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○邪馬台国シンポジウム
狗奴国から邪馬台国を考える No3
東と西で異なる墳丘のかたち
東日本(狗奴国)→前方後方墳
西日本(邪馬台国)→前方後円墳
多くの方々は古墳といえば「前方後円墳」を思い浮かべるのではないでしょうか?
しかし、前方後円墳が古墳の定番となる前、初期の段階では「前方後方墳」というスタイルの古墳が造られ、この古墳が東日本の前期古墳に多く存在することを知っている方は案外少ないのではないかと思います。
今回は2月23日に千葉県立中央博物館で開催された「千葉県遺跡調査研究発表会・ヤマト政権の成立と東国」と題して行われた白石太一郎氏の講演より、古墳時代前半期は西日本の「前方後円墳」の世界に対し、東日本は「前方後方墳」の世界であったとの話から、あまり知られていない前方後方墳を紹介します。
*造られた時期
弥生時代後期末〜古墳時代前期前半(3世紀中頃〜4世紀前半)
東日本の前期古墳に多く存在する
*分布地域(日本列島には約500基の前方後方墳が存在する)
以下は概略ですので、詳しく知りたい方は(前方後方墳・ウィキペディア)をご覧ください。
・東北地方
宮城県・山形県・福島県にあるが、中でも福島県には国の史跡2基があり、大安場古墳は墳丘の長さが83メートルで東北地方最大である。
・関東地方
茨城県・栃木県・群馬県・埼玉県・千葉県に数基ずつある。
栃木県の上待塚古墳は墳丘の長さが114メートル、群馬県の前橋八幡山古墳は130メートルで100メートルを越えるが、栃木県には「日本で一番美しい古墳」と言われている、下待塚古墳がある。
・東海地方
3世紀初め、弥生時代の終わり頃 濃尾平野(愛知県)で造られた前方後方墳丘墓が→前方後方墳への成立に重要な役割を果たしたと考えられ、この形が西は京都府から東は千葉県まで広がった。前方後方墳は伊勢湾沿岸で誕生し各地にもたらされたと考える。
(狗奴国東海地方説・赤塚次郎氏・ 邪馬台国シンポジウムより)
埴輪は前方後方墳にはほとんどない(外表施設の葺き石は前方後円墳・前方後方墳、共に葺かれている)
・中国地方
中国地方の古墳800基の内、前方後方墳は82基で一割を占める。
島根県松江周辺に多く鳥取県・兵庫県・広島県・岡山県にあるが、山口県にはほとんど
認められない。
注・出雲地方の前方後方墳は古墳時代を通じて造られていた。
(斐伊川中流域の松本1・2号墳が最古のものとみられている)
・四国地方―徳島県2.愛媛、香川県1
・九州地方―長崎県(含対馬)4、福岡県5
・大規模前方後方墳は大和に集中している
天理市に100メートル〜180メートルの大型前方後方墳が集中している。
○ヤマト政権の成立と東国
白石太一郎氏講演の概略
古事記や日本書紀によると広大な東日本の地域(東国)が畿内中央部のヤマト政権に組み込まれることになったのは、ヤマトタケルを初めとする数多くのヤマトの将軍達の度重なる東国遠征の結果であると言う古くからの「常識」が正しいのかどうかは、近年東日本における古墳の成立過程に関する研究が再検討を迫っている。
3世紀前半の邪馬台国時代には東日本にも東海地方から、中部、関東に渡る地域になにがしかの首長連合が成立していたと考えられ、3世紀中頃、西日本の首長連合である邪馬台国連合と東日本の首長連合が合体することにより初めて初期ヤマト政権が成立したものと理解している。
・前方後円墳の世界と前方後方墳の世界
最近の東日本における前期古墳研究の進展の結果、東海から関東、さらに中部高地や北陸地域における古墳時代前記前半の顕著な古墳はほとんど前方後方墳であることが明確になってきた。
一方この時期の西日本では前方後方墳も造られなくはないが、大規模な古墳はほとんど
前方後円墳である。したがって3世紀中頃から4世紀前半頃の日本列島中央部のうち、西の地域が前方後円墳の世界であったのに対し、東の地域は前方後方墳の世界であったといってよかろう。
この明確な東西の違いは弥生時代終末期、3世紀前半にまで遡る。
この時期西日本では、「やまと」の地にまきむく石塚墳丘墓やホケノ山墳丘墓など後の定型化した前方後円墳の祖形が造宮される。
これに対し、近江以東の地域では大規模な前方後方墳が盛んに営まれる。
・広域の政治連合形成のきっかけ
それまで鉄をはじめとする先進文物の入手ルートの支配権を握っていた玄界灘沿岸地域に対して、それ以東の瀬戸内海沿岸〜畿内地域の首長達が鉄などの安定的入手を確保するために連合して北部九州を制圧した結果成立したものと考えている。
こうした鉄などの先進文物の安定的な確保は東日本の首長たちにとっても切実な問題であったわけで、東日本にもおそらく濃尾平野の政治勢力を中心に先進文物の共同入手機構としての首長連合が形成されていたのであろう。
私はこの東国の政治連合の中心となった勢力こそ、「魏志倭人伝」にみられる「狗奴国」に他ならないと考えている。
しかしその連合は決して面的な領域ではなく、この時期上総の勢力のなかにも「やまと」の勢力と関係を持つ首長がいたことは「神門3・4・5墳 市原市(上総国府)」にある前方後円墳の存在からも疑いなかろう。
*玉依姫の意見
「神門3・4・5墳 市原市(上総国府)」3基の古墳は オオヤマトまきむく石塚古墳・
尾張西上免古墳 と肩を並べる出現期古墳である。
なぜ上総に3基、創世記の前方後円墳があるのか、そして「玉前神社」との関連は?
これこそが私のブログ「玉前神社の謎」のテーマなのですが、今回の白石先生の講演からは残念ながら手がかりは得られませんでした。
しかし他の講演者より興味深い研究発表がありましたので、次回に紹介したいと思います。
参考文献
前方後方墳(ウィキペディア)
千葉県遺跡調査研究発表会 要旨(平成22年度)
今回の写真はウィキペディアより拝借しました。
つづく
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