所有物、陰謀は彼らの学芸会、ままごと、皆友達、利益分配の談合なのだから、そうした構図の中での文学、哲学とは、反抗、不条理がテーマとなるのだが、これらが自明となった今、旧態の文学、哲学は無力、1%が人間の構図そのもの、本質そのものであるなら、そうではない、無国籍の、無民族の、無欲の、無関係の、無次元の人間こそが新しき人、反権力でもなく、社会問題でもなく、愛憎でもなく、生の執着でもなく、在ることだけの、時間だけの文学、哲学、

釈迦といえど

私対世界へのプロセスであるということ、唯我独尊とは、人の主体である私というものの確信があってのこと、イエスといえど、愛というものの全肯定の中には、世界への私というものの絶対があってのこと、考えている、感じている、生きている、この私へのゆるぎない意識があってのこと、全ては人夫々の私対世界の表現なだけ、人間の全文化、人間の生そのものが私対世界である、私は世界をこう考える、私は世界をこう生きている、私は障害を、私は貧困を、私は病を生きている、鳥が鳥を生きるように、人が人を生きている、全人間が全生物が、私対世界を生きているのだった、

老人の会話

「これからの半年は我々の一生だからね」
「でも、あんた元気だね」
「元気じゃないよ」
半年を一生として、半年後は死んでいることを想定して生きている老人達の会話、
充分に生きた人生ではあったが、あと半年の見納めと、忠犬ハチ公が主人を10年間待ち続けたという、死を知らない待つという犬の人生、人生をあと半年と考えないで、ずっと続いている一生と考える者、半年を一生として捉える者、半年を一生と捉えるしかない、余命宣告半年のTへの共感、半年の中に一生を投げ込んで、遣り残しの無いように、もう充分と、それじゃあねっと、

真実の見極め方

その人間がどのような体験、経験をしてきたか、生い立ち、階級、親戚などで、その人間の語るものが、真実かどうかわかる、知識や才能ではない、真実とは99%の人間の持つものだから、1%の人間の真実は要らないのだった、地球温暖化のゴアが、ウラン鉱山、石油会社、CO2利権、月30万円の電気代の家、ロスチャイルドの娘と結婚など、何のためか、誰のためかで、真実はないことが解る、事実でもない、捏造と、陰謀、プロパガンダであるということ、

ニィチェが核世界を論じたなら

反時代的考察も、善悪の彼岸も、アンチクリストも、すべて核を通して考えただろう、文明の破壊と、無へと進めただろう、悟りではなく、大いなる諦観、大いなる悲嘆、そして絶望へと、絶望こそ有意と捉えただろう、反俗も、反主知主義も、核の前には児戯に等しいと、密かに世界を見納めるばかりであろう、







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ジャン=バティスト・リュリ

ジャン=バティスト・リュリ(Jean-Baptiste [de] Lully', 1632年11月28日 - 1687年3月22日)は、フランス盛期バロック音楽の作曲家。ルイ14世の宮廷楽長および寵臣として、フランス貴族社会で権勢をほしいままにした。元はジョヴァンニ・バッティスタ・ルッリ(Giovanni Battista Lulli)という名でイタリア人だったが、1661年にフランス国籍を取得した。

生涯

フィレンツェの粉挽き職人の家庭に生まれ、音楽の専門教育を含めて、ほとんど正規の教育は受けていなかったが、ギターやヴァイオリンなどの演奏を自ら習い覚えた。1646年にギーズ公の公子ロジェに見出されてフランスへと連れられ、ロジェの異父姉の娘アンヌ・マリー・ルイーズ・ドルレアン(グランド・マドモワゼル)のもとで下男として奉公する。のちにグランド・マドモワゼルから、その才能を認められて正式な音楽教育を受け、加えてニコラ・メトリュからは音楽理論も学ぶが、グランド・マドモワゼルについて尾篭な言葉で詩を書き、結局は解雇された。

その後1652年末から1653年初頭にかけて、『王の夜のバレ』 (Ballet royal de la Nuit) に出演すると、ルイ14世が彼の事を大層気に入り、やがて国王付き器楽曲作曲家に任命され、更に作曲家・踊り手として王に仕えるようになる。宮廷の弦楽合奏団「フランス王の24のヴィオロン」 (Les Vingt-quatre Violons du Roi、「大楽団」 Grande Bande とも呼ばれる)に参加し、また踊り手としても頭角を現して王と同じ場面で踊るようになるなど、この関係を通して王との親密な関係を築き上げていく。当時は、1つの大きな作品を複数の作曲家で兼担することが通常で、作曲家たちは演奏家としても「24のヴィオロン」に参加していたが、リュリはこの制御しがたい楽団を嫌い、王の勅許により自前の楽団「プティ・ヴィオロン」 (Petits Violons) を結成する。1656年の仮面舞踏会 "la galanterie du temps" では、全ての楽曲を彼が作曲した。

1650年代から1660年代にかけて、リュリは王のために多くのバレ音楽を作曲し、王と共に踊り手としても舞台に出演して、深い寵愛を受けた。1661年にルイ14世が親政を開始すると、彼は王の宮廷音楽監督 (surintendant de la musique de la chambre du roi) に任命され、これを受けて同年12月リュリはフランスに帰化する。1662年には、同僚のミシェル・ランベールの娘マドレーヌと結婚し、立て続けに6児(10児とも)をもうけた。1662年のリュリの婚約時には、王自らその契約書に署名するほどであった。

1660年および62年(ルイ14世の結婚の祝祭)にイタリアからピエトロ・フランチェスコ・カヴァッリが訪れオペラを作曲・上演すると、フランスの音楽界は大きく影響を受ける。リュリはカヴァッリの『セルセ』(Xerse、1660年)、『恋するヘラクレス』(Ercole amante、1662年)の上演には付随のバレエ音楽を何曲か作曲しているが、この頃から様々な新しいジャンルの音楽にも手を広げていく。1664年からはモリエールの台本による「コメディ=バレ」(舞踊喜劇)のための楽曲で大きな成功を収める。「二人のバティスト」と呼ばれた彼らの代表作には、『無理強いの結婚』(1664年)、『町人貴族』(1670年)などがあり、モリエールとリュリ本人の出演により王室の劇場にて上演された。更に聖堂付作曲家の地位は得られなかったものの、宗教曲も多数作曲し、広く人気を博した。

しかし、1670年ごろからパレ・ロワイヤルにおける興行収入のリュリへの未払い問題などを巡って、リュリとモリエールとの仲は険悪になっていく。また、リュリが成功しないと考えていたフランス語のオペラが、ピエール・ペラン(台本)とロベール・カンベール(作曲)によって成功すると、リュリは歌劇という新しいジャンルの可能性に目を向け直した。折しもルイ14世は1670年を最後に一切踊らなくなり、バレエへの関心は年を重ねると共に次第に薄れていった。1672年、リュリはペランから王立音楽アカデミー(いわゆるオペラ座)の上演権を買い取った。リュリのこうした行為には反発も多く、また費用が莫大であるにも関わらず、王室の支援の対象ではなかった歌劇の上演には障害が多かったが、建築家カルロ・ヴィガラニ(Carlo Vigarani)と提携して自前の劇場を設立し、歌劇の上演にも熱心に取り組んだ。1673年初演の音楽悲劇『カドミュスとエルミオーヌ』は大成功を収め、王自ら観劇に訪れるほどであった。

1673年にモリエールが没すると、リュリはパレ・ロワイヤルの使用権を獲得し、他の劇団に対して踊り手の出演を禁じ、人声2声とヴァイオリン6本に制限するなどして、大規模作品の上演を独占していく。こういった強引な手法に対しては批判や暴漢による襲撃なども加えられたが、リュリの作品に満足した王により、以後の作品の初演は宮廷で行うこととなり、また王室からの財政支援も受けて、リュリは順調にトラジェディ・リリック(叙情悲劇)などと題された歌劇の作曲を進め、サン=ジェルマン=アン=レーやフォンテーヌブローの王城で初演を重ねる。

ルイ14世のリュリへの寵愛は一向に衰えることがなく、そればかりか王太子の寵をも得るようになる。王はリュリを数少ない親友の一人と感じていたし、また宮廷生活の娯楽にリュリの存在が欠かせないと感じていた。1677年のリュリの長男の洗礼式では王自らが代父となり、王の名をその子に授けた。1681年には『町人貴族』再演でのリュリの演技が爆笑を誘い、これを期に彼はルイ14世の秘書官 ( conseiller secrétaire du roi) に任命される。これに伴い授爵も受け、これ以降はド・リュリ閣下("Monsieur de Lully")と名乗るようになった。更にリュリは興行主としての才能も発揮し、パレ・ロワイヤルでは立ち見を格安にする一方で高価な指定席も備え、また王から得た特権を元に台本や印刷譜の販売事業などからも莫大な印税を得た。パリだけでなく王土各地での公演を認可する権利を得て名声を高める一方で、それまで不仲であったジャン・ド・ラ・フォンテーヌやラシーヌからは台本を入手して作曲も行った。

一方でリュリはその放蕩でも悪名高かった。リュリの生涯は華々しい成功の連続であったが、強引な手法で敵を多く作っていたリュリには、かねてから両性愛の噂が絶えず、男女選ばぬ漁色行為を種に幾度かスキャンダルに見舞われていた。絶頂期にあった1685年、ついに王の小姓のブリュネとの男色関係が王の耳に入ることになる。このころルイ14世はマントノン侯爵夫人の影響や外交上の理由などから宗教道徳を重視するようになっており、リュリはこの男色関係により王の不興を買ってしまう。1686年の『アルミード(英語版)』は宮廷での上演は行われず、パレ・ロワイヤルからの立ち退きも求められることになった。それでも王太子の寵は変わらず、リュリは王太子のための作品をいくつか作曲したが、結局、往年のルイ14世からの寵愛がもどることはなかった。

1687年1月8日、リュリはルイ14世の病気快癒を祝して『テ・デウム』を指揮した。当時の習慣に従って、長くて重い杖を指揮棒として使い、それで床を打ってリズムをとっていたのだが、誤って足を勢いよく強打し、傷口には大きな膿瘍が出来た。やがてそこから酷い壊疽を起こして、3月22日に急死した。最後のオペラ『アシールとポリュクセーヌ』は未完成のまま残された。臨終の床で「いざ死すべし、なんじ罪びとよ Bisogna morire, peccatore 」と書き残したと言い伝えられている。

音楽

音楽史の観点からリュリは、バロック音楽中期(1650年〜1700年)に属す。通奏低音が曲の推進力となる典型的なバロック様式の音楽を構築し、その後のフランスのバロック音楽に深く影響を残した。また、リュリの音楽は、速い楽章の快活さや、悲しげな楽章における情緒性を兼ね備え、幅広い表現でも名高い。特にコメディ・バレやトラジェディ・リリックのクライマックスで多用されるパッサカーユやシャコンヌは人気があり、例えば『アルミード』のパッサカーユにはジャン=アンリ・ダングルベールの編曲なども残されている。宗教曲の分野でも、たとえば宰相セキエ(Sequier)の葬送音楽『われを憐れみたまえ』(Miserere)は称賛を受けた。

リュリの影響力は、宮廷舞曲そのものの様式にも急激な革命をもたらした。それまで支配的だった緩やかで荘重な動きに代わって、急速な動きの舞曲をリュリが採り入れたからである。リュートやクラヴサンを始めとする器楽曲の発展も重なり、ブレ、ガヴォット、ジーグ、パスピエ、メヌエット、サラバンド、シャコンヌなど新しい舞曲が流行する一方で、中世からルネサンスを経て受け継がれてきたいくつかの舞曲は流行おくれとなって廃れ、生き残ったものも、例えばアルマンドは2拍子から4拍子にかわるなど、前世紀とは性格的な違いを示すようになった。

リュリは管弦楽曲の作曲にも重大な変革を引き起こし、いくつかの新しい楽器をオーケストラに採り入れている。弦楽器の弱音器使用の指示を楽譜に書きこんだのも、一説ではリュリが最初とされる。フランス風序曲の構成(壮麗な2拍子の行進曲調の導入部と、より対位法的な、普通は3拍子の主部との組み合わせ)は、リュリによって確立された。

リュリの主要作品

初期の作品には残っていないものも多い。世俗曲はおおむね1650年代から60年代はバレ、60年代後半はコメディ・バレ、1670年代から80年代はトラジェディ・リリックが作曲の中心となった。

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