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日本の考古学や古代史を語る時、多くは九州・瀬戸内・近畿地方が中心で、残りの広大な面積を持ち、縄文時代は人口の多い関東・東北地方があまり注目されないことに以前よりぼんやりとした疑問を感じていました。 昨年末、明冶大学へ「王の埴輪」展を見に行った時に、上記のシンポジウムが開催されることを知り、前から気になっていた「狗奴国」が議題という事と、考古学、古代史の分野がいよいよ関東に注目してきたと感じ、初めてシンポジウムに参加しました。 その結果参考になることが多々ありましたので、主な内容を以下に紹介します。 ・狗奴国…魏志倭人伝に記載される、女王卑弥呼の邪馬台国と対立していた国 --- ○邪馬台国シンポジウム === 狗奴国から邪馬台国を考える ・各先生の講演内容(敬称略) 西谷 正 「狗奴国から毛野国へ」 仁藤敦史 「女王と男王」―王号の系譜を考えるー 赤塚次郎 「二・三世紀の列島東部、東海・狗奴国の風景」 大塚初重 「考古学上想定できる狗奴国と敵対の条件」 寺沢 薫 「<新生>倭国・王権から見た(狗奴国)」 白石太一郎 「ヤマト政権は邪馬台国連合と狗奴国連合の合体で成立した」 午前9時より講演〜昼食〜講演〜最後にパネルディスカッションが行われ、午後5時閉会しました。上記の講師の方々は古代史の分野で現在最も注目されている方々であるとのことですが、そのせいか会場は満席で、ほぼ終日の講演にもかかわらず、全員が熱心に各先生の話に耳を傾けていました。また講師の方々全員が話の要点が明快で、わかりやすい講演でした。 講師全員の講演内容を紹介したいところですが、そうはいかないので、ここでは今回のテーマの結論と言うべき白石太一郎氏 「ヤマト政権は邪馬台国連合と狗奴国連合の合体で成立した」の講演を以下に紹介します。 (長いのでコピーして読むことをお勧めします) === ヤマト政権は邪馬台国連合と狗奴国連合の合体で成立した === 白石太一郎(近つ飛鳥博物館館長・国立歴史民俗博物館名誉教授) はじめに 最近では、近畿地方を中心に分布する定型化した大形前方後円墳の出現年代が3世紀中葉まで遡ると考えられるようになり、一部の研究者を除き考古学研究者の多くは、邪馬台国の中心は近畿の“やまと”(奈良盆地東南部)にほかならないと考えるようになってきた。したがってこの邪馬台国連合がそのまま初期のヤマト政権に繋がると考える人が多い。 しかし私は、九州から関東に及ぶ日本列島の中央部の多くの地域の政治勢力が一つの政治的まとまりを形成した広域の政治連合としてのヤマト政権は、3世紀前半に西日本に出現していた邪馬台国連合と東日本に出現していた狗奴国連合が3世紀中葉にいたって統合されたことにより成立したものと考えている。 この時期はまた、奈良県桜井市の箸墓古墳に代表される画一的な内容を持つ定型化した大形前方後円墳が出現する時期でもあり、地域的統合が進展する弥生時代と、列島の中央部に一つの政治的まとまり(初期国家と言ってもよかろう)が成立した古墳時代との画期もまた、ここに求めるのが適当であろうと考えている。ここではこうした邪馬台国連合・狗奴国連合時代からヤマト政権の成立に至る私の構想をお示しして、ご批判を仰ぎたい。 1.広域の政治連合形成の契機 私は日本列島における広域の政治連合成立の契機については、弥生時代後期の1.2世紀まで鉄資源を初めとする先進文物の輸入ルートの支配権を一手に掌握していた玄界灘沿岸地域に対して、それ以東の瀬戸内海沿岸から近畿中央部の首長たちが鉄などの安定的入手を確保するために連合して、北部九州を制圧した結果成立したものと考えている。このことを直接的に裏付ける考古学的な証拠はまだ提示しえないが、それまで北部九州を中心に分布していた中国鏡が、3世紀初頭ころを境に突然近畿の“やまと”を中心とする分布に一変すること、また3世紀中葉以降の“やまと”の出現期の巨大前方後円墳には膨大な鉄器の副葬が想定できることからも疑いなかろう。この中国鏡の分布や鉄器保有状況の大きな変化を、九州勢力の東遷によって説明しようとする研究者が今もおられる。しかし土器の移動がきわめて活発になるこの時期、北部九州の土器が瀬戸内や近畿中央部にほとんど異動していないことからも、この説は成り立たないと思われる。 この先進文物の入手ルートの支配権をめぐる争いは、中国鏡の分布の大きな変化からも3世紀初頭のことと想定され、それが邪馬台国連合の成立にほかならないことは疑いなかろう。こうした鉄資源などの安定的な確保は、東日本の首長たちにとっても切実な問題であったわけで、東日本にもおそらく濃尾平野の政治勢力を中心に先進文物の共同入手機構としての首長連合が形成されていたものと思われる。私は、この東日本の政治連合の中心になった勢力こそ『魏志』倭人伝にみられる狗奴国にほかならないと考えている。この狗奴国連合の版図が中部から関東にまで及ぶ広域のものであったことは、濃尾平野に分布の中心がある前方後方形墳丘墓の分布状況からも疑いなかろう。ただその連合は決して面的な領域を持つものではなく、多分に線的な結びつきにすぎなかったと思われる。これは西日本の邪馬台国連合の場合も同じであったと考えられる。またこの時期、関東の勢力の中に“やまと”の勢力と直接提携関係を持つ勢力がいたことは、千葉県市原市神門3・4・5墓など前方後円形墳丘墓の存在からも疑いなかろう。 この狗奴国連合を構成する首長たちの鉄資源などの入手ルートは、やはり基本的には西の邪馬台国連合からのものであったと考えるほかなかろう。そのことは、邪馬台国の中心であったと想定される纏向遺跡から多量の東海系土器が出土していることからも疑いないものと思われる。 2.東西の政治連合の合体とヤマト政権の成立 『魏志』倭人伝によると卑弥呼の晩年、正始8年(247年)に邪馬台国と狗奴国は戦っている。この狗奴国は邪馬台国にとっても大変手ごわい相手であったようで、邪馬台国は帯方郡にまで使いを送って援助を要請しているようである。このことは、この戦いが、邪馬台国と狗奴国の一時的な争いなどではなく、西の邪馬台国連合と東の狗奴国連合の決戦にほかならなかったことを物語るものであろう。この決戦の帰趨については『魏志』倭人伝は何も語らないが、邪馬台国連合の勝利に終わったことは、その後の歴史の流れからも疑いなかろう。 この卑弥呼晩年の邪馬台国連合と狗奴国連合の戦いに邪馬台国連合側が勝利を収めたと言うことは、とりもなおさず広大な東日本の地域が西の邪馬台国連合に加わったことを意味する。またそれまで東日本で狗奴国連合に加わっていなかった諸勢力も、また西日本で邪馬台国連合に加わっていなかった諸勢力も、争ってこの新しい連合に参加したものと思われる。そうしなければ、先進文物の安定的な入手が確保できなかったからである。 私は、こうして3世紀中葉に成立した、西は九州から東は関東に及ぶ広域の政治連合をヤマト政権と捉えるのが適当であろうと考えている。そして、まさにそれと時をほぼ同じくして定型化した大形前方後円墳に代表される古墳が成立するのである。定型化した大形前方後円墳のなかでも、最も遡るものと考えられる箸墓古墳の造営年代については、最近の出現期古墳に関する年代研究の進展の結果からも、3世紀中葉過ぎと見て大過ないものと思われる。『魏志』倭人伝によると、卑弥呼が亡くなったのは正始8年(247)の記事に続いて書かれているから、247年かその直後のことであろう。倭人たちがこのような大規模な墳墓を営むのは始めてのことであるから、その造営には10年程度を要したものと考えられる。このことからも、箸墓古墳が卑弥呼の墓である蓋然性は否定できない。 私は「古墳」と言うものは、新しく成立したヤマト政権とも呼ぶべき政治連合の政治体制に維持・発展を図るためになされた政治システムの整備の一環として、この政治連合に加わった首長たちの共通の墳墓として創出されたものと考えている。その際まず、かっての邪馬台国連合の偉大な巫女王であった卑弥呼の墓が、その霊力を死後もこの邪馬台国連合を受け継いだ新しい倭国連合を守護してくれることを願って、最初の古墳として築造されたものである可能性は否定できないと考えている。またこのとき、この政治連合の一時的メンバーである邪馬台国連合以来の首長たちが営んだのが箸墓古墳と同じ前方後円墳であり、かつての狗奴国連合など新しくこの連合に加わった首長たちが営んだのが前方後方墳であったのではないかと考えている。 いうまでもなく、弥生時代というのは水田稲作農耕が始まり、それを基礎にして各地に原始的なクニが生み出され、それらが次第に統合されていった時代である。邪馬台国時代というのは、この政治的統合の最終段階として西に邪馬台国連合が、東に狗奴国連合が対峙した時代にほかならない。それはまさに弥生時代の最終段階と捉えるのが適当であろう。 また定型化した大形前方後円墳に代表される画一的な内容を持つ「古墳」の出現もまた箸墓古墳の出現をもってこれに充てるのが適当ではなかろうか。時代区分・時期区分は歴史認識の手段に他ならず、どこに線を引くかは研究者の自由である。しかしそれは、その時代を正しく理解するのに有効な区分でなければ意味がない。その意味からも、私は西の邪馬台国連合と東の狗奴国連合が対峙した邪馬台国時代を弥生時代の最終段階と捉え、両者が合体して出来上がったヤマト政権の成立を持って古墳時代の始まりと捉えたい。最近では邪馬台国時代を古墳時代とし、纏向石塚やホケノ山を古墳と捉える研究者が多いが、このような理由から賛成できない。 むすび 『古事記』や『日本書紀』は、広大な東日本の地域が西の政治的世界、すなわちヤマト政権に加わるようになったのは、ヤマトタケルに代表される数多くの“やまと”の将軍たちの度重なる遠征の結果にほかならないとする。このような記・紀の東征史観が誤りであり、いわゆるヤマト政権は、3世紀中葉に西の邪馬台国連合と東の狗奴国連合が合体して成立したものであることを述べた。ご批判いただければ幸いである。 (上記は邪馬台国シンポジウム 〜狗奴国から邪馬台国を考える〜 に参加した際渡されたミニコミ誌より抜粋しました) NO2へつづく
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あきれてものが言えません。真剣に勉強せずに冷やかしだけの記事を書くのはいかがなものんかと思いますが?畿内説を採る人達は、畿内にありきからスタートしているのであり、従って論文そのものが全てツジツマあわせだけの見苦しい言い訳程度のものばかりです。
2011/8/8(月) 午後 11:24 [ HNDKGS ]
私は生まれてからずっと関東地方に住んでいます。
関東地方にも古い時代の遺跡が、古墳を含めてたくさんあります。
ですから、ふざけているつもりは毛頭ありません。
近年発掘により、関東地方からも古代の「鉄」が発見されています。
発掘による検証をもとにこのシンポジュウムが企画され、講演者も古代史における名前を知られた方々達であると思っておりますので、耳を傾けてもよいのではないでしょうか?
多数の方の意見を聞くと見えてくるものもあるのではないかと思っています。
2011/8/9(火) 午後 0:49 [ 玉依姫 ]