上総歴史散歩・玉前神社の謎

ただいま古代の上総国を探究中です

玉依姫のスタデイー日記

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○古代上総国の製鉄
NO2 長南町熊野神社神域の古代製鉄団地
(佐坪・蔵持)
・上総国の鋳物師の本拠地 
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・一宮川流域の地図 
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10世紀の「和名抄」に、今回の舞台である「長南町・長柄町」に現在も地名として残る、刑部(おさかべ)・車持(蔵持、くるまもち、くらもち)郷の名前がある。
10世紀頃の一宮川流域は、長柄郡と埴生(はぶ)郡に分かれていたようである。
(写真のグレー部分が長柄郡・この図は長生、夷隅の歴史より抜粋しました)

この地図によると太東崎〜玉前神社〜車持(蔵持)〜刑部は長柄郡に属していた。
「和名抄」によると、長柄郡には刑部・車持の他に、管見(つつみ)・兼田(かねだ)・柏原(かしわはら)・谷部(はせべ)郷があり、埴生郡には埴生(はにゅう)・埴石(はにし)・小田・坂本・横栗(よこくり)・河家(かわいえ)の各郡があった。
しかし、現在全ての郷の正確な比定地はまだ判っていないようです。

さて上記の「長柄郡」に属する一宮川上流地域は上総国の中でも「製鉄遺跡」が多くある場所で、房総の「鋳物師」の本拠地でもあります。

今回は一回目に紹介した一宮川河口に鎮座する「南宮神社」と神紋が同じで、河川の上流域にあたる長南町の佐坪・蔵持に座す「熊野神社」三社を訪ねました。
このあたりは長南丘陵と呼ばれる標高の低い山岳地帯で、三神社共道路に面した急勾配の階段を上がった山の中腹に鎮座していました。

○熊野(ゆや)清水の熊野神社
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この神社は大多喜へ行く旧街道「棒坂」の入り口にあります。棒坂は難所であったと伝えられていますが、現在は使われておらず、この先行き止まりの表示があります。しかし両脇を樹木が生い茂った細い山道は入り口に道祖神と馬頭観音があり、古代の街道の雰囲気がしのばれます。地域の中心より離れており、他地域へ行く街道の側にあるので、地域の境界に座す神社であったのかもしれません。

・大多喜街道の案内板
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・道祖神(新しいもので平成22年の表示あり)
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・馬頭観音
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・熊野(ゆや)の清水と呼ばれる湧き水そばにある「道祖神」
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湧き水は弘法大師が発見したと伝えられています。

参道のすぐそばに弘法大師ゆかりの清水があるので、熊野神社も弘法大師が創建したのではないかと考えてしまいますが、そうではなく鳥居のそばの由緒書きによると古代に紀井の国(和歌山県)より勧請されたということです。
熊野神社・真言宗のお寺、熊野(ゆや)清水は一体になっています。

○郷社 熊野神社
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この神社も低い山並みが続く山中にあります。神社へ行く入り口に古い町並みがあり、長南町役場にも近く、鳥居の脇の立石に「郷社」と彫ってあったので、古くはこの神社が地域の中心であったと推測します。周辺よりおごそかな雰囲気が伝わって来る神社で、昔はさぞかし立派なお社だったのではないかと思いました。

ここから最終目的地の熊野神社に向かう予定でしたが、周辺の道路が細い山道なので不安になり近所の方に「蔵持」方面への道を尋ねると、この道(神社の前の細い道)をしばらく進むとトンネルがあり、そこを抜けると「蔵持」に出ると教えてくれたので、勇気を出して山すそを縫う細い道をトンネルめざして軽自動車を進めました。
細い山道をしばらく進むと目印のトンネルがありましたが、車幅いっぱいの道幅しかないように見え、対向車が来ないのを確認してトンネルに入りました。

・蔵持方面へ抜けるトンネル
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どきどきしながらトンネルをぬけるとまた細い道が続きます。道幅と雰囲気から古くから使われてきた道路のようです。
一つ目の六体のお地蔵様のある丁字路を右に進むと、ほどなくまた丁字路が見えてきました。右の方を見ると道路わきに神社が見え、どうやら目的地の熊野神社のようです。

・村社 熊野神社
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この神社は先の熊野神社より山一つ越えた「蔵持」に座しています。
二神社はよく似ているので同じ一族が祀ったのではないかと思います。
この地域は丘陵を囲むように数本の道路があり、新しい道路は広く、車の運転は快適ですが、古い時代に使用されていたと思われる山すそを縫う細い道路も多く、長南町の文化財ガイドによると、「庚申塔」・「横穴墓」が多数あるとのことですが、これらは古い時代の細い道路わきにあるのでしょうか。

○長南丘陵とよく似た立地の「相馬地方の製鉄遺跡」

・古代日本の製鉄は官製であった
7世紀後半〜9世紀にかけて「律令国家」は東北支配のため、関東地方の鉄製産を戦略として重要視していた。
千葉県とよく似た砂鉄の浜を持つ福島県相馬地方の製鉄は海に近い丘陵地帯で行われており、多数の製鉄遺跡群が発見されています。この製鉄遺跡の調査の結果、古代製鉄の多くが判明しました。この製鉄遺跡のある相馬地方は立地条件が九十九里地方とよく似ているので、古代の官による「鉄冶」はよく似た工業団地を関東一円に造って、「鉄冶」を統治していたのではないでしょうか。

*鉄・須恵器・瓦の一体生産(7世紀)

古代の製鉄は「炭」を大量に使うので、山間部に拠点を置き製鉄を行っていた。
相馬地方・一宮川流域の場合も海岸(砂鉄の浜)に近い丘陵地に生産拠点がある。
また相馬地方では「鉄」と「須恵器」の職人集団は密接であり、製鉄が始まると寺院の建設が始まり「瓦」が焼かれるようになったと言う。

上記は(律令国家の対蝦夷政策(相馬の製鉄遺跡群)飯村均著を参考にしました)

*夷甚国には5世紀後半頃 新技術を持った新しい支配者が現れる

話は前後するが、長南町郷土資料館によると古墳時代の最中5世紀の後半頃「夷甚国」(一宮川・夷隅川流域を支配)では他の地域では造られ続けた、大形の前方後円墳が造られなくなり(忽然と消える)今まであった住居跡を壊して別系統の古墳群が作られているので、支配者の交代があったようであると解説している。
またロクロを使用した須恵器(1200度の高火度で堅く焼きあがる)が8世紀後半~9世紀には上総・下総・常陸産の須恵器の「杯」がかなり一般集落に普及している。(一般庶民を対象とする須恵器の製作所があった)
とのことなので、今回訪ねた熊野神社が座す長南丘陵の「古代製鉄工業地帯」は新技術を携えた新しい支配者により造られたものなのではないでしょうか。

次回はこの新しい支配者を探求してみたいと思います。

鍛冶の神様

○古代上総国の製鉄
NO1 一宮町 「南宮神社」
鍛冶の神様
・南宮神社
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日本では弥生時代から製鉄を行っており、出雲国や吉備国の青銅・製鉄遺跡がよく知られています。
しかし古代関東でも製鉄は盛んだったようで、たくさんの製鉄遺跡があります。千葉県では3世紀半ば頃から墳墓(前方後円墳・前方後方墳)の造営がはじまりました。巨大な墳墓を造るには金属製品(鉄製の道具)がなければ困難と思うことから、3世紀半ばには、鉄製の道具を自給していたものと推測します。

夷隅地方の古代は夷甚国造(いじみのくにのみやつこ)が 夷隅川流域・一宮川流域を支配しており、
一宮川中流域の長南町には4世紀に造られた(能満寺古墳・前方後円墳)があり、鉄剣・鉄刀・鉄製道具類が出土しています。県内の古墳にも鉄製品が多く見られることから、「国造達」は競って鉄冶を行っていたのではないでしょうか。

今回は千葉県九十九里浜の一宮川河口にある金屋子神(鍛冶神)を祀るといわれる「南宮神社」と
その付近にある「道祖神」より古代のこの地方の製鉄を推測してみました。

○一宮川河口を挟み鎮座する玉前神社と南宮神社

・一宮川流域と南宮神社の場所
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一宮川は埴生川(はぶがわ)など数支流を持ち、内陸部の長柄町が上流域で、太平洋(九十九里浜
)に注いでいます。
九十九里浜は砂鉄の浜で砂の色は白ではなく、黒い色をしています。太平洋戦争の頃、浜続きの大原海岸では鉄を作るため砂鉄を採取したと伝え聞いていますが、玉前神社と南宮神社はこの一宮川が太平洋に注ぐ河口の両側に近距離で鎮座しています。

常陸国の鹿島神宮と香取神宮が利根川の河口を守るように鎮座しているのと同じで、これらの神社は一対で重要な水路(流通路)を守っているように見え、玉前、南宮両神社も同じ発想から造られたのではないかと思います。玉前神社のすぐ側に「観明寺」という奈良時代、行基開祖のお寺があるので、この頃には三社が一宮川河口に鎮座していたのではないでしょうか。

*一宮町宮原に座す(南宮神社)で注目したもの
・紋  この神社の神紋は「三つ巴」紋で一宮川中流域、長南町の熊野神社と同じである。
また鹿島神宮も「三つ巴」紋である、ここでは「紋」を詳しく解説しないが、両神社とも出雲系であることが「紋」より推測される。

・南宮神社 境内の社
神明神社・稲荷神社・八坂神社・三社神(保食神、猿田彦神、大宮毘売)・白山神社
(出雲系である)

道祖神の社
(石造りの社で中に道祖神が祀られている、古来より境内に独立した社を持ち祀られていた?)

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全国の古い神社にはよく陰陽石が祀られていますが、常陸国の鹿島、香取両神宮は境内に両神社で一対の(要石・鹿島(凹形)、香取(凸形)があるので、これは陰陽石で両神社は夫婦なのではないでしょうか。常陸国も製鉄遺跡が多く、九十九里浜と共に豊富な砂鉄の産地で、後世、中臣氏(藤原氏)が台頭しました。

*道祖神
道祖神は男女の神であり、猿田彦神・天のうずめ神にたとえられますが、時代が古いものほど率直に男女の性の形を表現しています。
道祖神は時代が下ると道教の神と一体化し、「庚申塚」や「青面金剛」で表されるようになりますが,
元は男女のセックスシンボルが最初の形です。

*中国大陸の青銅、鉄鍛治(日本では弥生時代の頃)

鉄は、ヒッタイト(起源前1700年~1600年頃)に現在のトルコの辺りに興った帝国)によって
作り出された。

日本の弥生時代(前5世紀~後3世紀)、中国大陸は動乱の時代であり、北方騎馬民族の「東胡」・「匈奴」・「鮮卑」は、大陸で覇権を競っており、秦による統一国家が出来、後漢の時代以後も大陸で活躍した。これらのタタール、ダッタン族達が栄枯盛衰により、日本へ移動して来た集団があり、結果古代日本の青銅、鉄鍛冶に大きな影響を与えました。7世紀頃には中央アジアを追われた「突厥、トルコ系民族いわゆるダッタン人・鉄冶の民」が日本に スキタイ文化(騎馬民族文化)をもたらしました。

・スキタイ(スキト=シベリア、スラブ)文化(馬に蹄鉄を装着することは彼らの発明である)

・「東胡族」の青銅器…柄の形に注目、男根崇拝を表した器
(チンギス・ハーンとモンゴルの至宝展の展示物)

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東胡は「東のダッタン人、タタール人」と言う意味で、最も早い時期にモンゴル高原に登場し、牧畜経済を発展させ、発達した「青銅器文化」を創りあげ、後の遊牧騎馬民族に大きな影響を与えた。(前200年頃匈奴によって滅ぶ、金属精練・青銅器と商業の民である)

*「チンギス・ハーンとモンゴルの至宝展」より推測する日本の道祖神
展示品の中に東胡族の青銅製短剣「柄の部分が裸体の男女の立像」があった。見事な造形に驚嘆したが、この短剣の解説に(実用として使われたものではなく、部族の信仰や宗教儀礼と関係があるのではないか)と書かれており、東胡族は男女のセックスシンボルが神様であったのではないでしょうか。日本の道祖神の元の姿はこの東胡族の神様で、金属精練技術と共に伝えられたと推測します。

平安時代(930年~1150年頃書かれた)歴史書には、男根・女陰が彫ってある男女の人形が、一対となって京の街角に置かれていた、という記述があるそうです。
京の都の人々は日々この人形に祈り、お供えをしていたのでしょう。
(モンゴルの至宝展、2010年2月〜4月。江戸東京博物館)

*日本の道教、修験道(金属精練と深い関わり)

中国の鉄冶は漢時代(前200~後200)・日本では(弥生時代)に大きく発展し、鉄の大量生産が可能になったことで、鉄製の農具が作られるようになり、農業が発展し、経済が豊かになりました。漢時代の宗教は「道教」が盛んで、日本では「役行者」が活躍し、天武天皇も道教に傾倒していたといいます。「修験道」は日本の道教ですが、「丹」に代表されるように、金属精練と深い関わりがあるようです。

*一宮川沿いの道祖神
観明寺境内にある道祖神(一宮町の別の場所にあったものが観明寺境内に移されたようです)
・猿田彦神の名前に「猿」があることから 見ざる、聞かざる、言わざるの三猿が彫ってある、一宮町内では最も古い時代の道祖神。
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一宮川沿い県道にある庚申塚
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ダイダラボッチの足跡
上の庚申塔の近くにある「ダイダラボッチ、デーデッポ」と呼ばれる巨人の足跡
(土手の下が溜池)
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すぐそばに稲作用の溜池があり、この溜池を造るには地形から推察するとかなりの工事が必要であったと思います。この溜池がいつごろ作られたのかは不明ですが、一宮川の川沿いを平行に走るこの県道は、
玉前神社の祭神である玉依姫命の夫、ウガヤフキアエズ命の神輿がお祭りの時に、睦沢町の社から
玉前神社にやって来る際に通る道なので、古代から使われている道であると思います。また、この県道脇には数基の円墳があります。

*次回は一宮川中流域、熊野神社の神域で古代の鉄冶を探してみたいと思います。

今回の参考資料、
今昔:鉄と鋳物(塚原茂男著)
鉄から読む日本の歴史(窪田蔵郎著)
長生・夷隅の歴史
●上総国の中世(NO4)城から見た夷隅の戦国時代

関東の戦国ここより始まる


・ 眼蔵寺山門
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歴史書によると戦国時代は応仁の乱(1467年)より始まると書かれていますが、関東ではそれより10年以上早く、享徳の乱(1454年)を発端に「戦争が断続的に続く時代」に入りました。今回は享徳の乱の少し前、関東管領・上総守護の職にあった上杉朝宗について記します。

千葉県の中央部に位置する長柄町(ながらまち)に上杉氏の墓があるとは意外な思いを抱かれる方もいると思いますが、ヒントは上杉氏が室町時代、14世紀の終わり頃に「関東管領」と上総守護の職にあったことです。

この地域は古代の製鉄遺跡跡が多数あり、針ヶ谷地域が鋳物師の本拠地であったことから、
眼蔵寺(創建当時は鳴滝寺・1013年開基)には1264年の銘のある千葉県で一番古い梵鐘があります。
この梵鐘は鎌倉の大仏を造る際、関西からやってきた広階重永(ひろしな)作で、以後広階氏はこの地域に本拠地をおきました。

眼蔵寺は中世大変栄えたお寺でしたが、現在は史跡として管理されているようです。

・千葉県の製鉄遺跡と(鋳物師の本拠地)
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・ 広階重永作の梵鐘(上総国の鋳物師の本拠地、針ヶ谷を今にしのぶ作)
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*鎌倉府と関東管領

室町幕府初代足利尊氏は地方政庁として「鎌倉府」を設置し、長官職(鎌倉公方)とその補佐役(関東管領)を置きました。

その統括する地域は、関八州・伊豆・甲斐・のちに出羽・陸奥と日本列島のほぼ半分にあたります。
代々の鎌倉公方は尊氏の三男子孫が継承し、関東管領は初期を除き、関東の名門である藤原北家出自の上杉氏が継承しました。

*3代将軍足利義満、有力守護大名の勢力削減を謀る

室町幕府は有力守護大名の連合の元に擁立されており権力はさほど強くありませんでしたが、3代将軍義満は(花の御所)を造営し権勢を示し、有力守護大名の弱体化を図り、大内氏・山名氏・土岐氏などを挑発し乱を起こさせ、あるいは一族を分裂に追い込み没落させました。

一方では将軍家と鎌倉公方の間にも不協和音がおき、鎌倉公方は将軍家に二度反乱を起こしますが、いずれも関東管領上杉氏が公方の反乱を防ぎ、鎌倉府を支えました。

・ 上杉朝宗の墓(眼蔵寺境内)
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モニュメント(右の白い立杭)に書かれている言葉

上杉朝宗の墓

管領・上総国守護・応永22年(1414)この地に没す


写真の墓の主「上杉朝宗」は上総守護の職にあり、1395年関東管領職に就任、幼い頃から後見役を務めた「満兼」が鎌倉公方になりますが、周防の大内義弘が将軍義満に反乱を起こすと一緒に挙兵してしまいました。

上杉氏はなんとか挙兵した満兼を諌め、二度目の反乱を未然に防ぎましたが、1409年、長い間支え、鎌倉公方となった満兼が没してしまいました。悲嘆にくれた朝宗は弔いの後、眼蔵寺(この頃は胎蔵寺)に隠棲してしまったと伝えられています。

権謀術策に満ちた時代の中で鎌倉府を支える気力が「満兼」の死で折れてしまったのでしょうか。

このあと朝宗の子「禅秀」は新鎌倉公方や身内の山内上杉氏と対立し反乱を起こして敗死してしまい、守護・管領職を務めた朝宗の一族(犬掛上杉氏)は急速に衰退して行きます。

その後、幕府・鎌倉公方・関東管領も仲違いし、やがて関東全土を巻き込む28年間にもおよぶ享徳の乱の果て、ついに1483年1月鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺してしまい、ここに鎌倉府体制は崩壊してしまいました。

*戦国時代への一里塚

(長生・夷隅の歴史)書にも「眼蔵寺境内に眠る 上杉朝宗 の墓所は戦国への下り坂に建つ道標のようにも見える」との記述がありますが、いつの時代も振り返ってみれば、あの時、あの事件が時代の変わり目であったと思うことがあります。この時代も関東管領・上総守護 上杉朝宗の隠棲と死は関東戦国への一里塚であるように思えてなりません。

ひるがえって現代に目を転じれば、なにやら戦国の世に似た状況になって来ているように見えますが、我々はすでに「戦国の門」をくぐってしまったのでしょうか?
だとすれば、これからたどる道は中世の人々と同様に決して安易な道ではないでしょう。
古代の街道沿いにひっそりと建つ眼蔵寺の山門を見て、ふとこのような事を思ってしまいました。

次回へ続く
●上総国の中世(NO3)城から見た夷隅の戦国時代
北条早雲の高札からわかること

 北条氏綱の高札文(茂原市・藻原寺蔵)
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*北条氏は氏綱の代より北条氏を名乗り、早雲は(伊勢盛時)と称していました。小田原北条氏を語るときわかりやすく、早雲(伊勢盛時)も北条早雲としています。

10月23日いすみ市の歴史資料館で、第3回歴史教室「戦国時代の房総」の講義がありました。講師は滝川恒昭先生です。先生は県内で「里見氏」の研究で著名な方です。ここでは先生の話の中より(正義の戦争は存在しない)と(小田原北条氏と房総)の項で、(藻原寺文書の高札)が大変おもしろかったので紹介いたします。

*毎年冬になると攻めてくる上杉軍

・正義の戦争は存在しない
皆さん昨年のNHK大河ドラマは「直江兼継」でしたね!兜に(愛)の文字が付いていました。上杉謙信が出てくるとしきりに(義)つまり正義ですね、これが戦争の目的(理由)として上杉軍は出陣するんですが、常識で考えて今も昔も正義の戦いなんてあるのでしょうか?最近ではアメリカが石油を手に入れるためにイラク戦争を起こしましたね、調べてみると上杉軍は毎年冬になると関東地方の雪の降らない所に出陣して来るんです。目的は略奪です。越後は冬になると雪が積もり何も出来ないので、出稼ぎに来るんですね。

上記は滝川先生が授業のはじめに冗談まじりに話されたことを、記憶をたよりに書きましたが、戦乱の時代であることを念頭に考えると上杉氏は「関東管領」職にあったことで、鎌倉府への謀反を未然に防ぐ、あるいは他氏の勢力拡大を削ぐ目的のため管領職を上手に利用していた面もあるのではないかと思いました。

*小田原北条氏はいつ頃九十九里地域へ侵攻したか

・(茂原市「藻原寺」に残る 高札文 の内容と意味
幕府、鎌倉公方、関東管領が互いに争い、ついに鎌倉公方が関東管領を暗殺し、鎌倉府が崩壊した(享徳の乱)後、上杉氏に代わって東京湾周辺地域に勢力を伸ばして来たのが前回記した里見氏と房総半島の覇権を競った小田原北条氏です。

滝川先生は里見氏の研究の中で「里見氏」と「小田原北条氏」の争いの元はなにか考えたそうですが、(江戸湾)東京湾の覇権をめぐる争いであることが古文書を通じてわかったそうです。

*江戸湾(東京湾)で物資を調達する

現代も東京港・横浜港・横須賀港は日本の重要な港で、貿易や海軍の拠点ですが、古代〜中世も東京湾(江戸湾)は関東地方の交易や水軍の港として重要な場所であったと思います。

滝川先生も上杉氏がさかんに江戸湾で物資を調達していると言われましたが、これは上杉氏に限ったことではなく関東地方の他の領主も同様であり、先生の話からもわかりますが、交易の利権も戦国時代の戦の目的であったと思います。

*永正13年(1514)北条早雲(伊勢盛時)、藻原寺(茂原市)に高札を立てる


 北条早雲の高札(茂原氏・藻原寺蔵)
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書いてある内容
自軍の乱暴狼藉は堅く戒めており、これを犯したものは重刑に処すので(安心してよい)

先生の解説

この高札は永正13年(1516)に小田原北条氏が房総半島の東側へ勢力を伸ばしてきた証拠となる高札です。私が考えていたよりも、だいぶ早く来ているので、これを見た時は驚きました。

高札の中に「當手」という文字がありますが、これを使うときは、まだこの地域が、自分の領地ではないときに使います。

この高札に「當手」が使われ、藻原寺(そうげんじ)の門前の高札に掲げられたと思われますので、藻原寺一帯の地域は北条早雲より(安全保証書)を獲得し、住民あるいは北条方の軍勢にわかるよう高札に貼り出したものです。

この高札(安全保証書)はどのようにして手に入れたのか

この時代の寺は寺域の住民を守る役割があったので、域内が戦禍に巻き込まれないよう、(安全保証書)を買うためのお金を準備していました。住民(百姓)の負担はたいへんなものだったでしょうね。

小田原北条の軍勢がこちらに向かっているとの情報が入ると、到着する前の段階で、お寺の代表が交渉に当たり、見返りのお金を支払って高札に掲げる(安全保証書)を書いてもらったわけです。

(安全保証書)の贋物もありました、買うためのお金が無かったためでしょう。

住民はこの高札を読めたのか

読めたと思います。重要な事は高札に張り出されたので、読めなければ生きては行けませんから。

*授業を終えて玉依姫の思ったこと

・昔も今も(地獄の沙汰も金次第)
お城の側には必ずといっていいほどお寺があります。立派なお寺が多いように思いますが、
単に信仰だけでなく、住民の安全を守るため上記のような役割があったなら、情報の収集や
相手側との交渉、見返り金の準備など多くの苦労があったことも推察でき、またその地域の顔であったお寺が立派なのも理解できます。

攻め込む方も血を流さず、見返りを貰ったほうがよい場合もあり(安全保証書)は戦国の合理的手段の一つであったのでしょうか。

次回へ続く

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●上総国の中世(NO2)城から見た夷隅の戦国時代

「美濃土岐氏と上総万喜土岐氏」


土岐氏の家紋桔梗
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○上総国夷隅郡の万喜土岐氏は美濃守護大名土岐氏の一族であるが、いつ頃、どのような経路で夷隅地方に進出したのかはっきりしない。

そこで、「HP、土岐氏調査・研究ノート」と「いすみ市荻原の行元寺住職・市原允氏の著書・みゆき野物語」を参考に、美濃土岐氏と上総万喜土岐氏の関係を推測してみました。

行元寺山門
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(いすみ市荻原の行元寺は万喜城から近く、斉藤道三により美濃国を追われた最後の土岐宗家「土岐頼芸」がこの地で隠遁生活を送っていた年月、度々訪れた由緒あるお寺です)

*美濃守護大名土岐氏とは

・平安時代清和源氏に始まる古い家柄・家紋は桔梗

・桔梗一揆と呼ばれる「軍団」を組織し活躍、強力な軍団であった。
(桔梗一揆は家紋の桔梗が由来)

・一族は文武に秀で和歌や絵画に名を残す

*足利幕府と深い関係

初代、足利幕府守護 土岐頼貞(1271〜1339)鎌倉にて多数の名僧と知己を得る
頼貞は母が北条氏であり、妻は平氏、幼少の頃より鎌倉に住んでいたのではないかと思われます。その後足利尊氏と共に鎌倉幕府を滅ぼし、「建武の新政」〜南北朝時代も常に足利方として奮戦した。その働きぶりは「土岐氏絶えなば、足利絶ゆる・御一家の次」と重んじられました。

また足利幕府ブレーン夢窓疎石(夢窓国師)と縁が深く、2代守護 頼遠が光厳上皇に無礼を働き幕府内で問題になった時幕府に仲介を頼むなど親しい関係で、夢窓疎石も美濃国に禅宗を広めました。

*夢窓疎石、後醍醐天皇に呼ばれ上京する以前は上総国千町荘(行元寺の近く)に住む


夢窓疎石の太高寺
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ここに庵を結び「退耕庵」と称し修行の傍ら農民を指導し、近くの沼地を水田に変える。
(夢窓疎石が足利幕府のブレーン、国師となる迄の事情は「みゆき野物語」に詳細が記してあります)

*3代土岐頼康、東海地方を手中に収める(室町時代初期)

(美濃守護・尾張守護・伊勢守護)東海地方3国の守護となり、土岐氏の全盛時代を築いた頼康は初代頼貞の孫である。
2代頼遠(叔父)は数々の合戦に活躍し(婆娑羅大名・バサラ)と呼ばれたが、しかし力を鼓舞した傲慢な振る舞いが光厳上皇に及び幕府内で大問題となり、夢窓疎石のとりなしの甲斐なく断罪となりました。
上皇に無礼を働き断罪となったが、土岐氏が守護職を解任されなかったのは頼遠・頼康共に数々の合戦を戦い抜き、東奔西走して足利幕府に尽力した事と室町幕府が土岐氏の戦力をまだまだ必要としていたためではないでしょうか。

3代土岐頼康の時代以後、室町幕府は強大な守護に対し勢力削減政策を取り始め、土岐氏も後継者争いに付け込まれ、一族が2派に別れ争い、次第に家運が傾いていきます。
東海地方を支配した頃の足利幕府との蜜な関係、初代より3代頃までに培った文化的交友関係が以後の土岐一族の拠り所となって行ったように思えます。

*鎌倉時代〜室町時代は日本文化の揺籃期

(文化的素養の重要性)
土岐氏は文武に秀でた家柄です。この時代武士は文化的な教養が重んじられ、これが社交の席でも重要視されていたようなので、一族の文武に秀でた特色が応仁の乱後の土岐氏一族に多少の影響を与えていたのではないでしょうか。
鎌倉時代〜室町時代は日本文化の揺藍期にあたり、絵画(水墨画・障壁画)、禅(宗教)、能、作庭、茶道など現在日本文化といわれるものは、ほとんどがこの時代に生まれたものです。

*文化の花咲く夷隅地方 狩野氏(足利幕府御用絵師)と二階堂氏

夢窓疎石を通じて土岐氏が上総国千町荘(行元寺・万喜城の近く)と繋がりがあったことがわかりますが、もうひとつ、夢窓疎石が滞在していた頃の夷隅地方は鎌倉幕府の重鎮二階堂氏・狩野氏の所領であり、両氏とも文化政策に力を入れ、冷泉為相なども滞在し、狩野派の始祖狩野正信は万喜城近くの大野城で生まれ、鎌倉で修行し、足利幕府の御用絵師となりました。

これがのちに400年に渡り日本画壇を支配する一大流派狩野派の始まりです。(二階堂氏と狩野氏は血縁関係であり、足利長尾氏とも絵画を通じて縁が深い)

*室町幕府御用絵師(幕府公認の職業絵師集団)

この御用絵師は職業であり、経済活動を伴っています。似たような組織は中世ヨーロッパのイタリア「ベロッキオの工房」で、教会や諸公より壁画や肖像画を受注し、師匠の指導で弟子達が腕を振るいます。ダビンチやミケランジェロなども最初はこのような工房で育ちました。

室町時代に生まれた日本の御用絵師集団「狩野派」は以後、流派を守るため他流派と激しい戦いを繰り広げていきます。様々な困難とライバル流派に打ち勝ち、「狩野派」を存続させる努力を常に怠らなかったようです。

前置きが長くなりました、話を上総万喜土岐氏にもどします。

「HP 土岐氏調査。研究ネートでは上総万喜土岐氏は常陸国江戸崎土岐氏の分流であると記しています。

美濃土岐氏は3代目以降次第に弱体化し、最後の宗家頼芸の時代に斉藤道三につけいられ、ついに美濃一国を乗っ取られました。宗家の頼芸は国外に追放されてしまいます。

頼芸が宗家になる以前に土岐氏の家運はすでに衰えていたので、家中の中には他国に出奔したり、戦国時代であることから諸国をめぐって武者修行をしていた者がいたのではないかと推測します。

*土岐弾正少弼頼房 里見氏に仕える(応仁の乱より100年ほど後1500年頃)

頼房がどのような経路で安房国里見氏に仕えたのか不明ですが、美濃を出て関東に下り、上総万喜に来たところで里見氏の知遇を得たのではないかと言われています。

弾正少弼とは律令制で、現在の警察(検察)のような任務を司るところで、少弼はトップの次の位で
(NO2)である。
しかしこの頃は幕府の弱体化により弾正台は形骸化していていたようです。

上総万喜土岐氏の初代頼房は里見氏が安房国内を平定、上総侵攻に着手した頃より里見氏の合戦の陣頭指揮をして里見氏の尖兵として活躍した。戦上手は「桔梗一揆」と呼ばれた土岐武士軍団より受け継いだものなのでしょうか。

また、上総万喜土岐氏系図(複数説あり)では頼元―頼房―頼定―為頼―頼春説があり、この系図によると頼房は2代目となり、夷隅地方に進出したのは先代(頼元)の頃となります。

*美濃国護大名土岐頼芸 斉藤道三により美濃国を追放される(1552年頃)

美濃国を出奔したあとは尾張・朝倉・武田に頼ったが、いずれも長く居られず、最終的に江戸崎土岐氏(弟の居城)から、真里谷武田氏を経て上総万喜土岐氏にお預けの身になった。

系図から為頼の前の頼定が「頼芸」ではないかという説もあるが、為頼―頼春は実在が確かであることに比し為頼以前は不明な部分が多く確かなことがわからないようです。

*土岐為頼里見氏と縁戚となり勢力を拡大する

里見氏に正室として娘を嫁がせ、跡継ぎの孫も生まれ、しばらくは良好な関係を保っていたが、近隣の長南氏、万里谷氏を里見氏と共に攻めた第1次、第2次国府台合戦を機に小田原北条氏方へつく。

*小田原北条氏関東の一大勢力となる

里見氏と敵対関係にあった小田原北条氏は(本能寺の変後)関東の一大勢力となり、所領地は240万石の大大名であった。北条方へついたことで、里見方の多い周辺地域で四面楚歌の状態となる。

しかし万喜土岐氏は里見方についた周辺勢力とよく戦い、孫の里見家当主義弘に常勝している。為頼は1583年頃死去し、子の頼春が父の跡を継ぐが、頼春も父に似て合戦上手で、在地勢力には負けなかったが、豊臣秀吉による小田原北条氏攻めで北条氏が滅亡すると、上総万喜土岐氏、里見氏も共に滅亡した。

*「桔梗一揆武士」が夷隅地方に残したもの

先にも記しましたが、美濃土岐氏は文武に秀でた家柄です。
一族は書画や和歌を良くするものが多く、万喜城に亡命した土岐頼芸は(華美を好み遊芸に秀れた)と伝えられ夷隅地方には文化をもって貢献し、楽市(楽町の地名となって残る)楽座(六斉市)などは頼芸が伝えたといわれます。また水墨画を良くし、鷹の絵を好んで描き、頼芸がしばしば立ち寄ったという「行元寺」にも彼の絵が伝えられています。

江戸時代になると夷隅地方には文化人が多く訪れ、特に俳句が盛んで、小林一茶もパトロンの半場家を訪ね句会を催しており、俳句は現代に続いています。

この文化的背景は上総万喜土岐氏の領地が10万石ともいわれる豊かな経済力に恵まれていた事が理由であると思います。

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