上総歴史散歩・玉前神社の謎

ただいま古代の上総国を探究中です

玉依姫の旅日記

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○古墳時代の甲冑より始まる「サムライの美学」


ヤマト王権の本質は「流通」ではないか、と前回書きましたが、古墳時代からはるかに時代が下った戦国時代の大名達も流通路と市場を獲得すべく戦をしました。

一般的には鎌倉武士の「一所懸命」や江戸時代の「石高経済」の印象が強いので、戦国武将達は国をめぐって争っていたと思いがちですが、実際には米の生産のみが豊かさを左右したのではなく、特産品の創造や交易による経済的利益を重視していたようです。安土桃山時代を例に上げると、この時代は、明国や南蛮との貿易で高度経済成長をした時代でした。この背景には石見銀山などでの金銀の大増産があり、銀の輸出で経済の歯車が大きく回りました。その結果、絢爛豪華な桃山文化の華が咲いたのです。まさに豊かな経済が文化の華を咲かせる代表的な例と言えるでしょう。

今回は「流通を制するものが天下を制す」との視点からその出発点である、古墳時代の甲冑と鎌倉時代の鎧より、武士道精神、「サムライの美学」の源を探ってみたいと思います。

○古墳時代の埴輪
・挂甲の武人(群馬県太田市出土)
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完全武装・攻撃を優先

日本の甲冑は古墳時代〜江戸時代の島原の乱が終わるまで、約1200年余り使われて来ました。外国の甲冑と異なるのは、楯を持たず、両手がフリーであることが特徴です。

防御より攻撃を優先させるこのスタイルは、いちずに、生か死かの二つの選択使しかなく、この「盾を持たない」特徴が長い戦いの歴史の中で、武士道精神をはぐくみ、武士の心の礎となったのではないでしょうか?それが武士道精神、「サムライの美学」として後々まで継承されましたが、明治維新を経てなお、20世紀に入っても「ゼロ戦の制作思想」に生き続けました。

「サムライの美学」を表現した「忠臣蔵」は現在も人気がありますが、最近の日米合作映画で外国人の見た「武士道」が映画化されました。
映画「ラストサムライ」の主人公、渡辺謙が演じる最後のサムライ勝元は、負けると判っている戦いに、自らの拠り所とする武士道精神で果敢に戦い、そして敗れます。
「忠臣蔵」も「ラストサムライ勝元」も「ゼロ戦の政策思想」も自分よりはるかに大きい権力、強い敵に対し、屈服せず、持てるあらゆる手段を尽くした後、武士道精神によるサムライとしての正義を貫きます。

・赤糸威鎧(平安後期・武蔵御嶽神社蔵・伝畠山重忠奉納)

・古墳時代の甲冑が鎌倉時代の鎧になる
古墳時代の「挂甲の武人」に代表される完全武装・攻撃を優先するスタイルの甲冑がのちに鎌倉時代の「鎧」に引き継がれました。一見形は違いますが、埴輪の兜の丸い鉄の鋲は赤糸威し鎧の兜(星兜)に継承され、つなぎ合わされた挂甲の鉄の小片は後に漆で固められた小札(こざね)へと姿を変えます。
華麗で優美な、世界に類を見ない日本独特の大鎧の特徴は、古墳時代の甲冑より始まっていたのです。

写真の赤糸威鎧は1千年の時を経ても赤糸が美しく当時の輝きを失っていません。日本人は色彩感覚がすぐれた民族で、赤色の呼び名も赤・紅・緋と複数ありますが、茜草の根で染めた、この赤糸威鎧からわかることは赤糸には戦に望む武士の美意識があり、けっして色褪せさせてはならないという誇りが伝わってきます。
「武士道」における「サムライの美学」は古墳時代あるいは弥生時代からの戦の歴史がはぐくんだ日本人の精神風土と言えると思いますが、その精神を支える華麗で優美な鎧が、漆や染色技術などの日本古来の伝統技術を向上、進化させる役割をはたした一面もあるのではないでしょうか?

(美意識を持っている者は持たない者より人生において成功する確率が高い)と、以前、新聞で読みましたが、武士のいない社会になった現在でも自分なりの美意識を持つことは必要と思います。

注:この記事は日本経済新聞・文化面「日本甲冑の美十選」の石田謙司氏の記事を参考にしました。(写真共)

○前方後円墳とヤマト王権 NO3中期のヤマト王権と東国

(平成22年度千葉県遺跡調査研究発表会・於千葉県立中央博物館・2月27日)
白井久美子氏の講演より

・たたら製鉄
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(写真・今昔:鉄と鋳物 塚原茂男著の2章アニメ「もののけ姫」に見るたたら製鉄の項より拝借しました)

*巨大な王陵を造り地方の首長墓には規制をかける

(大仙古墳・現仁徳天皇陵―世界最大級の王陵)
 やがて中期になると前方後円墳は列島各地で最大規模に達するが、中期前半と中葉以降ではその様相に違いが見られる。吉備・日向・常陸・上毛野・美濃・伊賀等の地域では中期前半に前期を越える大型化のピークがあるが、中期中葉以降は墳丘の上限が150m以下という強い規制がかかっている。この時王権中枢部では、世界最大級の王陵である大仙古墳(現仁徳天皇陵、墳丘長486m)を頂点に相前後して巨大な前方後円墳が築かれているのである。

*国威の高揚(倭の五王時代)

(地方勢力で別格の吉備)
 この時代の日本(倭国)と中国の関係は、「宋書倭国伝」等の中国の史書に倭の五王の朝貢記事として記載されている。中国の後ろ盾を得て朝鮮半島に鉄資源を求めて進出したヤマト王権は、経済・軍事の両面で主導的な立場を確保し、鉄製の武器・武具・利器・鉄素材の供給と共に最新の文物を掌握する立場を誇示することになる。しかし、倭の五王の一人の墓と推定される石津丘古墳(現履中天皇稜、墳丘長360mは、ほぼ同時期の岡山県造(つくり)山古墳(墳丘長360mと規模が拮抗している。つまり、吉備の大首長の墓は王陵と同規模に造られ、その築造には一地域首長の事業には納まらない広域圏の人的動員が必要であったと言うことである。 続く作山(つくりやま)古墳も墳丘長286mの規模を有し、王陵に匹敵する。この2基が河内の王陵の百舌鳥(もず)から古市(ふるいち)への移行期に位置づけられることを見ると、これらがヤマト王陵であったとしてもあながち無理な想定ではないと思われる。いずれにしても、中期前半の吉備は地方勢力にあって別格であり、王権を担う中枢部の一員であったと言えるであろう。

*東の別格上毛野

(倭王武・雄略大王が列島に君臨した時代)
 また、東国にあっては上毛野が前期の甲斐・常陸を上回り、東海道の拠点を掌握した地方勢力として発展する。古墳時代を通じて東国最大の前方後円墳は、中期前半の上毛野の首長墓(大田天神山古墳、墳丘長210mとして築かれる。上毛野は中期の東国を代表する勢力となり、西の吉備に対して東の別格として位置づけられる。

 中期中葉になると各地の前方後円墳の規模は縮小傾向に向かう。この画期が倭五王の一人、誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳の被葬者の時代であり、これを境に王陵に迫るような規模の地方首長墓は造られていない。倭王武・雄略大王が列島に君臨する王であったことは埼玉稲荷山古墳の鉄剣名からも読み取れる。中期中葉以降の王権中枢域は、東国をはじめとする列島各地に圧倒的な存在感を示しているのである。しかし、百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)・佐紀から交互に輩出される王陵の動向を見ると、王権が特定の一族に限られていたわけではなく、中枢域の複数の勢力が政権を担っていた状況がわかる。
各地の豪族の盛衰は、それらの中枢諸勢力との結びつきによるところが大きいと考えられ、常に中枢勢力の動向を窺っていたものと思われる。

*上総に東国最大の内裏塚古墳が築かれる

中期前半には常陸・下総に比べ大形古墳が存在しなかった上総に、中期中葉になると東国最大の内裏塚古墳が築かれ、後期後半にわたって首長墓級の古墳群を形成するのもこうした中枢との結びつきを反映したものであろう。内裏塚古墳には福泉洞22号分に出土例のある金銅製胡ろく金具をはじめ、半島起源の鉄製武器・利器が多量に副葬されており、当時進められていた王権による積極的な外交政策に関わった人物の墓であることがうかがえる。また、海岸線に望む立地や古墳群の構成は百舌鳥(もず)から古市(ふるいち)古墳群の縮小版さながらの景観である。

*各地に風土に適合した強力な地方勢力が存在し、ヤマト王権と一種の同盟関係を結んでいた

 このような政治・経済的な動向とは別に、前期ヤマト王権が拠り所とした祭祀に関わる遺物も欠くことのできない中期の要素である。前期の碧玉・緑色凝灰岩製の祭祀具に変わって、多量の滑石製祭祀具を用いることが古墳の副葬品に現れる中期の指標の一つともいえる。滑石製祭祀具は特に関東地方で盛大に展開し、上毛野と常総が2代分布域となる。このような中から、常陸南部〜下総北部を中心とする石枕祭祀が生まれている。西の経済的優位に対し、東の伝統的な祭司的世界を進化させたといえようか。このように、各地の風土に適合した統治形態や文化的特性が容認され、各地にも強力な地域勢力が存在し、ヤマト王権と一種の同盟関係を結んでいたのが中期前半までのヤマト王権統治の特徴と考えられる。

4 おわりに

 日本列島が一つの国としてまとまっていく過程を、前方後円墳や前方後方墳などの大形古墳によって解析できるのは、古墳時代研究の大きな魅力である。現在も地上に姿をとどめる構造物であるため、踏査によって得られる新知見も少なくない。古墳時代前期から中期について言えば、王権の周囲にあっては吉備は常に別格な存在であり、時として中枢を担う勢力であったことが前方後円墳の動向から読み取れる。同様に、東国では上毛野が王権の地方統治に重要な役割を果たした別格である。

次いで、東山道と東海道の岐路となる甲斐、街道東端の上陸地点である相模・房総、東北への玄関口である常陸が重視された。さらに、本稿の及ぶところではないが、中期には日向・大隅の九州勢が重要な地位を占めるようになる。このように、ヤマト王権と特別な関係を結んだ各地の勢力をつないでいくことによって、王権による列島規模の地方当時が進められたといえよう。

*前方後方墳・前方後円墳は一握りの特別な人々の墓

 一方、古墳総数に占める前方後円墳の割合を見ると、全国で最も前方後円墳の数が多い千葉県でさえ、約750基/13,000(横穴含む)基で5,8%に過ぎない。前方後方墳50基を加えてもその割合は6,2%にとどまる。まさに、一握りの特別な人々の墓であったといえる。また、情報手段が極めて限られていた時代にあって、これらの被葬者はヤマト王権の存在を直接・間接に知り得た数少ない人々であったともいえる。

*玉依姫の意見

ヤマト王権の本質とはなにかを考えると、それは「流通」なのではないでしょうか?

上総国には横穴墓が多数ありますが、隣町の睦沢町の横穴墓から出土した数点の土器はひと目で舶来品と判るものでした。しかし、その数点の土器の中に、懸命に舶来品をまねて作ったと見られる土器がありました。物作りにおける日本人の本質はすでにこの頃から存在していたことがわかり感慨深い思いがしましたが、それにしても、睦沢町に数多く存在する横穴墓の副葬品は舶来品が存在し、いったい古代のこの地域の人々とヤマト王権とはどのような関係だったのだろうかとあらためて考えてしまいました。

白井久美子氏の講演は私には興味深く面白いものでしたが、基調講演「ヤマト政権の成立と東国」の講演をされた白石太一郎先生は、最後のパネルディスカッションで、白井久美子氏を批判しました。理由は「ヤマトタケル伝説」を論説の根拠に使っていることが非常識であるということでした。現在の古代史・考古学では「ヤマトタケル伝説」は推論の材料にはしないことになっているのだそうです。

「ヤマトタケル伝説」は各地にありますが、木更津市にも有名な弟橘姫の伝説があり、上総国では、一の宮は玉依姫・二の宮は弟橘姫を祀っています。このことから古代上総国は女神を祀る国(女神の国)であったことがわかります。
もし、「ヤマトタケル伝説」が古代史の推論の材料にならないなら、日本の古代史はずいぶんと寂しいものになってしまうような気がしてなりません。伝説のみで、存在した証拠がない、見た者はいない、などの理由で無かった事にしてしまうのはとても残念なことです。
なぜなら、古くからの伝説はこれを伝え聞きながら暮らした日本人の精神に大きな影響を与えていると思うからです。
個人的には白井久美子氏の研究に声援を送り、次回の研究発表を楽しみにしたいと思います。

つづく

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○前方後円墳とヤマト王権 NO2前方後円墳の東漸・甲斐の重要性

(平成22年度千葉県遺跡調査研究発表会・於千葉県立中央博物館・2月27日)
白井久美子氏の講演よ
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古代の主要道路

・東海道と東山道の出会う甲斐の国に最古最大の前方後円墳出現

(のち常陸・毛野へ展開)

 常陸では前期前半の新段階に1−2期の埴輪と壷をもつ大形前方後円墳が相次いで築かれ最大規模は墳丘長155m(梵天山古墳)に達するが、その契機となったのは墳丘長138mの甲斐天神山古墳の出現と考えられる。東海道と東山道の結節点に東国で最古・最大の前方後円墳が出現したことは、その後の常陸・毛野の前方後円墳の展開を促し東海道東部の海上ルートに位置する相模・総(ふさ)には前期前半の埴輪をもつ古墳が展開しなかったことにも影響している。

この東国最古の大型前方後円墳と畿内の王陵郡を結ぶ古墳は、大和古墳群に築かれた東殿塚古墳である。東殿塚古墳の墳丘は下段が前方後方形、上段が前方後円形で、墳丘長は175mにおよぶ。東殿塚古墳の墳裾特別区から出土した土器郡に見られる壷は、同時期の王陵郡の底部穿孔壷が3段構成主体であるのに対し東国系の2段構成壷であるため、甲斐天神山古墳の壷と直接対比することが出来る。
甲斐天神山古墳の壷は、東殿塚古墳の壷よりやや古層を示し、その前段階に位置づけが可能である。

・(前期後半)甲斐の優位性はピークに達する

(ヤマトの大王墓との類似性より大王家と特殊な関係)
前期後半には甲斐の優位性はピークに達し、前期の東国で最大規模(墳長172m)を有する甲斐銚子塚古墳の出現を見る。銚子塚古墳はその規模が傑出しているだけではなく、丘麓に立地し、周濠をめぐらし、墳丘は3段築成で、濃尾平野以東では極めて希な木製樹物をもつなど、東国の大首長墳墓の中にあって特異な存在である。

こうした様相は、「むしろ奈良盆地の大王陵などの前期の主要古墳との間に多くの類に点を見出しうる」ことから在地勢力の優勢さだけでは説明できないヤマトの大王家と特殊な関係を有する首長墓とする見解が示されている。また、隣接する大丸山古墳も3段築成で、山城の妙見山古墳に類似した特異な埋葬施設を持ち、豊富な副葬品を出土していることも注目される。

・甲斐国造の祖・景行天皇皇孫のサホヒコ王

『古事記』開化天皇の段には、甲斐国造の祖に景行天皇皇孫の沙本毘古王(狭穂彦王・サホヒコ)を挙げる記述があり、こうした伝承が事実の一端を伝えているとすれば、銚子塚古墳・大丸山古墳の被葬者がその系統に関係する可能性があり、地方の大首長墓にしては例外的な規模と内容を持つ特殊な例であることが符合する。また、『日本書紀』景行天皇四十年の段には、日本武尊(ヤマトタケルのみこと)が東夷を平定した帰りに甲斐の「酒折宮・さかおりのみや」に立ち寄って宴会を催し、武者達と歌を詠み交わした記事がある。

尊が「新治筑波を過ぎて、幾夜か寝つる。」と問うたのに対し、武者たちは応えられなかったが、この時火を燭していた者が尊の詩に続き「かがなべて夜には九夜、日には十日を。」と詠った。そこで、火燭人・ひともしびとの聡明さを誉めて厚く褒美を与えたという。

『古事記』では火燭人を火焼(ひたき・身分の低い焚き火番)の老人としており、褒美に東の国造にしたことが語られている。これらの伝承によって、甲斐の酒折宮がヤマトタケル東征の前進基地のような場所であったことは想像に難くない。常陸からヤマトに帰還する経路として、甲斐を経由する山越えの道を選んでいることからもその地が大王家と特別な関連をもっていたことが考えられる。

甲斐銚子塚古墳とほぼ同時期に、北限の前方後円墳・名取雷神山古墳が同規模で築かれているのも銚子塚古墳の存在無しにはありえなかった展開であろう。甲斐の大首長は、前期ヤマト王権の東国進出を支えた重要な実力者であったと言えよう。

・上総国、東京湾側に展開する前期大形古墳の解明が新たな展開を生む可能性

(現状は未解明)
 一方、この頃の房総の首長墓を見ると、小櫃川流域に墳丘長100m級の前方後円墳が3基(君津市浅間神社古墳105m・飯籠塚古墳109 m・白山神社古墳90 m)存在し、測量調査によって前方部が低い前期古墳の特徴を備えていることを確認しているが、その内容は未解明なのが現状である。また、養老川流域にも前期の大形前方後円墳(釈迦山古墳93 m・今富塚山古墳110 m・姉崎天神山古墳130 m)が存在する。釈迦山古墳・今富塚山古墳で部分的な調査が行われ、出土した土器によっていずれも前期の後半に位置づけられた。このうち釈迦山古墳の壷が東京湾を挟んだ三浦半島の逗子市長柄桜山2号墳(94 m)の壷と共通し、ほぼ同時期の古墳であることがわかった。

・相模より上総に向かう東京湾の両岸に展開する関東地方で群を抜く古墳や集落
前掲の記紀に見えるヤマトタケルの東征記事の前段には、同行した后の弟橘姫が相模から上総に向かう海上で暴風雨を沈めるため入水した劇的な物語が詳しく記されており、まさにこの渡海伝承の両岸に大形前方後円墳が存在するといえる。これらの地域では前期前半に推定できる大形古墳は調査されていないが、その前後の古墳や集落の展開は関東地方でも郡を抜いており、特に西岸に顕著である。東海道をめぐる前期ヤマト王権の動向は、小櫃川流域や養老川流域の大形古墳の解明によって新たな展開を生む可能性をはらんでいる。

(3 中期のヤマト王権と東国)へつづく

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外房線の駅名と製鉄遺跡

○玉依姫の意見

私は「千葉県はヤマト王権の東国における拠点だった」と考えていますが、上総国東京湾側に展開する前期大形古墳がいまだ満足な調査が行われていないことをとても残念に思っています。
以前(料理の神様 イワカムツカリノミコト)で景行天皇と浮島(景行天皇の宮があったと伝わる)の話をしましたが、他にも応神天皇の存在を感じさせる、誉田(ほんだ・ほむた)の地名、応神天皇の片腕、ムシャノアオより付けられたのではないか(武射・東金市、山武郡)と考える地名があり、これらの地名は上総と下総の境界あたり、JR外房線の駅にそって展開します。

そして、神話に出てくる天の「八街・やちまた」もこの近くに「八街市」があります。
玉依姫にとってはとても想像力をかきたてられる地域であり、また、これらの地域は「東金」の地名「東の金」に代表されるように金属精練に関係する地域であったのではないかと考えています。

つづく

○東国から見たヤマト王権

(平成22年度千葉県遺跡調査研究発表会・於千葉県立中央博物館・2月27日)
白井久美子氏の講演より
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前方後方墳の形

少し前の話になりますが、2月末日、千葉県立中央博物館で白石太一郎氏の基調講演
「大和政権の成立と東国」と題する講演が行われました。
それに伴い若い2名の研究員の方がそれぞれ、研究報告講演をしましたが、白石先生の講演は
前々回に紹介したので、今回は特に興味深く印象に残った白井久美子氏の講演を数回に分けて
紹介したいと思います。

(以下は当日配られた千葉県遺跡調査研究発表会・要旨より抜粋)

○東国から見たヤマト王権(前期から中期の大形古墳を中心に) 白井久美子


はじめに
 前方後円墳は日本独特の王陵の形態であり、ヤマト王権の象徴でもある。それが列島各地の首長墓に採用されていく過程は、王権の勢力拡大の軌跡を最も端的に表しているといえよう。

・一元的ではなく複合的な古墳時代の体制

一方近年の発掘調査によって列島の多様性が次第に明らかになるにつれ、古墳時代の体制が必ずしも一元的ではなく、各地域の統治組織や文化的特徴が維持された複合的な構造であることもわかってきた。
それでもなお、前方後円墳の分布と規模は、古墳時代の政治体制を知る最も有効な資料であることに変わりはなく、列島規模の政治状況を反映した指標といえるであろう。
 ここでは、前期・中期の王権中枢部と常総を中心とする東国の大形古墳の動向によって、ヤマト王権の確立期から発展期の地方統治の様相を探ってみたい。

1 前方後円墳とヤマト王権

・東国の前半期大形古墳はほとんど前方後方墳
(副葬品の内容は前方後円墳と比べ遜色はない)


 古墳時代前期の東国では、主要な大形古墳に前方後円墳ではなく前方後方墳が採用されている例が多いと確認されたのは、図らずも全国規模の前方後円墳集成作業の過程であった。その後各地で測量調査や発掘調査が行われた結果、東国の前期大形古墳の内、前半期の例はほとんど前方後方墳であることが分かった。
 前方後円墳は全国で約4,800基が確認されているが、前方後方墳は約520基で、およそ9倍の差がある。墳丘規模を比較すると、全国の上位46位までを前方後円墳が占めようやく47位に奈良県天理市西山古墳(墳丘長180m)が入るほか、100位までに入る例は3基にすぎない、巨大古墳が集中する近畿地方の例が少ないことも加えて、前方後方墳は前方後円墳より下位の墳丘形式、あるいは傍流の古墳と考えられてきた。しかし近年の調査によって、同じ規模の例では副葬品の内容に遜色がなく、むしろ前方後円墳を上回る例が報告され、必ずしも前方後円墳の被葬者より下位のものが葬られる墳丘形式ではないことが明らかになってきた。

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東北地方最大の前方後方墳(大安場古墳)

・東日本(前方後方墳)・西日本(前方後円墳)の対照的な現象

 前方後方墳の分布の中心は圧倒的に東日本にあり、地域を代表する首長墓の墳丘形式として用いられている。上記のように、特に前期前半では東日本を代表する大形古墳はことごとく前方後方墳で占められ、前方後円墳を擁する西日本とは極めて対照的な現象が展開していたと言える。

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・王権の中枢域、大和にある「前方後方墳」

さらに、この頃王権の中枢部では、大和古墳群のうち大和神社周辺の萱生(かよう)支郡に限って大形前方後方墳が複数(墳丘長145mの波多子塚古墳をはじめ、120mの下池山古墳・110mのフサギ塚古墳など墳丘長100mを超える例が3基含まれる)築かれており、東日本の前方後方墳との関連が注目される。このように、前方後円墳をめぐる様相は、単に墳形の問題にとどまらず、古墳時代前期の日本列島の情勢を説く重要な手がかりをはらんでいると考えられる。
 大和では新山(しんやま)古墳137mを最後に大形前方後方墳の築造は終息を迎え、山城の京都府長岡京市南原古墳(60 m)が王権の中枢域で最後の大形前方後方墳となる。確実な調査例がない東国でも、おそらくこの段階までに大形前方後方墳の築造は終わると考えられ、大形前方後方墳は前期に出現し、衰退するという限られた期間の消長を示している。また、最大規模は180 mを超えることなく、副葬品もその規模に応じた内容にとどまっているが、前期を通じて王権の中枢域と周辺部の拠点に一定の規模を保って築かれていることは、その被葬者が前期の王権にとって重要な存在であったことを示唆し、東国の有力豪族層との強い結びつきを示すものと考える。

・前期ヤマト王権の重要課題であった東国進出

(同時期、東山道・南東北に多い前方後方墳、常陸・甲斐に多い前方後円墳)
前方後方墳は東国に伝統的な方形の主丘部を持つ墳丘形式であり、前期ヤマト王権の重要課題であった東国への進出の象徴として一時代を画した首長墓の形式であったと言えよう。また、前期前半の大形前方後方墳は、東山道沿いに集中し次いで王権の最前線に位置した南東北に多い。同じ頃、前方後円墳が出現する常陸・甲斐と際立った対象を示すことにも注目される。     次回へ続く
注 白井久美子氏(財団法人・千葉県教育振興財団)
・弥生時代後期ヒスイ製品の分布図

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*玉依姫の意見

東日本(前方後方墳)、西日本(前方後円墳)の時代は弥生時代の終わり〜古墳時代始め
2世紀〜3世紀の頃で、中国大陸では(魏・蜀・呉)の王朝が覇を競っていた時代にあたります。この時代は大陸同様、日本列島でも、東西それぞれの勢力の攻防が激しい時代であったようです。

それでは、前方後方墳を象徴とする勢力はどのような人達だったのでしょうか?
玉依姫は「出雲を中心とした勢力」ではないかと考えます。出雲はなんといっても出雲大社と「神々の国」というイメージが先行しますが、一方で「青銅の国」・「良質の鉄を産する製鉄の国」でもあります。荒神谷遺跡などから大量の青銅製の武器が出土していることから推測すると鉄製の武器も生産していたのではないでしょうか?またスサノウ、オオクニヌシに代表される、出雲の臣一族は「航海の民・海の民」でもあったようです。

また、弥生時代後期のヒスイの分布地を見ると前方後方墳の多い地域に重なるように思います。
「出雲国風土記」では、神様は399柱を数えるが、その中で大神として祀られる神の順番は「熊野大神」が最初で、オオクニヌシ神が次であることから、出雲の臣一族が最初に祀った神は「熊野大神」であるそうです。

参考(CD古代出雲の世界、風土記と神話の神々・講師 瀧音能之)

さてこの「熊野大神」ですが、熊野神社は上総国にも数社あります。前々回で一宮川上流域にある熊野神社を古代の製鉄に関連付け紹介しました。しかしなんと言っても有名なのは、熊野本宮や熊野速玉大社のある紀州ですね。玉依姫はこの「熊野大神」・熊野神社の解明が古代の謎を解く一つのキーワードではないかと感じています。

つづく

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○邪馬台国シンポジウム
狗奴国から邪馬台国を考える No3

東と西で異なる墳丘のかたち

東日本(狗奴国)→前方後方墳
西日本(邪馬台国)→前方後円墳

・前方後方墳のかたち
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多くの方々は古墳といえば「前方後円墳」を思い浮かべるのではないでしょうか?
しかし、前方後円墳が古墳の定番となる前、初期の段階では「前方後方墳」というスタイルの古墳が造られ、この古墳が東日本の前期古墳に多く存在することを知っている方は案外少ないのではないかと思います。

今回は2月23日に千葉県立中央博物館で開催された「千葉県遺跡調査研究発表会・ヤマト政権の成立と東国」と題して行われた白石太一郎氏の講演より、古墳時代前半期は西日本の「前方後円墳」の世界に対し、東日本は「前方後方墳」の世界であったとの話から、あまり知られていない前方後方墳を紹介します。

・東北地方最大の前方後方墳・大安場古墳
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*造られた時期

弥生時代後期末〜古墳時代前期前半(3世紀中頃〜4世紀前半)
東日本の前期古墳に多く存在する

*分布地域(日本列島には約500基の前方後方墳が存在する)
以下は概略ですので、詳しく知りたい方は(前方後方墳・ウィキペディア)をご覧ください。

・東北地方
宮城県・山形県・福島県にあるが、中でも福島県には国の史跡2基があり、大安場古墳は墳丘の長さが83メートルで東北地方最大である。

・関東地方
茨城県・栃木県・群馬県・埼玉県・千葉県に数基ずつある。
栃木県の上待塚古墳は墳丘の長さが114メートル、群馬県の前橋八幡山古墳は130メートルで100メートルを越えるが、栃木県には「日本で一番美しい古墳」と言われている、下待塚古墳がある。

・東海地方
3世紀初め、弥生時代の終わり頃 濃尾平野(愛知県)で造られた前方後方墳丘墓が→前方後方墳への成立に重要な役割を果たしたと考えられ、この形が西は京都府から東は千葉県まで広がった。前方後方墳は伊勢湾沿岸で誕生し各地にもたらされたと考える。
(狗奴国東海地方説・赤塚次郎氏・ 邪馬台国シンポジウムより)

埴輪は前方後方墳にはほとんどない(外表施設の葺き石は前方後円墳・前方後方墳、共に葺かれている)

・中国地方
中国地方の古墳800基の内、前方後方墳は82基で一割を占める。
島根県松江周辺に多く鳥取県・兵庫県・広島県・岡山県にあるが、山口県にはほとんど
認められない。

注・出雲地方の前方後方墳は古墳時代を通じて造られていた。
 (斐伊川中流域の松本1・2号墳が最古のものとみられている)

・四国地方―徳島県2.愛媛、香川県1

・九州地方―長崎県(含対馬)4、福岡県5

・大規模前方後方墳は大和に集中している
天理市に100メートル〜180メートルの大型前方後方墳が集中している。

○ヤマト政権の成立と東国

白石太一郎氏講演の概略
古事記や日本書紀によると広大な東日本の地域(東国)が畿内中央部のヤマト政権に組み込まれることになったのは、ヤマトタケルを初めとする数多くのヤマトの将軍達の度重なる東国遠征の結果であると言う古くからの「常識」が正しいのかどうかは、近年東日本における古墳の成立過程に関する研究が再検討を迫っている。

3世紀前半の邪馬台国時代には東日本にも東海地方から、中部、関東に渡る地域になにがしかの首長連合が成立していたと考えられ、3世紀中頃、西日本の首長連合である邪馬台国連合と東日本の首長連合が合体することにより初めて初期ヤマト政権が成立したものと理解している。

・前方後円墳の世界と前方後方墳の世界
最近の東日本における前期古墳研究の進展の結果、東海から関東、さらに中部高地や北陸地域における古墳時代前記前半の顕著な古墳はほとんど前方後方墳であることが明確になってきた。
一方この時期の西日本では前方後方墳も造られなくはないが、大規模な古墳はほとんど
前方後円墳である。したがって3世紀中頃から4世紀前半頃の日本列島中央部のうち、西の地域が前方後円墳の世界であったのに対し、東の地域は前方後方墳の世界であったといってよかろう。

この明確な東西の違いは弥生時代終末期、3世紀前半にまで遡る。
この時期西日本では、「やまと」の地にまきむく石塚墳丘墓やホケノ山墳丘墓など後の定型化した前方後円墳の祖形が造宮される。
これに対し、近江以東の地域では大規模な前方後方墳が盛んに営まれる。

・広域の政治連合形成のきっかけ
それまで鉄をはじめとする先進文物の入手ルートの支配権を握っていた玄界灘沿岸地域に対して、それ以東の瀬戸内海沿岸〜畿内地域の首長達が鉄などの安定的入手を確保するために連合して北部九州を制圧した結果成立したものと考えている。
こうした鉄などの先進文物の安定的な確保は東日本の首長たちにとっても切実な問題であったわけで、東日本にもおそらく濃尾平野の政治勢力を中心に先進文物の共同入手機構としての首長連合が形成されていたのであろう。
私はこの東国の政治連合の中心となった勢力こそ、「魏志倭人伝」にみられる「狗奴国」に他ならないと考えている。

しかしその連合は決して面的な領域ではなく、この時期上総の勢力のなかにも「やまと」の勢力と関係を持つ首長がいたことは「神門3・4・5墳 市原市(上総国府)」にある前方後円墳の存在からも疑いなかろう。

*玉依姫の意見

「神門3・4・5墳 市原市(上総国府)」3基の古墳は オオヤマトまきむく石塚古墳・
尾張西上免古墳 と肩を並べる出現期古墳である。
なぜ上総に3基、創世記の前方後円墳があるのか、そして「玉前神社」との関連は?
これこそが私のブログ「玉前神社の謎」のテーマなのですが、今回の白石先生の講演からは残念ながら手がかりは得られませんでした。
しかし他の講演者より興味深い研究発表がありましたので、次回に紹介したいと思います。

参考文献
前方後方墳(ウィキペディア)
千葉県遺跡調査研究発表会 要旨(平成22年度)
今回の写真はウィキペディアより拝借しました。

つづく

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