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モラルハラスメント

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8章 評論家と勝者

 モラルハラスメント 〜第三者としてのわたしたち〜 

“評論家”と“勝者”のパターンを取るときには、加害者に批判的な立場にいることが多いようです。つまり、加害者側につかないために一見被害者側にいるように見えるのです。しかし実は、このようなときには被害者側にもいないように感じます。
 
このような立場のうち、以前加害者からの被害を受けたことがあるときには“勝者”の立場をとり、直接の被害体験はなく、あくまでも第三者として起きていることを評論する時“評論家”の立場をとるのではないでしょうか。
 
1.      評論家
1)   特徴
 
加害者の言動について、それが暴力であると認識はします。しかし、暴力を受けるのは受けやすい特性があるからだととらえています。自分にはこの暴力の全体像が分かっていても、加害者の問題点も被害者の問題点も理解していると思っているようです。
そして被害者に対して、問題点だと自分が思うところを指摘し「あなたのこういうところが相手の暴力を誘うんだ」「あなたにそういうところがあるから、暴力の構図の中に自らはいってしまうんじゃない?」などと伝えます。また、「あなたよりひどい被害を受けた人もいるよ」「相手を憎んでいても回復にはつながらないよ」「もう立ち直ってもいいんじゃない?」などと言ったりもします。そうして、自分の見方を唯一の真実であるかのように話し、被害者の方だけを変えようとしていくのです。
 
このようなことを言われた被害者は一層自分の力が失われていくように感じたり、加害者に相対しているときのような怖さを感じたりします。
 ジェンダーの影響を強く受けているときに評論家の立場をとると、次のような発言をすることもあります。
 
被害者が女性の場合は「女は社会性や常識がない」「女は視野が狭くて客観的にとらえられない」「女は能力がない」だから「被害を受けるんだ」「回復が遅いんだ」と言いがちです。
 
また、被害者が男性の場合は「男のくせに女みたい」だと言って、被害者が被害を受けたと言ったことさえ非難してしまいます。その男性に向けた言葉は、被害を受けた男性本人だけでなく「女性」全体に対しても侮蔑の言葉となるのではないでしょうか。
 
また、加害者、被害者ともに女性の場合「女同士って些細なことですぐごちゃごちゃ言うよね」という認識でいて、「だから女同士のグループはダメなんだ」「女同士はこうあるもんねぇ」などと言いがちです。
後で述べる“傍観者”でいるときにも、このような認識でいることがあります。
 
 
2)からくり
 
ほとんどの人が、できれば暴力の被害に遭いたくはないと思っているのだと思います。そうすると、暴力を見聞きしたとき「暴力に遭うのは、遭うなりの理由が被害者にあるからだ」と考えたくなることがあります。もしそうならば、そこに気をつけてさえいれば自分は安全だと思えるからです。
 
そしてその結果、暴力被害に遭うことについて次のように考えてしまいがちになるのではないでしょうか。「暴力は被害者の何かが引き寄せるものだ」「暴力の構図の中から抜け出せないのは、被害者に力がないからだ」「抜け出さないのは、無意識のうちにそれを望んでいるからだ」。そこには、「暴力は必ず自衛できるもの」という思い込みがあるように思います。
 
また、暴力の加害者が、すべての人と暴力加害―被害者の関係になるわけではないということも、思い込みを作る要因のひとつになってしまうのだと思います。
 
加害者のまわりにいても、被害者になる人とならない人がいます。また、被害を受けることを察して、加害者のもとを去る人もいます。そこで、被害に遭うにはそれなりの理由があるはずだと考えたくなってくるのです。
 
では「それなりの理由」をどう考えてしまうのでしょう。「被害者は、相手が加害者であることに気づかず、いつまでも加害者のまわりにいる。しかも加害者につけ込まれるようなスキがある、それが被害に遭う原因だ」と考えやすいのではないでしょうか。「そのうえ、加害者に対する反応が悪いために、加害者の暴力を誘発し続けるのだ」ともとらえてしまうように思います。
 
被害者のことを「そのような人」ととらえ、その原因を被害者本人の育成歴や性格などに求めてしまいがいがちなところもあります。「まだ過去の育成歴などから回復のできていない遅れている人」「弱い人」「脆弱性がある」「自分自身を分かっていない人」というような認識で被害者を見ていると、評論家の立場を取りやすいのではないでしょうか。また、「過去の被害からの回復ができていないせいで、現在の被害を実際よりもひどく感じていたり、回復も遅い」と見ていても、この立場をとりそうです。
 
心理学や精神医学の知識があると、この状態に入りやすいように思います。その知識を使い相手を分析し、批判することで、自分の有能感を感じられるような気分になるのかもしれません。
 
 
しかし、被害者を本人でない他の人の価値観や枠だけで分析し、被害者に自責の念を感じさせても、被害者のためにはならないように感じます。また、「相手が加害者だと気づかないこと」や「加害者がつけ込むスキがあること」は、暴力行為が起きる責任の一端を担うべきことなのでしょうか。
 
気づかなかったにしてもスキがあったにしても、そこにつけ込んだのは加害者です。暴力行為の責任は加害者にあります。被害者に加害者の分まで責任を背負わせてしまうことのないよう気をつけたいと思います。
 
 
 
 
2.      勝者
1)   特徴
 
被害者の体験を聞いたとき、それを加害者の暴力であると認識はします。しかし、過去に加害者の暴力が自分に向けられたとき、自分はそれに気づいたし負けなかった、むしろ勝ったのだという感覚でいるようです。そして被害者のことを、加害者に負けた人という感覚で見ているように思います。
 
そのため、上下関係や力関係を「私>加害者>被害者」という図式でとらえていて、自分の方が優位で被害者が劣位にいるかのような感覚でいるように思います。そして、被害者が「逃げなかったこと」や「いつまでも被害者という状態から抜け出せないでいること」について批判をします。
 
たとえば、次のようなことを言うのです。「どうして今まで気づかなかったの?」「あの人のおかしさなんて、すぐに分かるだろう?」「あの人はバカだって思っていればいいのに、いつまでも悩んでるの?」。つまり「私>加害者>被害者」になればいいのにと言ってるような感じなのです。
 
被害者は最初、似たような体験をした同じ立場の者として、その体験や気持ちを分かち合えるという期待をもって話し始めることが多いと思います。しかし、勝者と体験や気持ちを分かち合うことは難しいのです。それどころか「私はできたよ。でも、あなたはダメだ」とされ、一層力をなくしていくような気持ちになることが多いようです。
 
2)   からくり
 
評論家と同じように、勝者にも「暴力は被害者の何かが引き寄せるもの」「暴力の構図の中に、被害者が自ら入っていく」「暴力の構図の中から抜け出せないのは、被害者に力がないから」などの思い込みがあるように思います。また、「暴力は必ず自衛できる」と言う思い込みもあるのではないでしょうか。
 
まわりから見ると、勝者もかつて加害者から暴力を受けたことがあるかのように見えています。しかし勝者は「加害者は仕掛けてきたが自分ではね返した」「自分は加害者に勝った」「自分は被害者ではない」と感じています。このとき、勝者が使う「被害者」と言う言葉は、「被害を被った人」と言う意味ではなく「力のない人」と同じ意味になっているようです。
 
被害に遭うと、たとえ加害者に「勝った」と被害者が感じていたとしてもダメージは受けているのではないでしょうか。しかし、「勝ったのだから自分はダメージなど受けてない」ととらえていると、ダメージに気づく機会がないように思います。それは自分の傷の手当てをし、自分にとって必要なケアを受け取る機会をなくしてしまうことになるのではないかと思うのです。
 
加害者になんらかの形で対応していくのも、加害者に勝つためではなく、自分自身の尊厳を失わずにいるためだと思うのです。勝つか負けるかという二者択一の考え方は、加害者の考え方と同じように感じます。同じ土俵に上がり、ものごとを勝ち負けで考えなくてもいいのだと思います。
 
勝つか負けるかという意識は、加害者のことを語る時にも現れてきます。被害にあったとき、まわりと一緒に加害者のことを語ることは、回復の助けになるでしょう。ただ、何のために話すのかが違うと、話が回復を目指すというより、もっと別のものにつながってしまうように思うのです。
 
話しているときに勝者でいると、加害者に悪だというレッテルを貼る目的のために、起きたできごとや加害者のことを話しているように感じます。そして自分の勝ちを再確認しているように感じるのです。
 
加害者のことを「あの人はああで、こうで・・・」と話すとしても、できれば、自分に何が起きたか、その時どう感じ、どう受け止めたかという、自分にとっての意味や自分への影響なども考えながら話してほしいと思います。自分自身、被害に遭ったときの自分を理解するために話してほしいと願っています。
 
被害者は加害者から「あなたが悪い」と言われ続けてきました。そして罪悪感を持たされてきました。そうやって持たされた罪悪感は、回復のためにはできれば手放した方がいいとわたしたちは考えています。
 
しかしそのとき、今までの自分が置かれていた「悪者」の位置に、かわりに加害者をおく必要はないのではないでしょうか。誰かを悪者にするというその考え方は、被害者に辛い思いを味わせた加害者の考え方と同じなのですから。そのような考え方そのものを、私たちと一緒になくしていきませんか。
 
 
 
 
 
3. 善意の人・評論家・勝者の共通点
 
“善意の人”に“評論家”“勝者”を加えた3パターンには共通点があります。それは、被害者の話を聞きはするが、結局は被害者をすぐに変えようとするという点です。
 
被害者の見方のようにして近くまで来ていながら、被害者を批判や非難します。それでも本人は、被害者の見方であり、被害者のために助けているという認識でいることが多いようです。
 
“メッセンジャー”や“共犯者”のときのように、被害者が言ったことが加害者に伝わることはないかもしれません。
それでも被害者にとっては、相手に言ったことが、その人自身にも伝わっていないように感じられるのです。
 
 
第三者がすべきことは、被害者と加害者の間に起きたことを評論することではないのだと思います。自分がどれだけものごとが分かっているか、自分にどれだけ力があるかを披露することでもありません。また、被害者がどれだけいたらなかったかを分からせることでもないのではないでしょうか。
 
 
 
被害者にとってまず必要なことは、起きた暴力による心の傷の手当てをすることです。そのためにもまわりの人は、被害者の罪悪感をこれ以上刺激しないことが大切だと思います。
 
 
そして、加害者からのコントロールのかわりに、自分が被害者をコントロールしてしまうことのないように、意識をしておくことが必要なのではないでしょうか。
 
 
 
 
 
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6章 メッセンジャーと共犯者
 

 モラルハラスメント メッセンジャーと共犯者  後編

 
2.     メッセンジャー(続)
 
3)からくり
 
メッセンジャーになりやすいのは、そのような「女性役割」を担おうとする意識に加え「上下関係」の存在があります。
 
加害者だけでなく、その場にいるほとんどの人たちが、上下関係の中にいることを当たり前だと思っています。その他の形、つまり人として対等な人間関係をイメージしにくいのです。その中では、下に置かれた者は上の位置にいる者の意向のみで動くのだという感覚でいて、上の意向を下に下に伝えようとします。
 
家庭の中で、夫が加害者であり、妻がメッセンジャー、子どもが被害者という図式は多いのではないでしょうか。その三者の間には、最初から上下関係があります。そのうえ、上下関係を利用して夫は「どうにかしろ」と妻に迫ります。しかし子どもはあまりそのような迫り方はしません。そのため、強く迫ってくる夫の意向を通そうと妻が動くということが、繰り返されてしまうように思います。
 
メッセンジャーでいるときには、そのグループの中の自分の地位を、加害者に次ぐNO.2だと感じていることが多いようです。その位置にいることには、心地よさと怖さがあります。心地よさは、自分の有能感をを感じられること、加害者がときにはアメとも思えるようなごほうびをくれることなどでしょう。
 
加害者の近くにいて、暴力の直接のターゲットにされていないときには、加害者から「わたしが目をかけているのはあなただけなんだ」という罠を仕掛けられることも多いのです。
 
そのテクニックを使われると、自分だけ選んでもらった感覚になり、ある意味、自尊心をくすぐられます。そして、もっと気に入られるよう頑張ろうとしてしまうのです。
 
また、たとえメッセンジャー自身が被害を受けていても、メッセンジャーとしての役割を担っていない被害者に比べると、被害の質や量は違います。メッセンジャーに対しての加害者の攻撃は、モラルハラスメントの第一段階である支配のためにふるわれる暴力であり、第二段階である憎しみを持った攻撃は少ないようです。
 
しかし怖さもあります。それは、その位置は些細なことで脅かされてしまうこと、そのため、その位置に留まり続けるために強力にメッセージをしようとはまってしまうことなどではないでしょうか。
 
また、自分がNO.2でいると、その分の価値をもっと上げないといけないとかんじてしまうことがあります。そうなると、加害者に何かおかしいと感じるところがあっても、その部分は見ないようにしなければならないと感じてしまいます。
 
それは、その部分に焦点を当ててしまうと加害者の価値が下がり、それにともなって自分の価値が下がると思えるからです。そして加害者のいい所だと感じる部分にだけ焦点を当て、まわりの人にもそこだけを話し、自分を保とうとしてしまうのではないでしょうか。
 
 
 
 
4)悲しさ
 
モラルハラスメントが存在するグループの中にいると、加害者でいるか。被害者にさせられてしまうか、メッセンジャーをするかの3つの役割しかないように思います。
 
そのグループの中では、加害者によって、被害者だけではなくまわりの人たちも狭いところに追い込まれ、押し込められる感じがします。メッセンジャーをするという選択肢しかなく、もしメッセンジャーにならないなら、被害者にされてしまうか、その場を去るしかないのです。
 
また、別の種類のかなしさもあります。それは、メッセンジャーとしてではなく、自分の思いを被害者に伝えている場合でも、加害者がそれとなく伝えている話題と同じ話をすると、メッセンジャーであると受け取られてしまうことです。そして、加害者からの間接攻撃なのだと取られたり、加害者のスパイなのだと取られたりしがちなのです。
 
モラルハラスメントが問題なのは、加害者が被害者に対して問題提起をすることではなく、むしろはっきりと言葉では問題提起しないこと、まわりの人をメッセンジャーにしてそれとなく被害者が悪いという雰囲気を伝えること、被害者やそのグループ全体が問題解決に向けて動けないことなのだと思います。そういう意味では、問題を表に出し話し合おうとする働きかけは、モラルハラスメントとは別ものだと思うのです。
 
しかし一度被害者にされてしまうと「問題提起される=攻撃されている」としか受け取れなくなるのも事実です。被害者は、誰も信じられず疑心暗鬼になっているため、違う可能性を考えるような余裕はありません。加害者とつながりのある人すべてに「スパイかもしれない」と感じているのです。
 
また、本人はスパイのつもりではなくても、加害者が巧みにさまざまなことを聞き出し、スパイとして使っていることも多いため、本人が自分のことをメッセンジャーではないと思っていても、被害者や加害者にとってはメッセンジャーでいる場合もあります。
 
それがモラルハラスメントという場の理不尽さのひとつなのかもしれません。
加害者以外の人同士は、つながれなくなってしまうのです。
 
 
 
  
3. 共犯者
 
1) 特徴
 
 
“メッセンジャー”以外にも加害者側にいるように見えるパターンがあります。それが“共犯者”のパターンです。その中でも次のパターンが考えられます。
 
      教師的
 
被害者に対して「あなたのあり方は間違っている」と伝える場合です。このようなときには、被害者のことを「問題なところがある人」「ものごとを分かっていない人」ととらえています。間違ったあり方は正さなければならないと感じていて、正しいことを知っている自分が教えてあげなければならないと感じています。
 
 
      身内的
 
加害者をひたすら擁護する場合です。
加害者を「いい人」だと信じていて、起きた事実自体も信じないことも多いようです。もし、加害者が怒るのどの何かをしたとしたら、よほどの理由があったはずだと解釈します。被害者が加害者のことをひどい人だと話すと、まるで自分がけなされたかのような勢いで反論します。
 
      批判屋
 
自分も、被害者の言動には以前から迷惑をかけられ困っているのだと、被害者本人に伝える場合です。
それまでは何も言わなかったのに、加害者の攻撃に便乗して被害者を批判します。「今までは我慢してやっていたが、こうなったら言わせてもらう」という感じです。
 
これら共犯者のパターンを取るときに、被害者に対して「あなたの気持ちはわからないこともないけど」などと前置きをすることもあります。
 
しかしそれは、真に被害者に共感しているわけではありません。その言葉のあとには「相手の言うことを、もう一度じっくり考えてみたら?」「まだあなたは、あの人が言ってることの本当の意味が分かってないんじゃないかな?」などと続けます。
 
一度前置きとして被害者の立場にも同情を示しますが、実は被害者が変わるべきだという意図を持って関わっており、結果的に被害者を責めていくのです。
 
被害者には能力や努力が足りないところがあると感じていて、その部分を被害者に指摘し、あり方を変えさせようとします。被害者は共犯者と話すまでにも、すでに加害者からの要求にこたえるようにさまざまな努力をし、がんばってきています。しかし共犯者は、そのような被害者の努力をないもの、または取るに足りないものだと判断してしまうのです。
 
また、加害者のことを「すばらしい人」だととらえていて、その部分も被害者に分からせようとします。さらに、加害者が主張しているつらさまでも分からせようとするのです。
 
被害者にとっては、何を言っても通じないという感じがあります。共犯者からは「とにかくかなたが変わるべきだ」ということだけが伝わってきます。加害者と同じことを別の人からも言われることになるため、加害者の価値観がまるで大多数の意見であり正しいことかのように感じさせられてしまうこともあります。
 
共犯者の立場を取るときには、被害者のこともよく知っていることが多いようです。また、加害者の暴力的な部分を見聞きしていることもあります。そのため被害者に「もしかしたら、この人には分かってもらえるかもしれない」という期待を抱かせてしまっていることもあります。しかし共犯者でいるときには、実際に暴力を目撃していても、それを暴力だと認識できないのです。
 
 
 
2)       からくり
 
共犯者でいるときには、被害者のことを「もともと自分に問題があるのに、努力もしないで、善意の指導を暴力だと歪曲し抗議するひどい人」ととらえています。そして被害者に対して「もっと頑張ること」「自分に対して厳しくすること」などが必要だと説いてきます。そのようなときには、加害者の言動が暴力かもしれないなどと考える発想にはなりません。
 
また共犯者は、メッセンジャーとは違い、加害者からのモラルハラスメントを受けていません。そのため、自分には暴力的でない加害者が、暴力をふるっているはずがないと考えてしまうところもあるのかもしれません。
 
そして、被害者が怒っていたら「そんなことで怒るなんておかしい」と被害者を責めます。しかし、加害者が怒っていることについては、被害者が怒らせたのだから当然なのだと、むしろ被害者の方が暴力的なのだと、被害者の言動を非難していきます。
 
 
このようにして共犯者は、加害者と被害者にたいして、違う基準を使って判断していくことになります。つまり、加害者とおなじようにダブルスタンダードを使ってしまうのです。
 
共犯者は、メッセンジャーとは違い、加害者に言わされているわけではありません。ただ、加害者と似たような考え方やとらえ方をしているため、似たようなことを言うことになるのです。自分自身の考えかただからなおのこと、その位置から動かないようなところがあります。
 
 
 
 
 
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6章 メッセンジャーと共犯者
 

 モラルハラスメント メッセンジャーと共犯者  前編

 
1.     加害者側に立つとき
 
まず「加害者側に見える人」のパターンから詳しく見ていきます。
 
 
 
加害者側にいるように見える人は、加害者の言い分だけを聞き、被害者に確認しないで加害者の言ったことを事実だとしてしまいます。そしてその立場から、被害者に加害者と同じ価値観を伝えてしまうのです。
 
特に援助職や誰かの役に立ちたいと思っている人は、加害者が被害者を装っていることが多いので「被害者なんです!」と最初に訴える加害者の側に立ち、その話を信じ、加害者を被害者として援助しようとしてしまう罠にはまってしまいがちなのかもしれません。
 
被害者にとっては濡れ衣を着せられ責められてる感じがします。また、敵とみなされて攻めて来られるような感じもあります。被害者がその人に言ったことは、おそらく加害者に伝わります。そう思うと、被害者は本音で話ができません。たとえそれまでにある程度の良好な関係が築けていたとしても、その人間関係は変わってしまうのです。
 
このパターンを取るときには、同じ場にいるものは仲良くするべきだととらえているように思います。そして、「和をもって尊しとなす」「村八分」という言葉もあるように、異物は排除すべきととらえている感じです。
 
何らかの理由で、加害者に自分を同一化しているため、被害者のみを異物扱いし、被害者が加害者の価値観を受け入れないならば排除しなければならないと感じています。
 
つまり、「個」として生きるというより「集団」としてどう生きるかを考えているようです。加害者や被害者と同じグループの中にいるのか、近い位置にいることが多いのですが、その中で、人として1対1で向き合うというより、グループとしてどうなのか、グループの中で自分がどの位置にいるのか、そして自分の動きが加害者にどう評価されるかなどを気にしています
 
自分自身、異物扱いされたくない思いがあることも多いのだと思います。そして加害者と同じ物の見方をし、同じものを被害者に伝えてしまうのです。
 
 
 
 
2.     メッセンジャー
 
 
ではここで、加害者側に見える人の中でも“メッセンジャー”とわたしたちが名づけたパターンについて見ていきます。
 
メッセンジャーは、加害者や被害者と同じグループ内の人が多く、加害者が加害行為を働いてる場に同席し、そこで加害者に賛同している場合も多いようです。また、加害者がいないところでは加害者のメッセージを被害者に伝え、それと同時に被害者の思いを情報収集していきます。
 
メッセンジャー自身は意識していないことも多いのですが、加害者の思惑としてはスパイ的な役割を担わせています。加害者はメッセンジャーを通して被害者の情報を集めているのです。
 
1) 分類
 
メッセンジャーを分類すると、次のパターンが考えられます。
 
      信奉者
加害者の事を「善」「正」だと信じきっている場合です。加害者のことを被害者だと感じています。「この人が可哀想」「自分しかこの人を理解してあげられない」と感じ、強い使命感を持っていることも多いように思います。
 
たとえ加害者がモラルハラスメントを仕掛けるという同じことが繰り返されていても、信奉者は加害者ではなくまわりに問題があると解釈していきます。
 
「いつもまわりが誤解している」「こんなに何度も、この人は傷つけられている」「まわりに力がないために、この人本来の素晴らしさが発揮できないでいる」「いつも怒りっぽいパターンの人がこの人を攻撃したあげく去っていく」などと考えています。そして「あの人(加害者)はいい人なんだから、それを分かろうよ」「みんな一緒のところにいようよ」「それがあなたのためなんだから」というようなメッセージを加害者に伝えてしまうのです。
 
一度加害者のことをすごい人だ、素晴らしい人だと感じると、そのあと何があっても疑わないでいるようです。加害者が次第に変わっていったとしても、自分が最初に指示していたときの加害者像を信じているのです。
 
たとえ何か変だと感じたとしても、加害者からじょうずに説明されてしまう、とその話を信じ、加害者の側に立ったままでいます。自分が素晴らしいと感じ、信じた人が、そうではなかったのだと認めるのはつらいことだと思います。自分のよりどころを持ちたい、人生の師を持ちたいと思っていると、その思いはなお強いのかもしれません。
 
また、たとえ何かきついと感じたとしても、そのきつさを耐えてこそ成長できる、いま自分は修行をしているのだという感覚になることがありあます。そこにはまり込んでしまうと、信奉者になってしまいがちなのではないでしょうか。
 
 
このパターンから次のパターンに移行することも多いように思います。
 
 
      傘下のもの 
加害者に対応していくのは自分にとってもきついことだが、そのきつさは仕方がないとあきらめているような場合です。
 
このようなときは「長いものには巻かれよ」「出る杭は打たれる」「寄らば大樹の陰」というような思考パターンをとっていて、たとえ加害者の横暴さを感じてはいても「自分には力がないから、この人をどうすることもできない」「この人についていた方が安全だ」と感じています。それが今までに学んできた生き残る術なのかもしれません。
 
この場合、加害者からの度重なる暴力のために加害者に服従するような心境になっていることもありますし、そこまでの心理状態にはなっていないこともあります。
 
いずれにしても、メッセンジャーの役割を果たさないと、あとで加害者から攻撃されてしまうので、自分が被害者にならないためにはメッセンジャーでいるしかないと感じているのです。
 
その場での絶大な力を持つ加害者の側に立つことで、加害者からの攻撃を最小限のものにし、むしろ外部からの攻撃に対しては加害者から守ってもらえるのではないかと期待をし、そのような方法で自分を守っているのだと感じています。被害者には「あなたのため」だと力説しますが、実は自分のためなのです。
また、加害者がその場からいなくなり、確実に戻ってこないような状況になると、被害者に対する態度を変えることもあります。それまでのメッセンジャーとしての役割ではなく、まるで最初からずっと被害者と同じ立場でいたかのような雰囲気で、何事もなかったかのように接するのです。そこが“信奉者”的なパターンとの違いだと思います。
 
2) 特徴
 
 メッセンジャーをしている側は、自分がその役割にいることに気がつかないことも多いのですが、被害者にはメッセンジャーだと感じられます。メッセンジャーには、まるで何か失いたくないものがあり、それを保つために必死になっているような印象があるのです。
 
また被害者はメッセンジャーを通して加害者の価値観を伝えられているため、目の前の人と対話をしている感じはありません。話をしていてメッセンジャーには伝わったように感じても「それではあの人(加害者)は納得しない」という理由でもっと他の情報を出すように迫られます。
 
被害者は、メッセンジャー本人の本音をつかめないため、困惑したり混乱したり、もどかしい思いをしたりします。
 
一方メッセンジャーとしては、加害者から暗黙に課せられたスパイとしての役割を果たし、加害者の気に入るような結果を出さないと加害者が納得しないため必死になります。
 
実は、メッセンジャーは現在進行形の被害者なのです。
 
 「加害者の気が済むように」という意識でいるため、何とかして加害者が喜ぶようなものを捧げようとします。加害者の価値観を被害者に認めさせるという成功を勝ち取ることに、自分の生死がかかっているかのような感じすらしているため、成功するまでいつまでも被害者に関わろうとしてしまうのです。
 
また、メッセンジャーは自分が被害者だと思っていることもあります。 
 
 ただしそれは、真の加害者から被害を受けていると感じるのではありません。真の被害者に対して「この人が変なことをするから、自分がこんな嫌なことを役割としてさせられているんだ」と考えていて、そういう意味での被害者です。
 
つまりこのとき真の被害者のことを加害者だと感じているのです。そうなると、被害者に対して単に加害者の怒りを伝えるだけではなく、自分自身の怒りも合わせて伝える事になります。そして被害者に対して、執拗に二次加害をしてしまうのです。
 
 
時には加害者のやり方に対して、何か変だと気づくときもあるでしょうし、気づけば気づくほど、メッセンジャーでいることは苦しくなるでしょう。そうでなくても、メッセンジャーをし続けることは苦しいことだと思うのです。
 
しかし苦しいと感じながらも、さまざまな理由からメッセンジャーでいることをやめられないことも多いように思います。
 
たとえば、メッセンジャーという位置にいる方が成長できると感じているときは“信奉者”の立場でいます。メッセンジャーでいる方が安全だと感じていると“傘下の者”の立場でいます。
 
それだけではなく、組織では「組織」の維持、家庭では「家庭」という形の維持をはかりたいと感じていて、自分が所属している組織(家庭)を崩したくないという思いからメッセンジャーでいることも多いようです。
 
目の前の争いを避けたいという思いがあり、自分の動き次第では争いを避けられる、その場をコントロールできると感じているときには、組織(家庭)のためにメッセンジャーをするべきとか、せざるを得ないと思っているのです。
 
「対立してもだいじょうぶ、何とかなる」と思えないため、必死になってメッセンジャーをしようとします。それがなじみの方法であり、特に女性の場合「女性役割」とされている行動のひとつでもありますから、当たり前のようにその役割を果たしてしまうことが多いのかもしれません。
 
 
 
 
 
 
 
 
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5章 第三者とは
 

 モラルハラスメント 〜第三者とは〜 

1.       第三者の心情
 
誰かから何かの被害を受けたという話を聞いたとき、すぐにその話を全面的に信じることは難しいかもしれません。特にモラルハラスメントの場合「それは暴力と言わないのではないか」と感じてしまうことがほとんどでしょう。
 
ひとつひとつのできごとだけでは、暴力には見えないことが多いですし、被害者と加害者とは仲がよさそうにも見える関係です。そんなとき「暴力」ではなく「ただのケンカ」だとしてとらえられてしまったり、「しつけ」「教育」「指導」だととらえられてしまうことも多いのだとおもいます。
 
特に、面倒なことに巻き込まれたくないと思うと、暴力ではないと思っていたい気持ちも働きますし、被害だといってる人が大げさなだけなのだと感じてしまうこともあるのだと思います。
 
また双方の話を聞いてみると、その言い分があまりにも違ううえ、片方の説明がじょうずだたりすると、つい、じょうずに説明する方の言い分を採用してしまうこともあるのではないでしょうか。しかしほとんどの場合、言葉巧みに説明するのは、加害者の方のようです。
 
加害者は、自分がされたことについては、相手が「感情をぶつけてきた」「攻撃してきた」と言い、自分がしたことについては「感情を吐露しただけだ」などといいます。
 
たとえ被害者が何も話すことがなくて黙っていたとしても、加害者は「怒って無視している」のだと解釈します。それは相手が「怒りを向けた」ことであり、それをまわりの人に言うときには「あの人は怒りをぶつけてきた」「感情をたれ流した」と表現します。
 
そうすると被害者が黙っていたことさえ「攻撃」だということになってしまうのです。加害者の解釈では、すべてが相手の問題にされてしまいます。その話を第三者が受け入れてしまうと、その人は、加害者の解釈の仕方を採用してしまうことになります。
 
またたとえ話の内容から暴力的だと感じたとしても「被害に遭うには遭うなりの理由が何かあったはずだ」と考えてしまうこともあります。
 
素のようなとき「スキがあるからつけ込まれるんだ」と思うと、その人の弱さや脆弱性(もろくて弱いこと)
が問題なのだと感じてしまいます。また、「自衛できないから、されるがままになってるんだ」と思うと、その人の言い返せないところが問題なのだと感じてしまいます。
 
「暴力だとなかなか気づかないからだ」と思うと、その人の常識のなさだと感じる部分が気になってしまいます。「人としていたらないから、そこを突かれるだ」と思うと、教育や指導、しつけなので、ある程度の暴力がふるわれるのは仕方のないことだと、感じてしまうかもしれません。
 
そのように被害者の側にも何か落ち度があったということになれば、自分はそこにさえ気をついけていれば被害に遭わないでいられると思うため、わたしたちの心の平安を保っていられます。
 
しかし、そのように加害者の暴力の原因を被害者側に求めることも、結果的に加害者と同じ視点でものを見ていることになるのではないでしょうか。
そうなるとたとえ自分の意識では被害者を受け入れたといっている人のことを考え。心配し、よかれと思って話していても、結局は加害者と同じ考え方を使い、似たようなことを言ってしまうことになります。
 
また、加害者の言い分は一見正しいようにも聞こえますので、そちら側にたったままで判断をしてしまうことにもなりかねません。
 
もちろん暴力のことを考えていくときに、予防や自衛手段について考えておくのは大切なことだと思います。またそのときに、被害者の被害を受けやすいところを押えておくことが必要なこともあるかもしれません。しかし、それを考えることは、被害者に問題があるとすることとは違うと思うのです。暴力の責任は加害者にあります。
 
ただ、今のこの社会の中で、そういう部分が利用されてしまう可能性があるということを、本人やまわりの人たちが知っておくことは、本人にとって役立つかもしれません。
 
 
 
2.       第三者の分類
 
わたしたちは第三者として、いろいろなことを感じ、考えます。
 
被害を受けたと言っている人や加害者とされる人との、それまでの関係性もあります。片方の話しか聞けないこともありますし、双方の話を聞けたら聞けたで、ますます混乱してしまうこともあります。今までの自分の経験から、何が暴力で何は暴力と思わないか、という自体がひとりひとり違うことも多いと思います。
 
そのような背景の中、わたしたちはさまざまな言動をとっての援助になる言動を取れることもあります。しかし、被害者の側に立っているつもりで、実は被害者を傷つけてしますこともあります。またときには、加害者とされる人の弁護をすることもあるのだとおもいます。
 
ここで、わたしたちが第三者になるとき、どのようなパターンを取ることが多いのかを考えてみます。
 
 
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これらは完璧に分けられるわけではなく、中間的な立場でいることも、複数の立場を兼ねていることもあります。またどの位置が正しいわけでも、どの立場が間違っているわけでもないのかもしれません。
 
ただ、たくさんある立場の中で、被害者に二次加害をしない立場は少なく、ましてや被害者の援助になる立場は非常に少ないのだということは感じてもらえると思います。
 
また、ウィズでは “共犯者” や “善意の人” というようにそれぞれのパターンの名前に「者」「人」という字を使っています。ただ、わたしたちは「そういう人」というとらえ方はしていません。あくまでも「そういうパターンを取る場合」というとらえかたをしています。
 
たとえば“共犯者”についてかかれている場合「共犯者的な性格の人」がいて、その人は常に誰かの共犯者になるというよりも、今その人は“共犯者”のパターンを取っていて、そういう場合について考えているという意味で使っているのです。ですから、そういう意味だというとらえ方で読んでいただきたいと思います。
 
 
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2部 被害者への二次加害
 

 モラルハラスメント 〜第三者としてのわたしたち〜 

4章 二次加害について

では、ここからは第三者の対応、特に二次加害についてより具体的に考えていきたいと思います。
 
 
 
1.       二次加害の存在
 
被害者はまわりの人たちからいろいろなことを言われます。相談をしたときに言われることもあれば、誰にも言わないうちにまわりから言われることもあります。
 
それが被害を食い止める方向に働けばいいのだと思います。
 
しかし多くの場合は、第三者が加害者の暴力に気づかずに、その状態を容認してしまい、暴力という構図の中に被害者を戻そうとするかのような働きがけがなされてしまいます。そして、かえって被害を拡大し、長引かせてしまうのです。
 
また、戻そうとはしないまでも、まわりの人が被害者を新に傷つけてしまうこともあります。そうして被害者はまわりの人に相談すればするほど、わけが分からなくなり、混乱する状況に追い込まれてしまうことも多いのです。
 
だからこそわたしたちは第三者の関わり方が大切なのだと痛感しています。
 
被害者がまわりの人に求めているのは「いい」「悪い」という判断をして欲しいということではないように思います。どちらかというと、まず「大変だったね」と言ってほしいという気持ちが大きいのだと、被害体験者は語ります。そして、自分の身に何が起きたのかを聞き取ってほしいと思っているのです。
 
モラルハラスメントは、ほとんど誰も目撃者のいない中で行われる暴力です。
その状況の中で、被害者は加害者によって「誰も助けてはくれない」「わたしは独りなんだ」「誰にもこのことは分からないんだ」という孤独感や絶望感を感じさせられます。そして、自分のエネルギー、能力などがこぼれ落ちてしまったかのような無力感を感じてしまっているのです。
 
ですから、誰かがきちんと現場検証を行い、その暴力の目撃者や証人の立場でいることで、その「孤独感」を打ち破り、「無力感」を感じる必要のない状況をつくる必要があるのだと思います。
 
しかし、モラルハラスメントの場合、詳しく聞いてもらえない場合が多いように思います。第三者は「わがままを言ってるだけだな」などと受け取りやすく、起きていることを「暴力」だと認めず、現場検証さえもしない感じなのです。
 
それどころか、その現場検証さえない中で、「こうしたらどう?」「こう考えたらいいよ」と、被害者を変え動かすことで、加害者との関係を何とかしようとしてしまうようです。
 
つまり、何が起きたのかを聞かず、暴力という構図を根本的には何も解決させないままで、被害者の気持ちや行動、あり方を変えさせようとしている感じがするのです。
 
それは被害者にとって譲歩ではなく、加害者の支配に組み込まれることでしかないのに、その意味に気づかない第三者によって、暴力の構図は維持されてしまうのです。
 
このようにして被害者は、まわりの人に事情を詳しく話すチャンスもないまま、そのまま収めておこうとされてしまいます。そのようなとき、被害者の心には「もっと詳しく聞いてほしいのに、聞いてもらえないんだ・・・。」という気持ちが残ります。
 
被害者としては精一杯がんばり、そのうえで相談していても「がんばりがまた足りない」とか「がんばってないところがある」とされてしまう感じや、「大変だったね」とさえも言ってもらえない感じがとても苦しいのです。
 
その苦しさは加害者に感じさせられてきた「孤独感」と「無力感」を再体験させられてしまうほどの感じなのです。再体験という意味では二重の圧力であり、単なる繰り返しというよりも、それ以上のものなのかもしれません。
 
 
2. 「二次加害」という言葉
 
被害者の相談を受けたり、その後、事実確認をしたりする第三者が、その関わりの中では被害者を傷つけてしまうことについては通常は「二次被害」という言葉が使われることが多いと思います。
 
ただ、わたしたちウィズでは、今回このことについて考えていくときには「被害者が被害を受ける」という被害者の立場で考えていくというより、「第三者が加害行為をしてしまう」という第三者の立場で考えていこうと思います。そこで「二次加害」という言葉を使っていきたいと考えているのです。
 
第三者は自分でも気がつかないうちに、加害行為をしてしまっていることが多いように思います。ちょっとゆだんしたり「普通」の感覚でいたりすると、よかれと思って選んでいる言動が、実は二次加害になってしまっているように感じるのです。
 
それだけこの社会が二次被害をしてしまうような考え方やとらえ方に満ちているということなのでしょう。
 
「普通」の考え方でいるということは、実は加害者に有利な言動を選んでいることであり、それは、被害者をおとしめてしまう加害的なとらえ方でいることなのです。
 
そこにはモラルハラスメントがなかなか暴力には見えないからというだけではない、さまざまなからくりがあるのです。
 
そもそもわたしたちは、自分が暴力被害に遭うまでは「暴力」というのは特別なことであり、自分とは関係ない別の世界のできごとのような気分でいることが多いのではないでしょうか。
 
自分は被害に遭わないはずだ思い込んでみたい気持ちもありますし、面倒なことにはなるべく巻き込まれたくないという思いもあります。また、自分が暴力加害を行うなど、そんなひどいことをするはずがないと思っていたいところもあります。
 
そのようなとき、暴力被害の話を聞くと「暴力」という構図でものごとをとらえるのではなく、「暴力ではない日常のできごと」だととらえてしまいがちです。
 
実は暴力は、この世の中に満ちていて、それが日常そのものであるとも言えるのだと思いますし、その努力や善意とは無関係に、わたしたちは暴力被害に遭うこともあります。また、加害行為を行う人が、一般的にいって「ひどい人」と見えるわけでもありません。
 
それでも私たちは普段、そういうことを考えないようにしているようなところがあります。そして、たとえ暴力の話を聞いたとしても、見たとしても、「暴力の場面」であるにもかかわらず、「暴力以外の場面」で使う基準を当てはめて考えていってしまうのです。
 
また、今わたしたちが住んでいるこの社会は、主に権力構造によって動いています。そしてその中にいるわたしたちは、それを当たり前のことだと受け止めていることが多いのだと思います。
 
そのような中、権力を持つ者がその権力を濫用したとしても、本人もまわりも、権力の正当な使い方との違いに、なかなか気づかないことが多いのではないでしょうか。
 
また、、まわりがそれに気づいたとしても、その状況を受け入れる以外に、どうにもならないものなのだと感じていることも多いように思います。そして、似たような状況の人たちにも、それを強いてしまうことがあるように感じるのです。
 
このような状況にいるとき、たとえ相談してきた人のことを一生懸命考えていたとしても、権力のある方に働きかけたり、構造そのものを変える方向に働きかけるなどということは、非常に難しいことなのだとおもいます。
 
すでに暴力構造ができあがっている中では、加害者がそれを維持しようとします。そのようなとき、第三者がその構造そのものを変える方向に働きかけない限り、加害者にとって都合のいいシステムは維持されてしまうのです。
 
特にモラルハラスメントの場合、権力の構造や、その権力の濫用によって暴力という人権侵害が行われているという構図がみえにくいということもあり、第三者がそれを崩そうなどと思わないことが多いのでしょう。
 
二次被害はいろいろな形で表れます。第三者が「暴力などではない」というとらえ方をした場合、きちんと話を聞かないまま、「しつけ」や「教育」「指導」だととらえてしまったり、「ただのケンカ」だととらえてしまったり、被害だと訴えている人が「大げさ」なだけだと感じてしまったりします。
 
また、たとえ加害者の言動を多少強引だとか暴力的だなどと感じたとしても、「被害者の側にも何か落ち度があったんじゃないか」と感じてしまったりもするのです。
 
その結果「もっとがんばれ」「もっとやさしく思いやりを持って」「もっと強くなれ」などと、もう充分にやさしく思いやりを持ってがんばってきた、強さをもった人である被害者に対して、ほとんどためらうことなく言ってしまうのです。
 
 
それは、被害者に対して、また新たな加害行為、つまり二次加害にあたる行為をしてしまうことになります。
 
 
 
 
 
 
 
 
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