個人誌 『未踏』全ページ

私はここにいます 貴方がそこにいて嬉しい

●続・続原発震災日誌

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著述予定リスト

著述予定リスト

絶望主義宣言
絶望主義的ヒューマニズム
絶望主義論
空想から現実へ
純粋理想批判
絶望主義における人口の問題
絶望主義の原理
理想主義批判
絶望と現実
絶望イデオロギー
絶望学・哲学手稿
福島農民戦争
核弁証法
文明の貧困
プルサーマル綱領批判
妊娠論
生命・人口論
絶望主義的恋愛論
絶望主義の文学芸術論
年金・医療・老後論
福島におけるユートピア
絶望をとおして希望にいたる
国家の終焉と人類の滅亡
希望主義論
民族放棄権について
絶望主義おける絶望党の二つの戦術
絶望者と健常者
絶望主義者伝
汚染地農業批判
なにを為さざるべきか
内部被曝闘争
農業における絶望主義
福島の崩壊
いわゆる核汚染物の流通について
絶望主義と戦争
絶望主義と現実批判
民族正常遺伝子に関する批判的覚書
一歩前進二歩後退
絶望のための闘争
2011年3.11の革命
日本における絶望主義の発展
老人青年論
人類の友とは何か
絶望党の農業綱領
絶望党綱領問題
絶望組合論
絶望主義ノート
絶望主義の基礎について
絶望主義の諸問題
絶望主義と希望問題
絶望主義現実論と文明史
絶望主義社会における経済的諸問題
希望論・現実論
絶望と文学
絶望主義の方法
絶望からの出発〜私の絶望的教育論
絶望主義の哲学
絶望音楽を語る
日本の絶望文学
絶望主義批判集
絶望芸術の世界
絶望の彼方で
絶望主義はいかに創られたか
絶望の発見
弁証法的絶望論入門
絶望映画の理論
絶望の条件
絶望の思想史
絶望主義政治教程
青年のための絶望問答
絶望基準法入門
絶望から宇宙へ
絶望葬入門
絶望経
絶望の世界
絶望の科学99
絶望の世の中
絶望美の再発見
絶望党20回大会
絶望心理学入門
絶望新聞
絶望の童話作家
絶望的思考法
音楽はどう絶望を表現するか
絶望の喜びと悲しみの中で
絶望の終焉
絶望ものがたり
絶望の世代
絶望詩集
絶望の神話
絶望の賛歌
絶望の原点
絶望と希望の間
絶望エッセイ
絶望家の人々
絶望と戦争
絶望日本の思想
絶望の意味
絶望学の話
絶望国通信
絶望の歴史
絶望書
絶望の空間
日本絶望学の歩み
絶望の名詩
絶望主義というものの考え方
絶望はいかに作られるか
絶望快楽法
絶望に強くなる
絶望を生きるということ
絶望を楽しむ
絶望語辞典
絶望家族法
絶望経聖典
絶望詩入門
絶望の群れ
絶望党決議決定集
絶望の信仰


絶望主義宣言

今や、世界は放射能という、目には見えない、臭いもしない、しかし、確実に死に至らしめる、絶望という妖怪に握られている、数万発の核兵器、数百の原子炉、地を覆う何億京㏃の放射能、核を操るものも、操られるものも、絶望という妖怪に支配されている、世界のあらゆる権力者は、この妖怪を手なづけ利用しようとしてきた、武器として、エネルギーとして、が、この妖怪の吐き出すガスは、世界それ自体を毀損する、絶対悪の化身である、
見よ、世界のどこかで、この妖怪と希望のうちに暮らしている国があるだろうか、また見よ、この妖怪を地中深く、封じ込めて安心だと嘯ける国が、







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人生の意味、喜びとは

人生の意味、喜びとは

人に出会うということ、70億という人の、その中の一人と今、出会っているということ、犬を100匹飼っても、一匹と今、出会っているという、何十万種の植物であっても、道端の一株と今、出会っているという、この今、一人、この今、この一つとの、出会がないなら、生きたこととはならず、この今、一つに出会うなら、自然に、犬に、花に、宇宙に、時間に、存在に、包まれ、存在したことの、存在していることの、喜びのうちに、生も死も、自然なものに、核汚染があろうが、奇形、病苦があろうが、在る存在との共感、人生の意味と、喜びとはこれに如くものはない、

これからの10年で何を

10年がどれだけのものかは分かる、50から60、60から70の、瞬く間に過ぎた、70から80の、瞬く間であろう、何もしなくても良いのだが、生き延びる者のために、何かをと、私の3.11の絶望は、私個人の問題ではない、人類の文化芸術、生きる意味の喪失という、人間存在を無化させる問題であるのだから、それでも生命をつなぐ他ない、生命の無情、この全否定の世界の出来事を、記しておかねばと、

この絶望は、主体、知においてしか

瞬く間に終わる人生において、生きてあればと、耐え、楽しみ、意味を問うこともなく、過ごす人生にあって、核と未来と、人の意味とは、絶望を通して肯定に至るしかないのだが、

権力の闇と国民

ヤクザ、宗教、企業、軍隊、警察、学会、マスコミ、官僚、CIA、スパイ、マフィア、これらの歴史と、金と、計画と、人脈と、権力機構を知れば知るほど、全てうなづける世界の問題、権力は世界を股にかけ支配している、
利益、体制護持の共同体、国家とはそれらの支配単位、国民とはそれらの付属物、

国家の民営化、私物化

水道、種子、刑務所、役所、医療、年金、戦争も、人間も、グローバル企業、1パーセントの支配に、世界統一政府構想とは、国家の企業による民営化、

オウム事件とアルカイダと9.11

権力の縄張り争いに参入してきたオウム、権力は利用、泳がせをしていたが、力をつけ、アルカイダのような勝手な振る舞いに、世界のテロが、利権の縄張り争いからの、ヤクザの抗争と違わず、9.11とはそれが国家の関与で行われたということなだけ、歴史は常に権力覇権、天下どり、他国支配の歴史、標榜する民主主義といえど、資本の支配カモフラージュに過ぎず、反抗こそが意味を持ち、

完全にTV、マスコミは乗っ取られ、コントロールされ

この10年のリベラルな司会者の排斥、植草、古賀、武井、古舘、久米、国谷、長野、と、マスコミの右傾化、誰に、何のために、国家、利権、支配体制とはそういうもの、普段の国民の監視、抵抗なくしては何度でも、独裁、覇権国家は誕生するという、20Cは群居の時代、21Cは一国支配の時代へ、資本をバックに、

人間のボス好き

カリギュラのような、誰もがボスになりたいと、競い、蹴落とし、蹴落とされと、権力の歴史は、ボスの椅子をめぐる争い、
呪術の支配
神話の支配
法の支配
資本の支配

人間を解く鍵

政治、経済、歴史、科学、宗教、哲学、etc、様々に考察されたもので良いだろう、が、その人間の捉え方に無かったものが、絶望学、
戦争、虐殺、破壊、災害の中、メシア、ノアの箱舟の想像はあるが、人間は何が起きても絶望はしない、文化に絶望規定はないのだった、利己的遺伝子による、種の淘汰、核といえどDNAにとっては、利己的に働くという、希望が人の認識を超えたものであるがゆえに、希望が借定されるとするマルセル、絶望が人の認識を超えたものであるがゆえに、借定されるとする、私の絶望、核の絶望は、人の認識を超え、DNAの利己性を超え、10万年の時を経ても尚在り続け、

草原の実験

核実験で、核で、文明で、失われようとしているからこそ、末期の美しさで、静逸、広大、始原の地球が、象徴でも、虚無でも、何でもない当たり前の、カザフスタンの草原に、男と娘の上に、核の洗礼が、人間の権力の横暴が、悪魔のように、大地に、草原に、

哲学、文学、音楽、芸術、文化の全てが

世界の不正、欺瞞、不条理を告発、分析、表現し、理想を示しているのだが、2000年前から比べれば、人間は進歩したとの、アウシュビッツ、原爆、原発、隷属システムは、その到達でと、国家社会の下に営まれている文化は、ローマ時代、果てはエジプト文明と何ら変わらず、国家社会組織の利益、そこへの帰属から発せられる価値、意味で持って思考され、アナーキストの無政府といえど、アテネとスパルタクスのように、力で淘汰され、理想は実現されることはなく、人権を、愛を、共生を、罪を説いても、変わらず、不可知論ではなく、価値論、核汚染、核パンドラの価値論こそが、人間を救う、このパラドックスこそ、シンプルな実在、核世界の人間という、

今在ることだけが、

あらゆる時代、あらゆる国、あらゆる文化、あらゆる人間であっても、貫かれている一個の人間の、味わう時間というもの、研究に、商売に、冒険に、愛に、あっと言う間の7、80年、という人生において、何事かを極め、到達し、称賛を受け、満ちた時間であったと、人生を振り返っても、私と言う今は最後まで続き、この今の享受だけが、人間の意味であり、本質であり、難民で、戦場で、飢え、傷み、死の床で、今を味わう私だけが、存在の全てであるという、

核の真実を知らない者は虚無に至る

不条理と同じように、認識しようがしまいが、存在する実存という領域、核を無視しようがしまいが、頭上にぶら下がり、地上に突き立っている現実は、人間存在というものの虚無を規定している、文化芸術をどのように享受し、継承しようとも、

カミュ「最初の人」

このような物語として、私の少年、青年期を書きたくはないのだった、記憶の時から、見出された私の時をこそ描きたい、例えば、言葉のない世界の点描のような、私が刻印した時を、無尽蔵の見出される私の時を、原発震災日誌後の、死すまでの私の作品世界として、追たちの記ではない、私という唯一者の、その所有をこそ、私のレイトスタイルとしたかったのだが、大江ではないが、絶望世界にあって、意欲は失せ、意味は失せ、カフカのように、絶望を描き続けることだけが、生きる希望に、

ツァラトウストラは

洞窟に引きこもり、永劫回帰の悟りへと向かったが、私は、絶望日記という私の洞窟から出て、「今や、この星は死んだ、殺したのは我々だ」と、そして「今こそ、残されたものが絶望の子として生きよう」と、絶望主義宣言を掲げ、残された時を、絶望主義の著作に当てよう、







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死期を前にして

死期を前にして

どんな生の哲学があるのだろうか、オイケン(80才)、ベルグソン(80才)、クローチェ(86才)、新理想主義者たち、長生きしているなー、ニィチェ、ショペンハウエルにしても、虚無との格闘の中から、生の哲学を標榜している、現代の絶望世界にあって、死生学を捉えた上で、生の哲学をこそ考えねば、新理想主義ではない、一個としての、生への問いを、

だから愛していく以外にない

世界の絶望を、私の死を、想定、規定するなら、生きることとは、愛していく以外にないということ、刻々を愛するように、世界を、絶望も含めて愛していく、核も含めて、存在のバリエーションであることの、愛するとは、聖書でも、文学でも、哲学でもいいだろう、存在への喜び、感謝、共感、連帯、肯定、受容、「未踏」の、日々刻々の、あの覚悟の時のように、これからの余命を味あう、

赤いイスタンブール

作家同士、彫刻家、画家の、芸術と愛の物語、細かいカットを駆使し、物語を展開していく、その細かいカットが、小気味良い、背景の奥深さを醸し出し、繋ぐセリフも良く練られている、テーマは、作家のコンプレックスと、一人の女への競い合いだが、クルド民族、トルコの政情という背景を点描することで、時代と風土が生き、文学、哲学を感じさせる、
ファルカン・オズベテク(トルコ)1959年、「向かいの窓」を観ていた、

ドローン戦争の真実(ドローン・オブ・ウォー)

第2のスノーデン、女性ドロンアナリストの告発、戦争をTVゲームのように、地球の裏側に居て、OLの女性がやる時代、PTSDに苛み、自分の命を危険にさらないで、戦争するとは、殺人そのもの、戦争が殺人であることが明らかに、原発も似る、自分は安全地帯に居て、人を被曝させる、そこにある人の罪の意識、正当性や意味が喪失、

「大いなる旅路」〜関川秀雄と、「午後の遺言状」〜新藤兼人と、「GO」と、行定勲と、

国鉄と、老人と、在日と、どれも色あせて見える日本映画、世界認識の低さが、日本映画を詰まらなくさせている、すべからく日本映画の狭さ、お話、操り人形俳優、何が、どこがヨーロッパ映画と違うのか、「ヒロシマ」を撮った関川にしても、新藤にしても、安っぽい理想主義のせいか、人物が個人として成立していないからか、因習、前近代に対して、批評眼が乏しいからか、予定調和と、人情を基調としてているからか、ペシミズム、虚無感が無いからか、不条理、抑圧に対して、抵抗、俯瞰の視点が無いからか、封建、戦争を描く時、デモクラシーの到達点から捉える視点が無いからか、近代と言うものが経過されていないからか、個人、人権、自由、ナショナリズムの未発達、夥しい娯楽としての映画、リアリズムと言うものが、写実と言うものではない、物の本質を捉えるという、ヨーロッパ近代というものの、壮大な歴史、文化の総合の上に在ったということ、映画をいう時、ネオリアリズモ、エイゼンシュタインのアバンギャルドの、映画にしかできない世界の、
タルコフスキー、タルベーラのような映画作家が、

共生について

欲望が全ての悪の元凶であるとするなら、その欲望を必要としない社会への、転換が出来なければ、共生は可能とはならない、何故に人は学ぶのか、何故に人は競うのか、何故に人は求めるのか、何故に人は存在を受容できないのか、核の、AI、シンギュラリティの、8人で世界の半分の資産4.2兆ドルを持つ、文明の限界点の現代にあって、初めて共産主義の掲げた、共産が可能となった社会において、学ぶことの、所有することの、不用、放棄への転換点に立てたということ、核汚染の不幸という絶望はあるものの、求めない人間の誕生が始まる、その時自然との、存在への共生が可能となる、共生だけで、存在だけで良いとする、国家も、民族も、文化、人の優劣、障害も、在るがままの、

人類はすべて失ったのだの

3.11とはそうした想像力を、物からの解放、対立からの解放、3.11の絶望とは、人類をすべての事柄、生死からも解放してくれた、私にあっては癌を得て、癌からの解放のように、原発事故を通して、人類は癌からの解放のような、有史以来、求め培ってきたものからの解放、在るがままでいい、極楽、天国が出現したということ、それが3.11というもの、隕石の衝突で、地殻変動で、異常気象で、地球の、人類の絶滅は語られていたが、核汚染でとは、それが現実となったということが、

私の国から、私の国ではないへ

私の国、私の故郷、私の土地、私の山、私の畑、私の家、私の、私のと、それが今、私の国ではない、私の故郷ではない、私の土地ではないと、汚染された廃屋の、放射線の飛び交う、山や川は、私のものではないと、白虎隊、屯田兵、日中事変、水子、唐行、出稼ぎ、原発推進と、必死で守ってきたものが、今や無用の、地球汚染の、忌み嫌われるものに、生贄をどれだけ捧げても、報われぬ、魔人の住む土地に、人の死を、人の不幸を、人類は博愛で超えんとしてきた、が、今や博愛、ヒューマニズムが無効に、人の死が、人の不幸が、私の死、私の不幸に、民族、国家、文化、芸術、人間の根拠そのものが失われ、未だ住める、まだ大丈夫と、が、やがて汚染は全地球を覆い、私の星ではないと、

金石範

ネットで、金石範の軌跡を見る、10代に済州島事件に遭遇、逃れ日本へと、生野での在日人生、済州島の、韓国の恨を抱え、問い続けている、有史以来、今もあちこちで、支配、被支配の闘いが、嘗てなら、被支配者に共感し、支配の理不尽、憤怒が起きたのだが、今や、争うことの、正当を叫ぶことの、糾弾することの、反抗することの無意味さ、思う壺でも、利己的でもなく、争うことの可笑しさ、核汚染の中で、土地、食料を奪い合うことの、人を殺しあうことの、核によって滅びようとしている人間同士が、絶望において人が出来ることは、支えあう、励ましあうことだけ、核は恨を超える鍵でもあるのに、「火山島」1万枚の小説、4・3事件を20年に渡って、
金石範に、戦前、戦中派には核はどのように捉えられているのか、恨がルサンチマンが貫いているのか、

神の思し召し

先ず、運命、宿命と言うものを、因果からではなく、決定論的に受容、そして、神の思し召しであると、運命、宿命を意味付ける、仏教の因果ではない、全ては神の為せることと、神の名の下に、人の意思でなすことも、神の思し召しと、神の御業であると、宗教の持つ、人の意思に神を介在させ、強化、合理化を図ってきた人間、無知から、諦観、神の思し召しへと、

人生早くて5年、遅くても10年と考えるなら、
存在することの、存在したことの喜びでいいのだが、絶望主義など、人間はすべからく原罪者であり、死は神の思し召しであるのだから、存在の歌を、核を見据え、絶望を見据え、今在ることの喜びの歌を、

あの日、何故頭が真っ白に

40才の癌宣告の、あの日、人生がこれで終わるという、まだ何もやれていないのに、これで終わるのかという絶望感から、人生に期待を、可能性を、未知を信じていた、人生はもう充分と、言える年まで生きられるものと、未だ楽しめるものと、多く信じているものの延長に、生命と人生があった、生命の儚さも、人生の苦難も、未だ身近ではなかった、否定思想は考えていた、人生を否定的に捉えること、肯定、理想ではないが、絶望にまでは至ってはいなかった、レオパルディがペシミズムから、絶望を生きていたが、私のペシミズムは、習い性とはならなかった、ペシミズムからの、情熱への上昇こそが人生であった、手中にしてはいないものの、愛を、真実を、理想を求め、信じていた、そこへの癌宣告であった、存在の耐えられない軽さではなかった、重さを、意味を、悟りなどではない、実感を、契機を、飛躍を求めていた、癌は死を伴うがそれらを満たし、可能にするものとして、あの時には捉えられなかった、







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少女終末世界旅行

少女終末世界旅行

デストピアを描き、それも絶望をテーマにした映画はないのかと、探していて出会ったアニメ、10話まで見終わったが、シュチエーションは、終末戦争後の西暦3000年の世界に、生き残った二人の少女の話、戦車のような車に乗って、廃墟の街を冒険して回る程のものだが、最期は放射能などのエネルギー物質を食べてくれる生きものが登場して終わる、絶望世界にあって、二人の少女の明るさ、屈託のなさは良いのだが、文学における、見出されたものが、譬え絶望世界であっても、意味、テーマの、追求、発見が無い、失われた時から、見出された時への、宮崎のジブリ世界ではない、絶望への喪われた世界への視座は良いのだが、絶望を見据えた、現代への見出されるものが、

苦海浄土

石牟礼が死んだ、90才、責務のようにミナマタを描き、ミナマタと共に生きた人生、公害を犯罪として、個人対個人の問題として、国家、企業、システムを、一個の人間に対してのように、告発、呪詛し、生命の尊厳を問うている、「金は要らん、上から順番に水銀を飲んでくれ」と、フクシマの核に対しても、「原発を推進して来た者は、上から順番にプルトニウムを飲んでくれ」と呪詛する心が、「日本には抵抗する伝統が無いのね」と、スヴェトラーナに言われてしまったように、核を、私は石牟礼のように、私の責務として問い続けていかなければ、が、核汚染という、除染したとしても、移染に過ぎない、地下に埋設しても、20万年に渡る管理が要る、取り返しのつかないことへの、今や個人の問題ではなくなっている、1パーセントの世界支配にあって、絶望感だけがのしかかってくるのだった、

ジョブズと悟りと、自由

ジョブズという男が、マッキントッシュを作り、アップルを作り、アイホンを作り、今や世界企業となり、作られた製品はかってのソニーのように愛されていると、そのジョブズの資産が100兆円で、ビルゲイツ、孫、かつてのエジソンのようなモノづくり王として名を馳せ、多く科学者というものが、常に物への探求者であるように、発見と発明、特許権で人生を考え、蒸気機関、電気、コンピューター、核エネルギーと、わずか200年で、欲しいものは全て手に入れ、が、不老不死だけは得られず、かつての王と同じ、悟りという死への肯定、受容だけが残り、ジョブズ56歳ですい臓がんでの死、禅への関心を持ち日本へ、物作り、物の探求に明け暮れた人生、死も、存在も関心となることはなく、物を残して死んでいく、利便と安らぎと、喜びと幸せのためにあるものが、物作りに追われ潰えていき、王といえど、資本家、大作家といえど、変わらず、精神存在を味わう喜びは少なく、朽ちていき、今も人間の全文化が、物への、方法への、精神といえど物に従属し、存在という自由には至っていない、近代のキリストの絶対追及、禅の解脱といえど、存在への自由には至っていない、何故なら絶滅、絶望を体験していないから、個人の死、人類絶滅、それらの体験があって、そこからの再生があって、初めて得られる存在への自由というものだから、私の癌体験、そして3.11の種としての絶滅体験、これらがあって、生命への、文化への、自由、自在が誕生してるのだから、
生死への、輪廻も、永劫回帰も、天国も、極楽も、生命の永続、存在の永遠という、

タルベーラとラースロとタルコフスキー

タルベーラが4時間、12時間の長尺映画で表現したいものは、物語やプロットではなく、流れる時間そのものを写実的にと、人がどこからどこまへ歩いたのかは、初めと終わりを撮れば出来ることを、全てを撮るということは、流れにこそ意味を見いだそうとしているから、それらが一体、現代にあって、何の意味や目的があるかといえば、一つは時の流れの忘却に対する反語であり、流れの時そのものに、意味や目的があるという、存在論的メッセージを込めてであろう、長尺の中に、いくつかの又、一つの大きな物語はあるものの、その細部と全体時間がテーマとなっている、絶望の後にも、絶望の中にも、それはあるという、「サタンタンゴ」、「ニィチェの馬」の絶望と不条理の映画化ではあるが、絶望と言うものへの対立、抵抗を映像化し得ている、タルコフスキーが希望と理想を求めたのに対して、二人は、現代という核時代、全体主義後という世界にあって、絶望を見据えての、私においては、私対世界であるのだが、その私を何処に留めておくか、何が私を作っているのか、世界に対する私と言う存在、一個である、存在する意識である、私と言う、対極のネメシュ・ラースロの短編、13分の中に、ルネサンス絵画のバルールのような絶妙さの中に、絶望の中の、悪の中の、更なる絶望と悪が、

サウルの息子〜ネメシュ・ラースロ

タルベーラの「ニイチェの馬」に関わった監督の作品ということで観たが、深度の浅いレンズで撮って、臨場感はあるがアウシュビッツ以降、アウシュビッツを語ることの無の視点はない、帝国主義、ファシズム、奴隷同士の、これは何なのか、人とは何なのかの、生きている間は生きる、ではなく、人間への、世界の絶望への、愚劣の裁断、無化の、自死でもいい、抵抗でもいい、生存欲でも、邪悪への、人間の新しき形が無いなら、やはりアウシュビッツを描くことは愚劣なこと、人間の文化とは何か、差別と抑圧の上に成り立っている、ユダヤといい、黒人といい、障害者といい、貧乏人といい、抵抗の上に成り立っているというが、有史以来、それだけのもの、
本質、根本的な、権力の邪悪と絶望には非力、神ではない、新しき絶対が、核の邪悪こそが世界を救う、

バイキング及びマルコポーロ

バイキングの覇者への過程、マルコポーロのジンギスハーン一族の覇権争い、それらを観る中で、ある人間の支配への感情、支配されるより支配することの、殺されるより殺すことの、常にそこには外敵という、支配抑圧の世界があり、現代といえど、グローバルな世界資本が、国家を超えて、支配抑圧のシステムを張り巡らせ、人間不平等起源論、社会契約論、理性、所有、人民主権と進んできたものが、弱肉強食、適者生存へ、今やバイキングもマルコポーロもなく、

戦後文学

啄木、透谷から始まって、16才より日本文学を漁ってきて、戦後文学を特別なものと考えて読んでは来なかった、日本文学の流れとしての戦争であった、民主文学の流れとしてのプロレタリア文学が課題としてあった、「野火」、「ひかりごけ」、「海と毒薬」、「人間の条件」、戦争という状況に投げ込まれた、人間の悲惨、不条理をテーマとしているのだが、今や人類絶滅も可能な兵器の時代にあって、ドローン、ロボット戦争の時代、金融支配の時代にあって、文学における、人の良心や、善悪、不平等など意味をなさず、SFでしか表現できず、日本文学の戦後文学とは何だったのかと、世界は常に支配、被支配の構図で、それは国家など関係なく、世界はそうして形作られ、「戦争は女の顔をしていな」くとも、傭兵、テロ、労働としての戦争が、世界に蔓延し、核戦争だけが人を戦争の愚から目覚めさせ、ストロンチウム、プルトニウム、万年単位の半減期の意味がそこにはあり、核汚染の中で殺し、奪い合うことの愚が自覚され、

ベルンハルト・シュリンク「朗読者」

映画スティーブン・ダルドリー監督の「愛を読むひと」、人の罪への有責性を描いていたが、かつてレヴィナスの有責性を受け入れ難かったが、現在、核汚染の世界にあって、未来への有責性、罪は自明のものとなり、その上で私は絶望主義を、自らの立ち位置と規定し、私の有責性を思考しているのだった、またそこからの脱却として「唯一者とその所有」、「私対世界」であるのだった、

レヴィナスの有責性、顔に対して

人間としての倫理、人間の発見、可能性をそこに重ねたが、核によって、後戻りのできない、破滅の自明な世界にあって、有責性を持たず、か弱く、空しく、レヴィナスを感じてしまうのだった、絶望に対して、無責任性と、虚無こそが力のような、レヴィナスの人間への、人間の視点は了解するが、いずれ、愛、畏敬であるところの感情に、期待も、理想も求めない、人間の歴史の過酷、残虐に於いて、レヴィナスが気弱なキリストのように思え、

朝鮮という国

櫛目土器〜BC4000、ウラル系
衛氏朝鮮〜BC194
漢による支配〜400年間
4C〜高句麗、百済、新羅、三国時代
13C〜モンゴルの支配
14C〜李氏王朝
16C〜豊臣秀吉の出兵
17C〜清国の侵攻
19C〜日朝併合
1910〜南北分断
20C〜
5年おき、10年おきに動乱が起きている歴史、日朝併合時には毎年のように、

ニキータ・ミハルコフ

ロシア三部作を見る、貴族、エリート時代のノスタルジーと、スターリン時代の粛清、独裁への批判を、一人の女性への、愛の葛藤を通して描こうとしていた、史実的エピソードを重ねながら、6時間にわたるドラマ、多くロシアの発見、回帰の、家族、人間への回帰の視点が重点で、粗削りだが楽しめた、ソヴィエトは2800万人が戦死、ドイツは800万人、日本は400万人、ユダヤ人は400万人、ポーランドは500万人、中国2000万人、世界合計1億人近くが犠牲となった世界大戦、ナショリズム、愛国が時代を席巻した、現代、新自由主義の時代にあって、民族、国家は崩壊し、資本対無産者の、1パーセント対99パーセントの、世界は100年前の構図が自明となり、核汚染の世界にあって、それは決定的となり、

カウラ事件

日本人とは何かを考えさせる、オーストラリア人が、イタリア人が、当時受けたショックが、現代にあっても、個人の未発達、生命の尊厳、自立と他愛の欠除、近代とは何かの、ギリシャを生んだヨーロッパ、フランス革命、産業革命を経て、その中での市民、個人、人権意識、それらが日本にはなかったということ、現代であってもそれは変わらず、ヨーロッパ近代の200年、文化としては2000年という思想の歴史、日本にあって、たかだか鎖国から150年の、第二次大戦から70年の、それも外圧からの、付け焼刃の、文字面の、トイレットペーパーより軽かった、カウラ収容所の生命は、一億総玉砕と変わらず、今も、放射線管理区域に子供を住まわせ、誰も裁かれず、再びの再稼働をと、

9.11を平気でやる者が

アメリカには2万人の、否、何万人かわからない程のCIA、FBIの職員が居り、かつてあらゆる謀略やら、陰謀を仕掛けてきた、麻薬取引、武器取引、子供売買、etc、世界の諜報、権力機関はどこも同じではあるが、そうした人間が考えていることの、国益なのか権益なのか、人道、正義などお構いなしに、ヤクザのように、仕事としてやっているということ、啓蒙思想で、人間の尊厳、民主主義は、生かせていないということ、啓蒙とは権力による支配プロパガンダとなり、一部の特権に奉仕する、金と権力に捉われた者らが、支配護持のために、核の絶対悪も、自然災害の虚無のように、彼ら無知ではない、人の放棄、人の絶望、人の喪失ということ、彼ら、人時間を生きていないということ、人時間とは、人への、世界への、共感、その上での誠実、根底にある、良心というようなものに基づき生きている時間、国家の名の下に、治安維持の名の下に、抑圧と、支配を続けている彼ら、彼らこそ世界の絶望であるのだった、
世界の悪は、全て彼らによって演出されているといってよいほどの、

チョムスキーの「アメリカンドリームノレクィエム」

10項目に絞って、その変遷を説明、そして最後は、1人1人の小さな積み上げが歴史を作ると、しかし、このグローバル企業に群がる人間の、欲望と無知は、収奪と戦争と破壊を繰り返すだろう、現代の社会システム以前に、核汚染の、絶望認識を共有しない限り、人類全体が運命共同体であることに至らない限り、更なる核汚染が進行しない限り、

パステルナーク「ドクトルジバコ」

2度目のビデオ、原作も読んではいるが、残る印象がある、革命と言うものの、そして時代の中の個人と言うものの、そして愛と言うものの、で、ジバコは革命をどう捉えていたか、時代だから、改革が必要であったからと、父がトルストイと親交があり、移動派の絵描きであったから、ナロードニキの意識があり、しかし、革命が個人の抑圧を必要とすることへの抵抗、批判を持ち、愛については、自然さの自由恋愛者で、二人の女性を愛し、革命と言うものの、ロシア革命から、チリの革命まで、革命とは政治の帰結である、その中での個人とは、革命を必要とする者と、必要としない者があるだけ、必要とするものは、個人より集団を求め、愛とは、自愛、自由を通した他愛、自愛を深めていけば、自然に他愛は生まれ、自愛の人生こそが他愛へと、

イギリスの児童移民政策「オレンジと太陽」

ハンフリーズ女史の調査によって、明るみになった、イギリスの養護施設の子供たち、1900年前半、それ以前からも、孤児院と言われていた所の、15万人が、世界のあちこちに移民させられていた、高橋是清も、間違ってアメリカに移民させられたと、植民地政策による孤児、片親家庭の子供たちは、世界に無数に送り込まれ、何十年も心の空洞を持ったままの者、虐待、自殺、奴隷労働、今も続くグローバル企業の植民地政策、

トランプの虚無

45億の年収、3度の結婚、不動産王、米大統領、自信家、虚無と言うものがなんであるかとするなら、これら人生の忘却に費やされてきた境遇であろう、人生とは何かを考える、一瞬すらも味わうことなく、過ぎてしまった人生そのものであろう、

君主制、封建性が続く歴史

現代においても、大資本と労働者の状態は、1%と99%と言われるように、君主が企業に変わっただけ、封建性は、政官財の癒着となって行われ、市民、国民もそれを容認し、労働という名の奴隷制度を続けている、民主主義がどういうものかとするなら、奴隷労働からの解放でなければ、香港の学生運動のドキュメント、16歳の彼らが、民主主義とは何かと、中国専制支配に立ち向かい、国会占拠、市街占拠と、

禅について

日本の作家の多くは、最終的には禅を説き、禅に帰っていく、近代自我、哲学を深めた者が禅へ、道元へと、宮沢賢治はじめ、日本には仏教的背景の作品は多いが、一般においても、冠婚葬祭を通して、禅的文化思考は蔓延しているのだから、自明ではあるのだが、民主を、革命を、近代を、伝統、歴史の中に体験していない日本においては、自我発露の青年時代においてのみ、追求される自我であり、その過程の文学であるのだから、いたしかたいのだが、原発事故、自然災害、政治の混沌などから、メッキ的自尊の皮がはがれた日本人への、もう一度日本、日本は素晴らしいのキャンペーンの中で、禅の自画自賛がなされ、永平寺等、日本の寺社仏閣が繰り返しTVに流され、沼田健哉なる者の、自我考察も読んでみたが、ただのガイドブックに過ぎず、全人類的、自我、個人の尊厳への俯瞰はない、唯一者とその所有のような、自我、個への賛歌、謳歌の哲学こそ、現代は必要としている、核世界において、世界がどうであっても、存在する私への確信、在るだけで良いとする、自尊自愛の哲学、唯一者を自覚して、

ルサンチマンと革命

世界の富は、富豪に預けてある、必要な時には下ろすでいい、
生命とは、生きて在るだけでいい、
喜びも、苦しみも、生きている体験、
核に対して、世界に対して、私の生の哲学でいい、







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大岡昇平「野火」の問題

飢えの極限状態にあって、人を喰べるか否か、人を喰べて生き残ることの、武田泰淳の「ひかりごけ」野上弥生子の「海神丸」、etc、人肉喰いの小説は多々ある、人肉喰いの罪を、人を殺すこと、人の肉を食うこと、同類に対しての、人間の尊厳、人間という私へ罪と罰への、生理的に嫌悪されるものとは何か、同類を食うという、飢えに対して抗えないという、生理と理性、死と生、生のためには死を拒む、そのためには生理が優先されると、人肉を喰って生をつなぎ、生還した私の手記として、神を問う形で終えている、多くの兵隊が人肉を喰ったであろうことを、罪の感情でもって、戦後を生きた者と、人の生理としてやり過ごし生きた者と、戦争への反省のないまま、今に至っている日本にあっては問われ続ける問題であろう、それらを大岡は、問おうとしたのだが、描けてはいない、「もし彼がキリストの変わり身であるならば」と神に負わせてしまっている、こうした人倫問題が、核世界の時代にあって、世界を手玉にとれる兵器、毒物によってどう変化していくのか、文学、哲学は何を問うのか、
唯一者は、人肉喰いも、核、テロも、肯定も、否定も随意であろう、世界と一体の個の地点であり、世界の最大悪を愚劣を知り抜いている存在だから、神が劫罰をくだすように、世界を俯瞰している存在で有るのだから、罪と罰、ヒューマニズム、デモクラシー、国家、民族、善悪、etcを、個で、私で超えていく、絶望しても死なない、核時代の新しき人の、唯一者とその世界を描かねば、ムルソーの世界の無関心から、世界の一体へ、

道元と私

只管打坐、自らの中に仏性を見いだす、身心脱落、その後世界との一体へ、生と死、肉体と心の対立ではない、一体への、体験、感情と、キリストの絶対神と、ギリシャ哲学に始まった科学への道と、現代の絶望に対しての禅と、キリスト、科学の心、現代の絶望は、禅、キリストを超えて、科学の想定と感情からの、1000年、2000年前の人間の思索と、現代の人間の頂点における、科学と感情心理、自らの仏性を見るとは、2000年の人間の歴史をつないでいる存在の私であることの自覚、

●身心脱落とは、自己の仏性の下に生きた人生であったこと、
●長い短いではない、仏性を生きたという満足で、
●生死、色即是空とは、宇宙、存在の無限、無限なのだから私も無限、質量普遍と常住不変不滅、
●生きることを生きるとは、癌生還からの、おつりの人生で十分、
●その上での、私の原発震災日誌、残された時間を絶望主義の確立へ

想像の絶望と現実の絶望

核、戦争、病気等の絶望状況があるから想像されるのだが、現実にそれらが起きた時には、文学、哲学、宗教の、哲学におけるイデアにアプリオリなものとなるだろう、絶望の認識にあって、時間、空間、存在と同じように、私において感じられる、核というアプリオリなもの、それは私において形作られているからこそ、想像ではない、核汚染地の、家庭の、個人の絶望から発せられているのだから、
これが世界を変えないわけはない、今や世界は想像の絶望ではない、核を通して、絶望を通して、人類は変わっていかざるを得ない、新しき人はそこから誕生していく、

人生で何をしたかったのか

結局は小説を書いていたかった、思索をしていたかった、ということになる、オーディオ、植木、カメラ、パソコン、etcの趣味はあるが、無くても構わないものではある、が、文筆、思索は、生きることの目的になっている、途中政治や、家庭、生活、労働がウエィトを占めることもあったが、全ては書く、考えるためにあり、政治や、人のためにではなかった、私の、私による、私のための文学、発表も、評価も必要とするものではなかった、それは今でも変わらず、譬え原発、絶望の思索であっても、私においての事、私対私の人生という、

ユダヤ、タルムード

タルムードの格言を読んだ、そこに書かれている選民思想と、自民族以外の蔑視、非人思想、差別と虐待の歴史の中からの思想だろうが、抵抗の極みが語られている、全20巻、12000ページ、教育、労働、食事、死生観、性、婚姻、商法、聖書の倫理的なものではなく、実利的、戒律、若き日、モンテニューのエセーを読んだ、曖昧で良く呑み込めなかった、が、タルムードは具体的で考えさせるものとなっている、こうした格言で人生を生きたなら、エリートにもなるだろうと、世界のユダヤ教徒の著名人たち、非ユダヤ人にとっては、息苦しいものに、が、立身出世の、人生達人の書のような、金にまつわる、人間関係の、知識への、成功への説得力、マニュアルがある、かくてユダヤ教徒が財を成せば、支配者、リーダーとなることに、ホロコースト産業、最も富裕なアメリカ人40人のうち16人はユダヤ人、アメリカのノーベル賞受賞者の40%はユダヤ人、主要な大学教授の20%はユダヤ人、一流法律事務所の共同経営者の40%はユダヤ人と、ロスチャイルドに象徴される、世界の陰謀、謀略の仕掛け人との、タルムードは、聖書、コーラン、仏典とは違う、ユダヤ人による、ユダヤ人のための実用書となっている、

五木の青春の門

映画しか見ていないが、本日自立編を見て、途中で止めた、その話作りが、人情賛歌で作られていることへの嫌気であった、五木の中にある、通俗、演歌性からなのだろうが、ここから始まって、大河の一滴、親鸞、蓮如へと、その知足礼賛が、人への卑屈、無思想へと誘い、6、70年代のノンポリ、愚民へと、昨日の道元も同じだが、悟りを真善とし、人の百人百様の生への否定となっている、仏性を生きずとも、生きる百様が、人であることの視座が無い、仏教が輪廻転生、因果、空、無常、苦、無我、これ等の肯定が悟りとするなら、何とつまらないものかと、

電車、バス、家で

人が、スマホ、パソコン、TVと、全員がである、昔一億総白痴化と、今や完全にコントロールされている、過去を持たない、過去を振り返らない、自らで考えない、自らを持たない、一日を持たない、人はみな有機ロボットに、家、車、物、教育、レジャー、etcに縛られ、その為に働き、ロボットとしての人生、振り返る過去を持たないのだから、現在しかない、与えてもらう、指令を待つ、暇をつぶす、インターネットが情報ツール、コミニケーションツールに過ぎないのだが、コントロールするものにとっては、格好の支配の道具、フェイクニュースが垂れ流され、が、ニュースなど見ていない、ゲーム、音楽、メール、政治など無関心、サイレントマジョリティー、陰謀、不正選挙、絶望世界にあって、自然な姿、

映画、オートマタ

AIがプログラムに基づかない、自立型ロボットであり、それが2045年には、人間を超えるとする中で、オートマタというロボットの誕生、CPUチップが人間の1万倍となり、様々な予知判断が、人間より正確なものとなり、自らを再生、創造していき、「核による環境破壊」、「人工知能の特異点超え」、「太陽異変より地球環境の変化」、人間はロボットに労働を依存し、そのロボットが人間社会をコントロールし、という映画ばやり、一緒に見たAIも、子供型ロボットと母の物語、ロボットが人間の感情を持ち、母を求めてと、人間社会の崩壊がシュチエーション、人間の愛の再生がテーマ、が、この進歩と言うものは、有機体、生命にとっては、核という絶対の前には、無効なものであり、生命がバンアレン帯を超えられないように、何をもってしても限界に至っているということ、SF、デストピアの映画に欠けているものが、核に対する視点、デストピアを規定している、根本のところが考察されていない、譬え打つ手なしの、絶望未来であっても、この絶望とは何かと、今を問う視点が欠けている、

ダウン症、自閉症、不妊、アルツハイマー

数日来のTV、これらを盛んに放映、世界がこれらの問題に当面していることの、優生学的、ホロコースト的に語る事と、ヒューマニズム、宗教的に語ることと、全ての根底にあるのは、人の絶滅への、その中での個としての、唯一者の視点の欠除、絶望の共有が無いがために、価値で判断しようとしている、絶望においては、どちらでも良い事、生きる事を生きるだけ、その日まで、助け合って生きた方が、楽しいに決まっている、分け合って生きた方が良いに決まっている、人肉を喰って生きても、いずれ死ぬのだから、帰る国、希望の国はないのだから、共に飢えて死ぬのが人間という動物の姿、

絶望を通して、すべて許すへ

愛や、真実、正義、実存と、存在に様々な意味づけと、理由をつけてきた、存在とはそうしたものと、しかし今、悪も欺瞞も、不実も、全て許す、全て肯定へと、世界の権力者が、世界の哲人、偉人がであってさえ無力な、成す術もない、核汚染の星に、その絶望、この星への所有意識、支配意識が強ければ強いほど、絶望意識は強まるはず、その取り返しの付かないことへの、全てが無の、子や孫の世代ではない、100年、200年後の核汚染の蔓延、

絶望+希望=愛ということ

現代とは、人に絶望意識が欠除しているということ、親鸞の悪人なをもって往生すのような、悪への寛容、キリストの恩寵、では生ある者が、絶望を体験してきた者が、愛と希望に至っているのか、アウシュビッツの生存者が、第二次大戦を生き延びた者が、癌の生存者が、絶望に対して、愛と希望は有効なのか、
希望は人の主観を超えて存在するものでいいだろう、愛は恩寵のような、存在への喜びでいいだろう、絶望であっても希望が感じられるなら愛が、愛から希望をとるなら絶望が、希望とは愛から絶望を取り除いたもの、現代において、絶望の認識が無いがために、愛も希望も存在できない、世界の絶望を愛と希望で、






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