ゴルフのこぼれ話。トーナメントの裏話。

人生でやり残した事は、ホールインワン!そして、エージシュート!目指します!(笑)

私のゴルフ履歴書。

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◆帝国データバンクが、
 「過去最高の『ゴルフ場閉鎖』を報道!」

 若者の『ゴルフ離れ』が主原因と定義づけているが、
 それだけでは無い様な気がするのだが・・・

 帝国データバンクは、今年上半期のゴルフ場閉鎖が、
 12箇所となり、
 リーマンショックの2008年時の、
 年間28件を越える事が予想されると言うのだ!

 同社が経営状況を把握できる全国のゴルフ場:950社のうち
 2017年の減収が、17.1% = 353社減収だった。

 日本ゴルフ場経営者協会が纏めた、
 2017年のゴルフ利用者数は、延べ8655万6000人だった。
 ピーク時、1992年で、1億232万5000人で、
  8割強まで落ち込んだと言う事だ!

 ★ゴルフ人口が激減した主原因は!
  若者のゴルフ離れ! その層の開拓をしなかった。
  故に、ゴルファーの高齢化で、減少は止めれなかった。

  そして、企業の「接待」が、ゴルフと言うスポーツを敬遠した事も!
  更には、官庁関係の取引先との「ゴルフ禁止」がある。
 
  この辺から、自論になるが、
  「官庁関係」が、「ゴルフ接待」を最悪ととらえ、「禁止」し、
  罰する事になった事も、大きな原因であると私は思う。

  霞ヶ関ゴルフ倶楽部で、
  コースを貸切って、ホストに松山英樹を採用し、
  アメリカ大統領トランプ氏が大好きと言うハンバーガーを用意し、
  総理大臣が接待した!
 
  総理大臣が、こうした振る舞いをするのだから、この際、
  官庁の接待ゴルフ禁止を解いて欲しい!

  私も「ゴルフ」を始めたキッカケは、
  広告代理店時代の「接待ゴルフ」でした。
  そして、ゴルフは高い料金で、自前で来ようとは思わなかった。
  ゴルフボールは、綺麗な化粧箱に入っており、
  1個づつ、金紙、銀紙に包まれており、とても新品は入手できず、
  
  新橋のガード下で、ロストボールを購入していた事を思い出す。

  それでも、ゴルフをしかった。
  故に、ゴルフ練習場は必須で、通ったものだった!

  ★さあ、ゴルフ場が減る一方ではあるが、
   ココパリゾートクラブ白山ヴィレッジゴルフクラブが、
   新規会員を、募集した所、1年で、約200人の新規会員の
   加入があった。

   更に。関東でも、名門と言われる会員権が高額なところが、
   売れていると言うのだ!

   やはり、作り過ぎで、それを支援し、会員権ローンなどで
   売り手にまで支援した「銀行」が悪すぎたのだ!

   広告代理店時代に、平和相互銀行の小宮山氏が
   「太平洋クラブ」を、全国100コースを造ると、会員募集した
   その時、パンフレットを作り、打ち合わせに立ち会ったが、
   酷かった。
   全部消滅したが、ゴルフ場を作らないと馬鹿者扱いだった。

   適正ゴルフ場数は、果たして!
   
   更に、ゴルフ場予約サイトが、ゴルフ場の危機に!
   ネットで、予約できるのは良いのだが・・・
   
   まだまだ、問題点がありすぎますね!
◆久々に「私のゴルフ履歴書」を開いた。
 子供に指導される所まで書いたが、倶楽部ハンディキャップが、16 となり、
 競技に参加するのだが、80台ではなかなか賞には絡めなかった。
 そんな時、
 「1万円の参加費のオープンコンペに出ようよ!」と言うのだ。
 1995年だった。
 場所は、利根ゴルフ倶楽部で開催される大会で、ここでは「ジャンボ軍団に挑戦」という番組で、
 何度か訪れたゴルフ場だった。
 第1回目は、関東地区だけで優勝者1名だけが、セントアンドリューズのプロアマに出場出来るのだ。
 これを企画、運営しているのも、知り合いで、和気あいあいとゴルフをしたのだが、
 私たちの組は、そんな複勝は関係なく、横の握りとチーム戦で、暑かった。
 
 そして、表彰式になって、初代優勝したのは、何と、ブリヂストンスポーツで、女子プロをサポートしている
 女子だったのだ。
 彼女は、「ダンヒルカップ」、国別対抗戦のプロアマにご招待されたのだった。
 この「ダンヒルカップ」が、10月で国別といっても、米ツアーは試合が終わっており、
 日本は秋の大きな大会が続くので、選手がなかなか参加しないのだ。
 日本IMGとプロをマネージメントする友人達が、選手選考に苦労したのだった。
 
 そして、日本のマスコミにこの大会をPRする為、アマチュア大会を開催して
 「セントアンドリュース」で「プロアマ」に参加しませんか?
 と呼びかけたのが第1回だった。
 
 翌年は、日本で3会場で開催、更に3回目は、5会場と増えたのだ。
 
 我々、ゴルフ仲間は、それに全く関係無く、1万円を出して、ゴルフを楽しんだのだが・・・
 その3回目の1997年に、
 89でラウンドして、17オーバー。
 表彰式で、幾ら経過しても、名前が呼ばれないのだ。
 テーブルには、隠しホールが配られて、友人が、「らっこ! ヒョッとしたら・・・」と、
 1バーディの箇所は、見事にハズレ、ボギー・ダブルボギーとコトゴトク、はまっているのだ。
 そして、
 優勝してしまった。
 自家用車ローバー800が無償で、セントアンドリュースでプロアマ参戦と、
 ダンヒルのブレザーを頂き、 これまで「ゴルフ」に費やした、無駄が一気に戻って来た感じだ。
 書庫:St.アンドリューズ で詳しく書いておりますので、暇なとき見てください。
 
 まあ、最高のゴルフ人生になった。
 1990年には「マスターズ視察」 1995年「リビエラCCでの全米プロ視察」と、ゴルフを
 やって本当に良かった。
 
 只今、60+?歳となった今も、ゴルフに関する仕事をしているのだ。
 
 私の背中を見て育った子供たちも、今はメーカーは違うが、ゴルフのメーカーで働いている。
 そうすると、BSP社、特に「J's」だけだったクラブ用品は、全て、息子達のメーカーに一新されたのだ。
 
 まあ、結局、私のゴルフ履歴書は、33歳頃からスタートし、80を切る所まで行かなかった。
 飛距離が、200ヤードを越えるか?
 いや、超えていないと言う声が多いが、まあ、楽しいゴルフに徹して居る。
 
  それは、「もう一度、あなたとラウンドしたい!」と言われるように心がけて居る。
 
◆トーナメントは、男子・女子と含めると、年間20試合を超えた。
 予選落ちの無いスタッフは、年間100日以上出張となる。
 
 その合間でも、先生に指導の元、千葉県に出かける。
 それはいろんなゴルフ場でラウンドするのとは違って、コースを知り尽くして来ただけに、
 飛距離や攻め方が違ってくるのだ。
 それでも、3ホールを連続パーにすると、次のホールの行ってはいけないところが頭をよぎるのだ。
 それは、学生時代からやって来ている人達との差を感じた。
 
 1990年夏、北海道の「三井観光苫小牧ゴルフコース」で、「日経カップ中村寅吉メモリアル」が開催された。
 ちょうどその頃になると、長男が15歳になって「夏休み」となり、
 お父さんの所で、アルバイトさせてと言って、北海道に付いて来た。
 長男が目指しているのは、ゴルフでは無く、「サッカー」なのだが、何か欲しいものがあると言う。
 
 その年は、4月に「マスターズ視察」に行って、私もゴルフに熱が入りだした時だった。
 千歳空港から、三井観光苫小牧コースに向かって、国道から脇道に入る所に、
 大きなゴルフ練習場があった。
 試合が終わって、ギャラリーが居なくなれば、我々は「店じまい」をして、スタッフとの夕飯までは、
 自由で、一目散に、その練習場に直行する。
 
 長男も、サッカーをする傍ら、ゴルフもやったおり、ゴミ拾いゴルフをさせて貰えると言う事で、
 練習に連日加わった。
 彼にとっては、日本国内での初ラウンドとなるのだ。
 中学時代には、どこのゴルフ場でもプレーする事はかなわなかったのだ。
 初ラウンドの豪州では、乗用カート乗り入れコースで、あっちへ行ったり、こっちへ行ったりだったので、
 練習場では、方向性だけを重視し、私の先生に受け売りを息子に伝授した。
 
 が、それは到底無理な話だ。
 練習場の様に、いつも平坦なところからショット出来る筈も無いからだ。
 そして、大会は「東 聡」が優勝した。そう「ペブルビーチ・ゴルフウエア」での優勝だった。
 翌日、
 運営スタッフの速報盤の担当者とのラウンドになったが、 やはり予想通りだった。
 「ゴミ拾い」を理由に、ゴルフ場を掛け巡る、その足腰は流石にサッカー少年だった。
 
 周りに迷惑をかけるといけないので、数ホール、ギブアップもさせた。
 すると、やはり少年ながら、気分が悪いと怒り出す。
 なだめ透かして、 結果、休みがあればアルバイトを志願した。
 子供の上達は、30歳を過ぎて再スタートした私を、追い越すには時間はかからなかった。
 それでも、子供は高校進学と同時に「サッカー中心」で、ベルディ・ジュニアチームに入る迄になったいた。
 そして、 高校サッカーでは東京代表にもなっている「目黒高校」を破って、話題になった事も!
 
 「俺は、サッカー選手を目指すよ!」と、高校3年の夏休みは、ブラジルのロンドリーナにできた、
 サッカースクールに1か月出掛けた。
 そして、帰って来た時の第一声が、「サッカーは格闘技! 私の身体では無理!」と言う。
 それは、地元に子供達と試合をするのだが、審判が見ていなければ、ジャンプすれば足をすくわれ、
 肩でぶつかるは当たり前、どんどん足にはあざが増え続けると言うのだ。
 「ゴルフは安全だね!」と言うのだ。
 おいおい、サッカー留学の費用はどうなるの!と言うと、アルバイトするから勘弁してと。
 夏休みは勿論、週末になると駆け付けると言う長男が助けるようになった。
 
 北海道から沖縄まで、アルバイト兼ゴルフを愛した長男が誕生したのだ。
 やがて、親父のゴルフを抜き去る事になるのだ。
 次男は、そんな兄を見て、サッカーには進まず、ゴルフをやりだし、こちらは母親に付き添い、
 都内のショートコースで腕を磨いた。
 
 それは、家族でゴルフが出来る環境になっていくのであった。
 兄と同じ高校に進んだが、この高校には「ゴルフ部」が無かった。
 「高校ゴルフ選手権」がある事で、「競技ゴルフ」を目指して、ゴルフをやる様に薦めた。
 次男は兄と違って、まじめにコツコツとやるタイプなので、シッカリした基礎を学ばせた。
 そして、次男は「高校ゴルフ選手権」に、個人で参加した。
 高校の先生で、ゴルフ好きの先生がいてその先生のもとに大変世話になった。
 
 次男のゴルフには、同期が「中嶋マサオ」がいる。高校ゴルフ選手権に名前が載っていた。
 やがて、長男は、語学勉強を兼ねて、ゴルフスクールと行っていた「日刊スポーツ社」が、
 募集する「ユタ州・セントジョージの『マイク・スミス』ゴルフアカデミーに参加した。
 18歳から、22歳まで米国にいる事になる。
 帰って来てからは、長男に指導される事になるのだ。
◆ブリヂストンスポーツ社は、ダンロップ社が、タイヤの宣伝をどんどんTV-CFを流すので、
 ここを調査した。
 「タイヤ」の売り上げは、世界の上位3番手に付けている「ブリヂストン」が、どうも、下位にいる「ダンロップ」が、
 あんなにTV-CFを流せる訳は!と、
 そして、調査会社の報告がこうだった!
 「住友ゴム」は、子会社である「ダンロップスポーツ社」が、ゴルフボールの売り上げが凄いと判明したのだ。
 バブルブーム絶好期、ゴルフボールの日本全体の売り上げは、総額400億円と言われた。
 その半分を、「ダンロップスポーツ」が抑え、残りの半分を、「タイトリスト」、「ブリジストン」「保土谷化学」や
 色んなメーカーが分けていた。
 
 そして、「ガッティ」と「ストライナー」の糸巻きでは無いゴルフボールを作っていた「保土谷化学」のコアが、
 注目され始めた。「糸巻きゴルフボール」には、もう限界があった事を見抜いた。
 
 「住友ゴム社」の「タイヤのTV−CF」を支えているのは、「ゴルフボール」だ。と結論と分析をした。
 そこで、我々にも、「ダンロップ・ゴルフボール市場」を壊滅させる企画を提出を求められたのだ。
 
 そのカンフル剤が、「糸巻きゴルフボール」から、「ワンピース」「ツーピース」のゴルフボールと
 ブームを起こす、そうした企画が求められた。これは1984年ごろだ。
 
 それは、「保土谷化学」を、ブリヂストンが買収し、そのコアの製造特許を手に入れた。
 更に、米国のアトランタに、そのコアを利用する事で、簡単な工場で「ゴルフボール」の製造が。
 「ツーピース・ゴルフボール」の誕生だ。
 「PRECEPT」と言う「ブランド」の誕生し、
 米ツアーにプロに、どんどんPRを開始した。
 国内では、「2重デインプルのツーピースゴルフボール=アルタスプロ318」だった。
  そのボールを使用して、契約プロの「ニック・プライス」が、「全米プロ」(1992年)で、優勝したのだ。
 更に、あの「尾崎将司」でさえ、ドライバーでの飛距離は、第1番目のアドバンテージだと言い出し、
 飛べば良い!
 
 飛ぶ事が常の話題になった。また、その頃「パーシモン」から、メタルドライバーが主流となりつつで、
 メタルに、高反発の「チタン」が使われ出した時期でもあった。
 このチタンと、ツーピースゴルフボールがマッチングして、凄い飛距離の時代に突入したのだ。
 そして、国内向けに、「ニューウィング」と言うゴルフボールが発売された。
 
 なんでも新しいモノを取りこむのが「尾崎将司」だ。
 「尾崎将司」は、これをいち早く取り入れていた。
 契約会社と違う「テーラーメイド社」が、トーナメント会場に、メタルドライバーを持って来て、
 これを使って下さい。
 そして、ツアーで、優勝したら、500万円、2位〜3位は、300万。 最終組とその前に組に入ったら、
 100万円のボーナスを差し上げますと言う企画だった。
 ジャンボ軍団の全員が、これを使いだした。
 そして、300万貰った。俺は最終組で、100万だと騒ぎ出した。
 
 「尾崎将司」尾崎健夫」そして「尾崎直道」の3兄弟と総合契約したブリヂストンスポーツ社は、
 1985年ごろから「JJJ」を、ブランド化しており、ゴルフクラブ等も作っており、人気があった。
 それでも、なんとか「テーラーメイド社」に負けない「メタルドライバー」を作る特命があった。
 それと同時に、「J’s」と言うブランドを、ゴルフ用品のすべてを作る「J’s委員会」が発足し、
 当然、ゴルフボールも作るのだが、まだ完全に「糸巻き」を捨てる訳にはいかなかった。
 
 そして、「ニューウィング」と、米国から逆輸入の「プリセプト」の販売は、強力にスタートした。
 日本のトーナメントプロも、「飛び」に弱かったプロが、使いだした。
 それは、プロが使えば、アマチュアも、となる。
 この事は、450ヤードを超える「ミドルホール」が誕生する事になる。
 それまではの「ミドルホール」は、せいぜい400ヤード位までだった。
 
 そして、1990年に「J’s」のドライバーが市場に、グリーンのシャフトが印象的だった。
 
 ★こうして、ブリヂストンスポーツ社が、様々なゴルフ用品を作りだした。
 それに伴い、私のゴルフ用品も、すべて「ブリヂストン」に変わった行った。
 更に、トーナメントの運営数が、どんどん増えて、益々、私の試合数も増えていく事になる。
 これは、ライバルである「ダンロップ」「ミズノ」と違って、販売会社に属しない会社が、日本全体で
 販売する事が他ではあり得ない事なのだ。
 
 でも、ブリヂストンスポーツ社に「山中幸博社長」は、各販売会社に乞う言ったのだ。
 あなたの販売会社は、ゴルフウエアを返品するでしょう!
 返品したゴルフウエアは、全部燃やせば良いのだが、そこまで儲かっていません!
 少しでも、「ブランド」を一般ゴルファーに知って貰う為、「ラッコさんが、皆さんの所のトーナメント会場で」
 限定で販売しているんです。
  だから、ラッコさんに強力しなければ! と言い切ったのだ。
 
 そして、なんとか「ダンロップタイヤ」の宣伝を抑える!と言う活動を。
  みんなの志が決まって、これは強力だった。
 更に、「J’s」がとんでもない方向に向かいだした。
 それは、1988年、尾崎将司が年間7勝して、賞金王に、実に 41歳での快進撃だった。
 そこに、「J’s」が加わり、1989年・1990年、3年連続、1991年 尾崎直道で、
 そこから1988年まで、ジャンボ軍団が賞金王を取るのだ。
 
 これは、本当に凄かった。
 私の商売も、凄くなっていくのだ。
 それは、ゴルフ・プレーも、日本全国で!しかも、トーナメント会場でのゴルフをする事になるのだ。
◆「ゴルフ」の楽しみが解った。
 とにかく、子供の時から「野球少年」だったのだが、ゴルフ等は、全く別世界だった。
 それでも、大学生になる頃、(1970年前後) 日本ゴルフ界も、ツアー制度が確立した。
 それは、1972年だった。
 それは、私が大学を卒業し、社会人になった時だったのだ。
 
 それから、いろんな経験をした広告代理店時代があって、独立して、やっと余裕の時間に「ゴルフ」が出来る。
 そうして、「接待ゴルフ」では無い。「スポーツ」としての「ゴルフ」にハマって行くのだった。
 ツアー競技が、「ゴルフ日本シリーズ」が終了すれば、翌年に3月の「東建コーポ」迄、その前に
 「インペリア」が雪の中開催した事もありましたが、
 約4か月、ツアーが無いので、我が社は「ファッションセール」「フェミリ―セール」等を行って、凌いだ。
 でも、時間はあり、ゴルフイベント部隊も、暇である。
 
 まず、イベント部隊の協力会社も交えての年末コンペが開催される。
 イベント事業部・プロ担当、そして、運営協力会社が、数社と、大会時に見なれた顔ぶれが集合する。
 そうすると、商品も豪華に用意され、競馬さながらに枠が用意される。
 ゴルフ・ウエア部門の「ペブルビーチ・クラブ」の担当に、本格的にレッスンをされ、そうしたコンペが、
 成績を図る、試合となった。
 但し、これが「Wペリア」と言う競技で、パーより、ボギーの方が、隠しホールであれば、1.2と言う数字が凹む。
 これが、アウト・インに6個づつあれば、運が良ければ・・・となる、
 
 すると、大学ゴルフ部出身の先生は、「Wペリア」は、偶然で、ゴルフは上手くならないと、
  マッチプレーをハンディを付けて行う。
 これは、このホールで大たたきしても、次のホールを丁寧に戦う事が出来るのだ。
 これが「ゴルフの基本」だと、教えられた。
 
 ★そして、「競技ゴルフ」をやらなければ、「ゴルフ」をやったとは言えない。
  それには、コース・メンバーになって、スコアを提出し、所属クラブのハンディ・キャップを習得する。
  更に、そのHCでの大会があるので、見ず知らずのゴルファーと、18ホールをマーカーを務めながら、
  ラウンドする、とそれを薦められた。
  確かに、いつもの仲間とワイワイ・ゴルフをやっても、それはそれで楽しいが、更に進めない。
 
  そして、バブル時期でありながら、ゴルフ倶楽部のメンバーになるのだ。
  仲間数人が、同一倶楽部に入会した。
  そして、ラウンドする度に「スコアー提出」をした。
  その結果が、初めて頂いた倶楽部ハンディキャップが、「23」だった。
  平均スコアが、「95」だったのだ。
  それは、「Bクラス」と言う枠だった。
 
  私の先生は、HCは、「2」で、 仲間は、「9」から、「16」迄となった。
  そうすると、自ずとHCを確かめて、その日に頂くハンディが決まるのだ。
  そして、スコアカードにHCの数字に、その差を印を付けてラウンドする。
  さあ、ハンディホールだ。と頑張る事になる。
 
  やがて、千葉県では有名な、HC:0 と言う仲間になる。
  それは、ロングホールでは、「イーグル」を常に意識するする!
  彼はやがて、プラスハンディになるのだが、いろいろと教わった事を思い出す。
 
  そして、「Bクラス」の競技に出るのだが、95の壁を破れない。
  そこには、HCの数字が、アンダーかオーバーかの境界線になる訳で、知らない人とのラウンドで、
  「ルール」も覚えないと恥をかく。
  そうして、何度目かの「Bクラス」の大会で、「89」を出した。
  表が張られて、 「66」の所に名前が鳴りだされる事に、
  競技委員に、風呂に入っても帰らないで下さいと言われた。
 
  そして、風呂から出て、その表を見渡し、まだ、66以上のモノが現れなかった。
  何故かこの時は、私一人だけが「Bクラス」に出場しており、この胸騒ぎが堪らなかった。
  そして、最後の組がアテストをして、「優勝」が決定した。
  嬉しかった。
  更に、友人に報告すると、「倶楽部ハンディ」が上がるよと言われた。
  それでも、「Aクラス」は、無理だな! と言われた。
  そして、変更された倶楽部ハンディは、「16」になった。
  嬉しかった。
 
  

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