●上総国の中世(NO2)城から見た夷隅の戦国時代
「美濃土岐氏と上総万喜土岐氏」
○上総国夷隅郡の万喜土岐氏は美濃守護大名土岐氏の一族であるが、いつ頃、どのような経路で夷隅地方に進出したのかはっきりしない。
そこで、「HP、土岐氏調査・研究ノート」と「いすみ市荻原の行元寺住職・市原允氏の著書・みゆき野物語」を参考に、美濃土岐氏と上総万喜土岐氏の関係を推測してみました。
(いすみ市荻原の行元寺は万喜城から近く、斉藤道三により美濃国を追われた最後の土岐宗家「土岐頼芸」がこの地で隠遁生活を送っていた年月、度々訪れた由緒あるお寺です)
*美濃守護大名土岐氏とは
・平安時代清和源氏に始まる古い家柄・家紋は桔梗
・桔梗一揆と呼ばれる「軍団」を組織し活躍、強力な軍団であった。
(桔梗一揆は家紋の桔梗が由来)
・一族は文武に秀で和歌や絵画に名を残す
*足利幕府と深い関係
初代、足利幕府守護 土岐頼貞(1271〜1339)鎌倉にて多数の名僧と知己を得る
頼貞は母が北条氏であり、妻は平氏、幼少の頃より鎌倉に住んでいたのではないかと思われます。その後足利尊氏と共に鎌倉幕府を滅ぼし、「建武の新政」〜南北朝時代も常に足利方として奮戦した。その働きぶりは「土岐氏絶えなば、足利絶ゆる・御一家の次」と重んじられました。
また足利幕府ブレーン夢窓疎石(夢窓国師)と縁が深く、2代守護 頼遠が光厳上皇に無礼を働き幕府内で問題になった時幕府に仲介を頼むなど親しい関係で、夢窓疎石も美濃国に禅宗を広めました。
*夢窓疎石、後醍醐天皇に呼ばれ上京する以前は上総国千町荘(行元寺の近く)に住む
ここに庵を結び「退耕庵」と称し修行の傍ら農民を指導し、近くの沼地を水田に変える。
(夢窓疎石が足利幕府のブレーン、国師となる迄の事情は「みゆき野物語」に詳細が記してあります)
*3代土岐頼康、東海地方を手中に収める(室町時代初期)
(美濃守護・尾張守護・伊勢守護)東海地方3国の守護となり、土岐氏の全盛時代を築いた頼康は初代頼貞の孫である。
2代頼遠(叔父)は数々の合戦に活躍し(婆娑羅大名・バサラ)と呼ばれたが、しかし力を鼓舞した傲慢な振る舞いが光厳上皇に及び幕府内で大問題となり、夢窓疎石のとりなしの甲斐なく断罪となりました。
上皇に無礼を働き断罪となったが、土岐氏が守護職を解任されなかったのは頼遠・頼康共に数々の合戦を戦い抜き、東奔西走して足利幕府に尽力した事と室町幕府が土岐氏の戦力をまだまだ必要としていたためではないでしょうか。
3代土岐頼康の時代以後、室町幕府は強大な守護に対し勢力削減政策を取り始め、土岐氏も後継者争いに付け込まれ、一族が2派に別れ争い、次第に家運が傾いていきます。
東海地方を支配した頃の足利幕府との蜜な関係、初代より3代頃までに培った文化的交友関係が以後の土岐一族の拠り所となって行ったように思えます。
*鎌倉時代〜室町時代は日本文化の揺籃期
(文化的素養の重要性)
土岐氏は文武に秀でた家柄です。この時代武士は文化的な教養が重んじられ、これが社交の席でも重要視されていたようなので、一族の文武に秀でた特色が応仁の乱後の土岐氏一族に多少の影響を与えていたのではないでしょうか。
鎌倉時代〜室町時代は日本文化の揺藍期にあたり、絵画(水墨画・障壁画)、禅(宗教)、能、作庭、茶道など現在日本文化といわれるものは、ほとんどがこの時代に生まれたものです。
*文化の花咲く夷隅地方 狩野氏(足利幕府御用絵師)と二階堂氏
夢窓疎石を通じて土岐氏が上総国千町荘(行元寺・万喜城の近く)と繋がりがあったことがわかりますが、もうひとつ、夢窓疎石が滞在していた頃の夷隅地方は鎌倉幕府の重鎮二階堂氏・狩野氏の所領であり、両氏とも文化政策に力を入れ、冷泉為相なども滞在し、狩野派の始祖狩野正信は万喜城近くの大野城で生まれ、鎌倉で修行し、足利幕府の御用絵師となりました。
これがのちに400年に渡り日本画壇を支配する一大流派狩野派の始まりです。(二階堂氏と狩野氏は血縁関係であり、足利長尾氏とも絵画を通じて縁が深い)
*室町幕府御用絵師(幕府公認の職業絵師集団)
この御用絵師は職業であり、経済活動を伴っています。似たような組織は中世ヨーロッパのイタリア「ベロッキオの工房」で、教会や諸公より壁画や肖像画を受注し、師匠の指導で弟子達が腕を振るいます。ダビンチやミケランジェロなども最初はこのような工房で育ちました。
室町時代に生まれた日本の御用絵師集団「狩野派」は以後、流派を守るため他流派と激しい戦いを繰り広げていきます。様々な困難とライバル流派に打ち勝ち、「狩野派」を存続させる努力を常に怠らなかったようです。
前置きが長くなりました、話を上総万喜土岐氏にもどします。
「HP 土岐氏調査。研究ネートでは上総万喜土岐氏は常陸国江戸崎土岐氏の分流であると記しています。
美濃土岐氏は3代目以降次第に弱体化し、最後の宗家頼芸の時代に斉藤道三につけいられ、ついに美濃一国を乗っ取られました。宗家の頼芸は国外に追放されてしまいます。
頼芸が宗家になる以前に土岐氏の家運はすでに衰えていたので、家中の中には他国に出奔したり、戦国時代であることから諸国をめぐって武者修行をしていた者がいたのではないかと推測します。
*土岐弾正少弼頼房 里見氏に仕える(応仁の乱より100年ほど後1500年頃)
頼房がどのような経路で安房国里見氏に仕えたのか不明ですが、美濃を出て関東に下り、上総万喜に来たところで里見氏の知遇を得たのではないかと言われています。
弾正少弼とは律令制で、現在の警察(検察)のような任務を司るところで、少弼はトップの次の位で
(NO2)である。
しかしこの頃は幕府の弱体化により弾正台は形骸化していていたようです。
上総万喜土岐氏の初代頼房は里見氏が安房国内を平定、上総侵攻に着手した頃より里見氏の合戦の陣頭指揮をして里見氏の尖兵として活躍した。戦上手は「桔梗一揆」と呼ばれた土岐武士軍団より受け継いだものなのでしょうか。
また、上総万喜土岐氏系図(複数説あり)では頼元―頼房―頼定―為頼―頼春説があり、この系図によると頼房は2代目となり、夷隅地方に進出したのは先代(頼元)の頃となります。
*美濃国護大名土岐頼芸 斉藤道三により美濃国を追放される(1552年頃)
美濃国を出奔したあとは尾張・朝倉・武田に頼ったが、いずれも長く居られず、最終的に江戸崎土岐氏(弟の居城)から、真里谷武田氏を経て上総万喜土岐氏にお預けの身になった。
系図から為頼の前の頼定が「頼芸」ではないかという説もあるが、為頼―頼春は実在が確かであることに比し為頼以前は不明な部分が多く確かなことがわからないようです。
*土岐為頼里見氏と縁戚となり勢力を拡大する
里見氏に正室として娘を嫁がせ、跡継ぎの孫も生まれ、しばらくは良好な関係を保っていたが、近隣の長南氏、万里谷氏を里見氏と共に攻めた第1次、第2次国府台合戦を機に小田原北条氏方へつく。
*小田原北条氏関東の一大勢力となる
里見氏と敵対関係にあった小田原北条氏は(本能寺の変後)関東の一大勢力となり、所領地は240万石の大大名であった。北条方へついたことで、里見方の多い周辺地域で四面楚歌の状態となる。
しかし万喜土岐氏は里見方についた周辺勢力とよく戦い、孫の里見家当主義弘に常勝している。為頼は1583年頃死去し、子の頼春が父の跡を継ぐが、頼春も父に似て合戦上手で、在地勢力には負けなかったが、豊臣秀吉による小田原北条氏攻めで北条氏が滅亡すると、上総万喜土岐氏、里見氏も共に滅亡した。
*「桔梗一揆武士」が夷隅地方に残したもの
先にも記しましたが、美濃土岐氏は文武に秀でた家柄です。
一族は書画や和歌を良くするものが多く、万喜城に亡命した土岐頼芸は(華美を好み遊芸に秀れた)と伝えられ夷隅地方には文化をもって貢献し、楽市(楽町の地名となって残る)楽座(六斉市)などは頼芸が伝えたといわれます。また水墨画を良くし、鷹の絵を好んで描き、頼芸がしばしば立ち寄ったという「行元寺」にも彼の絵が伝えられています。
江戸時代になると夷隅地方には文化人が多く訪れ、特に俳句が盛んで、小林一茶もパトロンの半場家を訪ね句会を催しており、俳句は現代に続いています。
この文化的背景は上総万喜土岐氏の領地が10万石ともいわれる豊かな経済力に恵まれていた事が理由であると思います。
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