○東国から見たヤマト王権
(平成22年度千葉県遺跡調査研究発表会・於千葉県立中央博物館・2月27日)
白井久美子氏の講演より
前方後方墳の形
少し前の話になりますが、2月末日、千葉県立中央博物館で白石太一郎氏の基調講演
「大和政権の成立と東国」と題する講演が行われました。
それに伴い若い2名の研究員の方がそれぞれ、研究報告講演をしましたが、白石先生の講演は
前々回に紹介したので、今回は特に興味深く印象に残った白井久美子氏の講演を数回に分けて
紹介したいと思います。
(以下は当日配られた千葉県遺跡調査研究発表会・要旨より抜粋)
○東国から見たヤマト王権(前期から中期の大形古墳を中心に) 白井久美子
はじめに
前方後円墳は日本独特の王陵の形態であり、ヤマト王権の象徴でもある。それが列島各地の首長墓に採用されていく過程は、王権の勢力拡大の軌跡を最も端的に表しているといえよう。
・一元的ではなく複合的な古墳時代の体制
一方近年の発掘調査によって列島の多様性が次第に明らかになるにつれ、古墳時代の体制が必ずしも一元的ではなく、各地域の統治組織や文化的特徴が維持された複合的な構造であることもわかってきた。
それでもなお、前方後円墳の分布と規模は、古墳時代の政治体制を知る最も有効な資料であることに変わりはなく、列島規模の政治状況を反映した指標といえるであろう。
ここでは、前期・中期の王権中枢部と常総を中心とする東国の大形古墳の動向によって、ヤマト王権の確立期から発展期の地方統治の様相を探ってみたい。
1 前方後円墳とヤマト王権
・東国の前半期大形古墳はほとんど前方後方墳
(副葬品の内容は前方後円墳と比べ遜色はない)
古墳時代前期の東国では、主要な大形古墳に前方後円墳ではなく前方後方墳が採用されている例が多いと確認されたのは、図らずも全国規模の前方後円墳集成作業の過程であった。その後各地で測量調査や発掘調査が行われた結果、東国の前期大形古墳の内、前半期の例はほとんど前方後方墳であることが分かった。
前方後円墳は全国で約4,800基が確認されているが、前方後方墳は約520基で、およそ9倍の差がある。墳丘規模を比較すると、全国の上位46位までを前方後円墳が占めようやく47位に奈良県天理市西山古墳(墳丘長180m)が入るほか、100位までに入る例は3基にすぎない、巨大古墳が集中する近畿地方の例が少ないことも加えて、前方後方墳は前方後円墳より下位の墳丘形式、あるいは傍流の古墳と考えられてきた。しかし近年の調査によって、同じ規模の例では副葬品の内容に遜色がなく、むしろ前方後円墳を上回る例が報告され、必ずしも前方後円墳の被葬者より下位のものが葬られる墳丘形式ではないことが明らかになってきた。
・東日本(前方後方墳)・西日本(前方後円墳)の対照的な現象
前方後方墳の分布の中心は圧倒的に東日本にあり、地域を代表する首長墓の墳丘形式として用いられている。上記のように、特に前期前半では東日本を代表する大形古墳はことごとく前方後方墳で占められ、前方後円墳を擁する西日本とは極めて対照的な現象が展開していたと言える。
= ・王権の中枢域、大和にある「前方後方墳」
さらに、この頃王権の中枢部では、大和古墳群のうち大和神社周辺の萱生(かよう)支郡に限って大形前方後方墳が複数(墳丘長145mの波多子塚古墳をはじめ、120mの下池山古墳・110mのフサギ塚古墳など墳丘長100mを超える例が3基含まれる)築かれており、東日本の前方後方墳との関連が注目される。このように、前方後円墳をめぐる様相は、単に墳形の問題にとどまらず、古墳時代前期の日本列島の情勢を説く重要な手がかりをはらんでいると考えられる。
大和では新山(しんやま)古墳137mを最後に大形前方後方墳の築造は終息を迎え、山城の京都府長岡京市南原古墳(60 m)が王権の中枢域で最後の大形前方後方墳となる。確実な調査例がない東国でも、おそらくこの段階までに大形前方後方墳の築造は終わると考えられ、大形前方後方墳は前期に出現し、衰退するという限られた期間の消長を示している。また、最大規模は180 mを超えることなく、副葬品もその規模に応じた内容にとどまっているが、前期を通じて王権の中枢域と周辺部の拠点に一定の規模を保って築かれていることは、その被葬者が前期の王権にとって重要な存在であったことを示唆し、東国の有力豪族層との強い結びつきを示すものと考える。
・前期ヤマト王権の重要課題であった東国進出
(同時期、東山道・南東北に多い前方後方墳、常陸・甲斐に多い前方後円墳)
前方後方墳は東国に伝統的な方形の主丘部を持つ墳丘形式であり、前期ヤマト王権の重要課題であった東国への進出の象徴として一時代を画した首長墓の形式であったと言えよう。また、前期前半の大形前方後方墳は、東山道沿いに集中し次いで王権の最前線に位置した南東北に多い。同じ頃、前方後円墳が出現する常陸・甲斐と際立った対象を示すことにも注目される。 次回へ続く
注 白井久美子氏(財団法人・千葉県教育振興財団)
・弥生時代後期ヒスイ製品の分布図
*玉依姫の意見
東日本(前方後方墳)、西日本(前方後円墳)の時代は弥生時代の終わり〜古墳時代始め
2世紀〜3世紀の頃で、中国大陸では(魏・蜀・呉)の王朝が覇を競っていた時代にあたります。この時代は大陸同様、日本列島でも、東西それぞれの勢力の攻防が激しい時代であったようです。
それでは、前方後方墳を象徴とする勢力はどのような人達だったのでしょうか?
玉依姫は「出雲を中心とした勢力」ではないかと考えます。出雲はなんといっても出雲大社と「神々の国」というイメージが先行しますが、一方で「青銅の国」・「良質の鉄を産する製鉄の国」でもあります。荒神谷遺跡などから大量の青銅製の武器が出土していることから推測すると鉄製の武器も生産していたのではないでしょうか?またスサノウ、オオクニヌシに代表される、出雲の臣一族は「航海の民・海の民」でもあったようです。
また、弥生時代後期のヒスイの分布地を見ると前方後方墳の多い地域に重なるように思います。
「出雲国風土記」では、神様は399柱を数えるが、その中で大神として祀られる神の順番は「熊野大神」が最初で、オオクニヌシ神が次であることから、出雲の臣一族が最初に祀った神は「熊野大神」であるそうです。
参考(CD古代出雲の世界、風土記と神話の神々・講師 瀧音能之)
さてこの「熊野大神」ですが、熊野神社は上総国にも数社あります。前々回で一宮川上流域にある熊野神社を古代の製鉄に関連付け紹介しました。しかしなんと言っても有名なのは、熊野本宮や熊野速玉大社のある紀州ですね。玉依姫はこの「熊野大神」・熊野神社の解明が古代の謎を解く一つのキーワードではないかと感じています。
つづく
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