|
房総には1万を越えるたくさんの古墳があります。特に前方後円墳の数は全国1です。 奈良時代の上総の国府は市原にありました。この市原に3世紀中頃に造られた初期の前方後円墳 (纒向型古墳)があります。出土品から畿内や東海方面の政治連合と関連していたことが わかっています。房総の豪族達はかなりの勢力を誇っていたらしく、推古天皇と同時代の古墳では 最大級の方墳の岩屋古墳(龍角寺古墳群)が下総にあります。天皇墓より大きい墳墓を造った この地方の豪族とはいったい誰であったのでしょうか? 古代の人々は500年間も大規模な墳の築造工事を行っていました。年代では3世紀〜4世紀に 前方後円墳が出現し6世紀末になると前方後円墳はいっせいに造られなくなり、方墳・円墳も 7世紀末には造られなくなります。成田空港の近くにある浅間山古墳は全国的に見て最後の 大型前方後円墳ということです。この後の時代は古墳に代わって仏教寺院が 建立されるようになります。さて玉前神社の謎ですが、社のある夷甚の国には高塚古墳 (前方後円墳・方墳・円墳)がほとんどみられません。古い歴史を誇る上総の国一の宮である この神社(太平洋岸にある)と国府のある市原(東京湾側)はどのような関係であったのか また武射(芝山町・横芝町)との関連も謎です。 安閑天皇(466-535継体天皇の皇子)の頃天皇は春日皇后への結婚式の贈り物に美しい夷甚国 (いすみ市)で採れる真珠を加えたいと考えました。天皇の命をうけた内膳卿の膳臣 (かしわでのおみ)大麻呂は使者を夷甚国に派遣し真珠を奉納するよう伝えました。 ところが夷甚国造の夷甚稚子(いじみのわこ)はなぜか結婚式までに真珠を奉納しませんでした。 大麻呂は怒って稚子を縛り、尋問しようとすると恐れおののいた稚子は宮殿奥の皇后の寝殿に 逃げ込んでしまいました。何も知らない皇后は寝殿で稚子を見つけ、驚いて失神してしまいます、 稚子は真珠貢納の遅れと皇后の寝殿へ侵入した罪をまぬがれるため、自分が支配していた夷甚国を 皇后に献上して屯倉(領地を預かり運営する)とし一族は春日部直と名前を変えました。 (安閑天皇の時代は屯倉政策で皇室の財政は潤いました。このような屯倉政策で夷甚国 には前方後円墳がないとの説もありますが、釈然としません) |
全体表示
[ リスト ]






上総歴史散歩を興味深く拝見しました。特に「夷甚国造の話」記事中、「武射(芝山町・横芝町)との関連も謎」という記述が目に留まりました。
なぜなら平城京建設の長官は、阿倍宿奈麻呂という人物。彼は元「引田」姓で、続日本紀の記述から、武蔵国引田(東京)出身の貴族と考えられます。平城京の建設には、関東一円の引田一族が参与。その中に市原市や、いすみ市に居住の豪族もいたようです。
また時の左大臣石上麻呂の舍人に「牟佐村主相摸」がいました。そして麻呂邸跡(長屋王邸と誤認)で発見された木簡には、「牟射」の記述(567)があります。
この「武射」「牟佐」「牟射」には、歴史的関連があると感じます。
さらに福岡県筑紫野市には、現在「武蔵」地名が残り、その地に九州最古の寺「武蔵(ブソウ)寺」があります。石上麻呂は、大納言時代、大宰師を兼務。その舎人に「牟佐村主相摸(武相?)」がいたことは意味深です。
なお、最近、古代日本史研究の検索ソフト「古代史ビューア【麻呂】」を開発しました。
下記から無料でダウンロードできますので、是非お使いください。
http://www.kojiki.org/maro/
2017/7/17(月) 午前 2:39 [ 関根 聡 ]
関根 聡様へ
貴重なコメントありがとうございます。
関根様よりコメントを頂いた記事は、私が孤軍奮闘して千葉県の歴史を探求していたころのものです。その後、古代の史蹟と古墳を広範囲に訪ね歩き、著名な先生の講義を聞くチャンスに恵まれました。その結果でしょうか、今回の関根様のコメントは私にとって十分理解できるものです。私の考えは、大まかですが「武射」「牟佐」「牟射」➡「武蔵国」となり、相模国も同族が支配していたと考えています。この頃の東京湾周辺と、千葉県、茨木県の太平洋側は海の面積が多く舟による航行が便利な地形であったと考えられます。千葉県には11国造が勢力を張っていますが、多くは東京湾側に支配地があったようです。対岸には相模国造の支配地があり、東京湾周辺地域は、関東の主な国造の集合していた地域と思われますので、一族の話が纏まれば、平城京建設も容易であったと考えられます。(次へ) > 関根 聡さん
2017/7/18(火) 午後 4:02 [ 玉依姫 ]
さて、関根様のコメント中に「武射(芝山町・横芝町)」の地名がありますが、この地域の古墳の出土品には、他と違った形象埴輪があります。群馬県の大型古墳の形象埴輪群はよく知られていますが、芝山ではこれとは異なった、「馬に乗り、顎髭を生やし帽子をかぶった、ソグト商人のようないで立ち」の埴輪があります。この埴輪はレプリカで再現されていますが、埴輪から想像したこの地域の人々の印象は、彼らは商人であり、異国風の容貌をしていることなどから、私は「東京湾を中心とした一帯は、現代と同じく人種の異なった人々の集っていた地域であったと考えています。
また、古代のこの地域を語る他の出土品に、大量の「銅銭」の出土品がありますが、これなどもこの地域の豪族の富の源を語っていると思われます。一説に、「ツヌガのアラシト」がこの地域の豪族であると言いますが、、「ツヌガのアラシト」の私の解釈は、敦賀(現在の地名)に居る安羅国人であり、彼らは交易を生業としていたのではないかと考えています。
「古代史ビューア【麻呂】」を教えて頂きありがとうございます。
早速拝見したいと思います。
2017/7/18(火) 午後 4:47 [ 玉依姫 ]