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大阪の陣の際、真田幸村が大阪城からの抜け穴(地下道)を
設けたことで有名な神社があります。
三光神社
場所は宰相山公園の中で、真田山公園の北になります。
大阪市天王寺区玉造本町14-90
桜の名所としても知られ、大阪七福神「寿老神」にあたります。
三光神社の由来 創建は第十八代反正天皇の御宇にして、以後神職として、式内宿弥の苗裔たる武川氏が
八十六代に渉って奉仕された。
当社は古来より日本全国で唯一の中風病除の神として知られ、崇敬者は全国に存在し、
六月一日から七日まで祈願大祭あり。
又、七福神の一つ、寿老人(武内宿弥)を祀り、毎月七日は大阪七福神巡りが盛んなり。
この地はもと大阪城の出城(偃月城)の在りし処にして、慶長・元和の大阪合戦の頃、真田
幸村茲に陣し、本城より此処に至るまで地下に暗道を設け、今尚其の痕跡を本殿階下に、
止むるより世俗に真田山の三光と称するに至れり。境内をはじめ宰相山公園一帯は櫻の
名所にて春は宰相山公園愛護会による三光さくら祭あり。
奉賛会の歩み
唱和20年6月1日の大空襲で社殿を始め各種建物一切と、同時に氏子全域が被害を被り、
復興不可能の状態であった。
しかし、戦後間もなく腹腔のため三光神社奉賛会を設立し、第一期に本殿、第二期に社務
所、第三期に拝殿、第四期には本社正面大鳥居、第五期に末社。北参道大鳥居等と奉賛会
役員をはじめ氏子崇敬者の創意と清き浄財により全て完成された。 昭和56年5月吉日
本殿と鳥居です。
鳥居の前に、太平洋戦争中に米軍の空襲で爆破された鳥居の柱があります。
向かって左が腰ぐらいの破損した柱、右は長めの破損した柱です。
本殿内部には、真田の家紋入り赤備え甲冑(レプリカ)があります。
真っ赤なポルシェや赤のフェラーリのように、スポーツカーなら赤。
鎧もやっぱり赤かな…。(笑)
真田幸村公之像
私が訪れた時も、幸村公大人気でたくさんの方々が、銅像を
パシャパシャと写真撮影されていました。
そして現在は真田丸のフェイクが作られています。
幸村の『 撃て〜! 』の号令に徳川勢に攻撃を再現かな…?
六文銭の家紋の間から覗く砲筒は、真田砲でしょうか…。
つ〜か、当時大砲もこんな感じったのか???
台座石に刻まれた碑文
真田幸村は信州上田に生まれ、長じて父昌幸と共に関ヶ原合戦に於いては西軍につき、
大坂冬之陣・夏之陣では豊臣方に従って、絶妙の作戦指導のもとに縦横無尽の活躍を残し、
武運拙く大阪安居天神の森に没したが、智将としての譽れは、その武勇と共に永く後世に
名をとどめている事は衆知の通りである。
大阪真田山ライオンズクラブは幸村の故郷である上田ライオンズクラブとの間に姉妹提携
をもち此の度はC−N15周年を迎えるに当たって其の記念の為に真田幸村の銅像を建立し
た次第である。
尚、台座の真田石は、真田家の菩提寺である真宗の長谷寺(ちょうこくじ)より取り出したる ものを上田ライオンズクラブの好意に依り遠路遥々提供を受けたものである。
唱和62年6月10日建立 史跡 真田幸村抜穴跡
大坂の陣の際に幸村隊は、各所にめぐらせた抜け穴を通って、
神出鬼没のごとく現れ家康軍を翻弄したといわれます。
穴跡の中の様子です。
大平洋戦争時に陸軍基地があったみたいで、陸軍が何かを隠してる噂も
あったみたいですが、やっぱり場所が墓地ということもあって、調査はされ
てないみたいです。
この穴跡ですが、単なる伝説にすぎず、逆に家康側が籠城する豊臣方を
牽制するため城内に向けて掘ろうとした穴ではないかといわれていますが、
本当のところはよくわかっていません。
大阪城のガイドさんも嘘って言ってたしね…。
ま〜、そんないいかげんな話で『史跡』にしちゃうところが、いかにも
大阪らしいです。^^ ただ、この抜け穴跡は一見の価値はあります。^^
三光神社のある宰相山公園を南に進むと、真田山公園があります。
プールやテニスコート、野球グランドや体育館などがあり、とても整備
された施設です。冬は、スケートも出来るらしい…。
ていうか、この付近は『 真田山 』って呼ぶ地域で、マンションやアパートも
真田山マンションとか、ハイツ真田山とかいう物件が多数あります。
なんか、かっこいい〜ですね。そういう建物の名前。(笑)
実は当時、幸村自身については、それまで真田氏の次男坊として父の
昌幸や、兄の信之の名声に隠れていたために評価は低く、家康も昌幸
ではなく、その息子で無名の幸村が大坂に入ったと知り、安堵の表情を
浮かべたといわれています。
しかし、大阪冬の陣の功績により、真田昌幸の息子という扱いではなく、
初めて『 真田幸村 』として、その武名を知らしめる事となります。
大坂冬の陣の講和後、この真田丸は両軍講和に伴う堀埋め立ての際に
真っ先に取り壊されてしまいました。
そして、大坂方の弱体化を謀る家康は慶長20年2月に、使者として幸村の
叔父である真田信尹を派遣し『信濃の中で一万石を与える』事を条件に
寝返るよう説得しています。しかし、幸村はこれを断りました。
すると家康は再び信尹を使者として差し向け、今度は『信濃一国を与える』 と説得に出ました。これを聞いた幸村は 『この幸村、一万石では不忠者
にならぬが、一国では不忠者になるとお思いか』と、再びはねのけたと
言われています。
たとえ家族が敵味方に別れようが、最後まで主君に尽くす。 そんな一途?な武将だからこそ、大人気の武将なんでしょうね。^^
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やはりブレなに男・幸村はカッコイイですよ。
人気があるのが解ります。同じくらい人気のある某東北の
政宗さんはブレブレ(失礼)なのにね(^-^ゞ
11月11日は三光神社の真田まつりで「抜け穴開放」って
ポスターに書いてありました。開放って言ってもあの距離を
かぁ!?☆彡ポチ
2012/10/30(火) 午後 10:27
るなさん☆ナイスありがとです!^^
幸村、かっこいいですよね。^^
あはは、政宗さんですか。^^ あの方はあれでまたかっこいいですよ。^^
私もその案内みました。
ん…、あの穴の奥は明らかに塞がってますよね…。
ただ、まつりは行きたいですよね。^^
2012/10/31(水) 午後 5:23
こちらの記事もアップしましたのでTBお願いします。
場所が判明していないのもロマンを掻き立たせますね。
2012/11/18(日) 午後 10:27
るなさん☆TBありがとうございます。
そうですね、それも史跡めぐりの醍醐味なんでしょうね。^^
2012/11/19(月) 午後 8:52