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この写真が今月のみやま市議会だよりに載っていました。 2010年12月の市議会の一般質問として、伊藤提督の話が出ていました。 K議員が「今こそ伊藤大将の家族愛を」として教育長に提言されています。 教育長の返答は「副読本として活用できるか検討したい」でした。 どうなることでしょうか。彼は軍人だったということで、久しく忘れられていました。 文官も、武官も、軍人も差別せず、いい人物なら末代まで語り告ぐべきです。 誰が片道燃料で戦場へ行きますか。 右端の少年は一人息子の叡(あきら)さん。彼も海軍に籍を置き、戦闘機に乗っていました。父親より早く戦死されました。20代半ばかぎりの生涯だったようです。 妻のちとせ夫人は、旧三潴郡城島町出身で、実家は代々医者の森家でした。 現在の青木大橋手前の集落に、その森家はありましたが、いまでは跡地が残るのみです。 城島町青木辺りの70代以上の人々は、その森医院のことを知っておられました。 ちとせ夫人も昭和21年に入り、敗血症が原因でなくなられました。40代半ばのこと。 伊藤家は一年半のうち、家長、夫人、一人息子を失いました。 この写真は珍しい写真ではないでしょうか。 たしかに家族愛いっぱいの写真ですね。微笑んだ夫人が愛らしい。 合掌。 ☆.。.:*・°★.。.:*・°☆.。.:*・°★.。.:*・°☆.。.:*・°★.。.:*☆
私の古い蔵書の中に、吉田満著『提督伊藤整一の生涯』という本がある。
奥付けをみると、昭和53年に発刊されている。文芸春秋発行。定価980円。みやま市高田町黒崎開出身の伝説的人物であり、戦艦大和とともに運命を一緒に した古武士的軍人であった。 よく映画に取り上げられる人物でもある。 映画「連合艦隊」では、鶴田浩二が連合艦隊司令長官・伊藤整一の役を演じた。 この映画は、俳優中井貴一のデビュー作だった。伝説の俳優ー佐田啓二の息子として、 期待を背負って新人デビューをした。主題歌は谷村新司の「群青」。もの悲しい詩と曲が スクリーンいっぱい響き渡った。 4、5年ほど前の映画で「男たちの大和」が上映された。角川映画だったような気がするが。反町隆史、中村獅童らが出演し、伊藤整一の役は渡哲也だった。 言い伝えによると、伊藤提督は戦艦大和の艦長室に入り、ドアを閉めて、大和とともに 玉砕したという。燃料は片道分だけで、援護艦もごくわずかだった。 艦長室のドアを閉めたあと、しばらくして拳銃の音がしたというが、それは定かではない。俳優の鶴田浩二はこのシーンを忠実にこなした。(と思うが、もう古い映画だから、確認しようがない)。 まあ、映画のときは大物役者が必ず演じる。実際の人物も大物で、山本五十六や米内光政などに劣らない。海軍の将校は紳士で、かつ善人が多い。 伊藤提督の少年時代の逸話として、旧制中学伝習館までの通学ことが挙げられる。 明治の半ば、現在の黒崎開の金助坂付近から、干拓地の畦道を歩いて、当時の山門郡 城内村の旧制中学伝習館まで通学した。4里の距離だった。現在の16km。 4年間毎日徒歩で通学したのだった。大和町中島の橋辺りで夜が明け、それから予習をしたそうだ。家に帰れば、農家の手伝いがあった。彼は時間の使いようがうまかったのだろう。 当時、旧制中学が少なく、一番近い学校が柳川にあった。三池郡、山門郡、八女郡、 三潴郡管内にあったのが旧制中学伝習館であった。皆、勉強して夢を実現することが 望みだったから、4里、5里の通学距離なんかへっちゃらだった。本当に勉強をしたい人が 学校に行っていた時代だったかも。 今では考えられない通学距離と、通学時間である。そして靴もなく、その上道も悪い。 おそらく畦道を歩いていたのだろう。 本の最後の部分にこう書かれている。 「汐風は、生家の屋根にも、墓碑にも、整一の通学路だった畦道にも、吹き付けている。 この土地がある限り、汐風は吹きつづけるであろう」 この部分をじっと噛み締めるだけでも、当時の黒崎開の汐風のすごさがわかり、伊藤提督ばかりではなく、そこで過ごした生きとし生きるものの、波乱の生涯に胸を打たれる。 戦艦大和は昭和20年4月7日に沈んだ。この日が提督伊藤整一の命日である。 現在、金助坂の旧道脇に提督の墓碑が建っている。しかし、その碑文は汐風に打たれ、 あまり文字が読めない。墓碑は昭和33年4月7日に建立された。 ☆.。.:*・°★.。.:*・°☆.。.:*・°★.。.:*・°☆.。.:*・°★.。.:*☆
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さすらいの文学碑探偵
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船小屋近くに住む友人を訪ねた。船小屋をゆっくり歩くのは久々である。様変わりしていた。雀地獄の付近は、綺麗に整備され、小公園が出来ていた。350円の雀の湯も大人気。
鉄分色の炭酸湯らしい。まだそこに入っていない。 漱石の碑があった。写真に撮るのを忘れた。携帯のメモ帳に書き留めるのに夢中だった。碑の文は、あまりにもくずれ文字で読めない。脇の説明文で判明した。 「ひやひやと 雲が来るなり 温泉の二階」 夏目漱石 明治29年9月25日 いい句だ。漱石は船小屋に来たのだろうか。久留米に来ているから、その可能性は大だ。「温泉の二階」は、「ゆの二階」と読むのだろうか。 瀬高名物の「コガコーラ」も売れ行き抜群で、生産が間に合わないそうだ。 あの「コカコーラ」と間違わないようにしてください。濁点が付きます。今日は写真を撮っていない。次回載せますね。 さあ、いよいよ今夜は「日本VSパラグアイ戦」です。ワクワクしています。 頑張れ、日本代表! サムライブルーの魂! 気合のシュートを決めろ! |
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文学碑探訪がなかなか進まない。カテゴリーを作っただけで、すっかり満足し、肝心要の探訪記掲載まで実行できない。 最終地点だけは以前から決めていた。津軽の竜飛岬近くの旧小泊村(こどまりむら)の太宰治の像と文学碑。今は平成の大合併の影響で町村名が変わっているだろう。太宰の名作「津軽」のクライマックスシーンに出てくる小泊村だ。ものすごくひなびた寒村であるようだが、「津軽」にとっては重要な舞台のひとつになっている。この村に住む、かっての乳母・越野たけに会いにくるのである。しかしながら、ちょうど村に来た日は地元の運動会当日で、わざわざ訪ね来た太宰はすぐには会えぬ。近くをうろちょろしていたら、村民のひとりから、運動会の会場にいることを知る。太宰は小学校に出向き、越野たけと何十年振りに再会する。30年振りくらいかな? 詳しいことは調べてみないとわからない。 本当に永い間会っていなかった。この「津軽」を書かねば会わなかったことだろう。 この出会いを、文豪・太宰治は読者の魂を揺さぶるかのように、魅惑の筆力で書き上げる。私の好きな作品の右筆頭だ。 太宰と越野たけの再会の感動シーンが、今、旧小泊村で銅像になっている。二人が並んで座り、村の運動会を見ている。太宰は足を崩し、たて膝風にしている。片や年老いた越野たけは、正座の姿でまっすぐ運動会を見ているかのようだ。――私はこの並んだ像を、直に見たいのだ。ただそれだけの理由。なんとなくこの像の探訪が、「さすらいの文学碑探偵」の最終地点に選んでいる。ラストは旧小泊村である。しかし、いつになるか、当人の私にもわからない。目標があるから、また楽しみである。ワールドカップ大会で、サッカー日本代表が優勝するのが早いかもしれない。 さて、表題の「山口好歌碑除幕式」の話に入りましょう。 「好」は「このむ」と読みます。彼の文学と除幕式模様は、今度6月27日に発刊する「柳川文芸ほりわり24号」に私が詳しく書いていますので、そちらの方を参考にしてください。 西鉄柳川駅売店、三橋のあんとく書店等で販売します。現在は、ほりわり23号を販売中。 近くの図書館にも寄贈します。ご利用ください。柳川市図書館、みやま市図書館、大川市図書館、大牟田市図書館、福岡県立図書館等々。わが柳川文芸クラブは案外まじめに活動しています。 「桜メール K・Hさんへ」という、メール形式の作品です。私自身、気に入っています。4月から6月にかけて、編集会議の連続です。一年間で一番はまらなければならない時期です。気が高まります。 山口好歌碑は、2010年3月27日(土)、福岡県大牟田市延命公園福祉の森に建立されました。大牟田近代文芸家顕彰会建立。私の知り合いのIさんが事務局長をやっているので、私もその除幕式に参加することが出来ました。大牟田での、この歴史的除幕式を活字にし、文化史として残さなければならないと思い、「桜メール」で取り上げ、「ほりわり24号」に掲載する次第です。大牟田市もかっては炭都として津々浦々に知れていましたが、石炭が斜陽になり、脱炭都宣言し、今、少しずつ官民一体の力で変わりつつあります。先ず手始めが、この「山口好歌碑」建立でしょう。これは純粋な民間人のボランティアで成し遂げられました。 すべて民間人の寄付で、建立されました。官を頼らず、仲のいい者同士が集まり、一歩一歩積み上げて、延命公園内に立派な、こころ温まる歌碑が建ちました。この自主的無償の行為、活動が、明日への大牟田の道しるべとなることでしょう。 来年から桜のころ、歌碑祭が催されるようです。桜満開の木の下で、お弁当を広げ、 春の一日、25歳で亡くなった歌人を偲びましょう。 山口好歌碑撰文 「掘りいだす 落盤下(らくばんした)の 片足は わらじをはきて ゐたりけるかも 」 炭坑であった落盤事故を歌っています。 集合記念写真です。2010年3月27日(土)午前11時開始。 延命公園の桜。 事務局長の開会の言葉 ドロシーみきこさんの記念演奏。スカイブルーのドレス姿。 寒そうでしたよ。 彼女のオリジナル曲「このむ兄さんのあしあと」を披露。 大城美知信会長のあいさつ。 |
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散髪屋に行く途中、柳川の紅葉を撮ろうと思い、柳城児童公園に立ち寄った。 「紅葉はどこ?」と探し出すと、あまり無く、銀杏の木が目にとまった。 ボブさんが写した福厳寺の銀杏の木を思い出した。あの写真は背景にお寺の山門があり、銀杏と山門が醸し出す詩情にしばし見とれていた。小京都の風情があった。 この公園の銀杏は小京都の風情はないが、川岸の木村緑平文学碑と対をなしている。そう感じるのは私だけかもしれないが、確かに碑の周りに銀杏の葉が落葉している。落葉した銀杏の上で、緑平文学碑の写真を撮る。後ろの掘割を川下りの舟が静かに滑る。 緑平文学碑から西へ20歩ほど歩くと、第9回芥川賞受賞の長谷健(はせけん)の文学碑がある。碑文字は、親友の火野葦平の筆による。「九州文学」の仲間たちの友情の文学碑だ。この文学碑のすぐ側を川下り舟がまた一つ滑る。柳川ならではの光景だ。 9日後ー12月6日(日)、恒例の長谷健文学まつり「とうふ忌」が行なわれる。 今年生誕100年の太宰治は「桜桃忌」、年末話題のNHKドラマ{坂の上の雲」の作者・ 司馬遼太郎は「菜の花忌」、柳川ゆかりの檀一雄は「花逢忌」。いろいろな名称の文学まつりが各地で盛況である。 とまとさんが追い続けている、櫨の紅葉は、ここにはなかった。 散髪屋のおばさんは、現在80歳はとうに過ぎている。柳川の「あぐり」だ。 髭剃りの名人で、私はすぐうたたねし、夢境地に入り込む。そして迷惑ないびきを 連れて…………。 柳川児童公園の銀杏の木。 もう秋が去ろうとしています。 銀杏の木あたりから長谷健文学碑を眺める。 木村緑平文学碑。 表 「雀生まれてゐる 花の下をはく 緑平」 裏 「草の花 ほんに月がよか 緑平」 ○昭和43年10月22日建立 ○設置者ー句友・大山澄太氏他 緑平文学碑のうしろを川下り舟が晩秋とともにゆく。 夏はカンナがきれいです。 長谷健文学碑と山茶花。山茶花がひっそりと咲いていました。 題字は、親友の火野葦平の書。私は以前、彼の令息・玉井史太郎さん(北九州在住)を柳川に招き、ここに連れてきたことがある。感動されていた。その日は雨の日だった。 玉井さんは傘をさしながら、碑に見入っておられた。この碑の前に立つと、そんな情景が 浮かんで来る。 長谷健は、昭和32年12月21日、交通事故に遭い、53歳で東京に歿した。 「からたちの花」、「邪宗門」、と続き、3部作目の「帰去来」を執筆中の出来事であった。 ○昭和33年11月21日建立 ○設置者ー長谷健文学碑建設委員会 長谷健文学碑から川下り舟を撮る。 すぐそばを観光客を乗せた舟が滑ります。 川の水が少ない。 こんなシーンにも遭遇します。 母子も紅葉を楽しんでいます。 カートの中にも秋が潜んでいます。 |
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木村緑平さんは柳川の人。職業は医師でした。 種田山頭火さんはさすらい人。職業は、強いていえば行乞俳人。 二人は俳諧誌「層雲」の同人で、死ぬまで仲良しでした。 緑平さんが、生涯、山頭火の俳句人生を支えました。 現在、柳川市役所の裏、川下りコース沿いに木村緑平さんの旧宅が残って います。 旧宅内にこんな句碑が建っています。 「柿の葉の落つるのも 山頭火の命日らしか」 緑平 「大耕」主宰者・大山澄太氏建立 日吉神社横の柳川児童公園の傍らには、次の二句が大きな緑の石に 刻まれています。 「雀うまれてゐる 花の下をはく」 緑平 「草の花 ほんに月がよか」 緑平 二人とも定型句ではなく、自由律の俳句でした。 今年(2009年)10月22日(木)、柳川児童公園で、木村緑平第41回 句碑祭が催されました。 句碑祭が41回目で、顕彰会総会が第12回目に当たりました。考えてみれば、 白秋祭同様に歴史を積み重ねた文化行事の一つになりました。 つづく
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