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とにかく広い大阪城、その続きです。
先ずは桜門(重要文化財)です。
豊臣時代にも本丸の正門は桜門と呼ばれていた。桜の馬場という地名も知られている。
おそらく、この付近に桜の並木があったと思われる。 桜門は、徳川時代の本丸再築の寛永3年(1626年)に築かれたが、明治維新の城中 大火(1868年)で焼失した。
現在のものはその後明治20年(1887年)に再築されたものである。 なお、門の両側の塀は明治維新のとき焼失したままになっていたものを、昭和44年 (1969年)の桜門修理の際、復元されたものである。
■構造形式/高麗門本瓦葺、柱真々5.15m ■昭和44年解体修理 (説明板より) 桜門から天守が見えるのが、なんかいいですね!^^
桜門付近の空堀の様子
本丸を囲む内堀は、東から北、さらに西にかけて水堀となっているのに対し、南とそ
れに続く西にかけては水のない空堀となっている。
ここは寛永元年(1624)、徳川幕府による大坂城再築工事の際に築かれたもので、 当初から空堀であった。
これに先立つ豊臣秀吉築造の大坂城でも本丸の南は空堀となっており、大坂の陣で 徳川方が埋めたわけではない。
なぜここだけ空堀にしたのかは不明である。 (説明板より) 深さも高さもあり、これぞ城の堀って感じです。
関東には、これほどの立派な空堀は、そうはないでしょうね…。
桜門枡形の巨石
本丸の正門を守る重要な枡形で、特に立派な巨石が用いられている。
桜門枡形にも大手口と同様、多聞櫓があったが、明治元年(1868年)の城中大火の際に 焼失してしまった。
この枡形の築造は寛永元年(1624年)岡山藩主池田忠雄(姫路の池田輝政の三男)が 担当したもので、備前(岡山県)産の良質花崗岩が用いられている。
正面の石は蛸石と呼ばれる城内第1位の巨石で、およそ36畳敷(60㎡)推定重量130t もあり、左側のは振袖石といい、およそ33畳敷(54㎡)120tで城内第3位の巨石である。
(説明板より) この蛸石の大きさはハンパないです。流石大阪城!^^
銀明水井戸の井筒
この井筒は、現在の市立博物館裏北隅にあたる、本丸御殿下台所裏にあった銀明水
井戸の井筒を昭和6年(1931年)の天守閣再建にあたって、敷石とともにそのままこの
地に移して飲料水井筒としたもので、水は水道水を使用している。
名前の由来ははっきりしないが、本丸内の金明水に対してこの名がつけられたものと 推定されている。 (説明板より)
京橋口
大阪城の西北の出入口。
北方の寝屋川(旧大和川)に京都へ通じる「京橋」が架けられていることから、「京橋口」 もしくは「京口」と呼ばれた。
戦前までは江戸時代以来の京橋門が残り、枡形ますがたには大手口と同様に多聞櫓 もあって、大阪城の名所となっていたが、昭和20年(1945)の空襲によって全焼した。
(説明板より) 京橋口枡形の巨石
京橋口枡形の内、京橋口を入って正面に見えるのが、表面積が畳約33畳敷(54.17
平方メートル)にもなる城内第2の巨石「肥後石」である。
築城の名手加藤肥後守清正ひごのかみきよまさが運んできたと伝えられてきたが、 実際は徳川幕府による大坂城再築時に、この区域の石垣築造を担当した備前岡山
藩主池田忠雄によって運ばれた。
肥後石の左手が京橋口二番石で、表面積が畳22畳敷(36.00平方メートル)の、 城内第7位の巨石である。 (説明板より)
青屋門口です。
大阪城ホールの目の前、大阪城公園駅から最寄りの入口になります。
東外堀の様子です。
内堀も広いが、外堀もかなり広いです。
大阪陸軍造兵廠の敷地拡張のために大正初期、陸軍によって埋め
られた東外堀を、1996年、総事業費25億円をかけ三年がかりで復元
されました。
青屋門です。
大坂城の非常口とも言うべき門で、徳川時代の元和6年(1620年)頃創建され、算盤橋
と称する引橋(押出し、引入れ自在の装置)が架かっていた。
この門は、昭和20年(1945年)8月に大空襲の被害にあい大破したが、昭和45年(19 70年)に大阪市が残材をもって現状のものに復元した。
青屋門の名称の由来は大坂本願寺時代、この門外付近に青屋町があったことによる ものと推定されている。 (説明板より)
大阪城梅林
大阪城は梅の季節も良さそうですね。^^
また、北外堀の北側には桃園もあります。^^
極楽橋と天守
山里丸と二の丸をむすぶ橋で、もとは幅3mの木造橋であった。
徳川時代の寛永3年(1626年)に創建されたが、明治維新の城中大火(1868年)の 際焼け落ち、そのままになっていた。
その後昭和40年(1965年)に鉄筋コンクリート造りで復興された。
この橋の名称の由来は、大坂本願寺時代(16世紀)にまでさかのぼると推定されて おり、「豊臣時代大坂城本丸図」にもこのあたりに木造橋が描かれている。
昭和58年(1983年)、橋の高欄と橋面修理が行われた。 (説明板より) 山里丸
ここから下がった広場一帯を山里丸と呼ぶ。豊臣時代には、山里の風情を保つ松林や、
桜、藤などの木々が繁り、いくつもの茶室が建っていた。
豊臣秀吉や、その家族が茶会や花見を楽しむくつろぎの場所で、秀吉の生母、大政所 の居館もこの中にあったと伝えられている。
大坂夏の陣(1615年)で落城の際、淀殿、秀頼母子が自刃したのも山里丸と伝えられ ている。
徳川時代、寛永元年(1624年)の再築後は構造も建物もすっかり変わり、山里加番 (城役人)の建物が建ちならんでいた。 (説明板より)
刻印石公園
普請した大名の家紋、石の産地、奉行の姓名を記したものなどがあり、
刻印広場は市内から出土したさまざまな刻印石をあつめた広場です。
また、どの刻印が誰のものか、解明されている物が表にまとめられて
いるので、とてもわかりやすいです。
このエリアだけで、かなり時間がつぶせます。(笑)
こういった場所があるのは、ありがたいですよね。^^
山里口出枡形
本丸と山里丸とを結ぶ通路に設けられた枡形で、徳川幕府が行った大坂城再築工事に
よって築かれた。外敵に備えるための、石組みに囲まれた四角い区画を枡形といい、特に
この場所は本丸から山里丸側に突き出していることから出枡形という。
南には本丸に通じる姫門、東には山里に通じる山里口門があったが、いずれも明治維新
の大火により、石垣上の塀ともども焼失したと考えられる。
なお、西は埋門となっていて、隠し曲輪へと通じている。 (説明板より)
山里口出枡形から見た、大阪城天守
大阪城はどこから見ても、かっこいいですよね!^^
他には、隠し曲輪や玉造口だったり、見所満載です。
また、豊臣時代の天守ですが、今の天守の東の広場にありました。
発掘調査で、石垣が見つかっていますが、保存の為埋め戻されて
いるのが残念ですが、仕方ないですね…。
今後私は、大阪に来る機会があると思いますが、来るたびに
大阪城には足を運ぶと思います。
それにしても素晴らしいですね、大阪城は!^^
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極楽橋と天守のアングルが好きですね☆彡
一番汚れてる気がする青屋門が再健なのは驚きでしたよ(笑)
大坂城は一日かけて全てを見る覚悟が必要ですよね。
2012/10/28(日) 午前 9:26
るなさん☆ナイスありがとです!^^
私も極楽橋と天守のアングルは好きです!^^
青屋門はそう言われてみれば、確かにそうですね。(笑)
ほんと大阪城は1日かけないと全て見れないですよね。
次回は、1日大阪城で日程を組みます。(笑)
2012/10/28(日) 午後 4:24
うちは大阪城の近くに住んでいますが、当たり前に見てた城にも
色々な秘密がいっぱいですね。
少し大阪城の見方が変わりました。
太閤下水のある小学校にうちのチビが通ってますが、秀頼九州落ち伝説も案外あり得るなと思います。
2012/10/29(月) 午後 3:18 [ Yoshiko ]
義子さん☆こんにちは、コメントありがとうございます!^^
そうですか、大阪城の近くにお住まいですか。いいところですね。^^
大阪城はご存知、秀吉時代と徳川時代の大阪城があり、秀吉時代の大阪城は
まだ、解明されていない所も多く、秘密だらけのお城ですよね。
秀頼九州落ち伝説は、私も信じたいです。^^
2012/10/29(月) 午後 7:33
大坂城記事やっとアップ出来ましたので
TBお願い致します。
2012/11/10(土) 午後 8:05
環状線玉造駅の三光神社には光成の隠れたといわれる小さな穴がありますが、大阪城を中心としてまだまだロマンが隠れていそうです。
2012/11/11(日) 午後 1:34 [ Yoshiko ]
るなさん☆TBありがとございます。
こちらこそよろしくお願いします。m( __ __ )m
2012/11/12(月) 午後 5:53
義子さん☆コメントありがとございます。^^
三光神社へは行ってきました。^^
光成ですか、はて??? 勉強不足ですみません。(汗)
幸村の抜け穴以外にもあるってことでしょうかね…。
2012/11/12(月) 午後 5:57