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馬王堆漢墓(湖南省長沙、紀元前二世紀の墳墓)より出土 上の写真は中国馬王堆漢墓(BC2世紀)より出土した桃人と桃枝です。 魔よけとして墳墓に入れられ、大量に出土しました。 日本列島の桃の存在は縄文時代後期からあり、弥生時代後期には大陸から栽培種が伝来し、大型化した。桃は食用のほか祭祀用途に用いられた。 ・イザナキ、イザナギ神話に出てくる魔よけとしての桃(古墳時代) 「イザナキは黄泉比泉坂に至りし時、その坂本にある桃子三個を取りて、待ち撃てば、悉逃げかえりき」(古事記) 奈良県桜井市の箸墓古墳の近くの巻向遺跡より大量の桃の実が見つかっていますが、箸墓古墳にも祭祀用途の桃が入っているかもかもしれませんね。 *世界の桃の利用史 原産地は中国の黄河上流の高山地帯。ヨーロッパへは1世紀頃シルクロードを通り伝わった。ピーチ(peach)はペルシャが語源で、ラテン語の(ペルシャのりんご)から来ている。 つづく
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玉前神社の兄弟社
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○山東半島と夷甚国造(NO1) 前回は上総国玉前神社に伝わるウガヤフキアエズ命を育てた「甘酒」の話をしましたが、中国大陸の稲作が日本に伝わったのはBC1000年前後といわれ、弥生時代のことです。 (現在、弥生時代の始まりはいつなのか年代を巡る議論の決着は付いていない) 弥生時代に中国大陸から伝わった稲の他に、10年前岡山県の縄文時代の遺跡より(約6000年前)大量のプラントオパール(イネ科の植物の細胞成分)が見つかり、他にも陸稲(熱帯ジャポニカ)の稲の痕跡が、縄文時代の土器より発見され、少なくとも3500年前には陸稲による稲作が行われていたとする学説が多数発表されています。 縄文人も稲作(陸稲)をしてお米を食べていたようですが、主食ではなかったようです。 それでは、弥生時代のお米は主食だったのでしょうか? ウィキペディア(弥生時代)によると、弥生時代 前期の収穫量は多いとは言えない。稲作の盛んなところでも、初期は一日あたり一勺程度、中期は6勺〜1合、後期でも二合を超えない程度である。不足分はひきつづき縄文時代よりの漁労・山の恵みでおぎなっていた。 弥生時代は日本の歴史上「文明発生」の夜明け前で、縄文時代の狩猟採集文化から定地耕作文化へ移行する農業革命の時代でした。 鉄器や青銅器が大陸から伝来、生産されるようになり、これらは稲作農業にも使われました。 この文明の利器を使った稲作農業はしだいに九州から東北地方まで普及し、稲を貯蔵する高床式建物が普及、土器は縄文時代の露天焼成から初期の窯焼成へと変わり、死者を墳丘墓に埋葬する風習もこの時期に生まれた。 ・弥生前期の東北地方に水田跡 弥生前期には弘前市に小さな水田跡が発見されている。 弥生中期の青森県南津軽では、広範囲に整然とした水田区画が発見されている。 (寒冷地で水田稲作農耕を行っていた) *上総国の情況 縄文時代は海が内陸まで入り込み(縄文海進・6000年前がピーク)現在の千葉県の約半分は海である。縄文晩期には海が遠くなったためか人口が少なくなった。 しかし弥生時代中期に人口が急増する。 *1世紀頃から木製農具・石製工具・鉄器も使用され水田稲作が広まる。(青森県南津軽の水田遺跡と同時代頃か) 大規模な村が形成され、環濠集落が出現する。 大形周溝墓が出現する。 (参照 長生・夷隅の歴史) 古墳時代になると平地の開墾が行われ、水田耕作の定着がうかがわれるが低地の開墾は容易ではなかったことが発掘作業でわかる。地域的には東京湾側が連続的に発展している。 (睦沢町歴史民族資料館 地域の古代史講演会より) 上記より上総国に弥生時代中期に稲と共に文明の利器を持った人々が移住してきた。 彼らは渡来人であることが推測できる。 (邪馬台国卑弥呼の時代より2世紀以上前である。) 彼らはどこからやってきたのだろうか? 稲の伝播経路を探していると興味深い説に出会いました。 (<研究ノート> *山東省の古代文化と日本弥生文化の源流(考古学資料を中心として) 蔡 鳳書 (以下は蔡氏の論文を参考に記しました) 最も早い稲作農耕遺跡(今から1万年以上前)は中国の長江流域中部で発見されている。 そして下が現在最も信憑性のある日本への伝播説である。 ・長江に沿って下る→江蘇省南部・拙江省北部→山東半島→遼東半島→朝鮮半島→九州 しかし、山東半島→九州へ稲作農耕の直接伝播もあったのではないか。 朝鮮半島は中国のイネが日本に伝わったルートと考えられているが、稲作農耕の始まりの年代が、大体日本と同じか、あるいは少し遅いことである。このことは山東半島の稲作農耕(ジャポニカ米)が直接日本に伝わったことを示唆しており、興味深い一説です。 ・三東省のイネの遺跡と石刀 龍山文化中期〜晩期(BC2500~2000)このイネはジャポニカ米に属する イネの収穫に使用する「石包丁」は中国では「石刀」と呼ぶが、日本の石包丁は形から見ると大陸沿海一帯の「石刀」とよく似ていて、山東半島の龍山文化時期と岳石文化(BC1600年前後)では石刀が多く出土している。 日本では弥生時代中期になると鉄製品の普及によって農具の大部分は石器から鉄製品に変わったが、イネの収穫に使用する「石包丁」は末期まで大量に使用され続けた。 近年DNAの解析が進み渡来系弥生人の多くは中国大陸の長江流域、山東省から来たと言われている。 これにより山東半島の歴史は、日本の古代を考える上で重要なヒントがあると思いますので、いましばらくお付き合いください。 ・山東半島の東夷人 冒頭の写真の所が山東半島です。とても日本に近く、旧石器時代より古代の文化の発達したところです。今から八千年以前に西河文化が起こり、これは年代的には日本の縄文時代創世紀にあたっている。(日本との関係は不明) 中国で、もっとも古い時代より文化の花が咲いたところである。 ・商(殷)と抗争「百タビ東夷ヲ克ツ」 夏の時代(BC2100〜1600)には古代中国の政治の中心地は今の河南省西部にあり、山東地区は当時の僻地であった。 だが、山東半島の「東夷文化」と、文化の創造者「東夷人」は有名である。商(殷)の時代(BC1600〜1450前後)になると、初めの頃は友好関係を維持していたが後半になると関係は悪化し、しばしば抗争した。 「百タビ東夷ヲ克ツという語はまさしく商(殷)王朝と東夷の激戦の状況を表した言葉である。 弥生時代に最初に中国大陸より多くの人々が海を渡り日本に移住してきたのは稲作農耕の伝来時期から推測すると、周と商(殷)の抗争時代からとも考えられる。 BC1100〜221年になると山東地区に「斉」・「魯」の両大国をはじめ大小さまざまな数十カ国がひしめいた。 天皇の一覧(ウィキペディア)によると神武天皇はBC660〜585の時代の人である。 しかし、神武天皇の出現以前に海を渡って日本に移住した山東半島の人々の集団もとうぜんあったことであろう。 つづく
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