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家康 VS 幸村 ラウンド2 『大阪夏の陣』
大阪冬の陣の後、寝返りを持ちかけた家康に対し、断った幸村。
大阪夏の陣の始まりです。
ほぼ丸裸になった大阪城に家康勢が攻めます。
数にまさる家康勢に豊臣軍は後藤基次や木村重成などの主だった 武将が討死。そして幸村は、士気を高める策として豊臣秀頼自身の
出陣を求めたが、淀殿は猛反対します。
豊臣氏の敗色が濃厚となる中、幸村は最後の作戦を立てます。 それは豊臣方右翼として真田軍、左翼として毛利勝永軍を四天王寺・
茶臼山付近に陣形し射撃戦と突撃を繰り返し家康の陣形に対し本陣
を孤立させ、明石全登の軽騎兵団を迂回させ家康本陣を横撃させる
というものでした。
しかし、毛利隊の前面諸将が勝手に射撃を開始してしまったため、
作戦を断念せざるを得なくなりました。
そして正面から徳川家康の本陣めがけて決死の突撃を敢行しました。
この突撃は真田勢のみではなく、左翼から攻める毛利勝永、明石全登
らも奮闘し家康本営に肉薄し、勝永は本多勢を蹴散らし、何度か本営に
突進したといわれています。
真田勢は越前松平勢を突破し、家康の本陣まで攻め込み、屈強で鳴ら
す家康旗本勢を蹴散らしました。
ちなみに、本陣に攻め込まれ馬印が倒されたのは、武田信玄軍に
惨敗した『三方ヶ原の戦い』以来二度目です。
真田勢の凄まじさに家康は自害を覚悟したほどだったと言われています。
しかし、最終的には数で勝る徳川軍に追い詰められ、ついに四天王寺近く
の安居神社の境内で、味方の傷ついた兵士を看病していたところを襲われ
越前松平勢鉄砲組の西尾仁左衛門宗次にその首を授けました。享年49歳。
その安居神社です。
大阪府大阪市天王寺区逢阪1丁目3-24
06-6771-4932 安居神社の由緒書
少彦名神を奉祀したのは古文書が散逸したので現在は詳かではないが、非常に古い
時代の事であると伝えられている。 この神は医薬禁厭(医薬・薬方・まじない)智慧の
祖神として、その霊験はまことにあらたかな神である。
菅原道真公の奉祀は公筑紫へ左遷される途上、海上浪荒く暫くこの地に立ち寄って、 憩われた旧跡である所以を畏み、後四十年を経た天慶五年(942年)、此処にその御神霊
をお祀りしたと伝えられている。
菅公の御神徳は誠の権化であり、また学問文化の神として人々を守護し導き給うのである。
当神社の御神徳を厚く蒙った人々は昔から多く、中にも大丸の業祖下村彦右衛門氏は大き な御加護を賜りて繁栄されたことは有名であり、当神社に対する信仰は極めて篤く大丸天神
と称せられる所以である。
境内に古より、癇鎮めの井と称する清冽なる水湧出する井戸があり霊水として広く知られて いるが、現在は四囲の状況禍され枯渇の状態にある。
又、大阪夏の陣における眞田幸村戦死の地と伝えられる石碑が建っている。 昭和二十年太平洋戦争の災禍をうけ、一切の建物は烏有に帰したが、大丸を始め奉賛者 の寄進により同二十六年春復興され現在、種々の祭典が執行されている。
(安居神社の由緒書より) 通りにある真田幸村戦死地の碑です。
安居神社社殿です。
最近は幸村人気なのか、若い女性の参拝も多いとか…。
また、六文銭のお守りも人気らしいです。
眞田幸村陣歿の旧跡
元和元年大阪夏の陣に徳川家康は秀忠と共に大軍を率いて、大阪城を攻めた、ここに於て
大阪の兵は城の既に恃むべからざるを知って出でて戦い、五月六日幸村は後藤基次、薄田
兼相等と大和口を防せがんとして河内の片山道明寺に赴き、基次等が敗死したので殿軍とな
って伊達政宗の兵と戦い、翌七日は天王寺附近に松平忠直の軍を迎え奮戦したが、ついに、
当社境内一本松の下で戦死した。時に年齢四十九歳であった。
当時の松は既に枯死したのが、社殿復興を機に昭和二十六年四月ニ十四日これを記念
して植樹さる。
例年五月に幸村祭が盛大に行われる。
真田幸村公之像と真田幸村戦死跡之碑です。
また、中央にある松の木が、さなだ松(2代目)です。
真田幸村の銅像ですが、数年かけて寄付を募集し、やっとできあがった
そうです。また、寄付した方の名前が刻まれた石板がありました。
幸村公はこの境内で無念の死を遂げました。その生き方は生きる人間の本義を
貫いた人として多くの人に愛されています。
この地から幸村公ははるか故郷 信州上田を偲び、また父昌幸公を慕い、そして 大阪城に思いを馳せているのかもしれません。
幸村公の遺徳を偲び ここに銅像を建立しました。この銅像にお手をお触れ下さい。 そしてその徳を授かって頂ければ喜ばしく思います。 (安居神社 宮司)
なので、私もベタベタ触ってきました。(笑) 何か徳があるかな…??(笑)
また、真田幸村戦死跡之碑ですが、戦死の日付が5月7日ではなく、
4月7日と刻まれておりました。ん???
そして、2代目さなだ松。
幸村はこの松に寄りかかって休んでいた所、討たれたとか…。
ただ一説には、この200m先の田んぼとか…。
天王寺七名水の一つ、安居の清水
『かんしずめの井』とよばれ有名でしたが、今は枯れており、井戸枠
だけが残されています。
こちらは進入禁止になっており、井戸付近まで行くことが出来ませんでした。
この幸村の戦ぶりを伝え聞いた島津忠恒(薩摩藩初代藩主)はこう話した
と言われています。
『 五月七日に、御所(家康)様の御陣へ、真田左衛門(幸村)仕かか り候て、御陣衆追いちらし、討ち捕り申し候。御陣衆、三里ほどずつ
逃げ候衆は、皆みな生き残られ候。三度目に真田も討死にて候。
真田日本一の兵(つわもの)。古よりの物語にもこれなき由。
徳川方、半分敗北。惣別これのみ申す事に候。』
とその戦ぶりを称賛しています。
幸村こそ、『名を取り、実を捨てた最後の戦国武将』
かっこいいですね、幸村は。^^
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本当に同じコースですね(^-^ゞ
ちなみに茶臼山にも登ろうと思ったのですが公園の中に入らない
と登れないことに気づき、仕方ないので柵の外から見ただけで
終わりにしました。
この幸村像は正面よりも横、または背中から見た方が
哀愁を帯びていますね。像に手を触れながら「幸村よくやった。
ありがとう!」って気持ちでいっぱいになりました。
2012/10/31(水) 午後 11:26
るなさん☆ナイスありがとです!^^
とりあえず関東人なら、幸村巡り?をしなければでしょうかね。^^
幸村像は確かに正面よりは、横、後ろからの方が、見ごたえがありますよね。
晩年の幸村公でしょうか、男の生き様を感じますよね。^^
茶臼山は私も考えました。事前に公園内いうのを知って、
スルーしました。
大坂は楽しいですよね。るなさんも何げに弾丸ツアーっぽかったのでしょうか…。
時間があれば、もっと楽しめる所ですよね。^^
2012/11/2(金) 午後 2:19
記事をアップしましたのでTBさせて頂きます。
幸村の最期を思うとウルウルでした(ノ_<。)
2012/11/18(日) 午後 10:23
るなさん☆TBありがとございます。
幸村の最後を思うと…。(涙)
嫌いじゃない家康ですけど、この事を思うと家康が憎い思えます。^^
2012/11/19(月) 午後 8:46