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藤堂平助を追いかけて 江戸・東京を中心にウロウロしています。
新しい発見や 平助の周りの時代背景などが 分かれば
この年表に 随時追加していきます。
☆江戸育ちらしい洒落っ気があったのか
「品行はよろしくないが人物がしっかりしている」
経済に達し戟剣をよくする等といった記録が垣間見られる。鈴木三樹三郎談、
諱(イミナ)は宜虎(よしとら)。
墓石には 藤堂平助 藤原宜虎とある
1844年 弘化元年 江戸駒込で生まれる
駒込は江戸藤堂屋敷があった。
駒込は植木職人が多くいた。(菊、桜、ソメイヨシノの発祥地)
一説によると花屋の娘が母親と
植木関係の娘の子じゃないかと想像します。
伊勢・津藩主藤堂高猷(とうどうたかゆき)の落胤と言われている
江戸津藩藤堂家の鍛冶で名刀・上総介兼重を持っていた。
上総介兼重は宮本武蔵の刀としても有名
藤堂高虎が宮本武蔵の紹介で召抱えたとも言われている。
宮本武蔵は熊本の加藤清正の所で召抱えられてもいた。
藤堂高虎も加藤清正も共に築城の名手としてしられていたし
豊臣家から徳川方へ付いて行き、清正と高虎は仲が良かった。
その関係で 藤堂家に上総介兼重が来たのではないか?
o江戸の伊勢・津藩の屋敷は、
下屋敷・・・駒込・染井
中屋敷・・・神田(現在の神田和泉町)
上屋敷・・・上野(現在の上野公園・動物園横に藤堂高虎の墓、上野東照宮)
(幕末の頃の上野は 巨大な寺院山・寛永寺その一角に藤堂家の寒松院があった)
☆伊勢津藩 藤堂家は 藤原氏の家系
津藩の藤堂高虎の墓には 藤原高虎と書いてある
そこで 藤堂平助のお墓にも 藤原宜虎
まさに 藤堂平助は 高虎さんの子孫で有ると 宣言しているかのようです。
藤堂平助も 藤堂高虎を意識していたのか・・そんな気がします。
新撰組時代 魁先生と呼ばれ 京都市中の見回りの時には
死番と言われる 数名の隊士のいつも先頭を歩いていた。
藤堂高虎も 若い頃 戦では常に先頭で戦いに出て行き
一番槍を取っていた。
藤堂家に残る高虎の家訓に
第1条 寝屋を出るより 其日を死番と可得心 かやうに覚悟極る
ゆへに物に動する事なし 是可為本意
まさしく 藤堂平助は 高虎の家訓をおこなっていたので 魁先生と呼ばれた。
・千葉周作 北辰一刀流「玄武館」へ
駒込・染井から 神田岩本町まで 約7キロ 子供の足で2時間弱って所かな
途中 寄り道するところ多数あり・・本郷通りには寺町がある
当時のお寺は 文化 流行りものの一つでした。
また、津藩中屋敷が神田にあった。中屋敷から玄武館までは歩いて10分位です。
・平助12歳の時 千葉周作没・・現在の千葉周作のお墓は駒込にある
平助の名前が北辰一刀流の目録に有る、無いの記事多数・・どちらかわからない。
・江戸深川の北辰一刀流 伊東道場へ
伊東の道場に出入りしていた加納の証言によれば、藤堂は伊東の弟子である。
・市谷にあった 近藤勇の「試衛館」へ(この頃平助 18、9歳位か)
試衛館には平助の武具は置いていなかった。・・・何をしに、何が目的で試衛館に行っていたのかな
1863年 文久3年、平助20歳
・浪士組一員として上京/2月23日
・清河八郎暗殺未遂/ 3月上旬
(藤堂平助は山南と 芹沢鴨班で行動?なぜ?近藤達と違うのか?)
・壬生浪士-副長助勤に/ 3月15日(5月2日)
・禁門の政変に出動/ 8月18日(9月30日)
・芹沢派襲撃?/ 9月8日(10月30日)
・長州間者襲撃?/ 12月頃
1864年 元治元年、平助21歳
・ 池田屋事件−/6月5日(7月8日)
池田屋事件では、近藤、沖田総司、永倉新八ととともに、真っ先に斬り込んだ。
額を割られる
・禁門の変に出動/ 7月19日(8月20日)
・東下−伊東甲子太郎を新選組に勧誘/9月頃
・近藤・伊東ら江戸出立−同行せず/ 10月
同年10月、近藤の江戸下向に先立ち江戸に下り、伊東甲子太郎ら入隊を仲介する。
伊東らは近藤とともに上洛したが、平助は別行動をとり、翌慶応元(1865)年5月頃帰 京する。
☆ここは俺mitsuさんの想像ですけど、
それまで イケイケドンドンで怖いものしらずの平助、江戸の頃もやんちゃでならして、
好き放題の事をしていた。
たとえば 北辰一刀流の道場の門下でも 近藤勇の「試衛館」に出入りしたり、「
伊東道場」在籍でも好きで興味のあった 近藤、土方、沖田の、そして同門の山南と
浪士組との行動を共にした、今で言う「我がまま」アンちゃんじゃなかったのかと思う。
又、京では、みんなに「魁先生」と呼ばれて うれしかったんだ
当時 桑名藩では 市中見回りの時 先頭を行く人を
「今日の死に番」と呼ばれていたように
平助は 怖いもの知らずの 若者だったんだろう
しかし、池田屋事件で 生死の境をさまよった平助・・心の変化とかあったはず
特に江戸時代の人、信心深くなったんじゃないか
深川での伊東道場の頃は「深川の八幡」も「神田明神」も神輿、祭り、喧嘩、女、の次元だったのが
神様・・として見えてきたんじゃないかと。
そこで、江戸に戻って来た藤堂平助は・・・深川の八幡様を
武士の神様、戦いの神様として、改めて信心したんじゃないだろうか。
1865年 慶応元年 平助22歳
・2月。新選組創設時からの同志で北辰一刀流の同門
総長 山南敬助の脱走・切腹事件があった
・5月京に戻ると、敬愛する山南敬助が既に自刃していた。
・再編成で、平助は八番隊組長に就任した
1866年 慶応2年 平助23歳
・この年の平助の記録が ほとんど無い??
1867年 慶応3年 平助24歳
・3月、伊東甲子太郎は同士とともに御陵衛士を拝命、新撰組を離脱する。
・伊東、藤堂らは東山高台寺の頭塔月真院を本拠とし、高台寺党と呼ばれた
美濃に出張
・御陵衛士、屯所の月真院移転/ 6月後半(7月後半)
・伊東らと連署で長州寛典を促す建白書を提出/ 8月8日(9月5日)
・侠客水野弥太郎と同盟/ 時期不明
・伊東と坂本龍馬訪問/ 11月15日?
・油小路の闘い/ 11月19日(12月14日)未明
・数日間遺骸を放置される/ 11月19日〜
坂本竜馬・中岡慎太郎が暗殺された11月15日、
平助は伊東に連れられ2人に面会している?。
1867年 慶応3年11月18日
伊東は、近藤の妾宅に呼ばれ酔った帰り道、油小路に待ち伏せる新選組に襲われ、 大石鍬次郎に討たれてしまう。
平助は、三木三郎、篠原泰之進らと伊東の遺体を引き取りに油小路に向かった。
そこで新選組と戦闘全身に傷を負い絶命した。
藤堂平助、毛内有之助、服部武雄、伊東甲子太郎ら四人の遺体は そのまま路上に 二日間放置された
享年24歳。
☆昭和4年?7年? 東京九段 靖国神社に合祀される
(藤堂平助、毛内有之助、服部武雄、伊東甲子太郎ら四人)
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