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チョンホが大監に向けられた眼差しは『お前だけは逃がさないぞ』と言われている様な鋭い眼差しだった。
ソンシクの拒絶に遭い、チョンホしかいないのだ。
それに何方かと言うと、大監はソンシクよりチョンホを欲していた。
大監に、漢陽から時々届く領義政大監の書簡に、今年の春頃から二人の若者の事が綴られる様に成っていた。
『人情に篤き若者達』
『正義感溢れる若者達』
『最近稀に見る気骨の持ち主』
領義政大監から書簡が届く度に、書き綴られている若い二人に興味を示す様に成っている大監がいた。
普段、余り人を褒める事の無い領義政大監が手放しで褒める若い二人の事が知りたく成り、此の夏に科挙の試験を受ける孫のソンジンに付けた下男の一人に、領義政大監に内密で書簡に書かれた二人の事を調べる様にと言い含めて漢陽に送り出した。
最初は、領義政大監の余りの褒めように、話半分と考えていた大監だったが、漢陽から戻った下男の報告で詳しい話を知ると若い二人と係わりを持つ領義政大監が羨ましく成っていた。
此処忠州にも、漢陽で起こった事件が噂で入って来ていたが、その何れにも二人の影が有り、どの様な若者達かと益々会いたいと思っていた時に、行き付けの妓房で漢陽から来た妓生のウンジュに出会ったのだ。
妓生のウンジュは、漢陽で自分と妹の身に起こった事を大監に話していた。
ソンパの船着場で、人攫いに船に乗せられた時に二人に助けられたと、当の本人が言うのだから間違い無いだろう。
ウンジュは、大胆にも大監にソンジンと取り巻き達の悪行を告げると、思わず『漢陽で知り合いの若様達なら親の権威を使って悪さ等絶対にしない』と、言い切っていたのだ。
しかし、何と言う差だろう。
片や親の威厳を嵩に、悪行を行い。
片や命の危険も帰り見ずに、身分に関係無く正義の為に命掛けで動く若者。
ウンジュの話に、決して領義政大監が大袈裟に二人を書簡に認めた訳では無いと、今は切実に思える大監だった。
そんな時に、妓房で偶然に出会ったチョンホとソンシクの二人に自分の中の理想を見た様な気がした。
二人共、見た目は華やかで美男子だがそれに驕る事無く慎ましく居るのが、大監に好意を持たせたのだろう。
漢陽での事件を自分達から、決して自慢する事も無く、ウンジュの話が大袈裟だと言う二人だか、決して大袈裟では無い事を大監は知っていたのだ。
二人と飲む酒は、今まで飲んだ酒の中で事の他旨く感じられ思わず飲みすぎたが、夜も更けて強かに酔った事を心配した妓生達から妓房に泊る様にと進められたが、二人を気に入って二人から離れがたく二人が泊る旅籠に付いて行ってしまった。
朝早く、ソンシクに何やら声を掛けてチョンホが外に出て行くのを、気に成って後を付いて行くと人気の無い処で武術の稽古を始めたので、思わずチョンホの傍に近付いて見物をしていたが、若い時の事を思い出しつい無謀にも武術の型を決めていたのだ。
思いの他、型が綺麗に決まり若いチョンホに負ける気がしなかったが、年寄りの冷や水とは、良く言ったものだ・・・・気分良く型が決まったと思ったら、ピキと音が聞こえたと思うと身体が言う事を聞かなく成り、固まったまま動けなく成っていた。
チョンホが驚いて、腰に触って応急処置をしてくれた事に感激していた。
多分武術を習得する時に、応急処置を覚えたので有ろう、余りの手際の良さに感心していると、自分の稽古を中断して大監を背負うチョンホともう暫らく話をしたく自分の屋敷に連れて行きたく成りチョンホに頼んで屋敷まで送って貰う事に成った。
旅籠からは少し離れるが、自分の問いに差し障りのない様に話ながら自分を背負うチョンホの背中は見た目より筋肉質で逞しいのが着物の上からも分かり、背負われる事が此処良い。
屋敷に帰り着くと、下男達が数人出て来たがチョンホの背から降りてしまうとチョンホと二度と会えなく成ると考えて、部屋まで背負って入って貰うと理由を付けてチョンホを引き止めていたのだ。
大監を心配して出迎えた孫娘のジョンファにチョンホを引き合わせて見た処、ジョンファが微かに頬を染めたのを大監は見過ごさなかったのだ。
此の二人なら、似合いの夫婦に成れると思うが、順番から言うとソンシクに話を持って行った方が良いと考えていた。
息子の忠州牧使を使い、チョンホとソンシクを改めて屋敷に呼ぶ様に仕向けると、殆んど、断わられる事を見越してソンシクに縁談を持ち掛けたが、大監の読み通りにソンシクの返事は否だった。
本命のチョンホに、断る隙を与えない様にしなくては成らないが、果して大監の目論み通りにジョンファを嫁に貰っても良いと言うか不安が湧き上がって来たが、此処で逃がしてはチョンホと縁が切れる様な気がして気が気では無かったのだ。
チョンホは、普段からソンシクが思い描いている理想を聞かされていた。
好いた女人と婚姻して、お互いに寄り添って生きて行きたいと話していたのだ。
家と家の繋がりを重視して、当人同士の気持ちは二の次にされる政略結婚を如何しても受け入れる事は出来ないと、常日頃から両親やチョンホに話していた。
ソンシクにしたら自分の意思を曲げてまで、ジョンファとの話を受ける筈等ないのだ。
チョンホは、大監の獲物を狙う様な眼差しに閉口していた。
チョンホも、ソンシクの影響を受けて婚姻に対してソンシクの望む様に自分も好きな女人を妻に迎えたいと考えていたのだ。
ソンシクの夢は、何時しかチョンホの夢に成っていた。
此の先の未来、どの様な女人と出会い恋に落ちるのだろう、だがその相手は決してジョンファでは無い事は確かだ。
そう思うと今、此の話を受ける気には成れなかった。
チョンホは、自分にも理念が有り、その思いを捨てる事が出来ないと大監に話していた。
「その様な事に拘る等、愚の骨頂じゃろう。此の世の中、政略結婚等両班に生まれたなら当たり前の事じゃ。お前さんが今決めかねるならご両親に正式に縁談の申し込みをしてもよい。いや、是非にも儂が漢陽に赴き此の話を進めるつもりじゃ」
大監も引くつもりは無く、チョンホの断りは、予め大監も予測していたが、話を聞いてるジョンファの顔色が悪く成って来た事に大監の気持ちが揺らぎ始めていた。
皆の前で、二人の若者に拒絶されたジョンファの心情を思うと、些か焦り過ぎたと思ったが今更後に引く事も出来ずにいると、今まで温厚だったチョンホの雰囲気が変わって来た事に気が付いた。
真っ直ぐに大監に向けられる眼差しは氷の様に冷たく、心の中を見透かされる様な感覚に戸惑いチョンホの身体中から何者をも寄せ付けない拒絶を感じ、触れれば切れそうなチョンホの雰囲気に驚きを隠せなかった。
そんなチョンホを見ても、ソンシクは何事も無い様にしているので、チョンホのこの様な変化を知って居るのだろう。
大監の見知っているチョンホは、のんびりとした穏やかで物静かな若者だったが、自分が受け入れたくない事には、はっきりとした拒絶をする若者だったのだ。
隠れた一面を目の当たりにすると、此のまま話を進める事に戸惑いを感じていたが、ソンシクに
「日暮もれて来ましたので、私達はこれで旅籠の方に引き上げますが、ジョンファ嬢の事を大監も、もう一度良くお考えに成って下さい。無理に話を進めてもジョンファ嬢が幸せに成ると思えませんが・・・私やチョンホに拘る事無くジョンファ嬢が幸せに成る事だけをお考え下さい」
ソンシクはそう言うと、チョンホと共に忠州牧使の屋敷を出て来たが、外でヒョニ達が待っていた。
旅籠の女将が心配していて居ても立ってもいられず、ヒョニ達に様子を見て来て欲しいと頼んだ為だが、ヒョニ達も帰りが余りに遅いチョンホとソンシクの事が気に成り出向いて来たと話していた。
大監に断りを入れ忠州牧使の屋敷を出た時には、大分日が暮れてていたのだ。
忠州牧使の屋敷で夕食を断っていたので、些か腹が空き旅籠に戻って夕食を頼もうとチョンホとソンシクが話ながら歩いていると
「待って下さい!」
後ろから女人の声がしたので、振り返ると其処にいたのはジョンファだった。
「納得出来ません!私の何処がお気に要りませんの?」
目が赤く成っているのは、泣いた為なのだろう。
「気に入らないとは言って無い!只私もチョンホも己の理念に従ったまでの事だが・・・」
「理念だと!ふざけるな!お前達が漢陽でどれだけの働きをしたかは知らないが、断る事は無いだろう」
ジョンファの後ろから声を掛けて来たのは、先程忠州牧使の屋敷で大監の言葉に動揺していた取り巻きの一人でチャン・グンソクと言う者だった。
多分ジョンファが屋敷を出た事に気が付いて追って来たのだろう。
「ジョンファの何処が、漢陽の女人に劣ると言うんだ!漢陽何処ろか朝鮮中探してもこれ程気立てが良く美しい女人は居ないぞ!」
グンソクの噛み付かんばかりの物言いに
「そう思うなら、お前が婚姻を申し入れたら如何なんだ!」
ソンシクの言葉にグンソクは声を詰まらせた。
「私は、御爺様から貴方方のどちらかに嫁ぐ様に言われていて、その積もりで居りましたのよ。でも貴方方は私を見ようともしませんでしたわ、私の何処がいけませんの?」
チョンホがジョンファの問いに答え様とした時、話を聞いていたヒョニが思わず顔を傍の屋敷の方に向けて聞き耳を立てて居るので、チョンホとソンシクも耳を澄ますと微かに悲鳴が聞こえて来た。
「おい、お前達何とか言ったら如何なんだ!」
グンソクの問い掛けに答える代りにチョンホとソンシクは、傍の屋敷の塀に飛び乗って中に消えて行った。
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