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大湯環状列石NO2
・写真は大湯環状列石から見た聖なる山
・見晴らしの良い場所と青い石へのこだわり
縄文人の居住地(及びストーンサークルの設置場所)は高台(山の頂上付近)で見晴らしの良い景勝地にあることが特徴です。
大湯環状列石の場所も遠くに姿の美しい山を望む高台の景勝地にあります。
大湯のストーンサークルに使われている石は「青緑色」の石にこだわって、遺跡から約6キロ離れた安久谷川から運ばれて来ました。高台にあるこの場所へ、サークルに使う石を遥か下にある川から運ぶにはかなりの労働力が必要であったと思います。
私たちを案内してくださったボランティアガイドさん(本業はファッション関係のカメラマンだそうです)は、私の考えですが、と前置きして縄文人の石の運搬方法を披露してくれました。
それは、(道に石の通る幅に粘土を敷き、水を打って石を滑らせて運んだのではないだろうか)というものでしたが、その真贋はともかくとして、私が思ったことは、縄文人は青い石を用いてストーンサークルを作るために重労働を行ったということでした。
大湯と同じくイギリスのストーンヘンジも最初に置かれた石は青い石(ブルーストーン)でしたが、この石は青い石にこだわって遠方より舟を使って運んできたことがわかっています。
東西のストーンサークルが青い石にこだわっているのも共通していますが、その他にも似通った所があります。
・写真はスウィンサイドストーンサークル(湖水地方)
出典ウィキペディア
・美しい山と一対のストーンサークル
(日本の縄文時代とブリテン島のケルト以前の時代の類似性)
イギリスの湖水地方にはBC3300年頃に遡るストーンサークルがあります。
スウィンサイドストーンサークルやキャッスルリグストーンサークルなどですが、イギリスのストーンサークルは背景に美しい山があり、ストーンサークルと一対のものであるそうです。
その一つである「スウィンサイドストーンサークル」の地は、古代においては石斧の産地でしたが、原材料採掘地の山(パイコ・スティクル)はストーンサークルの後方にあり原石の色はうすい緑色であるそうです。世界の西と東の両極にある地域が青や緑の石にこだわってストーンサークルを作っているのは興味深いものがあります。
冒頭の写真でわかるように大湯環状列石からも遠景に美しい山が見えます。野中堂ストーンサークルの中心の立石と遠景の二つの山は一つのラインで結ばれているように見えましたが、この二つの山(黒又山とその後方の矢筈山)は大湯環状列石を作った人々にとって聖なる山であったのかもしれません。
ナショナルジオグラフィックによると、イギリスのストーンサークルにおいて巨大な石組みを造った人々は科学的調査の結果、体格は華奢であり、虫歯が少ないことから糖分の摂取は少なく比較的健康で生活していたことがわかったということです。彼らが小柄であったことは日本の縄文人の体格と共通していますが、興味深いものがあるのではないでしょうか。
これらの共通点を考えると、4千年以上前に巨大な石のストーンサークルを造った古代のブリテン島の住人の血脈と日本の縄文人との関連を知りたいと思いますが、ストーンサークルを含む巨石文化の担い手はDNA解析によると、Y染色体ハプログループR1bが想定できるということです。
ハプログループR1bはヨーロッパ大西洋岸で高く、また、言語においてはトカラ語派の担い手と考えられています。ちなみに縄文人のY染色体ハプログループはDとされています。
・Y染色体ハプログループR1b
(オリエント発祥・巨石文化の担い手)
R1b(M343)は西ヨーロッパと南ヨーロッパに多く分布している系統ですが、バスク人やケルト系民族に多い系統であるそうです。
ハプログループR1bは 18500年前以降に西アジアで発祥しました。
縄文人の遺伝子であるハプログループD系統は一説によると、中東で発生したハプログループであり、この集団は20000年前頃に日本列島に入ってきたと言われます。
遺伝子の系統樹を見ると、D系統はR1b 系統より古い時代に誕生したハプログループです。私の考えですが、共に中東に起源を持つことから、彼らの文化が共通していたと考えると、日本列島の巨石文化とヨーロッパの巨石文化に共通点があることが理解できるのではないでしょうか。
ハプログループR1bは新石器時代にアナトリアからヨーロッパに移住して広がり、彼らはヨーロッパに農耕をもたらした巨石文化の担い手であったと考えられています。
狩猟採集文化を営んだ縄文人と異なる点は、ハプログループR1bは農耕によって栄えた集団であり、食料を自給できることから移住先に広まり繁栄したものと思われます。
彼らは「非欧印系集団」であると考えられていますが、彼らの姿は現在私達がイメージするヨーロッパの人々の身体的特徴とは異なり、縄文人と同じで小柄であったと思われます。
・黒海の大洪水がきっかけとなりヨーロッパへ移住
彼らは、もともとはオリエントに居住する農耕民であったと考えられていますが、西アジアからヨーロッパへの移住の引き金となった一つの原因は、黒海の大洪水(ノアの洪水の原型)でした。
大洪水で黒海平野が水没したため、新たな耕作地を求めてヨーロッパへ旅立ったと推測されています。
彼らのmtDNA(女性の遺伝子)はHおよびXと考えられていますが、現在ヨーロッパ人の41%がHに属しており、またXはヨーロッパ、中東、アメリカ先住民に多く、これはY染色体ハプログループR1bの流れと関連していることから、彼女らもまた農耕の拡散と共にオリエントからヨーロッパ〜アフリカ北部へ進出したと考えられています。
ツタンカーメンのDNAはハプログループR-M269であるそうですが、このタイプはヨーロッパに分布しており、現在のエジプト人にはほとんど見られないそうです。このことから、巨石記念物と同様に、ピラミッドの建設者としてハプログループR1bが想定出来るのではないかとの意見があります。
また、西ヨーロッパや南ヨーロッパは地形的に見るとアメリカ大陸に近く、中南米にもハプログループR1を持つ先住民がおり、アステカ文明にエジプトと同様のピラミッドが存在すること、マチュピチュにおいて驚くほど高精度な石材加工技術が存在するなどのことからコロンブスがアメリカ大陸を発見する遥か前の時代にハプログループR1bの集団が農耕と巨石文化を持って北米~中米〜南米に移住した可能性もあるといわれています。
日本では南米大陸と縄文人との関係が折に触れて取り上げられますが、大まかに考えると、これは2万年以上前から中東地域に居住し、共通の文化を持っていた人々が移動先で創り上げた文化であると考えられるのではないでしょうか。
東北地方には日時計の仕組みを持つ縄文遺跡が複数存在しますが、次回NO3ではヨーロッパの青銅器時代初期に作られた古代の天文盤「ネブラ・ディスク」と農耕文化を通して、日本の縄文時代とヨーロッパの初期の青銅器時代を比較してみようと思います。
*参考資料
・トンボの眼講座「縄文時代の心と社会―ヨーロッパの先ケルト文化と比較して」
講師・松木武彦先生(国立歴史民俗博物館教授)
・ウィキペディア
・ナショナルジオグラフィック
*トンボの眼は「文化遺産と共に生きる」をテーマとして、講演と旅により古代史を学ぶ
サイトです。(くわしくはトンボの眼で検索してください)
*出典表示の無い写真は著者が撮影したものです。
NO3へつづく
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縄文遺跡への旅
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●特別史跡大湯環状列石(2)
NO.1
・写真は「大湯環状列石の復元家屋」
筆者は東京近郊に住んでいますが、当日集合場所に行くことは時間的に無理があるため、盛岡に前泊しました。
東京駅から東北新幹線「ハヤブサ」に乗り盛岡駅で下車しましたが、久しぶりに乗る東北新幹線の車内は全席指定にもかかわらず、始終満席なのには感心しました。TVなどで東北大震災の復興があまり進んでいないニュースが時々放送されますが、それとは別に、東北新幹線の賑わいからビジネスマンや外国人観光客の東北地方への移動が活発であることがわかりました。
盛岡駅の改札口付近でパトロール中(?)のポリスマンにホテルの場所を尋ねたところ、親切に近くまで案内してくれました。途中の会話で、近年外国人観光客が盛岡にも多く訪れるようになったと聞きました。盛岡駅のポリスマンのスマートな対応は、震災以後国家的なプロジェクトである外国人観光客の誘致作戦で、東北地方に外国人が多く訪れていることによるものかもしれません。
宿泊したホテルのロビーにもバックパックを背負った観光客と思われる外国人の姿がチラホラありました。
・写真は鹿角花輪駅
・岩手銀河鉄道に乗り鹿角花輪駅へ
目的地の大湯環状列石は盛岡駅より「JGR岩手銀河鉄道花輪線」に乗り、鹿角花輪駅で下車。
盛岡駅からの所要時間は2時間ほどでしたが、この季節の花輪線は緑のトンネル内を列車が進むようで、車内から新緑を満喫しました。
鹿角花輪駅前より巡回バスに乗り、鹿角市内のバスストップをあちこち回った後、大湯環状列石(ストーンサークル館)前でバスを降りました。
・写真は「特別史跡大湯環状列石」の入り口(バス停前)
★特別史跡大湯環状列石(ストーンサークル館と列石見学)
私たちの祖先である縄文人は、自然と共存して狩猟・採集・漁労を生活の基盤としながら定住と協調的な社会を作り上げ、1万年以上の長期にわたる縄文文化を継続しました。
世界的にはその間に農業や牧畜が発展して金属器を使用する社会へと変化して行きますが、日本の縄文時代はそれとは異なっており、同時代の世界の文化と比較すると特異なものとして存在したと考えられています。
世界的にみると日本では金属器時代への移行は遅かったものの、縄文時代を担った彼らは世界で最も早い時期に土器を使用し、丸木舟を使った海洋交易をするなど、彼らの築いた縄文文化は世界の先史時代の中で特異なものとして注目されています。
下の写真は、大湯環状列石のストーンサークルですが、縄文時代の村は集落を円形に作り、区切りや仕切りの無いボーダレスであることに特長があります。現代と違って生と死のドラマが一体となっていました。
真ん中の広場が墓になっている遺跡がしばしばあり、大湯環状列石も真ん中に墓域(ストーンサークル)があります。
・写真はフィールド内の環状列石
*日本の縄文時代とイギリスの新石器・青銅器時代との類以性
・縄文時代後期「日時計」の仕組みを持つ遺跡
大湯環状列石は縄文時代後期(約4,000年前)頃に作られたストーンサークルですが日時計の仕組みを持っています。
海外の類似の遺跡に同じく日時計の仕組みを持つ有名なイギリスのストーンヘンジがあります。ヨーロッパでは農業の発達に伴い次第に青銅器時代に移行していきますが、日本列島と地理的に似たブリテン諸島周辺はヨーロッパの中でも農業が始まる時期が遅かったようです。
イギリスのストーンヘンジは大規模なものですが、長い時間をかけて現在の姿になりました。その最初の遺構は巨木を数本立てたものであり、儀礼用であったと考えられていますが、日本の縄文遺跡で目にする巨木の立柱遺構とよく似ているのではないでしょうか。
イギリスのストーンヘンジでは巨石が組み上げられて、現在の形に整えられた年代は大湯のストーンサークルと同じ頃でした。しかし、この頃には日時計の役割は終わっていたようです。
巨木から巨石による構築物への移行については、この地方が金属器時代に移行したために、巨石を運搬加工する技術が進んだことにより、構築物の材料を巨木から巨石へ変える試みがなされたのではないかと推測されています。またこれを造ることが出来たのは一族が高度な木材の加工技術を取得していたためであると考えられています。
筆者は、この巨大な石の構築物を造った人々はこの時代に最も一族が繁栄したために、一族と先祖を称える気運が高まったことにより、一族のモニュメントとして日時計の仕組みを持つ巨大な石の構築物を造ったのではないかと考えています。
・写真は大湯環状列石の「日時計」の仕組み
(パンフレットより)
日時計の仕組みは農耕と関係が深いと考えられていますが、古代の農業は夏至と冬至の日を農作業の重要な目安としていたので日時計は重要なものであったのでしょう。大湯環状列石は、写真のように「野中堂環状列石」と「万座環状列石」の二対のストーンサークルの真ん中を結ぶ線が夏至と冬至の線と重なります。
*参考資料
・トンボの眼講座「縄文時代の心と社会―ヨーロッパの先ケルト文化と比較して」
講師・松木武彦先生(国立歴史民俗博物館教授)
・ウィキペディア
・ナショナルジオグラフィック
・トンボの眼―「文化遺産と共に生きる」をテーマとして、講演と旅により古代史を学ぶ
サイトです。(くわしくはトンボの眼で検索してください) ・パンフレット以外の写真は筆者が撮影したものです。
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