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ハインリヒ・ビーバー

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ハインリヒ・ビーバー

ハインリヒ・イグナツ・フランツ・フォン・ビーバー(Heinrich Ignaz Franz von Biber、1644年8月12日受洗 - 1704年5月3日)は、オーストリアの作曲家でヴァイオリニスト。

北ボヘミア・ヴァルテンベルク(現チェコ領ストラーシュ・ポド・ラルスケム Stráž pod Ralskem)でドイツ系の家庭に生まれた。

1668年から1670年の間、チェコのクロムニェジーシュ城のヴァイオリニストを務めた後、ザルツブルクの宮廷楽団のヴァイオリニストとなり、次いで1684年には、同楽団の宮廷楽長となった。代表作に『ロザリオのソナタ』などがある。ヴァイオリンの技巧にすぐれ、彼のヴァイオリン作品には当時としてはかなり高度な技術を必要とするものも多い。スコルダトゥーラという調弦を変えて演奏する技巧を多用した。

息子のカール・ハインリヒもザルツブルク宮廷楽団の楽長を務めた作曲家であった。

作品 

7声のためのソナタ(1668年)
描写的なソナタ イ長調(1669年)
戦闘(バッターリャ)(1673年)
ロザリオのソナタ集(1674年?)
ソナタ第1番「お告げ」
ソナタ第2番「訪問」
ソナタ第3番「降誕」
ソナタ第4番「キリストの神殿への拝謁」
ソナタ第5番「神殿における12歳のイエス」
ソナタ第6番「オリーヴ山での苦しみ」
ソナタ第7番「むち打ち」
ソナタ第8番「いばらの冠」
ソナタ第9番「十字架を背負うイエス」
ソナタ第10番「イエスのはりつけと死」
ソナタ第11番「復活」
ソナタ第12番「昇天」
ソナタ第13番「聖霊降臨」
ソナタ第14番「聖母マリアの被昇天」
ソナタ第15番「聖母マリアの戴冠」
パッサカリア ト短調
ソナタ集 祭壇または宮廷用(1676年)
8つのヴァイオリン・ソナタ(1681年)
技巧的で楽しい合奏音楽(1696年)
6声のためのソナタ「農民の行列祈祷式」
夜警の声を含む5声のセレナード
53声部のザルツブルク大聖堂祝典ミサ曲(1682年)
オラツィオ・ベネヴォリ作曲と伝えられてきたが、最近の研究では、ビーバーの曲ではないかと言われている。
レクイエム(1692年頃)

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マルカントワーヌ・シャルパンティエ

マルカントワーヌ・シャルパンティエまたはマルク=アントワーヌ・シャルパンティエ(Marc-Antoine Charpentier, 1643年 - 1704年2月24日)はフランス盛期バロック音楽を代表する作曲家。多作で洗練された作曲家であり、ジャン=バティスト・リュリの同時代人である。フランス宮廷とほとんど関連を持たず、現代になって重要性が再認識されたため、生涯や経歴に不明な点が多い。遺された作品では、特に宗教音楽を重要視されている。

生涯

パリまたはパリ郊外に生まれる。生い立ちについてはほとんど不明であり、生年月日でさえ謎である。「青年」時代にローマに留学したことは明らかだが、その期間は1662年から1667年の間であったと推測される。ローマでジャコモ・カリッシミに師事。古い伝説によると、画学生としてローマに留学したところ、老大家のカリッシミに楽才を見出されたというが、文献では画才があったという裏づけはない。同時代のイタリアの習慣を熟知しており、それをフランスに持ち帰ったというのは確かである。

おそらく、フランスに帰ってギーズ公爵夫人マリー(Marie de Guise, 1615年 - 1688年)に、楽長および歌手として、彼女の没する1688年まで仕えた。この間に、相当数の劇的な宗教曲(詩篇唱、讃歌、マニフィカト、ミサ曲、モテット)を作曲した。シャルパンティエはモテットを、「オラトリオ」と混同して呼んでいた。

1672年ごろに、ジャン=バティスト・リュリと不和になったモリエールと協力関係に入る。1680年代は、パリのイエズス会系のサン・ルイ教会に楽長として奉職。さらに、シャルトル公フィリップの音楽教師を勤める。1698年にはサント・シャペルより楽長に任命され、1704年に没するまでその地位にあった。この時期の最も有名な作品が、《テ・デウム ニ長調》(H 146)と《聖母被昇天ミサ曲 Mass "Assumpta Est Maria" 》(H 11)である。

作品

写本 ルソン・ド・テネーブル

宗教曲のほかに、舞台音楽や、分類しにくい小品がたくさんある。それらの小品は、当時のイタリアのカンタータに似て、一つか二つの声楽パートと器楽のために作曲されており、楽種の名称を除けばほとんど共通点がある。シャルパンティエ自身はそれらの小品を「エール・セリユ(air sérieux 厳粛なアリア)」とか「air à boire」と呼んだ。これらはフランス語での表現であり、イタリア語ではカンタータと総称される。

シャルパンティエ作品は、音楽学者ヒュー・ウィリー・ヒチコックによって目録が作成された。このため、ヒチコック番号と呼ばれるHつきの整理番号がしばしば使われている。

《テ・デウム ニ長調》の前奏曲は、欧州放送連合で使われていることで有名で、ウィーンフィル・ニューイヤーコンサートやユーロヴィジョン歌唱コンテストの開始テーマにも使われている。

歌劇・舞台音楽

アシスとガラテアの恋 (Les amours d'Acis et Galatée, 1678)(消失)
オルフェウスの冥府下り (La descente d'Orphée aux enfers, 1686-1687)
パリスの審判 (Le Jugement de Pâris, 1690)
ピロメーラー (Philomele, 1690)(消失)
メデア (Médée, 1693)

宗教悲劇

ダビデとヨナタン (David & Jonathas, 1684)
聖チェルソ殉教者 (Celse, 1687)(台本のみ現存)

田園劇

アクテオン (Actéon, 1684)
フラワークラウン (La couronne de fleurs, 1685)
リュエルの饗宴 (La fête de Ruel, 1685)
笑って歌うべし〜羊飼いたちのいさかい (Il faut rire et chanter: Dispute de Bergers, 1685)
一陽来腹 (Le retour de printemps)(消失)
寸劇・羊飼いたちの対話 (Petite pastorale eglogue de bergers)
イタリア語による小田園劇
愛は勝るものはなし (Amor vince ogni cosa)
私の性悪キューピッド (Cupido perfido dentr'al mio cor)

牧歌劇

花咲ける芸術 (Les arts florissants)

抒情悲劇

キルケー (Circé, 1675)
アンドロメダ (Andromède, 1682)
コメディ
エスカルバニャス伯爵妃 (La comtesse d'Escarbagnas, 1672)
いやいやながら医者にされ (Le médecin malgré lui, 1672)
迷惑 (La Fâcheux, 1672)
よそ者 (L'Inconnu, 1675)
ヴィーナスとアドニスの恋 (Les Amours de Vénus et Adonis, 1685)
コメディ=バレ(舞踊喜劇)
無理強いの結婚 (Le mariage forcé, 1672)
病は気から (Le malade imaginaire, 1672)
シチリアの男、あるいは恋する絵描き (Le sicilien, 1679)

バレエ音楽

ポリュークト (Polyeucte(1679)
ディヴェルティスマン
ヴェルサイユの愉しみ (Les plaisirs de Versailles, 1682)
王の健康を讃える牧歌 (Idylle sur le retour de la santé du Roi, 1687)

幕間劇

女たちの勝利 (Le triomphe des dames, 1676)
賢者の石 (La pierre philosophale, 1681)
エンデュミオン (Endymion, 1681)
アンジェリークとメドルとの対話 (Dialogues d'Angélique et de Médor, 1685)

ソナタ

8声のソナタ (Sonates à huit)
エール、セレナータなど
バイエルン選帝侯マクシミリアン・エマヌエルを讃える祝婚歌 (Epithalamio in lode dell'Altezza Serenissima Elettorale di Massimilioano Emanuel Ducadi Baviera, H.473, 1685)

世俗モテット

シャルパンティエの墓碑銘 (Epitaphium Carpentarij, H.474)

宗教曲

降誕祭前夜のミサ曲(真夜中のミサ曲)(Messe de minuit pour noël, H.9, 1690)
聖母被昇天ミサ曲 (Missa assumpta est Maria, H.11, 1698-1702)
処女マリアへの連禱 (Litanies de la vierge, H.83, 1683-168)
テ・デウム ニ長調 (Te Deum, H.146, 1690)
主は言われた (Dixit Dominus, H.204)
歌の誕生 (In nativitatem Domini canticum, H.416)
(3つの)ノエル (Noëls, H.5311680)
器楽合奏のためのノエル (Noëls pour les instruments, H.534, 1690)
聖水曜日のルソン・ド・テネーブル(H.96〜98)
聖木曜日のルソン・ド・テネーブル(H.102〜104)
四旬節のための瞑想 (Méditations pour le Carême, H.380〜89)

その他

音楽之友社の「最新名曲解説全集」のマルカントワーヌ(マルク=アントワーヌ)・シャルパンティエの項には、誤ってギュスターヴ・シャルパンティエの画像が掲載されている。

関連項目

シャルパンティエ(フランスには同姓の作曲家が複数存在する)

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ヨハン・アダム・ラインケン

ヨハン・アダム・ラインケン(ドイツ語: Johann Adam Reincken, オランダ語: Jan Adams Reinken, 1643年12月10日 - 1722年11月24日)は、17世紀後半から18世紀初頭にかけて、ハンブルクで活躍したオランダ出身の作曲家である。オルガン音楽の大家として知られ、ディートリヒ・ブクステフーデとともに、北ドイツ・オルガン楽派の隆盛を築いた。

生涯

従来、ヨハン・アダム・ラインケンは、1623年4月27日にエルザス地方のヴィルハウゼンで生まれたとされてきた。これは、ヨハン・マッテゾンが『音楽批評 第1巻』(1722年)においてラインケンの生年は1623年4月27日であると述べており[1]、ラインケンの父アダム・ラインケンは、1637年にオランダのデーフェンテルに移住する以前、ヴィルハウゼンに住んでいたと考えられたことによるものである[2]。しかしながら、今日では、近年調査されたデーフェンテルの教会の洗礼記録にもとづき、1643年12月10日に生まれたアダム・ラインケンの子ヤンが、後のヨハン・アダム・ラインケンとされるようになってきている[3]。ラインケンのミドルネーム「アダム」は、アダムの子であることを示すオランダの故習にしたがって、後に付加されたものと推測される。

ラインケンの少年時代の記録はほとんど残されていない。1650年に、ベーデッカー家の寄付を得て、郷里のデーフェンテルでヤン・ピーテルスゾーン・スウェーリンクの弟子であるルーカス・ヴァン・レーニンクからオルガンの指導を受け、1654年11月12日には、ハンブルク聖カタリーナ教会のオルガニストであるハインリヒ・シャイデマンに師事するため、ハンブルクに到着している。その後、1657年3月11日に、デーフェンテルで市教会のオルガニストに採用されるが、1658年末には再びハンブルクに戻って、シャイデマンの助手となり、1663年11月26日にシャイデマンが死去すると、その後任として、聖カタリーナ教会のオルガニストに任命される。

1665年6月23日、ラインケンはハンブルクの市民権を得て、その翌日、シャイデマンの末娘であるアンナ・ドロテアと結婚する。2人の間に生まれた娘マルガレータ・マリアは、後にラインケンの弟子であり、ハンブルク聖ヤコプ教会のオルガニストとなるアンドレアス・クネラーと結婚している。

当時のプロテスタント教会におけるオルガニストは、教会の営繕や書記等、事務職を兼ねることが一般的であった。しかしながら、ラインケンは、1666年に書記は自ら選んだ任務ではないとしてその返上を教会当局に申し出て、年間1,445マルクの俸給の増額とともに、これを受け入れさせる。ラインケンは、後に室内楽曲集『音楽の園』を出版した際、その序文において、自らを教会カントルと対比して「オルガン指導者(Directore organi)」と称しているが、これらは、ラインケンの芸術家としての強い自意識の表れである[4]。

実際、ラインケンは、オルガンの演奏のみならず、新設・改修されたオルガンの鑑定においても優れた才能を発揮し、17世紀後半におけるハンブルクの経済的・文化的繁栄を体現する存在であった。1671年 - 1674年にかけては、聖カタリーナ教会のオルガンの大規模な改修を監督し、4段鍵盤からなる北ドイツ最大規模のオルガンをその生涯を通して良好な状態に保ち続ける。ラインケンの許には、アンドレアス・クネラー、ヨハン・ハインリヒ・ウトメラー、ゲオルク・ディートリヒ・ライディンク、ハインリヒ・ロジェをはじめ、多くの音楽家がその薫陶を受けるために訪れた。ヨハネス・フォールハウトによる油彩画『家庭音楽のひとこま』(1674年)には、ディートリヒ・ブクステフーデとともに室内楽を楽しむラインケンの姿が描かれている。中央のチェンバロに向かって座るラインケンは高価な絹の着物を纏っており、服装に東洋趣味を取り入れることは、当時最新の流行とされていた[5]。また、ラインケンは、教会オルガニストとしての活動にとどまらず、1670年代には、マティアス・ヴェックマンが創設した音楽団体「コレギウム・ムジクム(Collegium musicum)」が毎週開催していた演奏会に関わるとともに、1678年にハンブルクにゲンゼマルクト歌劇場が建設されると、パンブルク・オペラの創立者の1人として名を連ね、1685年にオペラの運営から退いた後も、オペラに対する関心を持ち続けた[6]。

1681年9月30日、先妻と死別したラインケンは、3年3ヵ月後の1685年1月1日に、アンナ・ヴァーグナーと再婚する。ブクステフーデは、ラインケンの結婚を祝い、ラインケンのために声楽曲(BuxWV19)を書き贈っている。その一方で、世紀の移り変わりとともに、人々の音楽に対する嗜好にも変化が表れてくる。1705年には、聖カタリーナ教会当局が、ラインケンの後任としてヨハン・マッテゾンを採用しようとしたことが発覚し、ラインケンはこれを阻止する。マッテゾンは、その著作において少なからずラインケンに対する誤った否定的な見解を述べているが、1705年以来、マッテゾンとラインケンは対立関係にあったことを考慮すべきである[7]。

1718年、ラインケンは、弟子のヨハン・ハインリヒ・ウトメラーを助手に任命することを聖カタリーナ教会当局に申し出で、実質的に引退する。ラインケンは、莫大な財産を教会に残す代わりに、教会から年金を受け取ることで、生涯豊かな生活を送ることができた。1722年11月24日、ラインケンはハンブルクで死去し、遺体はリューベックの聖カタリーナ教会に葬られる。リューベックの聖カタリーナ教会に現存するラインケンの墓所は、ラインケンが1707年に弟子にして娘婿であるクネラー家から買い取ったものであり、同教会にラインケンが寄進したキリストの復活を描く油彩画は、ラインケンの敬虔な信仰心を偲ぶ縁となっている。

特徴

『音楽の園』タイトルページ

ラインケンは、長い生涯において幅広く活躍したにもかかわらず、わずかな作品しか残していない。これは、ラインケンが即興演奏を得意とし、作品を楽譜に書き留めることに関心が低かったためであり、また、晩年に出版した作品集のほとんどが消失しているためでもある。聖カタリーナ教会の会計帳簿には、ラインケンが作曲した宗教コンチェルトに対して報酬が支払われたことが記録されているが、これらの声楽曲も今日全く現存しない[8]。

現存するラインケンの主たる作品は、オルガンやチェンバロのための鍵盤楽曲である。ラインケンは、ハインリヒ・シャイデマンの弟子として、ヤン・ピーテルスゾーン・スウェーリンクに連なるオランダや北ドイツのオルガン演奏の伝統を受け継ぎ、ヴィルトゥオーソ的な演奏技巧に裏打ちされた華麗な彩りを加えることに成功した。足鍵盤を要する2曲のコラール編曲は、それぞれ200 - 300小節からなる長大なコラール幻想曲であり、コラールの各節が歌詞の変化にあわせて断片化され、幻想的なパッセージ、付点リズム、カンツォーナ風の模倣、厳格なカノン等、多様な手法で装飾される。とくに終結部では、両足を使用することで声部数が拡大され、華麗なカデンツァが形成されており、手鍵盤における頻繁な両手交差等とともに、高度な技巧に基づく高い演奏効果が追求されている[9]。

一方、トッカータ、フーガ等の自由曲はいずれも足鍵盤をもたず、チェンバロによる演奏にも適したものである。3曲のトッカータは、北ドイツ・オルガン楽派に共通の特徴を示しており、即興的な自由な部分と対位法的なフーガが交互に展開される。また、ト短調のフーガでは、装飾的な間奏部を伴って、弦楽器によるトレモロを模倣した性格的な主題が各声部に繰り返し現れる[10]。

ラインケンの鍵盤楽曲には、この他にチェンバロのための10曲の組曲および3曲の変奏曲等がある。組曲はいずれも、主題的に関連付けられたアルマンド、クーラント、サラバンド、ジーグという4つの舞曲からなり、終曲のジーグは対位法的な性格が強く、2部分形式の後半では主題の転回形が用いられることもある[11]。また、3曲の世俗的変奏曲のうち、アリア『結婚のことは黙っていて』に基づく作品は、ヨハン・ヤーコプ・フローベルガーの鍵盤作品集『第2巻』(1649年、フェルディナント3世に献呈)に収められている変奏曲(FbWV606)と同一の主題によるものであり、個々の変奏はしばしば舞曲のリズムを基礎として構成されている[12]。

ラインケンの室内楽曲は、1687年に『音楽の園』として出版された6曲のパルティータが現存するのみである。これらの楽曲はいずれも、イタリア起源の教会ソナタとフランス様式の舞曲を組み合わせた構成をとっており、ソナタ部分は、荘重な緩徐楽章と対位法的な急速楽章に続けて、ヴァイオリンとヴィオラ・ダ・ガンバによるソロ楽章が繰り返される。冒頭の緩徐楽章では、修辞的な音型や和声的な緊張等を通して豊かな情緒の表出がはかられており、後続する急速楽章と終曲のジーグでは、間奏部をもたない厳格な順列フーガが採用されている。一方、ヴァイオリンとヴィオラ・ダ・ガンバによるソロ楽章は、ゆったりとした自由な部分とトッカータ風の急速な部分とからなり、スティルス・ファンタスティクス(幻想様式)に基づく即興的な性格が強く示されている[13]。

ラインケンは、音楽理論に対する関心も深く、ヤン・ピーテルスゾーン・スウェーリンクやアレッサンドロ・ポリエッティの作曲教程の筆写本を所有していたのに加え、二重対位法等に関する理論的著作を残している。スウェーリンクの作曲教程に関するラインケンの注釈書は、第2次世界大戦中に行方不明となったが、1995年にロシアで発見され、現在はハンブルク市立大学図書館に返還されている[14]。

ラインケンは、オルガン音楽の大家として、同時代のドイツの音楽家に対して強い影響力を有していた。ヨハン・ゼバスティアン・バッハも、ラインケンの影響を受けた一人であり、ラインケンの『音楽の園』から3曲を鍵盤楽器用に編曲している(BWV954, 965, 966)。バッハは、1720年にハンブルクを訪問した際に、『バビロンの流れのほとりで』に基づくコラール幻想曲を即興で演奏し、「すでに死に絶えたと思っていた技法があなたのうちに生きていた」として、晩年のラインケンを痛く感動させたが[15]、近年、バッハが15歳のときに筆写したラインケンのコラール幻想曲『バビロンの流れのほとりで』の楽譜が発見され、バッハが若くしてラインケンの作曲技法を習得しようとしたことが実証されている[16]。

作品一覧

声楽曲

かくて戦い起れり(Es erhub sich ein Streit):偽作(バルタザール・ライン作曲)
鍵盤楽曲
優美なオルガン曲集(Galante Orgel-Stück):1704年出版、消失
鍵盤音楽選集(Musicalischer Clavierschatz):1702年出版、消失
バビロンの流れのほとりで(An Wasser Flüssen Babylon):コラール幻想曲
如何なる辛苦が我らを襲えども(Was kann uns kommen an für Noth):コラール幻想曲
前奏曲 ホ短調:断片のみ現存、疑作[17]
トッカータ ト長調
トッカータ ト長調:疑作[18]
トッカータ ト短調
トッカータ イ長調:以前はヨハン・ゼバスティアン・バッハ、ミケランジェロ・ロッシまたはヘンリー・パーセル作曲と考えられていたもの、BWV Anh.178と同一曲[19]
フーガ ホ短調:断片のみ現存[20]
フーガ ト短調
組曲 ハ長調
組曲 ハ長調
組曲 ハ長調
組曲 ハ長調
組曲 ニ短調:以前はゲオルク・ベーム作曲と考えられていたもの[21]
組曲 ホ短調
組曲 ヘ長調
組曲 ト長調
組曲 イ短調:1710年アムステルダムにて出版[22]
組曲 変ロ長調
バレットと変奏曲 ホ短調
オランダのナイチンゲールに基づく変奏曲 ハ長調(Holländische Nachtingahl)
アリア「結婚のことは黙っていて」に基づく変奏曲 ト長調(Partie diverse sopra l’Aria: Schweiget mir von Weiber nehmen, altrimente chiamata la Meyerin)
神のなし給う御業こそ、いと善けれ(Was Gott thut, das ist wohl getan):カノン
8声のカノン(Canon perpet: in uniseno a 8 - Ecce quam bonum et quam Jucundum):ヨハネス・フォールハウトの油彩画『家庭音楽のひとこま(Häusliche Musikzene)』(1674年)に描かれたもの
3声のカノン(Canon a 3 voci in Hypodiapason per Augmentationem)

室内楽曲

ソナタ、コンチェルタートと舞曲集(Sonaten, Concertaten, Allmanden, Correnten, Sarabanden und Chiquen):2つのヴァイオリンと通奏低音のための、1704年出版、消失
パルティータ 第1番 イ短調:2つのヴァイオリン、ヴィオラ・ダ・ガンバと通奏低音のための、『音楽の園(Hortus musicus)』(1687年出版)に収録
パルティータ 第2番 変ロ長調:同上
パルティータ 第3番 ハ長調:同上
パルティータ 第4番 ニ短調:同上
パルティータ 第5番 ホ短調:同上
パルティータ 第6番 イ長調:同上

理論的著作

和声数学の摘要(Arithmeticae harmonicae Compendium)
作曲の初歩(Erste Unterrichtung zur Compesition):1670年
音楽の友(Musica-amicus)
Ein tractaet worin Vielerley ahrten seindt zu finden so zur Composition seer Nützlich und Nöhtich:1670年、ヤン・ピーテルスゾーン・スウェーリンクの『作曲教程(Composition Regeln)』の注釈を含む

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ヨハン・クリストフ・バッハ

ヨハン・クリストフ・バッハ(Johann Christoph Bach, 1642年12月6日 - 1703年3月31日)はドイツ・バロック音楽の作曲家、オルガニスト。

アルンシュタットにハインリヒ・バッハの息子として生まれる。父のハインリヒはJ・S・バッハの祖父クリストフの弟で、またヨハン・クリストフはJ・S・バッハの先妻マリア・バルバラの祖父にあたる。

1663年から1665年までアルンシュタットの聖ゲオルク教会のオルガニストを務めたが、後にアイゼナハの宮廷オーケストラのチェンバロ奏者となった。ヨハン・クリストフは作曲家として名声を得ており、彼の存命中のバッハ一族の中ではJ・S・バッハのみがそれに匹敵しうる。兄弟のヨハン・ミヒャエル・バッハや、長子ヨハン・ニコラウス・バッハもまた作曲家である。J・S・バッハ作曲とされるいくつかの作品には、おそらくヨハン・クリストフの真作が混じっている。オルガン曲や合唱曲を幅広く作曲した。

音楽家として成功したにもかかわらず、ヨハン・クリストフはたびたび経済的に困窮し、そのためJ・S・バッハの両親が死去した際、J・S・バッハの扶養者には選ばれないという結果になった。多くの負債を抱えたまま、アイゼナハで死去した。

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ジョヴァンニ・マリア・ボノンチーニ

ジョバンニ・マリア・ボノンチーニ(Giovanni Maria Bononcini、1642年9月23日 - 1678年11月18日)は、イタリア、モデナ出身の作曲家。ヴァイオリニスト。息子は作曲家のジョヴァンニ・バッティスタ・ボノンチーニとアントニオ・マリア・ボノンチーニ。

生涯

モデナ近郊のモンテコローネで生まれ、マルコ・ウッチェリーニに師事した。ボローニャのモンテ·サン·ジョヴァンニ教会とサン・ペトロニオ教会で指揮を行い、アカデミア・フィラルモニカ・ディ・ボローニャの会員となった。

1671年より、モデナのフランチェスコ2世・デステの宮廷にヴァイオリニストとして仕えた。1673年、モデナの大聖堂の楽長に就任し、1678年に没するまでその職にあった。

彼の作品は主に器楽曲が多く、教会ソナタ、室内ソナタを作曲し、対位法の教科書も出版している。

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