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中城ふみ子〜寺山修司まで

中城 ふみ子(なかじょう ふみこ、1922年(大正11年)11月25日〈家族の記録によれば11月15日〉 - 1954年(昭和29年)8月3日)は、日本の歌人。北海道河西郡帯広町(現・帯広市)出身。旧姓は野江富美子、妹の野江敦子も歌人である。中城は婚姻後の姓で、離婚後も中城を名乗った。戦後活躍した代表的な女性歌人の一人で、寺山修司とともに現代短歌の出発点であると言われている。

概要

中城ふみ子は1922年(大正11年)11月、北海道河西郡帯広町で生まれた。婚姻前の本名は野江富美子である。地元帯広の帯広尋常高等小学校を卒業後、北海道庁帯広高等女学校に進学する。少女時代のふみ子は文学作品を読みふける文学少女であった。また、帯広高等女学校時代から短歌を詠み始めた。高等女学校を卒業後は上京して、東京家政学院に進学する。東京家政学院時代のふみ子は恵まれた教育環境、良き友人らに恵まれて青春時代を謳歌する。その中で学院で文学を教えていた池田亀鑑から、和歌の薫陶を受ける。

青春を満喫した東京家政学院時代が終わると、実家から即座にお見合いの話が持ち込まれ、婚約が成立したもののふみ子の意志で破棄をする。しかし1942年(昭和17年)、鉄道省の札幌出張所に勤めていた中城博と婚姻することになった。中城博とは性格が合わず、結婚当初から大きな不満を抱いていたふみ子であったが、生後3か月で亡くなった次男の徹を含め、4人の子宝に恵まれた。

夫・中城博はやがて業務上の不正行為が原因で出世コースから外れ、その上、愛人を作るようになった。夫婦仲の亀裂は徐々に深刻化していき、ふみ子は短歌に生きがいを見い出すようになる。中城博は1949年(昭和24年)8月には国鉄を退職し、ふみ子の実家である野江家の援助を受けて帯広で高校教師の職に就くもすぐに退職してしまい、その後、建設会社で働き出したもののそこでも問題を起こし、結局1950年(昭和25年)5月に夫婦別居となった。

戦後、ふみ子は短歌結社に参加し、自作の短歌を発表していた。1949年からは帯広の「辛夷短歌会」に参加し、そこで大森卓と出会う。大森は重い結核にかかっていたが短歌に強く傾倒しており、ふみ子は短歌に傾倒する大森に激しい恋愛感情を抱き、大きな影響を受けることになる。大森は1951年(昭和26年)9月に亡くなるが、亡くなった大森に寄せたふみ子の挽歌はその内容が高く評価されている。翌10月には別居中の夫・中城博と正式に離婚となる[1]。

ふみ子は夫・中城博との別居前後から1954年8月に癌で亡くなる直前まで、様々な男性との浮名を流すようになる[2]。ふみ子はその自らの生と性を歌に詠み込んでいった[3]。一方で子どもたちに対しても深い愛情を注ぎ続け、子どもを詠んだ短歌もまた評価が高い[4]。しかし短歌に情熱を注ぎ、地元北海道では名の通った歌人となり始めていたふみ子は乳がんにかかり、左乳房の切除手術を受けるがその後再発する[5]。

乳がんの再発後、ふみ子は死を覚悟した。ちょうどその頃、日本短歌社の「短歌研究」が読者詠の公募である五十首応募を実施した。乳がん治療のため札幌医科大学附属病院に入院することになったふみ子は、入院直後、五十首応募に投稿した。また迫りくる死を前にして自作歌集の出版を企図し、川端康成に自作集のノートと歌集序文の執筆依頼の手紙を送る。

結局、五十首応募の特選を獲得した上に、ふみ子から送られた自作集のノートを高く評価した川端康成が角川書店に強く推薦したことにより、華々しい全国歌壇デビューを飾った。ふみ子の作品はこの当時の主流であった平明な日常詠の短歌からかけ離れたものであったため、既存歌壇から激しい反発と戸惑いを持って迎えられたが、その一方で若手歌人を中心とした熱狂的な支持の声が巻き起こった。そのような毀誉褒貶の最中、ふみ子は1954年8月3日に31歳の生涯を閉じる[6]。

激しい反発や戸惑いはやがて沈静化し、ふみ子の作品は広く受け入れられるようになる。そして前衛短歌の草分けのひとり、女流歌人興隆のきっかけを作ったと評価され、作品そのものも多くの歌人たちに多大な影響を与え、現代短歌の出発点であると言われるようになった[7]。

生涯

誕生

中城ふみ子は1922年(大正11年)11月25日、北海道河西郡帯広町に父、野江豊作、母、野江きくゑの長女として生まれた。本名は富美子である[8]。なお11月25日生まれとは戸籍謄本上のもので、両親の記録によれば11月15日となっている。家人の記録と戸籍謄本の誕生日のずれの理由ははっきりしない[9]。

ふみ子の父、豊作は富山県西砺波郡戸出町(現・高岡市)の出身であり、干ばつとウンカの害に遭ったことがきっかけで、1897年(明治30年)ないし1898年(明治31年)[† 1]に家族で十勝の河西郡売買村に入植した。母、きくゑもまた、岐阜県揖斐郡の出身であったが[† 2]、両親とともに十勝に入植した[10]。

中城ふみ子が生まれ育った帯広は、広い十勝平野の中にあって、夏季は最高気温が30度を超え、冬季はマイナス30度以下を記録したこともある寒暖の差が激しい地である。また十勝は開放的で自由な北海道の開拓者精神が色濃く残っている地でもある。その一方でふみ子の両親の生まれ故郷である富山県、岐阜県にルーツを持つ住民が多く、地縁、血縁が濃厚であるとの一面もある。このような広い十勝平野、寒暖の差が激しい厳しい気象条件、開放的かつ自由な開拓者精神が残る反面、根強い地縁、血縁も残る十勝の風土は、ふみ子の人生、そして短歌に大きな影響を与えることになる[11]。

1916年(大正5年)、豊作の一家は帯広に移住した。豊作は帯広移住後、一時郵便局員として働いたというが、やがて魚屋を自営するようになった[12]。発展途上にあった帯広の町で、商売熱心であった豊作の魚屋は繁盛した。1921年(大正10年)、豊作ときくゑは婚姻し、翌年にふみ子が生まれた。ふみ子が生まれた頃、商機を掴み繁盛していた豊作の商売は、魚ばかりでなく酒類、雑貨など取扱商品を拡大していた。豊作ときくゑは忙しい日々を過ごしており、生まれたばかりのふみ子の世話は、豊作の両親、つまり祖父母が主に見るようになった。初孫であった祖父母はふみ子を溺愛し、また優美かつ怜悧、気位の高い女性であったという祖母の影響を強く受けることになった[13]。

祖父母の溺愛を受けた上に、ふみ子の誕生後、父母の豊作ときくゑとの間にはなかなか子どもが授からなかった。自然、ふみ子はひとり娘として両親の愛を一身に受けて成長する。1929年(昭和4年)、ふみ子は帯広尋常高等小学校に入学するが、この年、ようやく妹の美智子が生まれた。妹の誕生によって両親の愛情が減少したと感じたふみ子は「美智ちゃんなぜ死なないの」と言い、家族を驚かせたとの逸話が残っている。母、きくゑの回想によれば、幼い頃から独占欲が強い子どもであったという[14]。

少女時代

小学校時代

小学校3年生頃のふみ子。
ふみ子は小学校入学前の一時期、双葉幼稚園に通園した。双葉幼稚園は経済的に豊かな家庭の子どもが通園したといい、恵まれた保育環境を整備していた。しかし双葉幼稚園を卒園することは無く、途中で通園を辞めている。通園を止めた理由ははっきりとしない[15]。

前述のように1929年(昭和4年)4月、ふみ子は帯広尋常高等小学校に入学する。尋常高等小学校時代のふみ子について、母は先生から「友だちを欲しがらずに木陰でひとりしょんぼりしていることが多かった」と言われたことを記録している。同級生によれば、学校に童話や少女小説を持ち込み、休み時間ばかりではなく授業中も読みふけっていたという。また蕗谷紅児の絵が好きで、よく王子様やお姫様の絵を描いていたという逸話も残っている[16]。

幸福な女学生時代

帯広高等女学校時代のふみ子。

1935年(昭和10年)、ふみ子は帯広高等女学校に進学する。高等女学校の成績は各教科ともほぼ80点以上で、上位クラスであった[† 3][17]。学業優秀であったふみ子がやはり最も熱中したのが文学であった。女学校は本の持ち込みは禁止されていたが、こっそり山川弥千枝の「薔薇は生きている」、川端康成の「乙女の港」などといった本を持ち込み、隠れて友人と読んでいた。こっそり学校に持ち込んだ本の挿絵の多くは、中原淳一が描いたものであった。ふみ子は中原に憧れ、その字体を真似るようになったという。なお少女時代からの川端康成への憧れが、人生の最終期に発行を計画した歌集の序文を川端康成に依頼することに繋がったという説がある[18]。また作文の授業でふみ子が作った詩はいつも先生に読み上げられたといい、学校ばかりではなく自宅でも読書に明け暮れ、よく妹たちに本を読み聞かせていた[19]。


帯広高等女学校の1、2年生頃、舞踊を楽しむふみ子。

2011年(平成23年)、3年時に詠んだ短歌3首が校友会誌に掲載されていることが確認され、帯広高等女学校時代からふみ子は短歌を詠み始めていたことが明らかになっている[20]。また帯広高等女学校の一年生の時から化粧をして通学し、学校を挙げての行事である卒業生を送る予餞会の劇ではヒロインを務めて喝采を浴びたりもしており、周囲から注目を浴びることを好む性向が見える。そして高等女学校時代の成績表の性向録には「交友関係、一方的に深し」との記述が見られ、好意を抱いた人物には積極的に近づいていく性向が指摘されている。当時の担任はふみ子は個性的な成長をしていたと回想している[21]。


東京家政学院2年生時のふみ子。

1939年(昭和14年)、帯広高等女学校を卒業したふみ子は東京家政学院に進学する。母は進学に反対したものの、ふみ子自身のたっての希望で東京家政学院に入学することになった。千歳船橋にあった学生寮に入寮してそこから通学をしたが、当時、両親の商売は順調で毎月十分な仕送りがされていた。東京家政学院は文学は池田亀鑑、法学の穂積重遠、家政学は大江スミといった恵まれた教授陣を擁し、料理実習には上野精養軒や一流料亭から料理人がやって来た[22]。ふみ子は料理上手であり、上野精養軒のコック直伝のチキンライスやオムライスは、その後父母が経営する店の従業員たちの食事などに提供されることになる[23]。

東京家政学院時代のふみ子について、親友は「ひとことで言って厄介な人、文学的な才能に恵まれて、自分本位で周りの迷惑を考えない人、そして憎めない人」と評している。そして恩師である池田亀鑑もまた、「あなたの不羈奔放な御性分には、家政学院の先生方も手を焼いてゐましたが、私はその清純なお気持ちを美しいものと思ってゐました」と語っている。このようにふみ子はわがままかつ奔放で天真爛漫な少女であった[24]。

小学校時代から文学少女であったふみ子が、家政学院時代に特に熱中して読んだのが岡本かの子であった。岡本かの子について、ふみ子は学生校友会の会誌に

故岡本かの子の様な、人間らしい、女らしい生活で一生を終へたいと願ってゐるのです。
と書いている。そして家政学院在学中に、「故岡本かの子へ」との注釈付きの

絢爛の牡丹のさなかに置きてみて見劣りもせぬ生涯なりし
との短歌を詠んでいる[25]。

岡本かの子を理想の女性像としたふみ子は、家政学院時代から女性であることを誇りに感じており、後に死の数カ月前に「幸福な少女時代、更になほ幸福な家政学院遊学時代」と回想したように、2年間の家政学院での学生生活を満喫した。ふみ子は麹町にあった中原淳一関連のグッズ販売店「ひまわり」に通いつめ、洋服やレターセットなどを買っていた。そして級友と共にトランプやハイキングに興じ、喫茶店やレストランへ行き、映画や芝居を観覧し、買い物、そしてダンスを楽しんだ[26]。ふみ子の人生はその後、様々な試練、苦闘に見舞われることになるが。自分らしい生き方を貫くことを求め、女性であることを誇りに思う心性を持ち続けた[27]。


東京家政学院の卒業アルバムのふみ子。

東京家政学院時代のふみ子にはボーイフレンドもいた。ふみ子が「お兄様」と呼んだ樋口徹也である。樋口は慶應義塾大学の予科生で美男子であった。当時の友人は後に「ふみ子さんは、きれいな人でないと駄目なんですから」と評している[28]。昭和10年代の自由な男女交際が困難であった時代、友人たちはふみ子の行動に驚いたが、在学中から樋口は航空隊に志願しており、卒業後は特別志願航空兵となったため交際は長続きしなかった。またふみ子は長女、樋口が長男であったことも二人の交際をゴールインさせることの障害になったと考えられる[† 4][29]。

東京家政学院時代、ふみ子は池田亀鑑主催の「さつき短歌会」に参加した。短歌会では池田が短歌の添削指導も行っており、ふみ子は短歌作りに熱中するようになった。短歌の世界に目が開いたふみ子が特に魅かれたのが与謝野晶子の短歌であったという。東京家政学院時代のふみ子の短歌はさつき短歌会の詠草集「ひぐらし抄」、「おち葉抄」に掲載されている[30]。

婚約破棄を経た結婚

ふみ子のお見合い写真。

1941年(昭和16年)3月、ふみ子は文字通り青春を満喫した東京家政学院を卒業する。卒業式には母のきくゑが参列した。きくゑには卒業式参列の他にもう一つ、重要な目的があった。ふみ子への縁談である。卒業式後、紹介者と合流するためにいったん父の故郷、富山に立ち寄った後、紹介者とふみ子と母は旭川に向かい、そのままお見合いをする[31]。

実のところふみ子は家政学院在学中から母のきくゑからしばしばお見合いを勧められていたが、その都度断っていた。見合いの相手は24歳の歯科医で、ふみ子の両親はこの縁談に乗り気であった。両親が歯科医の青年との縁談に乗り気であった理由としては、戦時体制が強まっていく中で両親の商売が上手く行かなくなってきたこと、若者が次々と出征していく戦時下の状況、そしてふみ子の言動を心配した等が考えられる[32]。

見合いの相手はふみ子のタイプではなかった。結婚を自らの意志ではなく決められてしまうことも嫌であった。そして東京時代のボーイフレンド、樋口徹也への思いも断ち切れていなかった。結局、見合い相手の歯科医と婚約することになり、婚約者の優しさは認めたものの、ふみ子の心は満たされなかった。思い悩むふみ子には戦時体制が強化されつつあった状況も圧し掛かってくる。日本の現状と自分の考え方、生き方が合致していないのではないか……ふみ子は様々に思い悩みながらも、母に婚約解消を強く訴え続けた。怒った母はふみ子に布団蒸しの折檻も加えたというが、ついにふみ子は家出を決行する。この家出は函館駅付近で知人に見つけられ、連れ戻されたが最終的に婚約は解消されることになった[33]。

帯広ではふみ子の婚約破棄は話題となった。親が選んだ恵まれた条件の青年との婚約を破棄したことは当時としては珍しい出来事であり、ふみ子と家族は周囲からの非難と好奇の目に晒されることになった。そのような中でふみ子は家業である商売を積極的に手伝ったり、得意であった料理つくりなど家事を手伝うなど懸命に働いた[34]。この頃になると戦時体制がふみ子に大きく影響していくようになる。聖戦を称え、これまでの自分本位の生き方を反省し、自分をある程度殺して、従順かつ犠牲心を持った生き方をしていこうとしたのである[35]。


1942年(昭和17年)4月26日、結婚式で花嫁衣裳を着たふみ子。
このようなふみ子のもとに再度、お見合いの話が舞い込んできた。今度の相手は北海道帝国大学の工学部を卒業し、鉄道省の札幌出張所に勤めていた中城博であった。先に婚約破棄をした青年と比べて「財産は無く、意地っ張りで寛大でもない」が、「頭が良くきれいな」青年であった。戦時体制下、幸福になれる自信が無いとためらいを見せながらも、ふみ子は結婚を了承する。ふみ子の家族にとっても前回の婚約破棄の負い目もあった[36]。ふみ子と中城博との結婚式は1942年(昭和17年)4月26日、札幌神社で行われた[37]。

結婚生活とその破綻

戦中期の生活

ふみ子と夫、中城博との結婚生活は札幌市にあった鉄道省工事事務所官舎で始まった。戦時体制下、従順かつ犠牲心を持った生き方をしていこうとしていたふみ子は結婚はしたものの、まもなく深い絶望感に囚われるようになる。東京家政学院時代の親友に「私たちの結婚は不幸から出発してゐるのです」と、手紙に書いている。「私は理想主義ですし、夫は現実的でありすぎ」とも書いている。夫に離婚を切り出すものの承知してくれない。ふみ子は九州の東京家政学院時代の親友宅に逃げ出そうと計画するが、体調を崩してしまう。体調不良の原因は妊娠であった。妊娠後も心の葛藤は続いたが、結局、離婚や夜逃げは断念することとなった[38]。

1943年(昭和18年)1月、夫、中城博は室蘭に転勤となり、5月8日には長男、孝が生まれる。翌1944年(昭和19年)2月、夫、博は今度は函館五稜郭出張所に転勤となり、4月には五稜郭出張所所長に就任した。この頃発行された帯広高等女学校の同窓生便りにふみ子も短文を寄稿しているが、その中で「家庭に入って歌も随分作りましたけど、発表禁止でございます」と書いている[† 5]。ふみ子は夫から短歌の発表を止められていたと考えられる。五稜郭出張所所長に就任するなど、夫、中城博は出世コースを歩んでおり、この頃は夫婦関係も一応安定していたと考えられる。戦時中のふみ子は国防婦人会の班長を務め、班の事務をそつなくこなし、勤労奉仕にも積極的に参加していたという。しかしまもなく夫婦関係に修復し難い亀裂が入っていくことになる[39]。

夫の転勤に伴い函館での生活を始めたふみ子は、第2子を妊娠していた。長男の誕生時は母のきくゑが室蘭へやって来てお産の説代をしたが、今度はきくゑが腎臓の手術後で函館まで行けなかったため、ふみ子は帯広の実家で里帰り出産をすることになった。8月25日、ふみ子は次男、徹を出産する。次男誕生の直後の27日、夫、徹の母が急逝する。後に中城博が発表した手記によれば、夫としては実家に帰っていて母の死を看取ることが無かった妻に大きな不満を抱いたという。そして生まれたばかりの次男の徹は病弱であり、11月8日に亡くなってしまう[40]。

そしてこの頃から夫、中城博の生活が乱れ始める。ふみ子が里帰り出産のため帯広に行っている間に、函館の土建業者が工事請負に便宜を図ってもらう見返りに、若い芸者を世話したと伝えられている。話の内容的に実態ははっきりとはしないものの、周囲の証言からこの頃から夫の生活が乱れ始めたと考えられる[41]。

戦後まもなくのふみ子
終戦時、ふみ子は妊娠をしていた。1946年(昭和21年)3月11日、長女の雪子が生まれる。ふみ子は雪子の誕生後、1951年(昭和26年)に至るまで断続的に「雪子の日記」を書いている。「雪子の日記」の中では、夫が雪子を可愛がる姿や成長を願う短歌を詠んだ穏やかな家庭生活を記したものもある[42]。しかし夫の博は職務上の不祥事が問題となって、1946年末には五稜郭出張所所長を解任されて札幌鉄道施設部に配属となった[43]。

終戦後の食糧難と激しいインフレの中、ふみ子の家族の生活は厳しかった。雪子の日記には、博には借金があり、留萌にヤミでサッカリンを売りに行くなどといった記述が見られる。ふみ子の家庭には帯広の実家からの援助もあった。しかしそれだけでは生活が成り立たず、花嫁衣裳、嫁入り道具であったたんすなどを手放しながら、何とか生活していった。しかしそのような生活の中、夫の博は愛人を作っていた。その上、1947年(昭和22年)9月22日には三男の潔が誕生する。幼い子を抱え、実家からの援助や花嫁衣裳を手放しながら、日々のやりくりに四苦八苦する中での夫の不貞は、ふみ子と夫との距離を更に広げていった[44]。

短歌の発表を始める

短歌の発表開始

1946年、函館時代のふみ子は夫から禁止されていたと考えられる短歌の発表を始めていた。発表先は北海道新聞函館支社と、戦後まもなく道南で発刊された多数の文芸雑誌のひとつである1946年3月に創刊されたポプラという雑誌であった。北海道新聞函館支社では文芸欄に掲載するために評論、随筆、詩、短歌、俳句などを公募した。ふみ子はその企画に応募し、短歌では唯一掲載されたのである。1946年5月7日、北海道新聞函館支社の文芸欄に掲載されたふみ子の短歌は「物々交換」、「夫に」と題された全部で9首であった[45]。

淋しくもあるか子ら食む白飯は嫁ぎし日の帯にしあるを
人妻はかかるときにもほほゑみて容崩(かたちくず)さぬものとかと泣かゆ
当時の短歌の主流はアララギの影響を受け、写生を基本としたものであった。花嫁衣裳の帯が子どもたちが食べる白米になったという、戦後の混乱期の生活実態をありのままに切り取った作風は、当時のふみ子が写生を基本とした歌を詠もうとしていたことが見えてくる。後者の句は、夫婦間の亀裂が深まる中でも離婚にまで踏み切ることは出来ず、耐えて好きな短歌に己を託した姿が見える。前述のように夫からは短歌の発表を禁じられていたと考えられ、禁を犯しての発表はふみ子の切羽詰まった思いがあった[46]。

一方、新興の文芸雑誌であるポプラには、ふみ子はやはり1946年から短歌の投稿を始めている。これは北海道新聞に掲載された雑誌創刊の広告を見て、ふみ子が購読の申し込みと短歌の投稿を始めたものであった。しかしポプラにはふみ子が投稿した歌は載っていない[† 6]。これはふみ子から雑誌に発表しないで欲しいとの依頼があったためである。なぜポプラへの短歌掲載を断ったのかというと、発行されたポプラの内容から、レベルが低すぎて作品発表の場としてふさわしくないと判断したためだと考えられている。実際「もう少し程度の高い大人の雑誌を作ってください」と、ポプラの主催者宛の苦言を述べた手紙が残っている[47]。

ポプラの主催者は当時、20歳を過ぎたばかりの川口清一であった。内容に苦言を呈しながらも川口を励ましたりもしている。川口はふみ子に強い関心を抱いたものの、それに気づいたふみ子からは、「それでもやはり家庭生活を愛しております」、そして「昔少女であった頃にありとあらゆる心で愛した人と別れてからは、異性への愛情は枯れてしまいました」などと川口に書いた手紙が残っている。一度だけふみ子に会った川口は晩年「生涯で会った、知的近代的という言葉がぴったりの、もっとも美しい女性」と評している[48]。

新墾と辛夷短歌会

北海道新聞函館支社とポプラに続き、ふみ子が発表の場として選んだのは短歌専門の文芸誌であった。ふみ子は1930年(昭和5年)に小田観螢主催で創刊された、「新墾」に入社した。ふみ子の「新墾」入社時期については1946年、1947年2月、1947年4月の3説がある。ふみ子自身は1946年入社と述べているが、後に「新墾」に書かれたふみ子の略歴には1947年4月となっており、同人の中には1947年2月説を唱えている者もいる。いずれにしてもふみ子の入社時期を明記した文献が見い出されておらず、時期ははっきりとしない。しかし1946年ないし47年に入社したふみ子の短歌はしばらく掲載されることは無かった。ふみ子が詠んだ短歌が初めて「新墾」に掲載されたのは、1948年(昭和23年)2月号であった[49]。

愛憎の入り交じりたるわが膝を枕に何を想へるや夫

これまで詠まれた句よりも対象への凝縮感があり、体言止めを用い表現上の工夫も見られ、当時のふみ子が短歌に本腰を入れ始めたことが見えてくる。なおこの短歌以降から撰ばれた句が、ふみ子の死後、中井英夫によって編纂、発表された第2歌集「花の原型」に掲載されている[50]。ふみ子は1948年2月号以降、毎月のように「新墾」に短歌が掲載されるようになる[51]。なお、1948年5月からは「新墾」の北海道内にある支社のひとつ、帯広の「辛夷短歌会」に入会したと言われているが、これも明確な記録は残っていない[52]。

四国、高松での生活
夫の中城博は1948年6月、香川県高松市の四国鉄道管理局に転勤となった。この転勤は中城博の才能を配慮した上司が、新たな環境である四国で心機一転を図るようにとの温情であるとの説と[53]、ヤミ屋など危険を伴う副業に手を染める中で詐欺事件を起こし、札幌に置いておけなくなったためとの説がある[54]。

高松では鉄道官舎で夫の弟夫婦世帯と同居した。ふみ子の家族はふみ子と夫、そして三人の子ども、夫の弟夫婦にも子どもが一人いたので、広いとはいえない鉄道官舎は大勢が同居して賑やかであった。北海道と風土が全く異なる四国に最初は戸惑いながらも、瀬戸内海の明るい光景などに次第に馴染んてきた。しかし夫婦の間に入っていた亀裂は高松での生活でも徐々に大きくなっていた。ふみ子は気分が晴れないときは夜の街を歩くようなり、東京家政学院時代、大好きであったダンスを再開した。高松時代、ふみ子はダンスに熱中する。そして夫の博も鉄道省の官吏生活に嫌気が差しつつあった[55]。

なお、札幌から高松に引っ越した後もふみ子は「新墾」への投句を継続した。この頃には掲載される歌の数も増え、「新墾」の中での扱いも高くなっていた[56]。

結婚生活の破綻と短歌への傾倒

帯広への帰還と夫婦の別居

1949年(昭和24年)、故郷帯広に戻った頃、ふみ子と二児。
1949年(昭和24年)4月、ふみ子は高松から帯広の実家に戻った。この時、三男の潔のみを連れて帰ったとの説と、3人の子ども全員を連れて帰ったとの説がある[57]。8月には夫、博が国鉄を退職して帯広にやって来た。先にふみ子が三男のみ連れ帰ったとの説では、この時、博が上の二人の子どもを連れて帯広に来たことになっている。いずれにしても1949年8月以降、ふみ子の家族は帯広で生活を始めた[58]。

ふみ子の父の野江豊作は、国鉄を退職した中城博の職探しに奔走する。結局、帯広商工学校の土木・建築科の教師の職が見つかり、10月から勤め始めた。帯広で心機一転、やり直しを図ろうとしたものの、プライドが高い博にとって、妻の実家に高校教師の職を世話されたことや、そもそも田舎である帯広での教師職自体に不満を持った。夫婦間の諍いは絶えず、この頃、博はしばしばふみ子のことを口論の末、殴っていたという[59]。

1949年の年末、博は同僚の教師たちにしきりと利殖の話を勧めていた。この利殖の話は一種のねずみ講であった。高校教師の仕事もそこそこに、博は事務所を構えて金融関係の仕事を始めた。結局1950年3月には高校を辞めてしまう。しかし金融関連の仕事は上手く行かなかった。その後、博はふみ子の実家、野江家近くにあった建設会社で働くようになるが、そこでも問題を起こしている。上手く行かなかった金融関連の仕事や、建設会社で引き起こした問題の後始末は結局、ふみ子の実家の野江家が行った。また1950年1月にふみ子は堕胎をした。生活が苦しく、これ以上子どもを持つことは出来なかった[60]。

教師を辞めた夫、博の生活は更に乱れていった。ほどなく博には愛人が出来た。結局1950年5月、ふみ子夫婦と仲人、そして両親ら親族が集まって話し合いがもたれ、夫婦の別居が決まった[61]。

辛夷短歌会の歌会参加と大森卓との出会い

1949年4月、ふみ子は帯広に戻って以降、「辛夷短歌会」の句会に参加するようになった、句会の参加は帯広高等女学校時代の同級生であった木野村晴美に誘われたことがきっかけであると伝えられている。ふみ子は帯広神社社務所で月一回開催される句会に熱心に参加した。夫との関係が悪化し、ついには夫婦別居となったふみ子を支えたのが短歌であった。この頃親友に「和歌が救いのやうになって、嘆きも苦しみもみなそこに投げ込んで燃焼して」と、書いている[62]。

水の中根なく漂ふ一本の白き茎なるわれよと思ふ

自らを根無しの一本の茎に例えたこの句は、「辛夷短歌会」主催の野原水嶺の賞賛を受けた。「新墾」には1950年6月号に掲載されており、またふみ子自らが選句、構成し、死去直前に発行された第一歌集、「乳房喪失」の句の中で、最も早い時期に詠まれた句である[63]。

ふみ子は「辛夷短歌会」で自らの運命を大きく変えることになる人物と出会う。大森卓である。ふみ子が執筆したラジオドラマ「冬の海」の中で、大森卓をモデルとした主人公「小森」について、「人間は一生のうちに自分の運命や思想をすっかり変へてしまふ程の、強い影響力を持つ人に出会ふことがある」と語っている。大森は「辛夷短歌会」の主要メンバーのひとりで、才能に恵まれた歌人であったが、ふみ子と出会った時点、既に重い結核にかかっていた。歌会で大森と出会ったふみ子は妹の敦子に「素晴らしい人に会った」と語ったという。大森のことを知る人物によれば、彼はふみ子の夫、中城博に似たところがある鋭さを感じさせる人物であり、またふみ子好みの美男子であった[64]。

大森に出会った頃、ふみ子は

絢爛の花群のさ中に置きてみて見劣りもせぬ生涯が欲しき
という句を詠んでいる。この句は、家政学院在学中にふみ子が私淑する岡本かの子を称え、詠んだ「絢爛の牡丹のさなかに置きてみて見劣りもせぬ生涯なりし」の改作である。岡本かの子に捧げられた元歌は、改作の結果、平凡な生き方ではない、絢爛な花の中に置いても見劣りしない人生、つまり短歌の世界で成功したいというふみ子自身の願いを述べた句となっている[65]。

ふみ子が「素晴らしい人」と絶賛した大森卓には看護師の妻がいて、入院中の病院に勤務しながら夫の看護に従事していた。当時、辛夷短歌会を主導していた野原水嶺、舟橋精盛はともにふみ子と大森卓との関係を愛人関係であったとしている[66]。ただ、本当に愛人関係にあったのかどうかについては疑問の声もある[67]。確実なことはふみ子は大森卓から多大な影響を受け、そして激しい恋情を抱いたことである[68]。

当時、ふみ子は短歌の世界で成功したいとの思いを抱くようになっていた。大森は周囲から短歌に命を賭けていたと言われていた。前述のふみ子作のドラマ「冬の海」の中で、主人公の小森は「君が不幸だと思っている不幸を大切にしたまえ、君の才能はその不幸につながっていると僕はみている、不幸な人間は何か偉いことをやりとげるものです」と、述べている。大森は重い結核の病床にあった、遠からぬうちに命果てるであろうことを直視しながら短歌にその思いをぶつけていた。上手く行かない現実の中でもがき苦しんでいたふみ子にとって、大森の姿は強い衝撃を受けた。ふみ子は自らの不幸を直視する姿勢を大森との出会いの中で学んでいった。そしてそれは数年後に訪れるふみ子自身の乳癌闘病、死を前に生かされることになる[69]。

生涯に二人得がたき君故にわが恋心恐れ気もなし

1951年(昭和26年)1月、病床にあった大森卓が創刊に尽力した短歌雑誌「山脈」の創刊号にふみ子は、「わが想う君」と題し、上記のような大森卓に対する激しい恋慕を詠んだ句を発表する。あまりにも赤裸々な思いを詠んだふみ子の句は当然話題となったが、噂を恐れるようなことは無かった。しかし大森との関係の終焉は意外と早かった[70]。

「山脈」の創刊後まもなく、大森卓には別の若い恋人がいることが明らかとなる。もともと大森は看護師の妻と結婚する以前、その若い恋人と交際していたが、周囲の反対もあって交際は実らなかった。そこで大森は思いを実らせることが叶わなかった恋人によく似た、看護師の女性と結婚するに至った。しかし重い病床にあった大森と、その初恋の女性との交際が再開されたのである。大森の看病は看護師の妻と若い恋人の2人が担うという奇妙な事態が発生した。病室で大森の若い恋人と鉢合わせとなったふみ子は激怒し、いったん大森への思いを断ち切った[71]。

大森卓への思いを断ち切ったふみ子は、新たな恋を探そうとした。相手は放浪詩人の石川一遼と帯広畜産大学の学生であった高橋豊である。石川は帯広に居た期間も短く、ふみ子の歌にいくつか詠まれた程度であったが、ダンスをきっかけに知り合った高橋豊とは実際に交際していた期間こそ短かったが、ふみ子の死の直前まで文通が続いた[72]。

1951年9月27日、大森卓は亡くなった。大森の死後、発行された短歌誌「山脈」は大森卓追悼号となった。ふみ子は大森卓追悼号に9首の短歌を発表した。

いくたりの胸に顕(た)ちゐし大森卓息ひきてたれの所有にもあらず
多くの女性の心を掴んだ大森卓も亡くなってしまえばもはや妻のものでも誰のものでもない、つまり自分のものにするのだと詠んだのである。いったん断ち切ったかに見えた大森への激しい恋慕を、ふみ子は挽歌の形で爆発させたのである。この大森卓への挽歌はふみ子の名作のひとつであるとの評価がある[73]。

子どもへの思いと正式離婚

夫・中城博との別居生活の中で、大森卓への激しい恋の他、石川一遼、高橋豊との出会いもあったが、夫と別れ3人の子を育てる母としての気持ちを忘れることは無かった。

悲しみの結実(みのり)の如き子を抱きてその重たさは限りもあらぬ
大森卓との出会いはふみ子に大きな影響を与えたが、ふみ子自身も短歌への精進を怠らなかった。東京家政学院時代、恩師の池田亀鑑から短歌の他に源氏物語、万葉集を学んでいたが、結婚後も万葉集を読むなど古典学習も継続していた。そして短歌の結社参加も、これまでの「新墾」、「山脈」に加え、1951年からは女性歌人による「女人短歌」にも参加する。実力をめきめきとつけてきたふみ子の、母として子どもを詠んだ句は評価が高い[74]。

ところで夫・博との別居後、ふみ子の父母は1950年8月から呉服店を始めていた。ふみ子は2名のお手伝いさんとともに得意の料理の腕を振るい、従業員やその家族などの分も含む約30名の食事作りに明け暮れた。当時ふみ子が詠んだ短歌の中には、呉服店の食事作りに励み、呉服店で働く店員らの情景など日常生活を詠んだものも見られる[75]。

別居中の夫・中城博はしばらくの間、帯広で生活していたが、やがて札幌へと帰った。ふみ子との離婚条件が中城家との間で話し合われ、結局話し合いがまとまり、1951年10月2日に正式に離婚が成立する。離婚の条件は末っ子の潔を中城家に引き渡すことであった[† 7]。潔が別夫の元で暮らすようになり、ふみ子は長男孝、長女雪子の2人の子どもと暮らすようになる[76]。なお、離婚後もふみ子は旧姓の野江に戻ることは無く中城姓で通した。姓を戻さなかったことについてふみ子は「現在の幸も不幸も結婚生活から発端してゐるのであるから、中城といふ姓に愛着を捨て切れない」と語っていたという[77]。

乳癌の発病

東京への出奔とその挫折

ふみ子の死の直前に、ふみ子自身が撰歌した歌集「乳房喪失」が刊行されたが、その構成内容から判断して、1951年10月2日の離婚した頃には自らの体の変調を感じ取っていた可能性が指摘されている[78]。

離婚直後の10月24日、ふみ子は家族に黙って2人の子を置いて東京へ出奔した。出奔時、ふみ子が持っていたのはバックとトランク一つずつであり、まずは東京家政学院時代の友人を頼る心積もりであった、東京行きの決意を聞かされた歌友の舟橋精盛は、あまりの突然の話に止めるよう説得するも聞き入れなかった。東京行きの途中、ふみ子は当時札幌に居て文通中であった高橋豊と会っている。高橋もあまりに無謀な出奔に驚き呆れ、やはり止めるよう説得するも無駄であった[79]。

上京したふみ子はまず蒲田に住んでいた東京家政学院時代の友人を頼った。ふみ子は手に職をつけた上で子どもたちを東京に呼び寄せ、生活していきたいと考えていた。蒲田の友人宅には約一週間滞在した後、渋谷区富ヶ谷のアパートに移り、タイピストの養成学校に通い始めた。東京ではふみ子は蒲田の友人とともにNHKで働いていたかつてのボーイフレンド・樋口徹也に会いに行っている。青春時代ふみ子が憧れ、「お兄様」と呼び情熱を燃やした樋口は変わっていた。何よりふみ子自身が変わっていた。再会は果たしたもののお茶も飲まず、ほんの立ち話程度で樋口との再会は終わった[80]。

東京でふみ子は空いた時間に岡本太郎の絵画展に行ったり、歌舞伎座に行ってみたりもした。しかしさしたる用意もせずに上京してきたつけにふみ子が直面するのも早かった。経済的に行き詰ってきたのである。やむなくキャバレーでホステスをしたり、インドカレー店の求人に応募して採用されたものの、体調がすぐれないために働くことはなかった。この頃すでにふみ子の体に癌が成長しつつあった。結局、11月18日、仕事の仕入れ関係で上京してきた母に連れられて帯広に戻ることになり、ふみ子の一か月足らずの東京生活は終わった[81]。

年末、ふみ子は札幌の高橋豊にクリスマスカードを送っている。その中でふみ子は無謀であった東京出奔の反省を述べるとともに、「結局は歌にでもすがって己の不幸を見つめるより仕方ない私なのです」と書いている[82]。

木野村英之介との出会い

失意の中、帯広に戻った直後、ふみ子に愛が芽生えることになる。ダンス好きのふみ子はダンスホールに良く出入りしていて、そのような中でダンス講師の手伝いをしていた木野村英之介と出会ったのである。木野村英之介はふみ子を辛夷短歌会へと誘った帯広高等女学校時代からの友人、木野村晴美の弟で、ふみ子よりも7歳年下であった。ふみ子は夕方になると華やかなドレスを身にまとい、ダンスホールへと出かけていく。周囲は野江家の出戻り娘は幼子を放っておいて毎晩ダンス三昧と噂をしていた。その上、7歳年下の男性との親密な交際が始まったのである。たちまちふみ子と木野村英之介との関係は帯広の町にスキャンダルとして広まっていった[83]。

たまりかねたのが木野村英之介の姉、晴美であった。晴美はふみ子を「辛夷短歌会」に誘った人物であり、当然、ふみ子と大森卓とのいきさつを熟知していた。木野村晴美はつてを頼り、二人の仲を切り裂こうとした。帯広では名家であった木野村家もふみ子と英之介との交際は反対であった。一方、ふみ子の両親は交際に理解を示し、結婚の許可もしていた。しかしふみ子の2人の子は木野村英之助との折り合いが悪かった。長男の孝は母、ふみ子から「再婚してもいい?」と聞かれたが、はっきり「嫌だ」と答えたという。長女の雪子も木野村英之助を嫌っていた。結局、ふみ子と木野村英之介が結婚することはなかった[84]。

年下の木野村英之助は酒もタバコもやらない真面目な青年であった。交際を続ける中でふみ子は真面目な木野村に飽き、厄介に思ったこともあった。しかし死を目前に入院治療をしていた際にふみ子が別れを切り出すまで交際は続き、木野村英之助はふみ子のことを支え続けた[85]。

音高く夜空に花火うち開きわれは隈なく奪われてゐる
夜、花火が打ちあがる中、恋人、木野村英之助に体を与える情景を大胆に詠み込んだこの歌は、中城ふみ子をモデルとした渡辺淳一の小説『冬の花火』の中でクライマックス場面として取り上げられている[86]。

乳癌の診断と手術

1953年(昭和28年)頃に撮影されたふみ子のポートレート。
東京から帰った後、ふみ子は左乳房にしこりがあることに気づいた。疲れやすさ・不眠といった体調不良の自覚もあった。しこりは次第に大きくなり、圧迫感や肩こりを感じるようになった。そこで病院に行ってみると乳癌との診断が下った。ふみ子はセカンドオピニオンを求め、他院での診察を行ったが結果は同じであった。結局、1952年(昭和27年)4月、帯広の新津病院で左乳房の切断手術を受けた。ふみ子のすぐ下の妹、美智子の夫、畑晴夫は小樽で医師をしていた。畑は手術後のふみ子の病状について、若年性の乳癌が再発の可能性が高く予後不良であるため深い懸念を抱いていた[87]。

木野村英之助によれば、手術を前に、ふみ子は自らの命よりも左乳房を失うことに強く拘っていたという。この時の手術、入院は一か月足らずで終わり、ふみ子は退院した[88]。

旺盛な創作意欲

乳癌の手術後、父・豊作は新たに野江呉服店の近くに洋品店を開業し、ふみ子に店を任せることにした。ふみ子自身が今後の生活に不安感を持っていたこともあって、将来を考えて店を持たせてみたのである。しかしふみ子には全く商才が無く、店は2〜3か月で閉店した[89]。

店は上手く行かなかったものの、乳癌手術後のふみ子は活動的であった。ふみ子は1952年2月、帯広作家クラブに入会し、エッセイやラジオドラマを執筆した。同年9月、ふみ子が執筆したラジオドラマ「モザイクの箱」がNHK帯広放送局から放送されている[90]。またふみ子は大の映画ファンで、帯広映画研究会の会員となっていた。折しも映画全盛期であり、ふみ子はしばしば映画鑑賞を楽しみ、帯広映画研究会の会報に映画や俳優に関する評論を執筆している。後述のように映画はふみ子の短歌に大きな影響を与えたと考えられている[91]。

短歌の創作意欲も旺盛であった。1953年(昭和28年)1月には「新墾」の維持社友になっている。維持社友は選者クラスであり、短歌結社「新墾」の中ではトップクラスに登りつめたことになる。そして「新墾」などでの活躍が認められ、同年4月、野原水嶺の推薦によって全国規模の短歌結社「潮音」に入社した。しかし精力的に活動を続けるふみ子に癌の再発が発見されるのである[92]。

乳癌の再発と再手術

癌の再発

1952年4月の左乳房切除後も、ふみ子は癌の再発防止のためX線照射の治療を継続していた。治療のためにしばしば札幌の病院に通院し、その際は小樽の妹夫婦の家に泊まった。そのような中、1953年3月に異常が発見され異常部分の切除が行われたが、この時は良性のもので癌の再発ではなかった[93]。

その後もふみ子は小樽の妹夫婦宅に泊まりながら札幌への定期通院を続けていた。10月、癌の再発が確認された。そこで前回手術を行った帯広の新津病院で右胸部の転移部分の切除が行われた[† 8]。12月、ふみ子は札幌へ向かった。札幌医科大学に癌研究室が新設されたことを知り、そこで治療を受けようとしたのである。度重なるX線照射と術後ということもあってふみ子は強度の貧血状態であった。ふみ子は小樽の妹夫婦宅に約2週間滞在し、まずは貧血の治療を行い、ある程度回復した後、札幌医科大学附属病院で癌の治療を再開することになった。通院再開後、札幌医科大学附属病院の主治医と妹の夫・畑晴夫は治療方針について話し合い、結局入院治療を行うことになった。入院のベッド待ちの間、ふみ子は帯広にいったん戻った。なお畑晴夫には予後絶対不良を通告されていたが、ふみ子には秘密とされた[94]。

死の覚悟
ふみ子の恋人、木野村英之助は再手術後、ふみ子は命がもう長くないことを自覚していたと語っている。同じ頃、幼馴染の友人は「頼みたいことがある」とふみ子に入院先の新津病院に呼ばれた。ふみ子からは特段の頼まれごとは無かった。その代わりふみ子は「離婚したこと、中絶したことが、乳癌の原因だったかもしれないわね」と語り、更に様々なことをお互い語り合い、もう長く生きられないことを感じ取っていたと証言している[95]。

またふみ子は娘のおさがりを寄付しようとしたり、母の証言では身の回りを整理して古い手紙を燃やしたりしていた[96]。1953年12月、小樽の妹夫婦宅に滞在しながら札幌医科大学付属病院に通院する列車車中から冬の石狩湾を見て、ふみ子は迫りくる死を前にして、残された己の人生、そして死を直視していく覚悟を詠んだ[97]。

冬の皺よせゐる海よ今少し生きて己の無惨を見むか

映画

「乳房よ永遠なれ」、制作:日活、原作:若月彰、中城ふみ子、監督:田中絹代、脚本:田中澄江、主演:月丘夢路[313]



















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シャコンヌ〜フェルマーの定理まで














































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蕭紅(しょう こう)〜許 鞍華(アン・ホイ)

プロフィール
出生: 1911年6月2日
(清宣統3年5月6日)
死去: 1942年(民国31年)1月22日
日本の旗 日本占領下香港
出身地: 清の旗 清黒竜江将軍管轄区呼蘭府
職業: 作家
各種表記
繁体字: 蕭紅
簡体字: 肖?
?音: Xi?o Hong
和名表記: しょう こう
発音転記: シャオ ホン
ラテン字: Hsiao Hung

蕭紅(しょう こう)は中華民国の女性作家。本名は張迺瑩(ちょうだいえい)。

日中戦争が最も激しかった時代に生まれ、戦火を避けるために幾度と無く移転している。戦争に巻き込まれた貧しい者達の悲劇を、貧しい者たちへの同情と愛情を以って描き出している。

主な作品

『跋渉』
『手』
『馬房の夜』
『蓮花池』
『呼蘭河伝』

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

蕭紅

しょうこう / シヤオホン
(1911―1942)
中国の作家。本名張廼瑩(ちょうだいえい)。筆名はほかに田(でんてい)、悄吟(しょうぎん)。黒竜江(こくりゅうこう/ヘイロンチヤン)省呼蘭(こらん/フーラン)県の地主の家に生まれ、両親の愛情に恵まれぬ孤独な少女期を送る。中学時代、ハルビンで新しい文学や思想に触れ、封建的結婚に反発して家出。放浪ののち蕭軍と結婚し、文学活動に入る。1933年、蕭軍との共著になる短編集『跋渉(ばっしょう)』が発禁となり、翌年青島(チンタオ)を経て上海(シャンハイ)に脱出。魯迅(ろじん/ルーシュン)に認められ、彼の尽力で出版された『生死場』(1935)は生死ぎりぎりの場に生きる東北農民の群像を描いた異色の抗日文学として反響をよぶ。日中戦争勃発(ぼっぱつ)後、各地を流浪するなかで蕭軍と離婚。端木良(たんぼくこうりょう)と再婚し香港(ホンコン)へ行くが、2年後に病没する。『商市街』(1935)、『橋』『手』(ともに1936)、『呼蘭河伝』(1940)、『馬伯楽』(1941、未完)などの作品がある。[平石淑子]
『岡崎俊夫訳「手」(『現代中国文学全集14』所収・1955・河出書房) ▽立間祥介訳「呼蘭河の物語」(『中国の革命と文学5』所収・1972・平凡社) ▽駱賓基著、市川宏訳「蕭紅小伝」(『現代中国文学12』所収・1971・河出書房新社)』








許 鞍華(アン・ホイ)

生年月日 1947年5月23日(71歳)
出生地 中国遼寧省鞍山市
国籍 香港
職業 映画監督、脚本家、映画プロデューサー
ジャンル 映画
活動期間 1979年 -

アン・ホイ(許 鞍華、Ann Hui、?音: X? ?nhua、1947年5月23日 - )は、香港の映画監督、脚本家、映画プロデューサーである。

来歴

中国遼寧省鞍山市で生まれ、5歳の時に香港に移住。香港大学で英語と文学を学んだ後、ロンドンの映画学校で2年学ぶ。香港に戻り、映画監督キン・フーのアシスタントとなる。その後TVBと契約、テレビドラマやドキュメンタリー作品を手がける。

2008年、第19回福岡アジア文化賞大賞を女性で初めて受賞[1]。2009年の第22回東京国際映画祭では「アン・ホイNow & Then」として天水圍2部作とテレビ作品7本が上映された。

人物

中国人の父と日本人の母(大分県出身)を持つ。10代の頃、母が日本人であることを知り、当時の反日教育の影響もあって反感を持ったが、徐々に和解していった。代表作の『客途秋恨』は20代後半に母の故郷に2人で旅した経験から生まれたものである。2008年9月現在、香港で母と2人暮らし[1]。
1970年代のベトナム難民などを題材にした社会派作品も知られているが、映画で何かを主張したり、問題提起を行うことは不得意で、それが原因で悩んだこともあるという。しかし、「人間性の追究」という自分らしさが出せる分野に気づいてからその悩みは解消された[1]。

アン・ホイ

主な監督作品

獣たちの熱い夜 ある帰還兵の記録(1981年、原題:胡越的故事)
望郷/ボートピープル(1982年、原題:投奔怒海)
傾城之恋(1984年、原題:傾城之戀)
清朝皇帝(1987年、原題:書剣恩仇録/香香公主)
客途秋恨(1990年、原題:客途秋恨)
極道追踪 暴龍in歌舞伎町(1991年、原題:極道追踪)
上海の休日(1991年、原題:上海假期)
女人、四十。(1995年、原題:女人、四十。)
スタントウーマン/夢の破片(1996年、原題:阿金)
千言萬語(1999年、原題:千言萬語)山形国際ドキュメンタリー映画祭2001にて上映
スー・チー in ヴィジブル・シークレット(2002年、原題:幽霊人間)
男人四十(2002年)アジアフォーカス・福岡国際映画祭2002で上映
デスパレート 愛されてた記憶(2003年、原題:玉観音)
おばさんのポストモダン生活(2006年、原題:姨媽的後現代生活)東京国際映画祭ほかで上映
生きていく日々(2008年、原題:天水圍的日與夜)アジアフォーカス・福岡国際映画祭2008ほかで上映
夜と霧(2009年、原題:天水圍的夜與霧)2009年第22回東京国際映画祭で上映
愛に関するすべてのこと(2010年、原題:得累嵌咫2010年第23回東京国際映画祭で上映
桃(タオ)さんのしあわせ(2011年、原題:桃姐)
黄金時代(2014年、原題:?金時代)2014年第27回東京国際映画祭ほかで上映

受賞歴

望郷/ボートピープル
1982年 香港電影金像奨 最優秀監督賞、最優秀作品賞
女人、四十。
1995年 香港電影金像奨 最優秀監督賞、最優秀作品賞
1996年 香港金紫荊奨 最優秀監督賞、最優秀作品賞
千言萬語
1999年 香港電影金像奨 最優秀作品賞
1999年 台湾電影金馬奨 最優秀監督賞、最優秀作品賞
スー・チー in ヴィジブル・シークレット
2001年 香港電影評論学会大奨 最優秀監督賞
おばさんのポストモダン生活
2007年 香港電影評論学会大奨 最優秀監督賞、最優秀作品賞
2008年 第19回 福岡アジア文化賞 大賞
生きていく日々
2009年 香港電影評論学会大奨 最優秀監督賞、最優秀作品賞
2009年 香港電影金像奨 最優秀監督賞
桃さんのしあわせ
2011年 台湾電影金馬奨 最優秀監督賞
2011年 香港電影評論学会大奨 最優秀作品賞
2012年 沖縄国際映画祭 “Peace部門” 海人(うみんちゅ)賞グランプリ、審査員特別賞「ゴールデンシーサー賞」(映画祭上映時タイトル「Tao Jie(A Simple Life)」)[2][3]
2012年 香港電影金像奨 最優秀監督賞、最優秀作品賞
黄金時代
2014年 台湾電影金馬奨 最優秀監督賞
2015年 アジア・フィルム・アワード 最優秀監督賞
2015年 香港電影金像奨 最優秀監督賞

外部リンク


Director (32 credits)

2017 Ming yue ji shi you

2014 Huang jin shi dai

2012 Beautiful 2012 (segment "My Way";)

2011 To-san no shiawase

2010 Duk haan chau faan

2009 Tin shui wai dik ye yu mo
2008 Tin shui wai dik yat yu ye
2006 Yi ma de hou xian dai sheng huo
2003 Yu guanyin
2002 Nam yan sei sap
2001 The Making of 'Youling renjian - Visible Secret' (Video documentary short)
2001 You ling ren jian
1999 Qian yan wan yu
1997 Ban sheng yuan
1997 Qu ri ku duo (Documentary)
1996 A Jin de gu shi
1995 Nu ren si shi
1993 Xiao nian yu ying xoing
1991 Shanghai jiaqi
1991 Ji dao zhui zong

1990 Ke tu qiu hen

1990 Xiao ao jiang hu (uncredited)

1988 Jin ye xing guang can lan
1987 Xiang xiang gong zhu

1987 Shu jian en chou lu

1984 Keisei no koi

1982 Tau ban no hoi

1981 Woo Yuet dik goo si

1980 Zhuang dao zheng
1979 Fung gip
1972 Si ji san ha (TV Series)


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ジャコモ・レオパルディ(Leopardi, Giacomo)

誕生 1798年6月29日
Flag of the Repubblica Romana 1798.svg ローマ共和国 レカナーティ
死没 1837年6月14日(38歳没)
Flag of the Kingdom of the Two Sicilies (1816).svg 両シチリア王国 ナポリ
職業 詩人、随筆家、哲学者、文献学者
国籍 イタリア
文学活動 ロマン主義, 古典主義, 悲観主義

ジャコモ・レオパルディ(Giacomo Taldegardo Francesco di Sales Saverio Pietro Leopardi, Conte di San Leopardo)はイタリアの詩人で随筆家、哲学者、文献学者。

経歴

ジャコモ・レオパルディは1798年、当時教皇領のマルケ州レカナーティの地方貴族(伯爵)の家に生まれた。父親は文学愛好家で教養があったものの、政治的には保守的な人物で、母親は冷たく権威主義的な人物だった。しかしレオパルディは幼少期を兄妹たちと楽しく過ごし、その時の思い出が後に作品の主要なテーマとなった。

家の伝統から家庭内で神父による教育が授けられた。また父親が作った膨大な数の書籍を収めた図書館で、レオパルディは古典的な教育を受けた。彼はこの時の広範な読書によって、様々な分野の知識を得ることになり、特に古典文学の教養を深めた。ラテン語はもちろんギリシア語やヘブライ語にも精通するようになるが、生まれつき病弱だったために青年期を通して、ほとんどをレカナーティで過ごした。閉鎖的で孤独な環境の中、彼は14歳になる頃から詩の創作を始めていく。彼の代名詞的な悲観主義の傾向は1818年に出版された初めてのCanti(詩集)でも既に現れている。

古典的教養を故郷で高めているなか、1822年に叔父のいるローマへ訪れることができたのだが、彼はローマの腐敗や堕落した雰囲気に深く失望した。イタリアの大詩人トルクァート・タッソの墓や、当時活躍していた詩人のウーゴ・フォスコロの元を訪れるなどした。家庭の抑圧から離れられたとはいえ、想像で創り上げた理想化されたローマと現実のローマの差異は大きく、この体験が彼の創作や価値観に大きく関与した。

1824年ミラノに招かれ、いくつか作品を書くように依頼されて以降ボローニャやフィレンツェなどを周遊するようになり、詩人としての名声も知識人を中心に高まっていった。レオパルディ自身、慢性的な体調不良の中で旺盛な創作欲を見せる。またこのころは詩作のみならず、自らの古典的素養を基にした哲学的散文(Operette morali)なども著している。1828年には駐ローマのプロイセン大使によってベルリンでの教授職の申し入れがあったが健康上の理由より却下せざる終えなかった。


1837年友人アントニオ・ラニエリのいるナポリに滞在中客死した。死因は肺水腫あるいは心不全と推測されている。しかし晩年は脊椎カリエスの症状で背中は曲がり、杖を突かなければ立てないほど症状は悪化していた。ラニエリのおかげで公共墓地に葬られることはなく、その後移葬されて現在はナポリ西のフオリゴッタのサン・ヴィターレ教会に埋葬されている。享年38歳で終生独身だった。

作品

レオパルディの詩は19世紀ヨーロッパの文学で特異な位置を占める。自分やイタリアの過去を回想あるいは美化して現在との落差を嘆く作品が多く、虚無的な印象が強いのでやはり悲観主義的と言える。しかし古典的素養に裏付けられた豊かな語彙や格調高い韻律でそれらは包まれており、その芸術性は非常に高く評価されている。以降のイタリアの作家全般に影響を及ぼしているが、外国でも哲学者ショーペンハウアーやニーチェ、ベンヤミン、作家のメルヴィルやカミュ、ベケットなど影響を受けた人物は多い。ただし19世紀前半の時代背景から愛国詩なども残しており、単純に悲観主義的な範疇に収まらない面もある。詩人であるが哲学的散文を多く残しており、広く近代そのものを洞察した思想家とも言えるだろう(Operette moraliやZibaldoneなどに詳しい)

出典

参考文献

記事は『カンティ Canti』(脇功・柱本元彦訳 名古屋大学出版会、2006年)を参照して執筆した。




外部リンク





Giacomo Leopardi at Authors' Calendar (includes bibliography).

Giacomo Leopardi at Little Blue Light (includes quotes, links, bibliography).




Text Frequencies of "Canti".


Giacomo Leopardi Poems







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